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くさのひでなが〜くすのきまさすえ

草野秀永くさの・ひでなが生没年不詳
親族父:草野経永
官職豊前守・左近少監
生 涯
―名和長年と討ちとった九州武士―

 草野氏は肥前松浦党の一つ。平安末に肥前から筑後国草野荘に移った一族が「草野」を名字としたと言われる。その子孫たちは鎌倉時代にかけて筑後・肥前に広がった。秀永の父・経永は元軍が襲来した弘安の役に出陣したという。

 草野氏は南北朝動乱のなか、ほかの多くの武士がそうであったように状況により所属をコロコロと変えた。建武3年(延元元、1336)3月に足利尊氏が九州へ下って菊地氏と戦った多々良浜合戦では草野一族は当初菊地方についている。戦いが尊氏の勝利に終わるとこちらに寝返り、少弐頼尚に従って尊氏の東上に同行したものと考えられる。
 湊川合戦の後の京都攻防戦に参加し、6月30日の戦闘で三条猪熊において後醍醐天皇の親衛隊長といえる名和長年を討ち取る大殊勲を挙げた。これは『梅松論』が明記していることだが、なぜか「豊前国の住人・草野左近将監」とされている。

 その後九州に戻ってからも草野一族ともども尊氏方、直冬方、南朝方とめまぐるしく立場を変え、正平10年(文和4、1355)には草野秀永が南朝の懐良親王を擁する菊地軍に属して足利方の一色範氏と戦っていることが確認できる。
大河ドラマ「太平記」第37回で名和長年戦死の1シーンのみ登場(演:菊地章友)。矢が刺さって弱った長年と組んでその首を掻き、「肥前松浦党・草野秀永!名和伯耆守を討ち取ったり〜!」と絶叫する。

楠木(くすのき)氏
 橘姓を称する河内の武士だが、正成以前の系譜は謎に包まれている。少なくとも河内国内に「楠」「楠木」の地名はなく、その地名がある武蔵か駿河に発祥をもつと推測されている。近年では駿河の「楠」の出で長崎氏と同様に北条得宗家の被官だったとの見方が有力になってきているが決定打はない。13世紀末に悪党としてその名が挙がり、南北朝動乱では楠木正成とその息子たちが活躍して名をとどろかせた。基本的に南朝に仕えたが正儀のように一時北朝に転じた者もいる。南北朝合体後もその子孫が後南朝運動に参加して追討の対象となり15世紀のうちに消息が途絶える。安土桃山時代に楠木氏の子孫を称する人物も現れたが本物かどうかは定かではない。
※この系図も通説から便宜的に作ったもので、不確かな部分がほとんどである。
正遠?正成正行



正時


正儀正勝光正

正季源秀正秀

正家
正元

楠入道くすのき・にゅうどう生没年不詳
親族子:楠木正遠?・楠木正成?・観阿弥の母?
生 涯
―楠木正成の父か祖父?―

 鎌倉時代末期に河内にいた「悪党」的武士と思われる人物。出自に謎の多い楠木正成の祖父か父にあたる人物と目される。
 永仁2年(1294)10月、東大寺の領地である播磨国大部荘に垂水繁昌という武士が数百人の「悪党」を率いて乱入、荘園内の牛馬や年貢米、銭貨などをごっそりと強奪していくという事件が起きた。この垂水繁昌はもともとこの大部荘の荘官である「雑掌」であったが年貢米を領主である東大寺に送らなかったために罷免になった人物で、この乱入はその報復活動であったとみられる。この事件を訴えた百姓たちが提出した訴状のなかに垂水繁昌と共に悪事を働いた者として「讃岐公」「河内楠入道」「宗円房」の名が挙げられている。彼らもこの荘園の元雑掌であったという。
 この「河内楠入道」、「河内」が名字とも思えないのでやはり在住国と見て「河内の楠入道」と解釈すると「楠」という名字の人物ということになる。ただしその後百姓たちが再び出した書状では「河内栖入道」と書いてあるそうで、史料的には若干の弱さがある。
 確認できる活動はこの一件だけなので、これが正成とつながる人物かどうかは確認できない。

参考文献
植村清二「楠木正成」(中公文庫)
黒田俊雄「蒙古襲来」(中公文庫)
新井孝重「黒田悪党たちの中世史」(NHKブックス)
佐藤和彦編「楠木正成のすべて」(新人物往来社)ほか
歴史小説では邦光史郎「楠木正成」では「河内入道正遠」を正成の父とする。物語の序盤で謀略にはまって戦死してしまう。
漫画作品ではうめだふじおの学習漫画「楠木正成」では正成の祖父・楠木盛仲を「河内楠入道」と設定し、かなり乱暴者の「悪党」として描いている。東大寺の荘園を荒らして「とりたてた年貢は全部この地領の東大寺のものになり、坊主のメシになってクソに変わるだけじゃ!それより、少しでもわしらの分を多くとるほうが役に立つというもんや」となかなかインパクトのあるセリフを吐いている。
正成を主役とした内野正宏「ナギ戦記」では、「河内楠入道」は正成とは血縁のない人物とされ、悪党集団「楠木党」の首領。かなり豪快な山賊の親分タイプに描かれていて、死に際して正成に「楠木」の名字を譲るという展開になっている。

楠木正家くすのき・まさいえ生没年不詳
親族父:楠木正遠? 兄弟:楠木正成・楠木正季? 
官職蔵人・左近将監
生 涯
―常陸で活動した楠木一族―

 楠木正成の弟とみる説が有力だが、証拠は全くなく、甥か従兄弟、あるいは単に一族の一人という可能性もある。楠木氏自体の系譜がはっきりしないので楠木正家なる人物の正体を明らかにすることもかなり困難である。
 建武政権期に楠木氏に常陸国那珂郡に領地が与えられ、そこの代官として赴任したのが正家である。足利尊氏が建武政権に反旗を翻した翌年の延元元年(建武3、1336)初めに常陸那珂郡の那珂通辰の居城・瓜連城にたてこもり、足利方についた佐竹氏、大掾氏と戦った。この年の2月6日に佐竹貞義らの軍が瓜連城を攻撃したが、息子の佐竹義冬が戦死するなど苦戦を強いられた。勢いに乗った正家は逆に佐竹氏の拠点・金砂山城を攻撃したともいう。佐竹氏側も一枚岩ではなかったようで佐竹幸乙丸という人物が正家に味方していたことが知られる。また奥州を押さえる北畠顕家の部下である公家の広橋経泰が霊山から南下して正家を支援し、また常陸における南朝方の中心であった小田治久も佐竹軍と交戦した。

 6月に那珂通辰が甕原で佐竹軍と戦い、さらに金砂山城まで攻めたが戦死している。この年いっぱいまで瓜連城をめぐって常陸北部で戦闘が繰り広げられたが、12月3日に佐竹義篤伊賀盛光らが瓜連城を攻撃、広橋経泰・小田治久らがそれを阻もうとして岩出河原(東久慈郡)で戦ったが敗北、12月11日に佐竹義篤・佐竹義高らの攻撃で瓜連城は陥落した。

 楠木正家のその後の消息は全く不明である。瓜連落城時に戦死と考えるのが自然だが、脱出して河内に戻り、やがて楠木正行と共に兵を起こし、正平3年(貞和4、1348)正月5日の四条畷の戦いで戦死したとする説もある。『太平記』のその戦いの記述の中に「楠将監」の名があり、これが正家のことと見てのことだが、確証はない(『太平記』の一族列挙の中ではかなり後方なのも気になる)。また「太平記」版本によっては「楠将監西河(阿の誤?)」と続けて読めるものもあり、楠木軍にいた「西阿」と名乗る人物と同一人との説もあるが、広くは認められていない。とともあれ正行を祭る四条畷神社には正家も合祀されていて、なぜか「正家の子息」も一緒に祭られている。
歴史小説では楠木一族を扱った小説で登場例が多い。とくに田中俊資「楠正行」では正成の従兄に設定され、「西阿」説も取りこんで瓜連落城後に旅の僧となって河内に帰ってくるところから物語を始めている。

楠木正勝くすのき・まさかつ生没年不詳
親族父:楠木正儀? 兄弟:楠木正元・楠木正秀? 
官職右馬頭(南朝)?
生 涯
―謎だらけの正儀の長男―

 楠木正儀の長男とされるが、それでなくても不明点の多い楠木氏の南北朝後半以降のことは確たることはほとんどわからず、楠木正勝とその弟たちとされる楠木正元楠木正秀についてもその実在も含めて確たることは何も言えない。彼らの名前すら確実性の高い史料には出てこないのである。
 父・正儀は元中6年(康応元、1389)前後に死去したとみられ、正勝はそれころ楠木家督を継いだと推測される。その前年の元中5年(嘉慶2、1388)3月に正勝と正元が高野山などを遊覧した帰りの足利義満を河内国平尾に襲撃して失敗したとする説話があるが、同時期の史料には全く出てこない話で、これは後年の楠木人気のなかで楠木一族ならばそのくらいしただろうという願望から出た創作と思われる(のちに足利義教暗殺をはかって失敗し刑死した楠木光正の実例は同時代史料で確認できる)

 元中7年(明徳元、1390)4月4日付の伊予守某の奉書に「楠木右馬頭」の名が見え、これが正勝のことではないかと推測され、彼に関する確実性の高いほぼ唯一の史料である。この年の2月に正勝・正元が河内守護の畠山基国と落合で戦い千早城に撤退したとする話もあるが、これも確たるものではない。もちろん楠木党が抵抗して河内守護と交戦したことは十分考えられるが。
 南北朝合体直前の元中9年(明徳3、1392)2月に正勝・正元が再び畠山基国と交戦、3月に義満が正勝に投降を呼びかけるが正勝はこれを拒否し、5月に紀伊粉河寺を参詣した義満を襲撃しようとしたが失敗、さらに正元が京に潜伏して捕えられ刑死した、といった一連の話が後代の南朝ものに出てくるが、いずれも同時代史料には出てこない。この年10月に南朝の後亀山天皇が吉野を出て京に入り、南北朝合体が実現するが、このとき後亀山の従者に「楠木党七人」がいたということしか確認できることはない。
 応永6年(1399)の応永の乱の際、堺で挙兵した大内義弘に呼応した楠木某なる者がいたと『応永記』にあるが、これが正勝のことかもしれないと言われる。その後もいわゆる「後南朝」の運動の中で楠木一族の活動が散発的に起こってはいる。
 根拠不明ながら、曹洞宗の名僧・傑堂能勝(1355-1427)が実は正勝の出家した姿だ、とする説がある。ただ傑堂の俗名は「正能」との話もあり、別の兄弟であるとも言う。
歴史小説では楠木正儀を扱った小説で登場するケースがある。有名作家の作品では杉本苑子『華の碑文』(世阿弥の生涯を描いたもの)があり、観阿弥の母が正成の妹という説をとって観阿弥一家のところへ正儀の息子たちが遊びに来る場面があるなど、物語に正勝らの活動がとりこまれている。

楠木正成くすのき・まさしげ?-1336(建武3/延元元)
親族父:楠木正遠? 妻:久子?(南江正忠の娘?) 弟:楠木正季・楠木正氏・楠木正家?
子:楠木正行・楠木正時・楠木正儀 甥:楠木弥四郎・観阿弥?
官職兵衛尉・検非違使尉・左衛門尉・河内守・摂津守
位階従五位下→贈正一位(明治13)
建武の新政恩賞方・雑訴決断所・記録所・武者所
生 涯
 確認できる活動期間がわずか6年足らずでありながら、歴史上に強烈な印象を残した南北朝時代を代表する名将である。しかしその出自から戦死にいたるまで生涯は謎だらけで「日本史上もっとも有名でありながらこれほど謎に包まれた人物はいない」(網野善彦)と表現される。

―謎の出自―


 そもそも「楠木」という一族自体がほとんど正体不明である。数代前から河内にいたことは確実視されているが河内に名字となる「楠木」という地名はなく、源頼朝の随員のなかに「楠木四郎」なる者が史上最初に確認できる楠木氏で、東海か関東出身の御家人だったとする見方が強い。河内に北条得宗家の領地が多くなった時にその地頭として送り込まれ土着したのではないかとみられている。永仁4年(1294)に東大寺領・播磨国大部荘に乱入した「悪党」のなかに「河内楠入道」の名があり、これが正成の祖父か親族とみられている。正成の父については『尊卑分脈』「正遠」とするが他の系図では「正康」だったり「正澄」だったり一定していない。能を大成した観阿弥の祖先を示す伊賀・上嶋家の『観世系図』に観阿弥の母が「河内玉櫛庄の橘入道正遠の娘」と記されていて、楠木氏が橘姓を実際に称していること、伊賀と楠木氏の接点に他にも傍証があることなどから、正成の父が「正遠」であり、正成の姉妹が伊賀の服部元成に嫁いで観阿弥を産んだとみる意見もある(この資料自体をどう評価するかで分かれるが)。他に当時一流の学僧で宋学に通じ、「太平記」作者説まである玄恵「楠木の縁者」であったとする史料もある。いずれにしても正成は父の名すらも明確ではなく、悪党呼ばわりされる親族がおり(伊賀は悪党の「本場」である)、播磨・伊賀まで活動範囲を広げ芸能や商業に深く関与するといった、新しいタイプの武士であったということは間違いない。

 正成の名が比較的信用できそうな史料中に最初に登場するのは元亨2年(1322)である。林羅山編『鎌倉将軍家譜』にはこの年4月に北条高時が正成に命じて摂津の渡辺右衛門尉や大和の越智四郎を討たせたとの記事がある。さらに『高野春秋』(高野山金剛峯寺の記録)ではこの年8月にやはり高時の命で正成が紀伊・阿弖河(阿瀬川)荘で高野山と対立していた保田荘司・湯浅氏を討ち、この地を恩賞として与えられたことがみえる。ただしこれらの記事は「太平記」講談タネ本とも言われる「太平記秘伝理尽鈔」(16世紀末成立?)の記事を参考にしたものとする指摘もあり、史実だという確たる証拠はない。
 これ以後、元弘の乱が勃発するまで正成の消息は全く不明だが、この間に後醍醐天皇一派とのつながりができていたことは確実だ。正成と後醍醐を結びつけたのは和泉に領地を持つ道祐、金剛寺に関係をもつ文観伊賀兼光、あるいは縁者との説もあり後醍醐らに宋学を講義していた玄恵などの説があるが、確定はできない。正成が宋学を熱心に学びその影響のもとで後醍醐への忠節をつくしたのだとする説もあるが、これも確たる証拠はない。『太平記』『増鏡』では日野俊基資朝が山伏に変装するなどして各地をまわり要害の地や有力な武士を探していたとされ、いくつもの実績をあげていた正成と接触していた可能性もある。元弘の乱で初めて登場したとき正成がすでに「兵衛尉」の官職をもっているのは後醍醐派との接近によるものではないかとも言われる。

―赤坂籠城戦―

 元弘元年(1331)8月、後醍醐天皇は京を脱出して笠置山で討幕の兵を挙げた。古典「太平記」は後醍醐の夢に菩薩の使いが現れて「南の木の下に天子の座がある」と告げ、後醍醐が「木+南=楠」という名の武士はいるかと聞いたところ成就房律師が河内金剛山の西にいる正成の名を挙げ、万里小路藤房に命じて勅命により正成を召し出したと神秘的に記す。むろんそのような事実はなく『増鏡』や『神皇正統記』では以前から後醍醐が正成を頼みにしていたという記述がある。だが正成にとってこの笠置挙兵は寝耳に水であり、急な事態に対応が遅れたことは充分想像される。「太平記」では正成が笠置山にやって来て後醍醐に拝謁し、「戦闘では関東武士たちに勝つことは難しいが、智謀をもってすれば恐れるに足りませぬ。合戦の習いというもので一度の勝ち負けで結論を出してはなりません。この正成一人がまだ生きている限りは帝の運もいつかは開けるとお思いください」と大見えを切ったと伝えているが、これは多分に物語的描写であり、『増鏡』など他の史料は全く書いていないので事実かどうかは疑わしい。『大乗院日記目録』という史料が正成が笠置に来て後醍醐に拝謁した日を「9月10日」と明記しているが、これも「太平記」が正成の挙兵を9月11日と記していることに合わせただけではないかと言われる。

 ともあれ9月に入って正成は河内金剛山に築かれた赤坂城で挙兵した。これと前後して臨川寺領の和泉国若松荘に「悪党楠兵衛尉」が押し入り年貢米を奪っているとの記録が残っていて、正成を「悪党」と呼んだ例として注目されると同時に正成がこの領地に以前から一定の権利を持っており、急な挙兵のため兵糧の確保を行ったものと推測されている。赤坂城には笠置山から護良親王尊良親王らが移り、正成とと共に立てこもった。笠置山の方は幕府軍相手に善戦はしたものの9月28日に陥落、後醍醐らは赤坂城を目指して脱出したが、結局捕えられた。
 笠置を攻め落とした幕府軍が赤坂城の攻略に本格的にとりかかったのは10月15日からである。「太平記」は幕府軍は初め赤坂城をなめてかかったような記述をするが、大軍を4隊に分け、宇治から大和を経由する大仏貞直軍、河内から直接攻める金沢貞冬軍、山崎から天王寺を経由する江馬(間)越前軍、そして伊賀を掃討する足利高氏軍というかなり大がかりな編成で赤坂城を包み込むように展開しており、幕府軍も事前の情報で正成を警戒していたものと思われる。ところでこの編成のうち足利高氏が率いる伊賀方面軍の配置が一見奇異に見えるが、これは正成が伊賀方面に味方を多く持っていたためとする説に説得力がある(観阿弥の系図も傍証となる)

 赤坂城の攻防戦は「太平記」が詳細に伝えるところで、二重の塀、大木・大石落とし、熱湯浴びせなど関東武士の常識をくつがえす奇抜な作戦を展開したとされる。ただこれも正成の智謀というよりは当時の「悪党」たちが常用するゲリラ戦術であったのだろう。手を焼いた幕府軍が兵糧攻めに切り替えて落城に持ち込んだとされるが、史料で確認される赤坂城陥落の日時は10月21日で、正成が幕府の大軍相手に戦った時間はせいぜい五日間程度であった。正成としては明らかな準備不足の挙兵であり、もともと長期間戦う気はなく、さっさと城の放棄を決めたものと思われる。「太平記」は正成が城の中に大穴を掘り戦死者の遺体をそこに埋めて火をつけ自分が死んだように見せかけたとするが、幕府軍では早くから正成が護良親王ともども逃亡したと見て行方を探していたというのが真相らしい(『北条九代記』など)。赤坂陥落にあたって「泣き男」を残して幕府軍をあざむいたとする説話も有名だが、これは「太平記」にすらも書いてない、まったく後世の作り話である。
 赤坂城を脱出した正成たちがどこに隠れていたかは不明だが、約一年間その行方はまったくつかめなかった。支配地域である河内か、味方がいる大和・伊賀などに隠れて今度こそしっかりとした準備を隠密のうちに進めていたと思われる。なかには猿楽の従者となって三河、さらに鎌倉にくだって情勢を探ったとする説話まであってさすがに荒唐無稽とみられているが、観阿弥とのつながりが真実なら猿楽の従者という話も正成の周囲に芸能関係者がいたことから生まれたのかも知れない(大河ドラマ「太平記」で赤坂陥落後の正成が猿楽一座の従者になるのはこの話をヒントにしたと思われる)

―千早籠城戦―

 翌元弘2年(正慶元年、1332)3月に後醍醐は隠岐に配流となり、討幕運動は敗北したかに見えた。だが護良親王が紀伊山地の各地に蠢動して味方の再結集をはかり、正成もこれに呼応して活動を再開した。持明院統の花園上皇は11月15日の書状に「楠木の勢力がなお盛んであるようだ。昨日から門番たちが甲冑で武装して控えているのはきっと理由があるのだろう。もはや神仏の加護にたよるほかない」と記していて、それ以前から正成らが各地で活動して京にも緊張が走っていたことが確認できる。
 11月末、正成はかつての拠点で陥落後は紀伊・阿弖河の豪族、湯浅定仏(宗藤)が主として入っていた赤坂城を急襲、奪回した。これも「太平記」が正成の奇計による奪取(兵糧人夫に化けて城に潜入、城中から占拠)を面白おかしく語っているが、城を奪われた湯浅定仏があっさり正成の配下となり以後一貫して南朝に仕えること、そもそも阿弖河はかつて正成が湯浅氏との戦いで奪ったものだが正成が以前戦った武士たちはたいていその後味方になっていること、などから考えると、この奪取自体が両者合意の上の狂言だったという推理も可能なのではないか。このとき正成に降参した武士たちの名前は東福寺の僧・良覚が正成の戦いをまとめた記録『楠木合戦注文』に列挙されており、湯浅定仏はじめ紀伊の武士たちの名前が並んでいる。

 驚いた幕府は12月5日付で護良・正成討伐のための軍勢を畿内で招集している。正成は先手を打つように12月はじめに紀伊の隅田荘を攻撃した。年が明けて正月5日には河内・甲斐荘天見峠で紀伊御家人・井上入道ら50余人を討ち取り、14日は河内・和泉の守護代らの兵を次々に打ち破って河内から追い落とした。まさに神出鬼没の活躍で河内・和泉を手中に収めた正成は19日に摂津・天王寺に兵をすすめ、ここで六波羅探題の軍と激戦となった。『楠木合戦注文』によれば楠木軍は四条隆貞(四条隆資の子)を大将軍とし楠木一族以下河内の土豪たち、さらに畿内各地の武士たちの合わせて500余騎、そして「そのほか雑兵数を知らず」という構成であった。この天王寺の戦いは「太平記」では例によって正成の巧みな戦術による勝利を「高橋落ちて隅田流るらん」などと面白おかしく語るが、そもそも日時が史実とは大幅に異なっており、ほとんど信用できない。『楠木合戦注文』では両軍の戦闘は一日続いたが深夜になり六波羅軍がついに撤退、正成はこれを渡辺橋あたりまで追って「御米少々押取」つまり兵糧米をぶんどって引き揚げていったと記している。正成は来る籠城戦に備えて兵糧確保のために天王寺まで出張って来た可能性もある。

 正月22日、今度は関東の有力御家人で武勇を知られた宇都宮公綱が少数の精鋭を率いて正成を討つべく天王寺へ押し寄せた。この両者の対決は「太平記」が詳しく記しているが、それによれば宇都宮の武勇を知る正成は部下の夜襲の提案をしりぞけ、夜のうちにいったん天王寺から撤退した。宇都宮軍は道で会う人の馬を奪い人夫に駆り立て民家に火を放つといった示威行為を見せながら進撃してきたが、楠木軍の撤退を知って都に勝利を報告している(事実、公家の二条道平が楠木敗北を日記に書いている)。しかし4、5日後に正成は和泉・河内の「野伏」たちを四、五千人駆り集めて山々にかがり火をたかせ、宇都宮軍はこれを大軍と恐れて引き上げたとする。以上がどこまで事実か確認できないが河内に攻め込んだ宇都宮軍が家の子12人を楠木軍の捕虜にされたことが『合戦注文』に記録されており、「雑兵」とも「野伏」とも表現される山賊まがいの者たちが多く楠木軍に加わってその勢力を大きく見せていたことは事実のようだ。

 畿内の動乱を受けた幕府は関東から再び大軍を派遣する。幕府は正成の首をとった者に身分にかかわらず丹後国・船井荘を与えると発表し、阿曽治時率いる一軍が河内へ、大仏高直率いる一軍が大和へ、名越元心率いる一軍がが紀伊へと進撃した。その総数は「太平記」は百万と誇張して記すが実際は5万〜十万人あたりではないかと推測されている。これに対し正成は赤坂城(下赤坂城)、さらにその奥に築かれた「詰め城」である千早城に分散してたてこもり、籠城戦の構えを見せる。2月22日、阿曽治時らの軍が赤坂城に対する総攻撃が始まり、この初日だけで幕府軍は死者155名、負傷者420余という大きな犠牲を出したというから(『楠木合戦注文』)いかに凄まじい攻防であったかが分かる。「太平記」は「名誉の先駆け・戦死」を遂げようとする人見恩阿らに赤坂城内の兵たちが「これだよ、関東武者の風情とは。あぶれ者の猪武者の相手をして命を落としてもつまらん。ほうっておけ」と見物する様子を描写して、楠木軍と関東武士たちの気質の違いを際立たせている。
 2月28日までの7日間に幕府軍は実に1800余の死傷者を出したという。攻めあぐねた幕府軍は赤坂城の水の汲み取り口を発見してこれを破壊した。水を断たれた赤坂城は耐えかねてついに閏2月1日に平野将監以下30余人が投降(間もなく処刑)「楠木舎弟」(正季?)は脱出した。同じ日に護良親王が立てこもった吉野も陥落し、吉野を攻めていた二階堂道蘊の軍も千早城攻めに加わり、少なくとも数万の大軍が千人程度の楠木軍を攻略することになった。

 いわゆる千早城籠城戦は「太平記」前半のハイライトといえる名場面で、「藁人形の計略」など正成の繰り出す奇策が次々と当たって幕府軍が翻弄される様子が痛快に描かれているが、その実態を確認できる史料はあまり多くない。『楠木合戦注文』で山上から石つぶてを投げられて幕府軍に多くの死傷者が出ていることが確認でき、まさに鎌倉末期に畿内で盛んに見られた「悪党」たちの山岳に城を構えてのゲリラ戦そのものの戦法が使われていたと思われる。正成自身の指揮能力ももちろん大きかったろうが、彼を支えた畿内各地の「悪党」「野伏」「雑兵」といったアウトロー的な集団のルール無視の奔放な活躍が目に見える形で発揮されたのだろう。伊賀とのつながりからいわゆる「忍者」的な傭兵が加わっていたとする意見もある。
 犠牲の大きさもさることながら恩賞のために命を張る関東武士たちにとってはこのような戦い方は理解の外で、正直バカバカしくなったものと思われる。閏2月いっぱいで千早城でのまともな戦いは終了しており、あとはひたすらにらみ合いとなった。正成が籠城戦を続ける間に後醍醐天皇が隠岐を脱出して船上山に挙兵、播磨の赤松円心や肥後の菊地武時など各地で倒幕の兵が起こり、情勢は急速に変わっていった。千早攻めに参加していた武士の中には本国に引き揚げる者も出始め、新田義貞のように仮病を使うものまでいたらしい(もっとも義貞の場合は護良から倒幕の令旨を受けたためともいう)。九州での戦いを記した『博多日記』「金剛山はいまだ破られず」との言葉が見え、千早城にたてこもる正成が討幕運動の象徴的存在となっていたことをうかがわせる。また前年暮れ以後の正成の文書には「兵衛尉」ではなく「左兵衛尉」あるいは「左兵衛少尉」の官位が記されており、この間にも正成は隠岐にいる後醍醐との連絡がとっていて、極秘裏に官位を受けていたのではないかとみる説もある。

―幕府滅亡と建武政権の破綻―

 3月に赤松円心の軍が京都を攻略、山陰から攻めのぼった千種忠顕の軍と共に六波羅軍と一進一退の攻防を繰り広げるうち、4月末に足利高氏の軍が鎌倉から到着した。この高氏が4月29日に丹波・篠村で挙兵、5月7日に六波羅探題を攻め落とした。この情報が千早城包囲軍に伝わったのが5月9日で、幕府軍はあっという間に四散し、正成たちは解放された。関東では新田義貞が挙兵し5月22日に鎌倉を攻め落とし、鎌倉幕府はここにあっけなく滅亡した。後醍醐天皇は京都に帰還し、その途中6月2日に正成は摂津で後醍醐一行に合流、戦功を賞されて京まで同行した。
 その年の8月ごろにあったと思われる論功行賞で、正成は和泉・河内の二国を与えられた。さらに建武政権において恩賞方・雑訴決断所・記録所・武者所など重要な職務を任され、建武政権でにわかに成りあがった名和長年(ほうき)結城親光(ゆうき)・千種忠顕(ちぐさ)とともに「三木一草」と並び称されたと伝えられる。この呼び方には羨望と共に成り上がり者へのさげすみの視線が感じられ、とくに千種忠顕などは「太平記」でその奢りぶりをかなり悪しざまに描かれている。正成に関してはそうした話がほとんど見つからないが、興福寺が領地の井戸水の問題で正成とトラブルになり、同寺の僧兵たちが春日大社の神木をかついで強訴に及んだという史料はある(『春日神主祐覚記』)
 なお1384年に書かれた『菊地武朝申状』によると、建武新政の初期に正成は義貞・長年らと共に出仕したとき「元弘の乱で武勲を立てた者は多いがいずれも命を全うして今日の盛儀を見ている。勅命を受けて命を落としたのは菊地武時だけであり、彼こそ忠功第一に推さなければならない」と発言し、これが後醍醐の耳にも入り、広く世間でも喧伝されたという。後年の菊地氏側からの主張なので多少割り引いて考えた方がよさそうだが、正成が自らの功をむやみに誇るタイプではなかったことは確かだろう。

 さて建武政権はその成立段階から火種を抱えていた。それまで討幕戦の総司令官だった護良親王と、勲功第一とされ「武家/源氏の棟梁」として台頭してきた足利尊氏(高氏)との対立が早くも激化していたのだ。楠木正成の立場については明確な資料がないが、『梅松論』では護良の配下として尊氏排除に動いた者のなかに義貞と共に正成の名を挙げている。それまでの倒幕戦の経緯からすれば正成が護良に近い立場にいたことは自然な成り行きだったろう。ただ敵方である足利側の視点にたつ『梅松論』も正成を高く評価しているし、『太平記』では尊氏が正成と「公私にわたる交友」があったとしていることから、尊氏側からすると義貞ほどには敵視していなかったことは確かかもしれない。
 建武元年(1334)10月、六十谷定尚なる武士が興福寺の僧で北条高時の甥とも言われる佐佐目憲法僧正なるものをかつぎだして紀伊国・飯盛山で反後醍醐の兵を挙げた。その平定を正成が命じられて出陣している。この戦いは容易ではなかったようで翌月に尊氏の一門である斯波高経の軍も加わってようやく平定している。ところがこの間、都では大事件が起こっていた。護良親王が後醍醐の命により宮中で逮捕され、足利方に引き渡されていたのである。これが正成の留守を狙って行われたことだったのか、単なる偶然なのかは定かではない。

 翌建武2年(1335)6月、西園寺公宗による後醍醐暗殺計画が発覚。このとき正成は尊氏の執事・高師直と共に兵を率いて出動し建仁寺前で関係者を逮捕している(南北朝戦術革命の二大巨頭の共同作戦である!)。翌7月には信濃で北条時行が挙兵した「中先代の乱」が起こり鎌倉が陥落、これを討つため足利尊氏が独断で関東へ出陣し、やがて完全に反旗を翻す。建武新政は着実に崩壊に向かっていくなか、正成はおもに名和長年と共に後醍醐の親衛隊長としてもっぱら京の防衛にあたっていた。
 建武3年(1336)正月に足利軍が京都へ攻めのぼってくると正成は宇治の防衛に当たり、宇治川渡河を妨害するため川の中に大石を積み岸辺を切り立て、対岸の民家を焼き払っている(この延焼で宇治平等院が焼け、鳳凰堂のみ無事だった)。その後足利軍が京を占領するが、正成は義貞・長年、そして奥州から長征してきた北畠顕家らと連携して1月27日から30日にかけて激闘し京の奪回に成功する。「太平記」によればこのとき正成は携帯可能な軽量で側面に掛け金をつけた楯を兵士たちに持たせ、敵が攻めてきたら横に組み合わせて壁を作りその間から矢を放ち、敵が引いたら楯を外して素早く攻めかかるという機動力を発揮したとか、僧侶たちに義貞・正成・顕家が死んだとデマを流させたとか、夜にたいまつを大量にもたせて大軍が撤退するように見せかけたとか、またも知略の連打を見せているが、あまり信用はできない。ただ後年彼の息子たちが率いる楠木軍が同様の機動性を発揮したこともあり楯の件は事実の可能性が高い。またいったん京を奪回しながら「兵を京においておくと略奪に走って規律が乱れ、敗北する可能性が高くなる」と正成が義貞に意見して撤退させたという逸話もリアルだ。

 京から没落した尊氏は丹波から播磨へ逃れ、赤松円心と合流して態勢を立て直したうえで、京を奪還すべく2月10日に摂津に進んだ。打出浜(西宮付近)まで進んだところであとを追ってきた正成の軍と遭遇、終日戦って勝負がつかなかったが夜に入ったところで正成が兵を引き上げた。これは『梅松論』が記す経過で、「夜に入って何を思ったのか正成が撤退した」と何やらひっかかる書き方をしている(ただし古態本では「何を思ったか」の部分はないという)。「太平記」ではこの戦いは豊島河原の戦いとして2月6日に行われたことになっていて、新田・北畠軍と足利軍が激闘して勝負がつかないところを遅れてやってきた正成が側面から奇襲をかけて足利軍を崩壊に追い込んだとする。どちらが真相か確定できないが『梅松論』ではその後問題の「献策」の件もあるため、正成が尊氏に対する追撃をためらったものではないかとみる向きもある。

―湊川へ―
 
 この摂津の敗戦で京奪回をひとまずあきらめた尊氏は、態勢を立て直すべく九州へとくだった。この途上で尊氏は光厳上皇の院宣を受け取って「賊軍」の汚名を避けるとともに、土地の権利を元弘以前に戻す、すなわち建武政権を完全に否定する政策を公表した。これに応じて各地の武士たちが尊氏に呼応し、その様子を正成は「在京の者どもまでが敗軍の尊氏に遠くつき従い、勝ったはずの帝の軍を見捨てていく」と表現したとされる(『梅松論』)
 この情勢に危機感を持ったのだろう、尊氏を九州へ追った直後に正成は「義貞を誅罰し、尊氏を召し返して君臣和睦をしていただきたい。使者にはこの正成がなりましょう」と後醍醐に申し出たという。「不思議なことを言う」と嘲笑する声に対して正成は現実の情勢を説き、「年内にも尊氏は西国を平定して攻め上ってくるでしょう。そうなればもう防ぐ戦術はありません。帝がいかに賢くいらっしゃっても武略の道においてはいやしい正成の意見に間違いはありません」と重ねて言ったという。これは足利側の立場の『梅松論』のみが伝える逸話であるため創作と疑う向きもあるが、史実関係においては『太平記』よりずっとあてになる史料であり、状況証拠から正成が実際にこれに近いことを言ったのではないかと見る歴史家は多い。討幕の戦いにあって圧倒的に不利にみえる情勢の中でもしっかりと世の流れを見通して勝利をものにした正成である、世の流れが建武政権から足利幕府に向かっているのを確実に見通していたのだろう。その中で混乱を最小限に抑えて建武政権と後醍醐を活かす方法は尊氏との「君臣和睦」しかなかった。「義貞誅罰」まで口にしたかどうかは疑問とみる声が多いが、正成の戦死後に後醍醐は結局義貞を見捨てて尊氏と和睦するという正成の献策にほぼ沿った行為をとることになる。

 『梅松論』の伝える正成の尊氏東上の見通しは「季月の中に(年内に)」というものだったが、現実の推移は正成の見通しよりもはるかに速かった。3月に九州に上陸して多々良浜合戦の勝利で早々と西国を平定した尊氏は4月には東上の軍を起こした。尊氏を追撃していた新田義貞の軍勢は赤松円心の白旗城攻略に手間取り、5月中旬には迫りくる足利軍の前に兵庫までの撤退を余儀なくされた。この危機にあたって後醍醐は正成に兵庫への出撃を命じる。
 『太平記』はこのとき正成が重大な提案をしたことを伝える。「足利軍は九州の軍勢を加えて大勢力となっているでしょうから尋常の合戦をしては必ず味方は敗れます。そこで義貞を兵庫から呼び返し、その護衛のもとに帝には正月の時と同様に比叡山にお逃れいただきたい。正成も河内へ戻って畿内の兵を集め淀川の河口を封鎖します。そして足利軍を京に入れて比叡山と河内から挟み撃ちにし足利軍の兵糧が尽きるのを待てば、敵は次第に数を減らして味方は日々兵力を増すでしょう。そのときに義貞と正成が同時に攻撃すれば一挙に足利軍を全滅させることができましょう。義貞も同じ考えと思われますが一戦もしないで退却してはふがいないと人に言われるのを恐れて兵庫にとどまっているのでしょう。合戦は最終的に勝利することこそ大切であります。よくよくお考えの上決定してください」というこの提案に多くの公家は「まことに戦のことは武士に任せるべき」と感心したが、坊門清忠「朝敵征伐のために派遣された官軍が一戦もしないうちに都を捨てて、一年のうちに二度までも帝を比叡山に逃れさせるとは、帝位を軽んじ官軍の体面を失わせるものである」との意見で流れが変わり、後醍醐もこれを受けて正成の献策を退けた。正成は「この上はもはや異議はございません」と出撃するのだが、『太平記』の古態本、つまり初期のバージョンではこれに続けて正成が「大敵をあざむいて勝利を得ようという智謀のお考えは無く、ただ無二の戦士を大軍にぶつけようというだけのお考えなのでしたら、いっそのこと『討ち死にせよ』との勅命を出していただきたい」と痛烈な発言したことになっている。この部分は「忠臣正成」像が固まるにつれ削除されたものらしいが、『梅松論』の伝える「不思議の献策」と突き合わせてみると、実際に発言したかはともかくこのような心情を正成が抱いたことは大いにありうるのではないか。

 『太平記』によれば正成の京都出発は5月16日。兵庫へ向かう途中、桜井の宿で正成が11歳の長男・正行に自らの戦死の覚悟を伝え、諭して河内へ帰らせたという「桜井の別れ」も『太平記』のみが伝えることで、正行がすでに成人に達していた可能性も高いことから創作の産物とみる声が多いが、「この挿話はフィクションであるとしても、遺憾なく正成の当時の心情を写している」(植村清二)と見るあたりが的確だろう。
 尼崎まで進んだところで正成が後醍醐に最後の上奏をしたという話もある。これは『梅松論』に載るもので、正成は「今度は帝の戦は必ず敗れるでしょう」と書き出し、「かつて元弘の乱の折に金剛山に立てこもった時には私の呼びかけに国中の者が協力してくれたおかげで勝利を得ました。しかし今回和泉・河内の守護として勅命により軍勢を招集したが親類一族のなかですら渋る気配があります。まして国人や民衆ではなおさらでしょう。天下の人々が帝を見捨てたことは明らかであります。こうなっては正成が生きながらえるのは無益であります。まっさきに命を落としましょう」と後醍醐への決別を告げたというのだ。これも実際にあった上奏かどうかは分からないが、『太平記』古態本にも共通する姿勢であり、当時正成がこのような心情であったことは事実なのではないかとみられている。
 5月24日夜に正成は兵庫の義貞と合流した。『太平記』によれば義貞が「箱根・竹ノ下合戦以来敗北続きで、このまま一戦も交えず京へ退くのはふがいない。勝ち負けはともかくこの一戦で忠義を示したい」と正成に弱音を吐くと、正成は「合戦のことも知らない人の非難など気にするな。北条を滅ぼしたのも尊氏を九州に追ったのもあなたの武勇によるものではないか」と慰め、夜通し酒を酌み交わして語りあったという。

―湊川に散る―

 夜が明けて建武4年(延元元、1336)5月25日早朝、湊川の決戦が始まる。足利軍は足利直義ひきいる陸上部隊がおよそ一万、尊氏率いる海上部隊がおよそ二万五千、対する新田・楠木軍は合わせて一万前後であったと推定される。正成は湊川北方の会下山(えげさん)に旗をなびかせ楯を並べて布陣していた。その数は不明で『太平記』は700騎だけだったと記すが、これはその悲劇を誇張する数字で(「太平記」は足利軍を50万という凄まじい数にしている)実際には5〜7000騎はいたのではないかとする推測もある。
 卯の刻(午前6時)ごろから水陸の足利軍が動き出した。足利直義率いる陸上部隊は辰の刻(午前9時)ごろに兵庫に侵入、巳の刻(午前10時ごろ)ここで楠木軍との激闘が開始された。会下山から駆け降りた楠木軍は決死の突入を繰り返し、一時は直義も馬を射られて危機一髪の状況もあったと『太平記』は伝える。やがて細川定禅の四国勢の船団が湊川の東方・生田の森に向って動き出したため義貞は背後を断たれてはかなわぬと(細川船団を尊氏本隊と誤認したとも言われる)軍勢を東に移動、これにより義貞と正成の間に空白地帯ができ、そこに尊氏の本隊が上陸、両者を完全に分断した。結局義貞は細川勢と戦いつつ京へ向かって撤退を始め、正成は敵中に孤立する結果となった。

 この状態は決死の覚悟の正成が義貞を無事に撤退させるためにあえてとったものとする説もある。だが細川定禅の軍が撤退する義貞を放置して楠木軍に向かい、これを完全に包囲する動きを見せており、足利軍は当初から義貞よりも正成個人を最大の標的としていた可能性もある。あるいは義貞軍が撤退し始めた時点で楠木軍が直義軍相手に激闘を展開していたため、直義救援を優先したのかも知れないが、『梅松論』には東上途上の尊氏の船団が備後・鞆を出た直後に、足利家紋の幕をつけた四国勢の船団が突然現れたとき「味方に化けた楠木の計略か」と兵士たちが騒いだという逸話があり、足利軍が正成の智謀を非常に恐れていたことを物語っている。
 戦闘は申の刻(午後4時ごろ)まで続いたというから、楠木軍の決死の奮戦は6時間に及んだことになる。『太平記』によれば楠木勢はとうとう73騎にまで減らされ、正成もついに自害を決めた。湊川の北にある民家に駆け込み、ここで正成が鎧を脱いだところ11か所もの刀傷があり、他の者たちもみな数か所の傷を負っていたという。このうち正成を含めた13人が楠木一族で残り60人が「手の者」であったとされ、彼らは二列に並んで念仏を十回唱え、一斉に腹を切った。このとき正成は弟の正季「最期の一念によって来世が決まるという。お前は何に生まれ変わりたいと願うか」と聞き、正季が「七度まで同じく人間に生れて朝敵を滅ぼしたいと思います」と答えた。正成は喜び「罪深い悪念であるが私もそのように思う。では一緒に生まれ変わってこの願いをかなえようぞ」と兄弟で刺し違えて死んだ…というのが『太平記』の伝える有名なやりとりである。
 この現場を見た者がいないとこのような具体的な話は語れない。そのため想像上のものと考えられるのだが、興福寺の僧・朝舜が出した書状によると正成たちの自害の場に立ち会った「念仏を申し候者」がいたらしい。当時は戦死者の埋葬・供養をするため念仏宗の僧侶(時衆)が従軍している事が多く、「太平記」もこうした人々の取材によるところが大きかったのではないかと言われている。この朝舜書状には正成は申の刻に「小家」に火をかけて自害し一属28人が腹を切ったこと、正成の首は「細川殿」の一族がとったこと(『梅松論』は高尾張守とする)、首は二日兵庫にさらされたのち、魚の御堂という寺(尊氏の本陣が置かれたらしい)に所領を50町与えて供養をさせたこと、楠木兵の一部に負傷して落ち延びた者がいたらしいこと、などが間接的ながら詳しく書かれている。この時衆の僧のように現場を目撃した者もいるし、楠木勢で河内まで落ち延びた者が確認できることから「太平記」の伝える正成の最期の模様も全くの想像の産物ではないかもしれない。
 『梅松論』は「正成および弟七郎左衛門以下、一所に自害した者は50余、戦死は300余人」と記している。執筆者は足利側にいた者だから正成の死の模様はまったく伝えない。しかしその戦死を記したあとに例の「不思議の献策」や尼崎からの決別の奏上などを紹介し、「まことに賢才武略の勇士とは、このような者のことをいうのだな」と敵も味方もその死を惜しんだ、としめくくる。
 『太平記』は尊氏が正成の首を六条河原にさらした後で「公私にわたり久しい付き合いがあっただけに哀れである。彼の妻子もその顔をまた見たいと思っているであろう」と正成の死を悼み、その首を河内の妻子のもとへ送り届けたと語る。尊氏と正成は身分が違いすぎるし護良に近い立場であったから両者に私的な付き合いなどありえないのでは、とこの話を創作と考える意見もある。だが上記の朝舜の書状にあるように尊氏は湊川合戦の直後に正成の供養のために土地の寄進をしている事実があり、『梅松論』の書きぶりからも足利側が正成を高く評価していたことは疑いない。湊川の戦いにおいても正成たちの投降を待った、あるいは自害のための猶予を与えたという見方もある。湊川の戦いの当日に発した書状のなかで尊氏は「本日兵庫島で正成を討ち取った。これで上洛をさえぎるものはなくなった」と記し、逃がした義貞よりも正成の存在を重視していたことをうかがわせる。なお、尊氏と正成に個人的な交友があった証拠はないが、尊氏の子・義詮が正成の子・正行を敬愛し、「自分が死んだら正行の傍らに葬ってくれ」と遺言して実現させていることはもしかすると父親同士心を通じさせていた事実を反映しているのかも知れない。

―人物―

 謎の多い人物であり、詳しい話はほぼ『太平記』の記事だけである。このため正成の実際の人間像に迫るのはなかなか難しい。ただ同時代において正成を悪く言う者がほとんどなく(あるとしてもそれは貴族や寺社など旧勢力)、武士たちの間では敵味方の立場を問わず英雄視されていたことは確実だ。倒幕戦で殊勲をあげた「三木一草」の筆頭として多大な恩賞を受け一時の栄華をみたこともあるが、それをとくに誇ったり奢ったりした様子もなく、人格者として周囲に好感をもたれていたことも想像できる。

 正成の筆跡はいくつか現存しているが、その筆致は出自不明の地方土豪のものにしては高い教養を感じさせるもので後醍醐周辺に流行していた宋朝風であるとの指摘がある。玄恵と何らかの縁があった可能性の高い正成自身も当時最新の哲学理論であった宋学(朱子学)を信奉しており、それが後醍醐に最後まで忠節を尽くした理由ではないかという説が古くからある。もっともこれも直接的証拠はなく、疑問視する声もある。正成といえば「非理法権天」(非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たず)という儒教的な概念の旗印を掲げていたとされるが、これは江戸時代以降の創作であり「現存」する非理法権天の旗印も後年の偽造とみるのが一般的。さらに天皇への忠節を示すとされる「菊水の紋」も本来橘姓の家紋で天皇とは無関係との意見もある。

 『太平記』『梅松論』のいずれも正成が湊川での死を覚悟していたと伝え、その直前には後醍醐と建武新政に対する批判的な発言をしていたことがみえる。ではなぜ正成は敗北を悟りながら律儀に後醍醐に殉じたのか、これは寝返り・裏切りがしごく当たり前な南北朝時代における最大の謎とも言われ、今日まで多くの解釈がなされてきたが決定打はない。皇国史観にもとづく問答無用な解釈はさておき、挙げられるものとしては「低い身分から一気に上昇、多大な恩を受けたために殉じるほかはなかった」「本来は幕府御家人・北条得宗家臣であったため二度目の裏切りができなかった」「後醍醐・南朝を支える非農耕民を背景に持っていたため東国型武士と共存できなかった」「持前の反権力志向から次代の権力者である足利に服従できなかった」「単なるヤケクソ」といった見解がある。
 戦争の指揮官としての能力は確かに高かったようである。『太平記』の伝える奇略縦横ぶりは多少割り引いて読む必要があるとしても、赤坂・千早籠城戦における悪党的な山岳ゲリラ戦術は実際に幕府軍を翻弄したし、足利軍との京都攻防戦でも機動性に富む活動を見せた。湊川合戦でも長時間にわたる戦闘を繰り広げ足利の大軍を一時は突き崩す勢いを見せたとされるから平原戦も不得手ではなかったのだろう。いずれにも共通するのが少数部隊による機動力で、それを支えたのは「悪党」「野伏」などと表現される後の足軽につながるアウトローな下層武士(歩兵)たちであったと思われる。これは正成の出自と深くかかわるのではないかと考えられる。『太平記』のなかで正成が補給を重視する発言を何度もしているのも注目される。
 現場の戦術のみならず大局を見通した戦略的な構想を抱くこともできた人物だったらしい。圧倒的に不利にみえる条件下での倒幕活動や、逆に勝利した直後に「義貞を捨てて尊氏と和睦せよ」と進言したり、あえて京都を敵に占領させてその補給を断ち自壊を待つ献策をしたとの逸話は正成の分析力の正確さを示している。その分析のもととなる情報収集力にも長けていたはずで、それもやはり彼の出自と深くかかわっているのかも知れない。

 その一方で建武政権において数々の要職を占めながらもその実態はほとんど伝わらない。そのため政治向きのことは不得手だったと思われるのだが、建武新政自体が混乱を極めていたので評価のしようがないとも言える。世界史を見渡すとしばしば見つかる「革命戦争野郎」の典型だったのではとみる向きもある。
 正成の年齢は全くの不明である。正成の活躍を誇大に伝えた近世初期成立の「太平記理尽鈔」で享年42歳とされ、頼山陽『日本外史』によってこれが広められ、戦前まで通説として教科書にまで載っていたが根拠は全くない。正行ら息子たちの生年・年齢も全く不明でこれも年齢を推測する手がかりとはならない。恐らく活躍した5年間は40代か50代だったのでは、とみるほかはない。
 兄弟では弟に「楠木七郎」がいたことだけは確実で、これが『太平記』の伝える正季のことらしい。また常陸の瓜連に入って活動した楠木正家も正成の弟ではないかとする説がある。息子は正行・正時正儀が確認でき、いずれも父親譲りのゲリラ戦上手ぶりを発揮している。父親譲りといえば正行・正儀にはいずれも敵兵に対して恩情をかけたという逸話があり、正儀にいたっては南北朝の和睦のために奔走していることが父・正成の性格や立場をしのばせる。妻は「久子」と伝わる女性のみがいたとされ(ただしこれも近代以降に出てきた話で信用度は高くない)、側室は置いていなかったのではないかと推測されている。

―後世の評価―

 日本史上、楠木正成ほど後世神格化された人物はいない。正成を名将として英雄視する声はその死後から間もないころに足利方の立場で書かれた『梅松論』で早くも見られ、さらには『太平記』が大幅に潤色した上で正成をほとんど超人的な智将として称え、これが広く親しまれたこともあって正成人気は早い段階からあったと思われる。しかし北朝の立場からすれば楠木一族は「朝敵」そのものであり、南北朝合一後も「後南朝」の運動が長く続いたこともあって室町時代を通して楠木一族は討伐の対象であった。戦国時代の永禄2年(1559)に正成の子孫を名乗る楠木正虎なる人物が朝廷に運動して正親町天皇から勅免を得て公式に朝敵ではなくなっている。

 江戸時代に入ると『太平記』を講読する「太平記読み」という職業ができ(講談のルーツ)、とくに正成の大活躍の下りは客を呼ぶので客が少なくなると「今日より正成出づ」の看板を掲げたと言われる。そのうち正成の活躍を『太平記』以上に誇張した異伝を多く語るようになり、そのタネ本が『太平記秘伝理尽鈔』であると言われている。「正成神話」のかなりの部分は「太平記」ではなく江戸時代以降の創作とみてよく、それだけ正成人気が凄まじかったことがうかがえる。正成の兵法を継承すると称する「楠流軍学」なるものまで現れたが、これも完全な捏造である。
 こうした庶民人気があった上に徳川光圀が史書『大日本史』編纂にあたって南朝正統論を主張し、その南朝に殉じた正成を「忠臣」として大いに称揚したことが重大な影響を残す。これは朱子学的な観点から中国の岳飛や文天祥といった「悲劇の忠臣」の日本版として正成がうってつけだったためだと思われるが、『大日本史』の水戸史学は時代が進むにつれ尊王・皇国史観の中核となり、いわゆる幕末の志士たちは「建武の中興」を倒幕維新と重ね合わせ、正成を自らの理想として崇拝して神として祭る動きが出てくる。明治に入ってすぐに正成は最高位の正一位を追贈され、彼を祭神とする湊川神社が創建された。明治33年には皇居前に正成の銅像も建てられる。

 大正から昭和初期にかけては比較的冷静な評価もあったようだが満州事変以降の軍国主義風潮のなか昭和8年(1933)は「建武中興六百年」ということで「忠臣・大楠公」称揚の動きがいっそう強化される。天皇に忠義を尽くして敗北を知りつつも命を捨てるその生き様が「臣民の鑑」と喧伝され、学校教育で叩きこまれ、その後の日本軍の「特攻」「玉砕」「一億玉砕」といった悲壮な自己陶酔行為に多大な影響を与えている。
 敗戦となり民主主義が喧伝されだすと、その評価は一転して「民衆を捨てて復古勢力に走って自滅した」として極端に低評価する声も出てきたが、それも一時の動きであまり広がった気配はない。むしろ戦前の束縛から解放された歴史家たちによる実証的な研究が進んだことが重大で、林屋辰三郎の提唱した「散所の長者」説、鎌倉後期の現象として注目される「悪党」の一人とみなす説、佐藤進一の指摘する「広範な活動範囲をもつ商業的武士」、網野善彦が唱えた「辰砂(水銀)を扱う商人的な、非農耕民と深く関わる元北条家臣」、上嶋文書から浮かび上がる芸能民との関わり(「太平記」の語り手もこれにつながる)などなど、正成の実態をめぐる議論はいまなお刺激的に展開されている。

参考文献
植村清二「楠木正成」
佐藤和彦編「楠木正成のすべて」
海津一朗「楠木正成と悪党」
村松剛「帝王後醍醐」
ほか多数
大河ドラマ「太平記」吉川英治『私本太平記』を原作としたこのドラマでは原作以上に庶民的で温和で泥臭い正成像を武田鉄矢が好演した。話が来た当初武田鉄矢は「楠木といえば高倉健さんとか緒形拳さんとか二の線」と断ったがプロデューサーから「あの時代に妻を一人しか持たず簡単に腰が上がらず山にこもったら簡単には降りてこない」キャラクターと説明され、話に乗ったと言われる。ドラマでは第3回で近くにいることが暗示されるだけでなかなか登場せず、第6回のその名も「楠木登場」の回で初登場。まるっきり農民にしか見えない姿で登場して「ましらの石」のみならず視聴者も驚かせた。赤坂城・千早城は採掘場を利用した大がかりなロケで撮影され、智謀の人というよりも現実的なゲリラ戦指導者という描写になっていた(「藁人形の計」は正季が実行するが正成はそれを叱るシーンがあった)。尊氏とは赤坂落城後に伊賀で遭遇し、建武政権期も私的な交友があったことにされ、尊氏が京都を攻撃する直前に正成と密会する場面まで作られた。「湊川の決戦」の回では後醍醐に直言して退けられ(「太平記」「梅松論」を巧みにミックス)、古典通りに「桜井の別れ」も演じ、湊川では尊氏に包囲されて尊氏に一礼、降伏を進められるが断って自害という形になった。なお尊氏の前に正成の首級がさらされるカットでは武田鉄矢みずから「生首」を演じている(CSテレビなどでの放送ではカットされることがある)
その他の映像・舞台 無声映画時代から意外にも戦後にかけてもかなりの数の「大楠公」と題した正成映画が作られていることがわかる。ただスペクタクルなシーンを作るのは難しいので「桜井の別れ」など泣かせる名場面を映画化したものが多かったようだ。
 確認される一番古いもので1909年(明治42)の「楠正成」が存在するらしい。1911年に川上音二郎による「楠正成桜井駅」という映画があり、1912年の横田商会版「大楠公」と1921年の日活版「大楠公(楠公一代記)」では尾上松之助、1919年の「忠孝の亀鑑 小楠公」では正成役不明(嵐璃珀?)、1921年の「大楠公夫人」では後の映画監督・内田吐夢が演じたらしい。1922年と1923年に連続して作られた「楠公桜井之駅」「楠公桜井駅」の2本では澤村四郎五郎、1926年の松竹版「大楠公」では井上正夫、同年の「大楠公 吾等の叫び」では嵐璃徳、やはり同年の「楠公の歌」では横田豊秋が演じている。他にタイトル未確認のものも含めるとまだまだあるようだ。
 トーキー以後は1933年の太秦発声映画「楠正成」早川雪洲、1936年の日本合同映画「小楠公とその母」で草間実、1940年の日活映画「大楠公」阪東妻三郎の例がある。変わったところで1926年および1928年公開の「続水戸黄門」では湊川を訪れた黄門一行の回想(?)シーンのなかで登場し、三桝豊が演じたという。
 戦後はほとんど例がないが、1958年に新東宝のアナクロ路線で製作された「楠公二代誠忠録」という映画があり、若山富三郎が正成を演じた。
 TVドラマでは昭和34年(1959)というTVドラマ草創期に『大楠公』というドラマシリーズがあったことが確認できる(正成役:小柴幹治)。また昭和41年(1966)に単発ドラマとして『怒涛日本史・楠木正成』がある(正成役:南原宏治)

 舞台劇では1961年および1969年の「幻影の城」で杉浦宏、1962年の「文士劇 私本太平記」で川口松太郎が演じた。1990年に「男どあほう大忠臣・楠木正成伝」という舞台が上演されているが、正成役は未確認である。同じ年に後醍醐を主役とする舞台「流浪伝説」があり、そこでは笹野高史が正成役だった。
 昭和39年(1964)の歌舞伎「私本太平記」では主役とされ、市川団十郎(11代目)が演じている。大河ドラマと同年にも「私本太平記 尊氏と正成」として歌舞伎化され中村福助が正成を演じた。

 アニメでは昭和53年(1978)の「まんが日本絵巻」の一話「敵は幾万ありとても 智将・楠木正成」(声:北村総一郎)、昭和58年(1983)の「まんが日本史」(声:戸谷公次)の例がある。
 森村誠一の小説を原作として角川映画の大作として「太平記」の企画が発表されたことがある。結局これは角川春樹プロデューサーの逮捕その他の事情で流れてしまうのだが、一説に正成役はビートたけしが予定されていたという。
歴史小説では 戦前には「大楠公」としてむやみに神格化されたこともあってかえって創作物の素材にしにくかった。比較的落ち着いていた昭和初期に直木三十五が執筆した短編「湊川合戦」(昭和3)および長編『楠木正成』(昭和6)が歴史小説として正成をとりあげた最初のものと思われる。これは直前に歴史家・藤田精一が著した実証研究『楠氏研究』に大きく拠っており、宋学に造詣の深い正成が日野俊基に見出されるところから始まり、赤坂・千早の戦い、建武の新政、そして湊川の散華までが淡々と落ち着いた文調でつづられている。巻末に直木自身の正成に関する見解がまとめられており、皇国史観からは一歩も二歩も離れた実証的態度で正成の実態に迫ろうという作者の意欲が感じられる。直後に直木はこれと対になる「足利尊氏」を執筆するが、こちらは検閲削除の嵐に遭い実質未完となってしまった。
 その後1935年(昭和10)正成戦死600周年の企画として大仏次郎が朝日新聞に『大楠公』を発表している。これも日野俊基と正成の出会いから始まるが、千早城攻防戦のさなか後醍醐の隠岐脱出の報を聞いて正成たちが勝利を確信するところで終わる中編作品。タイトルからして忠臣正成賞賛の時代迎合ものに見えるが、内容的にはいたってオーソドックスなで、しごく落ち着いた正成像(マイホームパパ的)となっている。その後大仏は太平洋戦争さなかの1942年(昭和17)から「少年倶楽部」に『楠木正成』を連載(未完)、1943年(昭和18)には毎日新聞に湊川以降の楠木一族を描いた「みくまり物語」を書いている。
 戦後しばらく南北朝タブーの空気もあり作品が見られないが、歴史小説の大家・山岡荘八が1957(昭和32)に『新太平記』を発表している。これは群像劇だがやはり楠木正成が中心をなしており、奇策縦横、自ら商人に扮して情報収集する正成が描かれている。かなり戦前的な価値観をひきずった正成像だが、愛人にいつの間にか子供を産ませるなど意外な一面も描かれる(笑)。なお山岡には笠置参陣時の正成を描いた異色の短編「月の輪鼻毛」(昭和39)もある。
 山岡に続いて吉川英治が1959年(昭和34)から発表したのが『私本太平記』である。代表作『新平家物語』に続く大作として構想された本作は足利尊氏を主人公とするが、正成も同等の比重を置かれていて、林屋辰三郎の唱えた「散所の長者」説や「観阿弥のおじ」説など最新学説も大胆に取り入れ、温厚で平和主義者という全く新しい正成像を提示した。湊川合戦での正成の最期は壮絶に描かれ、「七生人間」も全く別の解釈をして戦後のニーズに合わせた。吉川の体調もあって湊川以降がダイジェストとなってしまった本作だが、かえって正成を一方の主人公とする物語という骨格が完成している面もあり、尊氏死後の物語の最後にそれがより明示されている。
 邦光史郎が1967年(昭和42)に発表した『楠木正成』は正成の前半生をかなり大胆に推理した異色作で、正成の父が謀略により殺されて領地を奪われ、若き日の正成が流浪の末にこれを奪い返す復讐譚の構造になっている。前半生に大きくページを割いたため元弘の乱以後はテンポが速く、あっという間に湊川に至って物語が終わる。
 正成と同郷人である今東光も1972年(昭和47)に『東光太平記』(文庫化にあたって「太平記」に改題)を発表、河内弁を話す正成を中心に河内人の作者らしい地元密着型の「太平記」となっている。ただ創作が多いのは前半のみで、途中から古典のあらすじを追いつつ歴史評論をしているような感じになってしまい、護良親王逮捕により正成が尊氏の世となることを予見するところで「歴史に対する興味を失った」として物語を打ち切ってしまった。
 新田次郎『新田義貞』では正成を後醍醐内裏の護衛にあたる武士と設定、元弘の乱のときの後醍醐が女装しての内裏脱出を正成が考案・実行し、京大番役の義貞がそれと察して逃がす場面が作られた。
 80年代末以降、次々と南北朝歴史小説を発表して注目された北方謙三がその最後の作品として仕上げたのが『楠木正成』(2000年)。それまでに書かれた一連の作品でも顔を出していた正成を主人公として河内の悪党・正成の青春期から大幅に創作を交えてじっくりと描き、湊川合戦の予感をさせつつ唐突に終わる構成になっている。赤松円心を描いた「悪党の裔」と合わせて読むといろいろと面白い。
 高橋直樹『異形武夫』は南北朝を扱った三篇の短編から成り、その最初の一篇が「葛の正成」と題する作品で、正成が一応の主軸となり、高師直との心の交流が描かれている。
 金重明『悪党の戦』(2008)は文観の「真言立川流」と正成を深く結び付け、当時の国際的背景をちらりと混ぜた異色作。安部龍太郎『道誉と正成』(2009)はタイトルの通り佐々木道誉と正成が気持ちを交わし合いつつ敵味方で戦うストーリーで、正成については北条得宗家臣だったという説をとり道誉とも鎌倉で顔を合わせていたことになっている。このほか嶋津義忠『楠木正成と足利尊氏』(2009)もあり、コミックの「ナギ戦記」もあわせて2008年から2009年はなぜかちょっとした「正成ブーム」(?)となった。
 なお、戦後の歴史小説界に多大な足跡を残した司馬遼太郎は戦前のアレルギーのためか南北朝時代を「小説にもならん時代」として敬遠し一作も書かなかったが、正成のことは同郷人としても好きだったらしく、「楠木は河内の気のいいおっさんだったに違いない」と書いた。これがその後正成像に意外に広く影響を与えているようである。
漫画作品では 学習漫画でいずれもカッコよく印象的な登場をしている。とくに千早・赤坂攻防戦はビジュアル的な見せ場。「悪党」のイメージがあるせいか、ワイルドなデザインになってることが多い。正成個人の伝記漫画としては、うめだふじお画『楠木正成』(学研まんが人物日本史・1990)があり、「あほんだら」など河内弁で話す正成が見られる。「週刊マンガ日本史」の「足利尊氏」の号(2010、森ゆきなつ画)ではほぼ1コマのみの登場ながら「幕府のあほどもをいてもうたれー!」と叫び、印象に残る。
 横山まさみち作『コミック太平記』(1990)の1・2巻は正成を主人公として鎌倉幕府および建武政権崩壊の過程をまとめている。この横山版は山岡荘八『新太平記』を参考にしたと思しく、一部の登場人物に類似点がある。またPCエンジンゲームにもビジュアル面の「原作」として流用された。
 桜井和生・原作/たかださだお・画『劇画足利尊氏』(1990)では正成が尊氏・義貞と大学の同級生だったというとんでもない設定になっており、秀才の美青年として尊氏と学園ドラマを繰り広げ、やがて湊川で尊氏と直接一騎打ちまでしてしまう。
 十川誠志・原作/あきやま耕輝・画『劇画・楠木正成-湊川に吼えた稀代の戦略家-』(1993)は一冊まるごとが湊川の戦いという異色作で、戦いの中で正成が自身の生涯を回想していく形式となった。ほとんど庶民の出という設定になっていて商人や山賊まがいのことまでして民の生活を第一に考える武将として描かれた。建武政権期に路上で出会った足利直義と政治論をたたかわす場面も見もの。
 沢田ひろふみ『山賊王』(2000〜)は少年誌に連載された異例の南北朝もの(厳密には鎌倉末期だが)で、正成は準主役級の扱い。日頃はふざけてばかりで軽薄な言動を見せるが、いざとなると奇策を次々と繰り出す名軍師ぶりを発揮する強烈なキャラクターとなっている。完結後の作者コメントによると、作者は正成という中年キャラが子供たちにどうみられるか気になっていたが、「かっこいいオヤジ」との声があって喜んだそうである。物語は幕府滅亡のハッピーエンドで終わるため、正成のその後の悲劇については読者が自分で調べて知ってほしい、との意向も示されていた。
 岡村賢二「私本太平記」は吉川英治を原作としており、おおむね原作に忠実な正成像を描いている。連載誌を「戦国武将列伝」に移したため「私本太平記・足利尊氏」に雑誌上では改題されたが、湊川合戦の直前は正成の同行のみが描かれたため一回だけ「楠木正成」のサブタイトルになった。
 2008年末から「スーパージャンプ」誌上で連載された内野正宏『ナギ戦記』は青年誌向けの異色の「正成伝コミック」。ここでは正成は不良青年の姿に描かれ、橘姓ではあるが「楠木」ではなく、悪党の首領から「楠木」の名を襲名するという設定になっている。初登場時から久子のところに夜這いにゆくなど青年誌ということもあってかややHなシーンあり。少年漫画的なノリも目指したのだが方向性が絞り切れなかったようで単行本2巻分で打ち切られ、鎌倉幕府打倒のところで唐突に終わってしまった。
 2010年に描きおろしで刊行された飴あられ『君がために・楠木正成絵巻』は少女漫画の手法で描いた正成漫画で、正成が年齢もグッと若いイケメンに描かれ、やはりイケメンの湯浅孫六とヒロイン「あぐり」をめぐって三角関係になる内容。
 同時期に「第三文明」誌上で天王洲一八作・宝城ゆうき画『大楠公』が連載された。タイトルや「青葉繁れる」がやたらに流れる復古調な空気もあるが、内容的にはオーソドックスな正成伝記漫画で、「民衆と共に生きる平和主義者」の正成が描かれた。一部に大河ドラマそのまんまのシーンが複数みられたりもする。
 2016年から「モーニング」誌上で河部真道『バンデット』が連載された。主人公は架空の悪党「石」だが、中盤から「車借」(運送業)をしている正成が登場、当初は後醍醐に味方する気がなかったが対面して気に入ってしまい幕府相手の危険な戦いにスリルを求めるかのように飛び込んでゆく。千早城の戦いの勝利で話は終わってしまった。
 変わったところでシミュレーションゲーム雑誌「シミュレイター」の太平記特集に掲載された松田大秀『太平記』では、「陣地防御線の鬼・河内のおっさん」として工事現場の監督(「楠木建設」のロゴ入り)の格好をした正成が登場して衝撃を与えた(笑)。
PCエンジンCD版摂津・河内に拠点をおく南朝系独立君主として登場、初登場時のデータは統率68・戦闘99・忠誠85・婆沙羅9。あまり大軍は率いられないが戦闘力は最強、かつ婆沙羅度が極端に低いためまず調略には応じない。残念ながら独立勢力の君主であるため尊氏・義貞いずれでプレイしようと正成を直接操作することはできない。 オープニングビジュアルでも登場し、赤坂城攻防戦のシーンでは声が聞ける(声:中田和宏)
PCエンジンHu版シナリオ1のみに登場、千早城攻防マップで正成を操作して勝利するところからゲームスタートとなる。「弓8」というゲーム中最強の戦力を誇る。
メガドライブ版プレイヤーキャラの一人で、「新田・楠木帖」を選ぶと武将として使える。能力は体力69・武力148・智力149・人徳98・攻撃力139で、とくに智力の設定が高い。 
SSボードゲーム版公家方の「大将」クラス、勢力地域「南畿」で登場する。合戦能力4・采配能力3で大軍を率いるのではなく単独の小勢で本領を発揮することが表現されている。ゲームのサブタイトルに「血戦楠木正成」とある割に印象は薄い。ユニット裏はもちろん楠木正行。

楠木正成の妻くすのき・まさしげのつま生没年不詳
親族夫:楠木正成 子:楠木正行・楠木正時・楠木正儀 兄:南江正忠?
生 涯
―「銃後の妻」の鑑にされてしまった正成の妻―

 楠木正成の妻については「久子」と紹介するものが圧倒的に多いが、この時代の大半の女性と同じく実名は不明である。「久子」という名が出てきたのは明治以後にいっそう強まった「大楠公顕彰」の動きのなかでのことで、観心寺過去帳を根拠として広く喧伝されたものだが、当時から学術的には疑問視されている。

 『太平記』は正成戦死のエピローグとして、足利尊氏が正成の首を故郷の妻子のもとへ届けさせた逸話を紹介し、ここで正成の妻が登場する(名前は一切書かれず、「後室」「(正行の)母」と表現される)。亡き父の変わり果てた首を見た正行はショックのあまり持仏堂にこもって自害しようとしたが、察して様子を見ていた正成の妻が走りこんでこれを止め、「『栴檀は二葉より芳し(大物は子供の時から優れているもの)』というではありませんか。お前は幼いとはいえ父上の子なのですからこの程度の理屈がわからないはずがない。よくよく考えてみなさい。父上がお前を桜井の宿から帰らせたのは菩提を弔うとか腹を切るとかするためではありません。たとえ自身が戦場で死んでもお前一人が生きていれば、生き残った一族郎党を養ってもう一度兵を起こし、敵を滅ぼして帝の世を作り上げることができようというご遺言ではありませんか。その遺言を直接聞いて私にも伝えたお前が、それを忘れてしまったのですか。これでは父上の名をけがし、帝のお役に立つこともできないではないですか」と言って刀を奪い取り、母子ともども泣いたという。

 正成の妻に関する唯一の文献情報は以上の逸話だけである。この正成の妻と正行の逸話は後世に強い印象を残し、正成の妻は実は万里小路藤房の妹・滋子であるとする伝説まで作られる。とくに昭和初期に「建武中興六百年」に向けて軍国ムードが煽られる中で「大楠公夫人」は「軍人の妻・小国民の母の鑑」として盛んに喧伝されることになる。観心寺過去帳をもとに「南江正忠の妹・久子」と“確定”され(「比佐」と書くものもあるらしい)、河内国の甘南備(かんなび)の矢佐利に生まれ、正行・正時没後は出家して「敗鏡尼」と名乗り、生まれ故郷の甘南備に「楠妣庵」を立てて夫や息子の菩提を弔い、正平19年(1364)7月17日に61歳で他界(これを採ると嘉元2年=1304年の生まれになる)した、正成のもとに嫁いだのは19歳のときだった、といった「伝記」が作り上げられることになる。

 しかし同時期に学術的な楠木正成研究「楠氏研究」を著した藤田精一はこの説についてはほぼ無視している。この「楠氏研究」をベースに小説「楠木正成」(昭和6)を書いた作家・直木三十五は創作ノート「楠氏について」で久子説について「どの程度信用していいか疑問」とし、「何事もほとんど葬られてしまっている楠氏のことであるから、夫人のことなどの、判明しないのは当たり前」「正行をあれまでにしたのは夫人の力である、想像説から久子へまで発展したにすぎない」と断じた。直木は当時喧伝された久子と正行の逸話についても「どんな母親でも子供の自殺を止めるのは人情である」としてそれを教科書に載せて賞賛することに痛烈な批判を浴びせている。しかしその直後から大楠公顕彰の大合唱の中でこうした冷静な声は抹殺されていくことになる。
 戦後の研究で正成と楠木一族に関してさまざまなアプローチがなされているが、そもそも正成とその一族自体が謎だらけである。その中でその妻だけが詳細に分かる方が不自然で、学術的には正成の妻=久子説はほとんどとりあげられることがない。
大河ドラマ「太平記」正成が初登場する第6回から、正成が自刃する第37回までしばしば登場した(演:藤真利子)。キャラクターは吉川英治『私本太平記』が描くものとほぼ同じ。夫同様に平和を愛する妻・母であるが、家族を思って挙兵に踏み切れない夫に決断を促す「強い女」のシーンもある。千早城籠城戦では正成一党と共に侍女たちを率いて弓を射ていた。正成の首が届けられる場面では正行に毅然と見届けるよううながし、「とのは、ようやくふるさとにお戻りになられたのじゃ…もう二度と、戦に行かれることもない」と涙を流す。放送直前に刊行されたドラマストーリー本によると正成・正行らを失った悲しみが三男・正儀の行動に影響を与えるらしきことが書かれているが、出番はここでおしまいで、正行が登場・戦死する回では一切顔を見せなかった。
その他の映像・舞台 戦前に数多く作られた大楠公・小楠公関連映画で何度も登場しており、大正10年と12年の「大楠公夫人」2作と昭和11年「小楠公」映画の計3本で常盤松代が演じている。1926年の映画「大楠公」高尾光子、同年の映画「楠公の歌」三島洋子、1933年「楠正成」では沢村徳子、1936年の日活映画「小楠公とその母」では常盤操子、1940年の日活映画「大楠公」では松浦築枝、同年の映画「小楠公」では宮川敏子が演じた。1943年の「悲願千早城」は正成亡きあと妻が三人の子たちを育て上げるという内容で、川田芳子が主演した。
 しかし戦後には「正成もの」映画がほとんど製作されなくなり、昭和33年(1958)の新東宝映画「楠公二代誠忠録」での木暮実千代、昭和34年(1959)のテレビドラマ「大楠公」での東竜子ぐらいしか例がない。
 昭和39年(1964)の歌舞伎「私本太平記」では中村福助(七代目)が、平成3年の歌舞伎「私本太平記 尊氏と正成」では澤村藤十郎(二代目)が演じた。
歴史小説では 歴史小説で楠木正成の妻が登場する場合、そのほとんどが戦前に通説とされた「久子」を踏襲している。もっとも早く正成の妻を小説に登場させたのは大仏次郎『大楠公』だが、名前は書かれずあくまで良妻賢母として描かれる。鷲尾雨工『吉野朝太平記』(昭和10)は楠木正儀を主役とした異色の長編で、夫・息子を失いつつ正儀を見守る母・久子を登場させている。昭和15年に「主婦の友」に発表された吉川英治の短編『大楠公夫人』はなぜか五人も息子がいることになっていて、それを次々と天皇のため死地へと喜んで(?)送り出す、まさに「軍国の妻」の鑑のような女性として神々しく描かれた。
 その吉川英治も戦後に書いた『私本太平記』では正成を「散所の長者」の平和主義者に仕立て上げ、これにともない久子の描き方も夫に合わせて大幅に平和を愛する女性に変わっている。山岡荘八『新太平記』も名を「久子」とするが「夫人」という表現を多く使い、正行とのエピソードも「太平記」から大幅に変えている。
 北方謙三『楠木正成』(2000)では玉櫛荘の豪族の娘「比佐」として登場するが、特に印象には残らない。金重明「悪党の戦」(2008)では「菊」という名で、正成が冗談で勧めた金儲けに才能を発揮して財を築き、正成が敬遠して浮気するようになるという異例の描写がなされている。
漫画では学研まんが人物日本史」シリーズの「楠木正成」(画:うめだふじお)でチラッと顔をみせるが「妻」としか表記されず名前は出てこない。内野正宏が2008年末から青年誌「スーパージャンプ」で連載開始した「ナギ戦記」では第一回で正成が夜這いしている相手が「南江久子」で、何度か正成との「布団シーン」があって、赤坂城落城後、正成が一時的に姿をくらましている間に正成の子を身ごもり、ラストで子供を産んだことが示唆されている。
天王洲一八原作・宝城ゆうき作画の『大楠公』でも名は「久子」とされ、正成が戦いに出ている間息子たち三人を守り、諭し、育てる「良妻賢母」ぶりが印象的に描かれた(序盤には正成とのややコミカルなやりとりもあった)。エピローグ部分では出家して「敗鏡尼」と称したとされ没年まで明記されている。
飴あられ『君がために・楠木正成絵巻』では正成漫画でありながらチラッと顔見世程度にしか登場しない。これは架空のヒロイン「あぐり」が正成をひそかに慕ってる設定で、彼女がうらやむ存在としてのみ久子が登場するため。

楠木正季くすのき・まさすえ?-1336(建武3/延元元)
親族父:楠木正遠? 兄弟:楠木正成・楠木正家? 子:和田源秀(賢秀)?
建武の新政武者所・窪所
生 涯
―七たび人間に生まれ変わりて―

 楠木正成の弟。正成同様、その生涯の多くは謎に包まれている。『尊卑分脈』に正成の弟で和田七郎正氏と記された人物がおり、『太平記』巻三の赤坂城攻防戦に登場する正成の弟の「七郎」と同一人物と思われ、『橘氏系図』ではこの正氏が「正季」と改名したとしている。楠木家の系図なるものはいずれもアテにならず断定できるわけではないが、足利側の『梅松論』で湊川合戦で正成とと共に戦死した弟を「七郎左衛門」としているので、少なくとも正成の弟の「七郎」が『太平記』の伝える「正季」であることは間違いないようだ。「七郎」という名前からすると他にかなりの数の兄弟がいることになるが、その一人の可能性がある楠木正家以外史料的に確認できる人物はいない。

 千早城攻防戦前後の実録『楠木合戦注文』では元弘3年(正慶2、1333)閏2月1日に赤坂城が水を断たれて落城、城を守っていた平野将監らが幕府軍に投降した時、同じ城内にいた「楠木の舎弟」が行方知れずになっていたことが記されており、これが正季のことではないかと推測されている。落城寸前に逃亡して兄のいる千早城に合流していたのだろう。
 奮戦のかいあって鎌倉幕府が滅亡、建武の新政が始まると新たに設置された謎の機関「窪所」(天皇の警備隊説、訴訟機関説あり)や京の警備あたる「武者所」に正季とおぼしき人物が勤めているという。

 時は流れて延元元年(建武3、1336)5月。建武政権に反旗を翻し、一時は敗れて九州まで逃れた足利尊氏が体勢を立て直し、大軍で東上してきた。このとき正成は決死の覚悟を決めて出陣し、湊川で足利軍と激突するわけだが、『太平記』はここで「舎弟帯刀正季」の名前を初めて登場させる。「楠木正季」なる人物が登場するのは『太平記』でも「正成兄弟討死の事」の一章のみ、これ以外にこの「正季」の名が確認できる同時代史料はほぼ皆無と言っていい。正成を希代の英雄としてもっとも情熱をこめて語る『太平記』はその最期を詳細に描写していくが、ここで正季は突然登場した人物にも関わらず重要な役割を割り当てられている。以下の話も全て『太平記』のみが語るところである。

 すでに包囲されたことを悟った正成が正季を呼び、「敵を前後に受け、味方は遠くにいる。もはや逃れることはできぬ。前の敵をまず蹴散らして、それから後ろの敵と戦おう」と言うと、正季は「そうなさるべきかと思います」と答えた。正成・正季兄弟は700騎を率いて足利の大軍相手に激闘し、一時は足利直義を討ち取る寸前まで迫った。正成兄弟らは6時間のうちに16度までも突撃を行うという離れ業を見せ、ついに72騎が生き残るばかりとなった。この時点で正成らは自害を決意した(『梅松論』によれば申の刻の終わり=午後4時ごろ)
 民家に入って正成らは一斉に自害を遂げるが、このとき正成は正季に向かって「最期の一念によって来世が決まるという。お前は何に生まれ変わりたいと願うか」と聞いた。すると正季は「七度まで同じく人間に生れて朝敵を滅ぼしたいと思います」と答えた。正成は「罪深い悪念であるが私もそのように思う。では一緒に生まれ変わってこの願いをかなえようぞ」と喜び、その場で兄弟で刺し違えて死んだという。
 この劇的な場面のために突然「正季」というキャラクターが配置されたのではないか…と『太平記』作者の文学的創作意図を読み取ることもできそうだ。実際この場面のおかげで「正季」の名が後世までとどろくことになった。

 正季のこのセリフは後世「七生報国」として忠君愛国・滅私奉公のスローガンに大いに利用されることになるが、そもそも元のセリフでは「報国」などとは一言も言っておらず、「朝敵」というのもそれほど深い意味を持っている気配はなくあくまで「ひたすら人間に生まれ変わって戦い続けたい」という趣旨である。正成がそれに同意しつつも「罪深い悪念」と明言していることに注意しなければならない。つまり「天皇のために戦う」意味で言ってるとするなら正成がそれを「罪悪」と考えていることになってしまうのだ。
 なお、この「七生報国」を正季ではなく正成の言った言葉と誤解している人が昔から今日まで少なからず存在する。
大河ドラマ「太平記」「浪速のロッキー」と呼ばれた元ボクサーでこの当時俳優として注目されだしていた赤井英和が演じた。第3回で兄の正成より先に登場し、のんびりした平和主義者の兄に比べて血気盛んな猪武者として描かれ、「河内の暴れん坊」というイメージからのキャスティングであったようだ。千早城の「藁人形の奇計」は正季のアイデアということになっていて、敵兵をワンツーパンチでKOするという大河には異例の楽屋的演出もあった。建武政権期では独自行動で護良親王に接近、尊氏を暗殺しようとする場面もある。湊川での自決シーンでは「七生、鬼となっても!」と豪快に言って正成らを笑わせていた。この場面は基本的に吉川英治の原作の描写を踏襲したものとなっている。
なお、赤井英和は2007年の「楠公まつり」の武者行列でも正季役でゲスト出場している。
その他の映像・舞台 戦前の「大楠公もの映画」にはほぼ確実に登場しているが、演者が判明しないものも多い。恐らく最古かと思われるのが「楠正成桜井駅」(1911)伊井蓉峰が演じている。その後は「大楠公」(1926)正邦宏「楠正成」(1933)では「楠正氏」として松本錦之助「大楠公」(1940)尾上菊太郎(この作品では「正氏」も沢村国太郎に演じられて登場)「楠公二代誠忠録」(1958)では杉山弘太郎が演じている。変わったところでは「続水戸黄門」(1928)久米譲に演じられて登場した。
 テレビドラマでは「大楠公」(1959)那須伸太郎「怒涛日本史」(1966)内田稔が演じている。
 歌舞伎では昭和39年(1964)の「私本太平記」で河原崎権十郎(このほか「正氏」を六代目片岡芦燕が演じている)、平成3年(1991)の「私本太平記 尊氏と正成」では坂東正之助が演じた(ここでも「正氏」を市川男寅が演じた)
 アニメでは昭和53年(1978)の「まんが日本絵巻」の一話「敵は幾万ありとても 智将・楠木正成」(声:簗正昭)、昭和58年(1983)の「まんが日本史」(声:寺田誠)の例がある。
歴史小説では『太平記』での死にざまがあまりにも有名なため、正成を扱った小説であればたいてい登場しており、湊川での兄との最期はおおむね「太平記」準拠で描かれている。
変わったものをあげると邦光史郎『楠木正成』では楠木一族は一度攻め滅ぼされた設定になっていて、「七郎」こと正季は暴れ者の浮浪児として正成と再会する。
漫画作品では『太平記』の漫画版では湊川合戦で間違いなく登場する。学習漫画系では小学館『少年少女日本の歴史』で珍しく赤坂城攻防戦の場面で顔を見せ、湊川では発見も難しいほど。
一般コミックでは正成が登場する沢田ひろふみ『山賊王』、岡村賢二『私本太平記』、内野正宏『ナギ戦記』などの作品で登場している。異色のものとして湯口聖子『風の墓標』では正成が登場しないのに正季だけが颯爽と登場、端正な美青年に描かれている。同じく少女漫画では飴あられ『君がために・楠木正成絵巻』においてもイケメンな若者として登場sる。
河部真道『バンデット』では楠木一党は「車借」(運送業)をしていた設定になっており、正季は正成を「兄ちゃん」と呼びながら健気に兄を支える描写がほほえましかった。
PCエンジンCD版南朝方・伊賀大和の国主として登場する。初登場時のデータは統率55・戦闘93・忠誠93・婆沙羅17でタイプ的には兄とよく似る。正成が死亡すると楠木勢力の君主の地位を継ぐことがある。
メガドライブ版当然楠木軍の登場シナリオでは皆勤。データは体力91・武力140・智力95・人徳66・攻撃力134


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