南北朝列伝のトップへ


どいさどのぜんじ〜とらめ

土肥佐渡前司どい・さどのぜんじ生没年不詳
官職佐渡守
生 涯
―笠置・赤坂攻めに参加―

『太平記』巻三の鎌倉から派遣される笠置山・赤坂攻撃の大軍の中の「侍」の中にこの名がみえる。名前以外の情報は一切不明。
大河ドラマ「太平記」第14回・第15回のみに登場する(演:大塚周夫)。赤坂城陥落後、正成を追跡して伊賀に入り、進軍してきた足利高氏と合流して正成を探して関所で検問を行う。怪しい田楽一座に目をつけるが正成・高氏の機転により取り逃がすことになってしまった。もちろん完全なフィクションだが、なぜ土肥佐渡前司がこの役に選ばれたかは不明。

道阿弥どうあみ?-1413(応永20)
生 涯
―義満に寵愛された能役者―

 近江猿楽の「日吉座」を率いた役者。観阿弥にも大きな影響を与えた名手・一忠の弟子で、はじめは「犬王」、出家して「犬阿弥」と称していた。観阿弥同様に近江守護で婆沙羅大名として名高い佐々木道誉の庇護を受けて芸を磨き、先に成功した観阿弥から推挙を受けて足利義満の庇護も受けるようになった。道阿弥はこの恩もあって生涯観阿弥を尊敬し、観阿弥の月命日の19日には必ず供養を行っていたという(「申楽談義」)

 義満と言えば観阿弥の子・世阿弥を絶大に寵愛したことでも有名だが、世阿弥が成人するころには道阿弥と世阿弥への義満の扱いはほぼ同等、もしくは道阿弥の方が上であったらしい。康応元年(元中6、1389)の義満の厳島参詣にも同行しており、「道阿弥」の「道」の字も義満の法名「道義」から一字を与えられたものであた。応永15年(1408)3月の後小松天皇の北山行幸というビッグイベントにおいて義満と後小松の前で能を披露したのも道阿弥である。
 道阿弥の猿楽は「幽玄」ムードを漂わせる高級趣味のもので、その芸風は世阿弥にも大きな影響を与えたとされている。世阿弥は『申楽談義』のなかで「犬王(道阿弥)は上三花にて、つゐに中上にだに落ちず」(世阿弥は芸の域を九段階に分けていて、そのうち「上」の三つから下に落ちたことはない、という意味)と彼の芸を称賛している。
 応永20年(1413)5月9日に京都で死去した。日吉座は岩童(童阿弥)が引き継いだ。
漫画作品では長岡良子の「古代幻想シリーズ」の一本、「天人羽衣」は犬王道阿弥の少年時代を描いた作品。佐々木道誉に見出されてさまざまな教育を受け、その薫陶のもとに道阿弥は芸の道へ突き進む決意をする。道阿弥はもちろん、道誉ファンも必読の一作。

洞院(とういん)家
 藤原北家閑院流、西園寺家から分家した洞院実雄の系統。鎌倉時代には持明院統・大覚寺統双方の皇室の外戚となり、南北朝動乱でも一族が両朝にまたがって活躍した。故実・前例に詳しい博識の家系としても知られ、とくに公賢は多くの故実書・記録を編纂、日記「園太暦」を残した。室町時代中に断絶している。

西園寺公経┬実氏西園寺




└実雄┬公宗

実世─公行


├公守─実泰───
公賢
┴実夏─公定


├佶子─
後宇多天皇
公敏─実清



├愔子─伏見天皇公泰─実茂


└季子─花園天皇



洞院公賢
とういん・きんかた1291(正応4)-1360(延文5/正平15)
親族父:洞院実泰 母:小倉季子 妻:光子 兄弟:洞院公敏・洞院公泰 妹:守子(後醍醐妃)
子:洞院実世・洞院実夏 
官職侍従・左近衛少将・陸奥権介・左中弁・左大弁・参議・権中納言・左兵衛督・右衛門督・権大納言・春宮大夫・右近衛大将・大納言・内大臣・式部卿・右大臣・左大臣・太政大臣
位階従五位下→従一位
生 涯
―公家界きっての博識―

 西園寺家の分家・洞院家に生まれ、南北朝期随一の博学として朝廷に重きをなし、その日記によって時代の貴重な記録者となった公家。若い頃には花園天皇のそばに仕え、文保2年(1318)に後醍醐天皇が即位すると皇太子・邦良親王の春宮大夫となった。また後醍醐の中宮・西園寺禧子の女房として後宮に入った阿野廉子は公賢の養女となっており、廉子が後醍醐の寵愛を集めたことで公賢の立場も強化されたものと思われる。廉子が産んだ恒良成良義良の三皇子の後見役も公賢がつとめたと推測されている。

 さらに公賢の息子・実世や実弟・公敏、異母弟・公泰らは早くから後醍醐の腹心として討幕計画に関与しており、洞院家と後醍醐の関係は浅からぬものがあった。ただし公賢自身は後醍醐派に深入りはせず巧みにバランスをとった立場を維持しており、後醍醐の討幕の挙兵と失敗による持明院統の天下の時も、後醍醐が隠岐を脱出して倒幕に成功し建武の新政を開始した時も、公賢は一貫して朝廷内で重職を占めている。建武元年(1334)に病気を理由に内大臣の辞表を出しているが、かえって官位は上昇して右大臣・式部卿となり皇太子・恒良の東宮傅も兼ねた。
 なお古典『太平記』における公賢の初登場場面は建武元年に塩冶高貞から名馬が献上され、後醍醐が「この吉凶はどうであるか」と聞き、それに公賢が故事を引いて「吉兆である」と述べるくだりである(巻十三)。そのあとに万里小路藤房が逆に凶兆であると主張し結果的にそちらが正解になるので公賢は引き立て役をやらされているわけだが、彼が故実に詳しく天皇はじめ人々からよく質問される立場であったことを背景にした逸話なのだろう。

 建武2年(1335)秋に足利尊氏が建武政権に反旗を翻し、翌年正月11日に京を占領した。このときなぜか尊氏は洞院公賢の屋敷に入っている(公賢は後醍醐と共に比叡山へ逃げていたとみられる)。そして2月にかけての京をめぐる攻防戦の末に尊氏は九州へと敗走した。このとき陸奥から北畠顕家と共に京に駆けつけた義良親王は再び顕家と共に陸奥に戻ったが、それに先立つ3月10日に義良の元服の儀が執り行われ、烏帽子をかぶせる「加冠」の役を幼時からの後見である公賢がつとめている。
 それから間もなく尊氏は九州から東上して京を占領、建武政権は完全に瓦解した。いったん比叡山にこもって抵抗した後醍醐も10月に和睦して京に戻ったが、恒良に皇位を譲って新田義貞と共に北陸へ下していた。恒良は皇太子から廃されることになったので公賢も東宮傅の地位を失った。間もなく後醍醐が吉野に脱出して南朝を開き、息子の実世も吉野に走って南朝の中核となったためか、翌建武4年(延元2、1337)6月に官を辞して47歳で事実上の引退を表明している。

―両朝間を巧みに遊泳―

 ところが6年後の康永2年(興国4、1343)に光厳上皇の院宣により政界に復帰、左大臣に昇進する。復帰の理由は不明だが、当時の公家社会にあって最高の先例知識を持つ公賢の存在がなければ朝廷の政務が不可能な状態であったためと思われる。彼の日記『園太暦』はこの時期から大部分の記事が残されており、この時代を探る根本史料となっている。それを読むと当時公賢がその博識をいかに期待されていたかがよくわかるが、公家だけでなく尊氏や直義ら幕府首脳からもしばしば相談を受けていた。中には尊氏から「自分の娘を“姫君”と表記していいだろうか」などという問い合わせまで受けて公賢が呆れる一幕もあった。なおその時の公賢の返事は「執政にあたる摂政・関白の娘を“姫君”と呼んだ例はありますが、まぁご自由になさってください」というものだった。直義から「新築の家に京では例のない南西門を造るのはいいだろうか」などという質問もあり「先例はありませんが、作っておいていつもは開かず、使う時だけ開くとかすれば問題ないでしょう」と答えたこともある。高師直からは「徒然草」の作者・吉田兼好を使者として狩衣のことなどについて質問を受けたこともあった。

 嫌気がさしたのか公賢は就任直後から左大臣辞職願を何度も提出しては却下されていたが、貞和2年(興国7、1346)にようやく辞職を認められている。しかし2年後の貞和4年(正平3、1348)10月にはまた復帰して最高位の太政大臣に任じられている。
 公賢は日記のなかでしばしば公家社会の凋落ぶりと、権力を握る武家の程度の低さとに嘆息している。しかし時代の流れに敏感なのは確かなようで、その日記には各地の戦況や政界の動向が噂もふくめて事細かに記録され、彼自身の鋭い推測や感想も多く書きこまれている。これによって足利幕府の内紛「観応の擾乱」、そして一時的な南北朝統一「正平の一統」の複雑怪奇な過程が、今日の人々にも目撃者の目線で詳細に知ることができるのだが、公賢自身はこの混乱に積極的に関与するのではなく翻弄されつつ巧みに遊泳して見物しているといった様子である。

 観応2年(正平6、1351)10月、尊氏が直義と戦うために南朝に降伏するという事態になり、一時的に北朝は廃止された(正平の一統)。これを日記中で憤った公賢だったが、南朝側から一統の処理のための北朝側代表に指名されると意外なことと驚きつつも「名を遂げて引退し仏門に励むのが第一の望みだったが、帝から出仕せよとのお声がかかるのならば異議を申すところではない」と意外にやる気満々の感想を書いている。公賢が南朝から重視されたのは「国母」である廉子の養父にあたること、南朝の中核である実世の実父であること、さらに南朝の総帥である北畠親房と個人的に交流もあったことなどが理由のようである。北朝の持つ「三種の神器」(南朝側は「偽物」としていたがどうも本物だったらしい)の接収・引き渡しも公賢が監督しており、その後の南朝の京都占領と敗退、後光厳天皇の異例の形の即位による北朝の復活にも公賢は先例知識をフルに生かして活躍している。

 文和2年(正平8、1353)6月、山名時氏楠木正儀ら南朝軍が再び京を占領し、北朝の後光厳天皇は足利義詮と共に美濃まで逃亡した。京を奪取した南朝はまたもや公賢を京の代表に指名、公賢は今度は南朝から太政大臣に任じられる。しかし間もなく足利軍が京を奪回、北朝が復帰する。この間に公賢は実弟で養子の実守を賀名生に向かわせる一方で後光厳が近江まで戻ってくると嫡子・実夏をそちらに向かわせるといった調子で、両朝の間を巧みに遊泳している。そして結局どちらが勝ってもどちらからも重んぜられたのはそれだけ能力が高かったということでもあるだろう。

―時代の証言者に―

 文和3年(正平9、1354)4月に敵対側にいながら深い関係にあった北畠親房が死んだ。延文2年(正平12、1357)には妻の光子、異母妹の守子が相次いで亡くなり、翌延文3年(正平13、1358)4月には将軍・足利尊氏が世を去る。尊氏に対する贈位について朝廷は幕府に配慮して対応に悩み、このときも公賢が相談を受け先例を引いて「左大臣を贈るのはかまわないでしょうが、正一位の贈位を今おこなわなくても問題はないでしょう」と回答している。そして同じ年の8月には南朝の柱石となっていた息子・実世にも先立たれた。

 この数年は公賢も病気がちだったようで、出家を何度か申し出ては止められている。ようやく出家の望みを果たしたのは延文4年(正平14、1359)4月15日、法名は「空元」で、すでに公賢は69歳となっていた。先祖代々この年齢で俗体であったものはないという先例をチェックしているあたりも公賢らしさである。
 出家してからも朝廷から各種の諮問を受け続け、日記も書き続けているが、この年の12月29日をもってついに生涯最後の日記をつける。そこには「すでに出家した時に日記をやめるべきだったのだが、息子の実夏が全く日記をつけないものだからここまで書いた。来年は懸車の齢(70歳。官を辞する年齢とされる)になるのだから日記もここでやめる」と愚痴っぽいことも書いている。翌延文5年(正平15、1360)に病が重くなり、3月20日に御子左家の家督相続についての奏上をしたのが確認できる最後の活動となり、4月6日に死去した。享年70歳。その死後、嫡子の実夏と弟で養子の実守の間で家督相続争いがおこったが、結局実夏が家督を継承している。

 公賢が半世紀にわたって書きつづった膨大な日記は『園太暦』と呼ばれ、残念なことに早くにかなりの部分が失われたが、残った後半部分だけでも貴重な時代の証言となった。また公賢は皇室年代記『皇代暦』も執筆している。歴史物語『増鏡』(後鳥羽即位から建武政権成立までを扱う)の作者の有力候補ともされている。

参考文献
林屋辰三郎『内乱のなかの貴族・南北朝と「園太暦」の世界』(角川選書)
大河ドラマ「太平記」第4回の正中の変直後の朝議のシーンで登場し安河内秀臣が演じている。しかし建武政権期以降は山崎満に交代、先例を無視して革新的すぎる政策をすすめる後醍醐をやんわりと批判するかと思えば、赤松円心に過小な恩賞を言い渡して「綸言汗の如し、詔は一度きりじゃ!」と叱りつけたりもしていた。後醍醐の前に公家が集まる場面ではたいてい登場しているが、どういうわけか後醍醐につきあって吉野まで行っちゃっており、後醍醐の死後も南朝首脳として居残っていた。恐らく息子の洞院実世と混同したものと思われるが、単に公家顔役者が足りないので、という事情があったのかもしれない。劇中ではほとんど個性がないので特に気にする視聴者はいなかったと思われる。
その他の映像・舞台昭和39年(1964)の歌舞伎「私本太平記」では坂東薪蔵(三代目)が演じた。

洞院公敏
とういん・きんとし1392(正応5)-1352(観応3/正平7)
親族父:洞院実泰 母:小倉季子 兄弟:洞院公賢・洞院公泰 妹:守子(後醍醐妃)
子:洞院実清・尊玄(大僧正) 娘:後醍醐天皇妃・鷹司冬家母
官職按察使弾正尹・権大納言
位階正二位
生 涯
―後醍醐挙兵に参加―

 洞院実泰の二男で、「園太暦」で名高い洞院公賢の同母弟。『増鏡』「公俊」と表記する。応長元(1311)年5月に参議に任じられている。按察使弾正尹に任じられたので「按察(あぜち)大納言」と呼ばれることが多い。
 兄・公賢とは異なり早くから後醍醐天皇に接近していたらしく、元弘元(1331)年8月に後醍醐が挙兵を決意して京を脱出する時に同行して一緒に笠置山に立てこもった。笠置陥落時に捕えられて直後に出家し「宗肇」と号した。出家しても罪は許されず、小山秀朝に預けられて下野国に流刑となった(『太平記』は上総に流されたとする)「新後拾遺和歌集」に載る「思ひねと知りてもせめて慰むは都にかよふ夢路なりけり」という歌は配流先で詠んだものとされる。
 鎌倉幕府崩壊後に帰京し政界に復帰したが、後醍醐天皇が吉野に入って南朝を開くのには同行しなかった。観応3年(正平7、1352)2月4日に死去した。息子の実清は南朝に仕えたとされる。
大河ドラマ「太平記」第10回、第12回のみ登場(演:羽場裕一)。第10回では内裏で四条隆資と騒いでいると阿野廉子に「按察使(あぜち)の大納言どの」と静かにするよう声をかけられるシーンがある。第12回では笠置山に集まった公家の中に混じっている。

洞院公泰
とういん・きんやす1305(嘉元3)-?
親族父:洞院実泰 母:藤原兼頼の娘 兄弟:洞院公賢・洞院公敏 妹:守子(後醍醐妃) 
妻:大納言典侍 子:洞院実茂
官職中宮権亮・左中将・蔵人頭・参議・権中納言・権大納言・宮内卿・春宮大夫・民部卿・大納言(南朝)・右大臣(南朝)
位階従三位→従二位→正二位
生 涯
―南朝に走った公家―

 洞院実泰の三男で、『園太暦』作者として名高い洞院公賢の異母弟。洞院家一族は当主である公賢は持明院統についたが弟の公敏・公泰、子の実世は大覚寺統に接近しており、とくに公泰は後醍醐天皇の父・後宇多上皇の「養子」の扱いを受けていたとする記事がある。そのつながりで後醍醐にも重んじられたと思われ、後醍醐の治世に参議から権中納言へと出世している。『増鏡』によると後醍醐の寵妃で一度堀川具親に盗み出されたこともある「大納言典侍」という女性を後醍醐が公泰に下げ渡し、公泰はこの大納言典侍と夫婦仲睦まじく暮らしたがやがて彼女が亡くなったという逸話がある。

 討幕計画そのものには深入りしなかったのか元弘の乱の時にとくに処罰を受けた様子はないがしばらく干され、建武政権が成立したのち権大納言として政界復帰。建武3年(1336)正月に足利尊氏の軍が関東から京に攻めのぼった時には、脇屋義助文観らと共に一軍を率いて山崎での防衛戦に参加している。ただし『太平記』によると公泰・文観の配下の兵士たちは合戦などしたこともなく、形勢不利と見るやみなあっさり降参してしまったという。

 その後の南北朝分裂後も京にとどまったが暦応3年(延元5、1340)に権大納言を辞任。その後民部卿に任じられることもあったが、観応2年(正平6、1351)に「正平の一統」が実現すると大急ぎで賀名生に赴き(南朝から北朝代表に指名された兄・公賢に挨拶はしている)南朝から大納言に任じられている。
 正平の一統が破れて後は南朝に仕え、右大臣まで昇った。延文4(正平14、1360)5月に出家し「覚元」と号した。南朝では冷泉大納言冷泉入道右大臣などと呼ばれ、「新葉和歌集」など南朝編纂の和歌集に歌が収録されている。没年は不明だが、後村上長慶の二代まで仕えていたことが新葉和歌集から確認できる。

洞院実泰
とういん・さねやす1269(文永6)-1327(嘉暦2)
親族父:洞院公守 母:平親継の娘 子:洞院公賢・洞院公敏・洞院公泰・守子(後醍醐妃)・仁誉の母
官職侍従:左近衛中将・参議・大納言・内大臣・右大臣・左大臣
位階従三位→従一位
生 涯
―左大臣でやめておこう―

 太政大臣まで昇った洞院公守の子。南北朝の敵味方に分かれて活躍した洞院兄弟たちの父である。「後山本左府」と号した。侍従・左近衛大将を経て弘安7(1284)年正月に従三位に叙せられ、弘安9年(1286)に参議となる。延慶2年(1309)に大納言、正和4年(1315)に内大臣、正和5年(1316)に右大臣、文保2年(1318)に左大臣となった。いったん辞職したが元亨3年(1323)に左大臣に復帰、翌年にまたすぐ辞めている。

 兼好法師『徒然草』第83段には、こんな話が載る。代々太政大臣をつとめる西園寺家の当主となった西園寺公衡(1264-1315)は当然太政大臣になれるはずだったが、公衡自身が「そんなの珍しくもない。ひとつ前の左大臣でやめておこう」と言って太政大臣にならなかった。これを聞いた洞院実泰(洞院家は西園寺家庶流で公泰の父も太政大臣)もその意見に感心して自ら左大臣どまりにしたという。もっとも公衡が左大臣どまりだったのは政治的背景が考えられ、実泰も同様のことが言えるかもしれない。

 元亨元年(1321)ごろに後宇多上皇の指示で、後醍醐天皇の兄の後二条の次男・邦省親王の後見を務めている。後宇多は後醍醐は「一代かぎり」と決めていて後二条系による皇位継承を考えており、後二条の長男で後醍醐の皇太子にたてられた邦良親王が病弱のためその弟の邦省に期待するようになり、実泰を邦省の後見としたのもその立場の強化のためであったと思われる。
 その後出家して法名を「寂元」と名乗った。嘉暦2年(1327)8月15日に59歳で没した。
大河ドラマ「太平記」第4回と第12回に登場(演:高橋豊)。第10回では正中の変後の処理を話し合う朝議の場面で登場。第12回では笠置山に集まる公家の中に混じっているが、史実ではこのとき実泰はすでにこの世にはないはず(1327年死去)。洞院公泰か実世と混同したのだろうか?高橋豊はこのあとも25回、34回、35回、36回、38回に出演しているが、全て役名は「公家」。セリフも確認できず、当初から特に誰とは決めていない公家役であったと思われる。

洞院実世
とういん・さねよ1308(延慶元)-1358(延文3/正平18)
親族父:洞院公賢 母:家女房 子:洞院公行
官職侍従・左近衛少将・蔵人・弁官・参議・権中納言・衛門督・検非違使別当・修理大夫・大学頭・権大納言(南朝)・右大将(南朝)・右大臣(南朝)・左大臣(南朝)
位階従五位上→従一位(南朝)
生 涯
―名門家の庶子―

 『園太暦』で名高い洞院公賢の庶長子。母は「家女房」としか伝わらず、あまり身分の高い女性ではなかったらしい。後醍醐天皇に早くから接近していたらしく、『太平記』によれば正中の変以前に日野資朝俊基らが催した「無礼講」にかこつけた討幕の密議に実世も参加していたとされる。また同じく『太平記』には元亨元年(1321)に元から禅僧・明極楚俊が来日して後醍醐のもとに参内したのち、禅師号の授与を伝える勅使の役は実世がつとめたとされている。

 元弘元年(1331)8月に後醍醐が討幕の挙兵を決意し笠置山にこもったとき、実世はこれに同行できなかったらしく、後醍醐の京脱出直後に六波羅探題により逮捕されている。討幕の挙兵に直接関与はしなかったため流刑にはならず官職を解かれ幽閉された。鎌倉幕府の滅亡後、元の官職に復帰した。

―公家武将として―

 建武政権では雑訴決断所の職員を務めるなど権勢をふるった。建武2年(1335)秋に関東にいた足利尊氏が建武政権に反旗を翻すと、実世は東山道を進む討伐軍の別動隊に加えられた。東海道を進む新田義貞率いる本隊と連動して鎌倉を攻撃するはずだったが、義貞が箱根・竹ノ下の戦いで敗れて京へ戻ったことを知り、実世らは大急ぎでこれを追った。翌建武3年(1336)正月に義貞や楠木正成および陸奥から駆け付けた北畠顕家の軍と合流して足利軍を攻撃、京から尊氏を追い払うことに成功した。しかしその年の5月に九州から攻めのぼった尊氏が京を再占領、実世は後醍醐と共に比叡山に避難した。

 京をめぐる攻防戦ののち、10月に後醍醐は尊氏との和議に応じて比叡山を降りた。このとき後醍醐は義貞には一切相談しておらず、洞院実世が使者を義貞のもとに送ってその事実を伝えたという(『太平記』)。義貞ははじめ本気にしなかったが事実と知り激怒し、恐れた後醍醐は恒良親王の皇位を譲って義貞に預け、尊良親王らとともに北陸へと向かわせた。この北陸行きに実世も同行しており、和議に不満をもつ主戦派だった実世がわざと義貞に情報を漏らした可能性もある。

 北陸に向かった義貞一行は苦難の末に越前・金ヶ崎城に入り、ここで足利方の高師泰斯波高経らの猛攻を受けた。兵糧が尽きて飢餓状態に陥った金ヶ崎城に援軍を呼ぶべく義貞・脇屋義助と共に実世も城をひそかに脱出、杣山城に向かったが、その間に金ヶ崎城は陥落して恒良親王がとらわれ、尊良親王・新田義顕一条行房らが自害することになってしまう。

―南朝の柱石―

 やがて義貞も不慮の戦死を遂げ、それと前後して実世は北陸を離れて後醍醐がいる吉野へと移った。そして暦応2年(延元4、1339)8月に後醍醐が死去すると、実世は北畠親房四条隆資と共に南朝の中核として勢力の挽回につとめた。義貞の弟・脇屋義助が北陸で敗北して吉野にやってくると、実世が「敗軍の将」である義助に対して褒賞を与えることに反対し、四条隆資にたしなめられて恥じ入って退出したという逸話が『太平記』にある。

 南朝の政治形態はほとんど不明だが、洞院実世が四条隆資らと共に「武者所」の職員を務めており、おもに武士の統率や訴訟関係を扱っていたのではないかと言われている。南朝の勢力圏であった伊賀国に拠点を置いて、この地の悪党的な小領主たちを編成して南朝の軍事力としていた可能性もある。
 観応元年(正平5、1350)、足利幕府の内紛で高師直に敗れて失脚した足利直義が南朝に投降してきた。このとき実世は直義の投降を許さず、いっそ処刑すべしと主張しており南朝公家の中にあってかなりの強硬論者であったことがうかがえる。その翌年には今度は尊氏が南朝に投降して「正平の一統」が実現、実世は京の警護にあたって北朝の接収にあたることになり、父親の公賢を北朝側の代表者に指名している。正平の一統に勢いづいた南朝軍は一挙に京の軍事占領をもくろみ、実世も四条隆資と共に後村上天皇を奉じて男山八幡に進出したが、足利軍の巻き返しにより敗走、四条隆資は戦死して後村上と実世はかろうじて落ち延びた。

 その後の二度の京占領・撤退のなかで北朝を代表する父・公賢との微妙な関係を取り続け、叔父の公泰、甥の実清らが南朝に鞍替えするなど洞院家は両朝のはざまに揺れ動いた。足利直冬の南朝投降の際にはさすがに実世も南朝の苦境を悟ったようで直冬の投降をむしろ率先して仲介したらしい。
 実世は一貫して南朝の柱石として従一位・左大臣まで昇り、延文3年(正平18、1358)8月19日に「水腫」のために死去した。このことは父・公賢の日記に記されている。

参考文献
森茂暁「南朝全史・大覚寺統から後南朝へ」(講談社選書メチエ)ほか
大河ドラマ「太平記」建武新政期から登場する(演:森松條次)。特に目立つ言動はないが父・公賢と共に後醍醐の前に姿を見せており、史実どおり吉野の南朝でも顔を見せる。ただしこのドラマでは後醍醐の死去の回までの登場で、おまけに史実と異なり公賢が南朝の中核的位置に入ってしまうため、存在がかなり希薄。また実世自身は登場しないが、比叡山で義貞に使者を送って後醍醐の京帰還を告げ、義貞が実世に感謝するシーンもあった。

道勝どうしょう
生没年不詳
生 涯
―円観の弟子―

 円観の弟子の一人。『太平記』では円観に常に影のように従う存在であったとされ、元徳3=元弘元年(1331)5月に後醍醐天皇による討幕計画が発覚して円観が幕府呪詛の疑いで逮捕され鎌倉に連行された際にも兄弟弟子である円照宗印と共に同行している。

十市遠康とおち・とおやす生没年不詳
親族父:十市新次郎?
子:十市遠重
官職兵部大輔
位階正五位下
生 涯
―興福寺に抵抗―

 大和国十市郡の豪族。興福寺と一体の春日大社に属する白衣神人(俗体の神官)、「国民」であったと言われる。大和国は奈良の興福寺が守護と同等の支配を行っていたが、南北朝の動乱と興福寺内部の抗争もあって、大和の豪族たちが興福寺に反抗することも多くなった。十市遠康も興福寺とトラブルを起こしていたようである。父親と見られる十市新次郎入道も貞和3年(正平2、1347)に興福寺への年貢納入を妨害した記録があり、同じ立場の越智氏と並んで興福寺への対抗のために南朝方について行動することもあったと見られる。

 永和4年(天授4、1378)に興福寺は幕府に十市討伐を繰り返し要請した。このころ興福寺はさまざまな政治問題で不満があると春日大社の神木を京都に運び込む「強訴」を行って朝廷と幕府への威嚇を繰り返しており(春日大社は藤原氏の氏神であるため神木が持ち込まれると朝廷が機能停止となる)、この時も神木を運びだす強硬姿勢を示したため、翌永和5年=康暦元年(天授5、1379)正月6日に幕府は土岐頼康らの軍を大和へ派遣した。2月12日にはさらに斯波義将吉見氏頼赤松義則らを大和へと向かわせている。
 しかしこれらの大名たちはいずれも管領・細川頼之に敵対する党派に属しており、十市討伐など実行もしなかった。彼らは軍を動かして頼之と将軍・足利義満を威嚇し、結局閏4月14日にクーデターを起こして細川頼之を失脚に追い込んだ(康暦の政変)
 
 至徳元年(元中元、1384年)に了堂真覚を開山に招いて補巌寺(ふがんじ)を創建、十市氏の菩提寺とした。この補巌寺は観阿弥の故郷とも近く、世阿弥もここに参禅して土地の寄進もしており、8月8日を世阿弥の命日として供養していることも分かっている。ただ十市遠康と世阿弥につながりがあったかどうかは分からない。
 息子と思われる十市遠重は応永10年(1403)に越智家高と結んで高田某と紛争を起こし、翌応永11年(1404)には筒井氏とも紛争を起こして興福寺や大和国内の豪族たちが入り乱れる戦乱に発展させてしまった。幕府はその討伐に乗り出し、このために十市氏は衰退してしまう。

土岐(とき)氏
 源頼光の子孫の清和源氏で、光信の代に美濃国土岐郡に本拠を置いて「土岐氏」を名乗るようになったという。鎌倉末期、後醍醐天皇は倒幕計画に土岐一族を誘ったが、そのうち頼春(頼員?)の密告により同族の土岐頼兼・多治見国長が討ちとられた(正中の変)。南北朝動乱では足利幕府設立に貢献したが、頼遠が光厳上皇に対する無礼をはたらいて処刑されている。頼康の代に美濃・伊勢・尾張三国の守護大名に成長するが、足利義満の策謀により内紛を起こし勢力の縮小を余儀なくされた。戦国時代まで美濃守護であったが家臣の斎藤氏の台頭で追放された。
(注:光定から頼貞の子の世代にかけては史料により諸説がある)

光信─光基┬頼基伊賀








└光衡─光行┬光俊─国綱─国純(澄)国長






├国義

頼直








頼遠──氏光






└光定
頼貞頼清──頼康康行─康政─持頼





├定親頼兼頼雄康行






道謙満貞






頼明直氏詮直






周済房頼忠頼益─持益





└頼重頼員




土岐詮直とき・あきなお?-1399(応永6)
親族父:土岐直氏
妻:土岐康行の娘
子:肥田瀬頼直
官職宮内少輔
幕府侍所頭人・尾張国守護代
生 涯
―義満への反抗を続けて戦死―

 土岐直氏の子。美濃国賀茂郡肥田瀬を所領としたのでこの系統は「肥田瀬氏」を称する。父同様に侍所の頭人となり、尾張守護代もつとめた。従兄弟で土岐惣領の康行の娘婿であったという。
 叔父の土岐頼康の死後、三代将軍足利義満は土岐一族の分断工作を開始、頼康の守護国のうち尾張を惣領の康行から奪い取ってその弟の満貞に与えてしまった。父の代から尾張守護代をつとめていた詮直は大いに反発し、嘉慶2年(元中5、1388)5月に満貞が尾張へ入国すると黒田宿で彼を襲撃した。この行動は義満への反抗とみなされて詮直は討伐の対象となり、明徳元年(元中7、1390)には康行も詮直に呼応して挙兵する事態となった(土岐氏の乱)。しかし詮直も康行も敗北、没落した。
 その後康行と共に一時許されたとみられるが、応永6年(1399)に大内義弘が堺に軍を率いて上陸し義満に対して挙兵すると(応永の乱)、詮直はこれを機に義満への反抗を再び試み、義弘に呼応して康行の子・康政と共に美濃・長森で挙兵した(この時、近江の京極秀満、丹波の山名時清なども各地で同時蜂起した)。しかし従兄弟で土岐惣領となっていた土岐頼益が詮直鎮圧に乗り出し、詮直は頼益に敗れて戦死した。

土岐氏光とき・うじみつ生没年不詳
親族父:土岐頼遠 養父:仁木義長
兄弟:外山光正?今峰?
官職右馬頭
生 涯
―養父への忠節を貫いた歌人武将―

 土岐頼遠の子。父の頼遠は康永元年(興国3、1342)に光厳上皇へ矢を射かけた事件により処刑されている。『太平記』巻35には「頼遠の子・左馬頭」が仁木義長の養子となったとの記述があり、巻36ではその義長に忠節を尽くす「土岐右馬頭氏光」が登場していて、これは同一人物と考えられる。土岐氏の系図類の中には氏光を「仁木義長甥」と注記するものがあり、それが事実とすれば氏光は義長の姉妹を母として生まれたことになる。
 一方で勅撰和歌集入選者の情報をまとめた『作者部類』には氏光の母を「源頼時女」としており(彼女自身も「新千載和歌集」に一首入選している)、こちらを信じれば母も土岐氏の出身ということになる(「頼時」については不詳)。また土岐一族全体に言えることだが氏光も歌人として優れ、『新千載和歌集』に一首選ばれている。

 延文5年(正平15、1360)に養父の仁木義長は幕府の内紛で失脚して伊勢に下った。氏光も弟たち(太平記では「外山・今峰」の二人とする)と共に義長に味方して伊勢・長野城にたてこもったが、孤立無援の状態のため外山・今峰の二人は幕府軍に投降した。二人の弟は城に残った兄・氏光に使者を送り、「城がまだもちこたえているうちに投降なさい。将軍(義詮)のお気持ちも問題はなく、所領も安堵してもらえますよ」と投降を勧めたが、氏光はあれこれ返事をせずその手紙に「連なりし 枝の木の葉の 散り散りに さそふ嵐の 音さえぞうき」(血のつながりのある弟たちが風に吹かれた木の葉の散り散りに去ってしまっては、投降を誘う声を聞くことさえいやになる)と歌をしたためて送り返した。弟たちはその歌に兄の覚悟を読み取って涙にくれたという(「太平記」巻36)

 その後、追いつめられた義長は南朝に投降、のちに幕府に帰参することになるのだが、氏光の消息は不明である。氏光を義長の甥とする系図類では「伊勢国井尻河原において討ち死に」と注記しているが、上述の『太平記』の印象的な登場を念頭に置いた創作の可能性もある。

参考文献
佐々木紀一「『渋川系図』伝本補遺・附土岐頼貞一族考証」(山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所39・40号)ほか

土岐周済房とき・しゅうさいぼう?-1348(貞治4/正平3)
親族父:土岐頼貞
兄弟:土岐頼清・土岐高頼・土岐頼直・土岐頼衡・土岐頼遠・土岐頼仲・土岐頼基・土岐頼兼・土岐頼明
生 涯
―では討ち死にして見せよう―

 土岐頼貞の子。『尊卑分脈』では土岐頼明(兵庫頭)が出家して「周済房」と号したとしているが、頼貞の子には他に「周崔」と表記される者もいることになっている。また頼明のことと思われる「土岐兵庫入道周靖(周清?)」が四条畷の戦いののちも活動していることが確認されるので、発音が紛らわしい「しゅうさい」「しゅうせい」の二人を混同した可能性が高い。ここでは『太平記』に登場する「周済房」についてのみ述べる。

 康永元年(興国3、1342)9月に兄の土岐頼遠光厳上皇に矢を射かける事件を起こした。頼遠は足利尊氏直義兄弟に影響力のある夢窓疎石に助命の仲介を頼んだが頼遠自身の処刑は避けられなかった。このとき弟の周済房も処刑すべしとの声もあがったが(いつも頼遠に同行していたのだろう)、周済房自身は事件の現場に居合わせなかったことが明白であったため罪に問われはしなかった。このことをからかった次のような狂歌が天竜寺の壁に書かれた。「いしかりし ときは夢窓にくらはれて 周済ばかりぞ 皿に残れる」(おいしいものはみんな夢窓に食べられてしまい、皿に残っているのは周済(蕺草=どくだみと音が通じる)だけ、という意味。食事を意味する斎(とき)と「土岐」もかけられている)

 貞治3年(正平2、1347)11月、南朝の楠木正行が攻勢に出たため、幕府は山名時氏らと共に土岐周済房明智兵庫頭(頼明?)ら土岐一族を討伐に派遣した。住吉での戦いで土岐・山名勢は大敗を喫し、幕府はさらなる切り札として高師直を出陣させた。
 年が明けて貞治4年(正平3、1348)正月5日に四条畷の戦いが起こる。この戦いに周済房も参加し、激戦の中で彼の部下たちはみな散り散りとなり、周済房自身も膝を切られて出血した状態で、師直の目の前をさっと通り抜けて退却しようとした。すると師直がそれを見とがめ、「日ごろの荒言(勇ましい物言い)にも似ず、情けない有様だな」と声をかけた。周済房はこれを聞くと「見苦しいことなど何もないぞ。では討ち死にして見せよう」と言い捨てると馬を返して敵中に突入、そのまま戦死してしまった。

土岐道謙とき・どうけん生没年不詳
親族父:土岐頼貞
兄弟:土岐頼清・土岐高頼・土岐頼直・土岐頼衡・土岐周済房・土岐頼遠・土岐頼仲・土岐頼基・土岐頼兼・土岐頼明
官職宮内卿
生 涯
―頼遠と共に奮戦した弟―

 土岐頼貞の子で、『尊卑分脈』では「宮内卿律師・母は頼直と同じ」との注がある。『太平記』では巻十四のみに登場しており、そこでは土岐頼遠の「舎弟」と書かれている。どちらにしても頼貞の子であり、出家した武将であったことだけは確実である。
 彼個人について特に活躍の話も残っているわけではなく、『太平記』では兄の頼遠と共に戦ったことしか確認できない。建武2年(1335)に中先代の乱を平定する足利尊氏の軍に加わり、新田義貞率いる尊氏追討軍を迎え撃つべく足利直義に率いられて矢作川・鷺坂・手越河原で戦い、箱根・竹之下の戦いでは竹之下方面で尊良親王らの公家勢を打ち破っている。

土岐直氏とき・なおうじ1331(元弘元)-1380(康暦2/天授8)
親族父:土岐頼清
兄弟:土岐頼康・土岐頼忠・土岐頼雄
子:土岐詮直
官職伊予守
幕府侍所頭人・尾張国守護代
生 涯
―尾張守護代として宗家を支える―

 土岐頼清の子。延文4年(正平14、1359)に足利義詮が南朝への大攻勢をかけた際には土岐一族の一員として、兄の頼康らと共に参加している。頼康が尾張守護となると、その代理として尾張に入り守護代をつとめている。貞治2年(正平18、1363)には侍所頭人となり、幕政の中核も担った。
 康暦元年(天授7、1379)閏4月には反細川派大名の急先鋒であった兄・頼康の代わりに軍を率いて入京し、花の御所を包囲してクーデターを実行、管領・細川頼之を失脚に追い込んだ(康暦の政変)
 翌康暦2年(天授8、1380)11月14日に死去。尾張守護代の地位は息子の詮直が継ぎ、やがて土岐一族の台風の目となってゆく。

土岐満貞とき・みつさだ生没年不詳
親族父:土岐頼雄 
兄弟:土岐康行
官職伊予守
幕府尾張守護・侍所頭人
生 涯
―義満に利用されたあげく―

 土岐(揖斐)頼雄の子で、実兄は土岐惣領の康行。康行の代理として京に在住し、将軍足利義満の近習として信任を得ていた(「満」の字はもちろん義満から与えられたもの)。満貞は兄から土岐惣領の地位を奪いとる野心を抱いていたとされ、義満に取り入って兄・康行や従兄弟の詮直の讒言を吹き込み、康行が養父頼康から継承した守護国のうち、尾張の守護職を得ることに成功する。義満の方でもかねて土岐氏勢力の削減を狙っていて、満貞を利用して土岐氏に内紛を起こさせようとしたのである。
 果たして義満の狙いは図に当たり、嘉慶2年(元中5、1388)5月に満貞が尾張に入国すると、尾張守護代の詮直が黒田宿に満貞を襲撃した。これをきっかけに混乱が拡大、明徳元年(元中7、1390)には土岐康行も義満に対して挙兵したが敗北、没落する。しかし満貞は一連の戦いで敗北を繰り返して人々からあざけられ(「明徳記」)、土岐惣領の地位は満貞の手には落ちず、叔父で義満側についた頼忠(頼世)にさらわれる結果となってしまった。

 明徳2年末に山名一族の反乱「明徳の乱」が起こると、満貞は名誉挽回を狙って合戦に参加した。このとき満貞は二度目の大宮合戦に一番乗りで突入し大いに戦ったと主張、馬にも太刀傷を受けた上に彼自身も乱戦の中で敵と組んで園首をとったと戦功を示した。ところが後日になって目撃した者たちから真相が明かされてしまう。実は満貞は傷を負った敵の馬に自分の鞍を乗せ、さらに味方が落としていった敵の首を拾って自分の手柄に見せかけたというのだ(「明徳記」)
 この卑怯な振る舞いを理由に、明徳3年(1392)に満貞は尾張守護職を取り上げられてしまう。ただこうした満貞の行為が『明徳記』(作者は義満の側近ではないかと言われる)にことさらに強調して書かれて笑い物にされているのもやや不審である。もともと義満は満貞を土岐一族に内紛を起こさせるための手駒としか見なしておらず、利用するだけして用が済んだら見捨てる予定だったのかもしれない。その後の満貞の消息は不明である。

土岐康行とき・やすゆき?-1404(応永11)
親族父:土岐頼雄 養父:土岐頼康
兄弟:土岐満貞
子:土岐康政・土岐詮直の妻
官職左馬助、大膳大夫
幕府美濃・伊勢守護
生 涯
―義満の策謀にはまり没落―

 土岐(揖斐)頼雄の子で、初名は「義行」といった。息子のいなかった叔父の土岐頼康の養子となり、早くから土岐氏惣領の後継者と目された。延文4年(正平14、1359)末に将軍足利義詮が大軍を動員して南朝への攻勢をかけた際の『太平記』の記述では、土岐頼康率いる土岐一族の軍勢の中に「左馬助義行」の名が見える。
 嘉慶元年(元中4)12月(西暦1388年2月)に頼康が死去すると土岐氏惣領の地位と美濃・伊勢守護職を引き継いだ。しかし頼康の守護国のうち尾張だけは将軍足利義満の意向で弟の満貞に奪われる形となり、これが土岐一族の内紛を招く。嘉慶2年(元中5、1388)5月に満貞が守護国の尾張に入国したところを、土岐詮直(康行の従兄弟で娘婿)が黒田宿に襲撃するという事件が起こって混乱は拡大する。

 義満による土岐氏つぶしの意図を感じた康行は、明徳元年(元中7、1390)についに義満に対して反乱を起こした(土岐氏の乱)。しかしこの年の閏3月25日に拠点としていた小島城を攻め落とされて没落、一時伊勢へ逃れて南朝方の北畠氏の支援を仰いだ。土岐一族のうち、叔父の土岐頼忠(頼世)は義満に従って参戦したため美濃守護職を与えられ、結局この系統が美濃守護家となってゆくこととなる。
 翌明徳2年(元中8、1391)10月に康行は義満から赦免され、伊勢守護に復帰している。その年の暮の山名一族の反乱「明徳の乱」では義満のもとに参戦して功績を挙げたが美濃守護を奪回することはかなわなかった。一方、満貞はこの戦いで卑怯な振る舞いがあったとして尾張守護を免じられていて、終わってみれば土岐氏は義満の巧みな分断工作と挑発に乗って勢力を大きく減退させられただけであった。応永6年(1399)に応永の乱が起こると息子の康政が反義満の挙兵をしているが、康行は関わらなかったようである。
 応永11年((1404)10月6日に死去した。
康行の子孫は「世保家」と呼ばれ、伊勢守護を断続的に継承しつつ土岐氏嫡流と扱われた。

土岐頼明とき・よりあき生没年不詳
親族父:土岐頼貞
兄弟:土岐頼清・土岐高頼・土岐頼直・土岐頼衡・土岐頼遠・土岐頼仲・土岐頼基・土岐頼兼・土岐道謙
官職兵庫頭
生 涯
―反乱を起こして処刑―

 土岐頼貞の子で、『尊卑分脈』では「兵庫頭・土岐弥十郎、遁世(出家)して周済房と号す」との注がある。土岐頼明本人の書状で「兵庫頭」と書いているものがあるので、「兵庫頭」は確実であるが、問題は法名の「周済」である。『太平記』でも「土岐周済房」という人物は何度か登場し、楠木正行との四条畷の戦いで戦死しているのだが、『太平記』のうち独自の記事を含む「天正本」系統では「土岐兵庫入道周済房」が四条畷では死なず、その後謀反を起こしたとする章がある(章題では「周靖」と表記)。『尊卑分脈』でも頼明とは別に「周崔」という兄弟がいたことになっていて、紛らわしい名前の二人の兄弟が混乱を招いている可能性が高い。この項目では頼明=周靖として扱い、「周済房」については別項目とする。

 貞治3年(正平2、1347)、南朝の楠木正行が攻勢に出て、山名時氏土岐周済房が幕府軍として出陣し阿倍野で戦ったが、『太平記』では土岐軍の中に周済房に続けて「明智兵庫頭」の名を記している。これが頼明のことと思われる(土岐氏のうち東美濃の明智に分家した者は明智を名乗っている)。その後の四条畷の戦いで周済房と共に明智三郎なる者が戦死しているが、これは兵庫頭とは別人と見られる。

 その後、観応元年(正平5、1350)7月に「周靖」「周清」「周勢」「周請」(発音は「シュウセイ」になる)と表記される土岐頼貞の子で「兵庫入道」と呼ばれる人物が美濃で反乱を起こして近江へ侵攻、8月に討伐に向かった足利義詮高師直らに生け捕りにされて京に送られ、佐々木氏頼によって8月27日に「舎弟左衛門入道」と共に六波羅焼野で斬首され首をさらされた(「太平記」天正本、「園太暦」「祇園執行日記」「建武三年以来記」)。折から「観応の擾乱」の序章の時期であり、土岐氏内部でも頼明の甥の頼康が家督を継いだこともあって、一族内で紛争があったものと思われる。

参考文献
佐々木紀一「『渋川系図』伝本補遺・附土岐頼貞一族考証」(山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所39・40号)ほか

土岐頼員とき・よりかず生没年不詳
親族父:土岐頼重 妻:斉藤利行(俊幸)の娘 子:船木頼夏
官職左近蔵人
生 涯
―後醍醐討幕計画を密告―

 「正中の変」の密告者として知られる人物。『太平記』では「頼員」、『花園院宸記』では「頼員」に「頼兼か」との書き加えがある。『尊卑分脈』では「船木頼春」と表記され、土岐氏のうち美濃国船木荘(現・岐阜県瑞穂市)に分家した系統を「船木氏」と呼ぶのだが、「頼春」とされているのは彼の呼び名について混乱があるのだと思われる(彼に限らず土岐氏の系図には名前の混乱が多い)。このためここでは「土岐頼員」に統一して扱う。
 船木氏のルーツとなる土岐頼重の子で、通り名は「孫十郎」。六波羅探題で奉行をつとめる斉藤利行(俊幸)の娘を妻に迎えて在京していたが、正中元=元亨4年(1324)ごろから同族の土岐頼兼多治見国長と共に後醍醐天皇とその側近・日野資朝日野俊基らの討幕の密議に参加するようになった。
 『太平記』では挙兵により最愛の妻と死別するかもしれないという気持ちから、寝物語についつい妻に計画を話してしまい、妻が父の利行に密告という「面白い筋書き」になっているが、花園上皇が日記『花園院宸記』では9月16日に頼員が「にわかに上京」し(一時的に美濃へ下向していたか?)、舅の斉藤利行の宿所へ駆け込んで密告に及んだとの伝聞が記されている。頼員は密告の中で後醍醐らの密議の様子や挙兵計画について詳細に説明し、自らもその場では計画に同意したが、後日「関東(幕府)のご恩は返しがたい」と考え直して密告に及んだと述べたという。実のところ参加はしたものの計画の無謀さを悟って密告に及んだものであろう。密議の参加者ではほかにも伊達游雅も密告をした形跡がある。
 頼員のその後のことは一切分からない。頼兼・国長は頼員の密告により討たれているので、土岐一族内での立場は悪かったのではないだろうか。『太平記』の冒頭を飾る「寝物語」の逸話のために後世いたく評判を落としてしまった人物ではある。
歴史小説では
『太平記』の冒頭を飾る一件だけに登場例は多く、やはり妻に寝物語で計画を漏洩する展開になっている。吉川英治『私本太平記』では「船木頼春」の名で登場し、正中の変後に失踪、罪を償うため俊基の身代わりで各地で行動、最後には自害する独自の展開になっている。
漫画作品では
『太平記』を紹介する学習漫画系では最初のエピソードだけにきっちり描かれていることが多い。

土岐頼員の妻とき・よりかずのつま生没年不詳
親族父:斉藤利行 夫:土岐(船木)頼員
生 涯
―物語上では正中の変の立役者―

 六波羅探題の奉行とされる斉藤利行(俊幸)の娘で、土岐(船木)頼員の妻となった女性。『太平記』では後醍醐天皇らの討幕計画を夫から聞き出して密告に及んだ張本人にされている。
 『太平記』では、後醍醐の計画に参加を決めた頼員が、挙兵ともなればいつか戦死して最愛の妻と別れることになろうと未練を覚え、夫婦の寝物語に「来世も共に」といった話をくどくどとするのを彼女が不審に思い、問い詰めるうちに頼員から後醍醐の計画を全部聞き出してしまう。頼員は口外するなと戒めたが、機転の利く彼女は「帝の計画が失敗すれば夫が死に、幕府が倒されるようなことがあれば一族が滅ぼされてしまう。それなら父に密告して夫を裏切り者とし、夫も一族も助けることにしよう」と考え、ただちに父・利行のもとへ駆けつけて洗いざらい話してしまった。聞いた利行は驚いて頼員を問い詰め、ここから「正中の変」が勃発することとなる。
 ただし以上はあくまで『太平記』が伝える「物語」であって、史実は異なる。実際には頼員自身が計画の無謀を悟って自ら舅の利行のもとへ密告に駆けつけている。もちろんそう決意するまでに「妻」の助言があった可能性はないでもないが。
歴史小説では
『太平記』の冒頭を飾る一件だけに登場例は多い。吉川英治『私本太平記』では「波路(なみじ)」という名を与えられ、かなり嫉妬深い新妻の設定。正中の変後、夫が失踪してしまい、半狂乱状態で日野俊基に夫の行方を問い詰める。
漫画作品では
『太平記』を紹介する学習漫画系では最初のエピソードだけにきっちり描かれていることが多い。

土岐頼雄とき・よりかつ?-1380(康暦2/天授6)?
親族父:土岐頼清
兄弟:土岐頼康・土岐直氏・土岐頼忠
子:土岐康行・土岐満貞・今川了俊室
官職出羽守、蔵人
生 涯
―揖斐城を建設―

 土岐頼清の子。美濃国西部の揖斐郡に分家し、「揖斐氏」を称した。『新撰美濃志』という史料では康永2年(1343)に揖斐城を築いたことになっている。兄の惣領・頼康を助けて土岐氏の全盛期を築くのに一役買ったと思われるが、特に逸話は残していない。出家して「祐康」と号し、延文3年(1353)12月11日付で、荒廃していた伊予荏原郡浄瑠璃寺を禅寺として再興したとする祐康名義の寄進状が存在している。父の頼清が伊予と関わりを持っていたことから頼雄も何らかのつながりがあったものと思われる。
 死去の正確な時期は不明だが、頼雄の墓とされるものには「康暦二年」(1380)と刻まれている。頼雄の子・康行は息子のいなかった頼康の養子となり、土岐惣領を継いでいる。

土岐頼兼とき・よりかね?-1324(元亨4)
親族父:土岐頼貞
官職左近蔵人?
位階贈正四位(明治38)
生 涯
―正中の変で戦死―

 美濃の源氏・土岐頼貞の子で、「伯耆十郎」と呼ばれた。「保暦間記」では「源頼時」とされ、「太平記」では「頼貞」とされ(版本により「頼時」)「頼有」とする本もあって正確なところは判然としない。
 後醍醐天皇は討幕計画を進めるにあたって軍事力を美濃源氏の土岐一族に頼ろうと考え、日野資朝日野俊基らが土岐頼兼、その従兄弟・土岐(船木)頼春(頼員?)、同族の多治見国長らを同志に誘った。資朝・俊基らが催した討幕の密議の「無礼講」にも頼兼らが参加していたとされる。彼らは元亨4年(1324)9月23日の北野社の祭礼を期して武装蜂起する計画であったと言われる。

 しかし従兄弟・頼春が六波羅探題に計画を密告したため、9月19日早朝、六波羅探題の軍が土岐頼兼・多治見国長の屋敷を襲撃した。頼兼の屋敷は三条堀河にあり、山本時綱が兵を率いて押し寄せた。『太平記』によれば時綱は屋敷に入り込み、整髪中の頼兼(太平記は「頼貞」とする)を襲った。事態を悟った頼兼は時綱としばらく戦った末、屋敷の奥に逃げ込んで切腹して果てたという。ただし花園上皇の日記によるといきなりの攻撃はなく、六波羅側から何度か頼兼ら(ただし花園は「土岐十郎」とか書いていない)の出頭を申し入れたが返事がなく、やがて矢を射かけて抵抗を始めたため攻撃したとされる。この知らせが鎌倉に伝わった直後の9月23日に鎌倉・唐笠辻子の「土岐伯耆前司」(父の頼貞)の宿舎に幕府軍の兵が押し寄せ家臣を捕縛したと結城宗広がほぼ直に目撃した情報として書状に書いている。
 後醍醐の討幕計画の最初の犠牲者ということで、戦前には彼が「忠臣」として称えられ浪曲・講談の種にされたこともある。
大河ドラマ「太平記」第4回のみに登場(演:田辺年秋)。正中の変で幕府軍に襲撃されるシーンが『太平記』ほぼそのままに再現され、山本時綱が押し入った時に頼兼が髪を整えている最中になっていた。その後乱戦の末、庭で完全に包囲されるカットで終わっている。

土岐頼清とき・よりきよ生没年不詳
親族父:土岐頼貞
兄弟:土岐頼直・土岐高頼・土岐道謙・土岐頼衡・土岐周済房・土岐頼遠・土岐頼仲・土岐頼基・土岐頼兼・頼明
子:土岐頼康・土岐直氏・土岐頼雄・土岐頼忠
生 涯
―父に先立ち病死―

 土岐頼貞の子で、「伯耆六郎」と呼ばれた。もともとは「頼宗」と名乗っていたという。兄弟順とは別に母親の身分からか当初から嫡男と見なされていたようである。
 その事績はほとんど不明だが、父・頼貞に従って足利尊氏について各地に転戦していたと思われる。『梅松論』では建武3年(1336)に足利尊氏が九州から東上する際に伊予から「土岐伯耆六郎」が河野一族と共に合流したとの記述があり、早くから四国方面で活動していたことをうかがわせる。『太平記』巻十七の京都での攻防戦で頼貞がその豪勇をあてにし、実際に大立ち回りをして敵を撃退する「悪源太」は嫡男である頼清ではないかとする説もある(長男の頼直とする見方が多いが)
 没年も不明だが、父に先立っているので暦応2年(延元4、1339)以前であることは間違いない。『尊卑分脈』に引かれている土岐氏の家伝によると「伊予国から召し返されて暑さの中をおして昼夜兼行で上洛する途中、摂津国芥河で痢病にかかり6月1日に死去した」とある。法名は「善孝」
 頼清が父に先立って死去したため、頼貞ののち惣領の地位は兄弟の頼遠が引き継いだ。しかしあくまで中継ぎであったようで、頼遠が処刑されたのち頼清の子・頼康が惣領となっている。

土岐頼貞とき・よりさだ1271(文永8)-1339(暦応2/延元4)
親族父:土岐光貞 母:北条貞時の娘? 兄弟:土岐(蜂屋)定親・船木頼重
妻:北条宗頼の娘
子:土岐頼清・土岐頼兼・土岐高頼・土岐頼衡・土岐頼遠・土岐頼仲・土岐頼基・土岐道謙・土岐頼兼・土岐頼直・土岐頼明(周済)
官職伯耆守
幕府美濃守護
生 涯
―土岐氏美濃支配のルーツ―

 美濃源氏の名族・土岐光定の子で、通り名を「隠岐孫次郎」、出家して「存孝」と号した。母親は得宗・北条貞時の娘(異説あり)、妻は北条頼宗の娘で、代々北条氏と姻戚関係を持って関係を深めている。しかし嘉元の乱(1305年)の時に頼貞の兄の土岐(蜂屋)定親北条宗方に与して処刑されており、北条得宗家に対して反感を抱いていた可能性はある。
 頼貞は正和2年(1313)に当時名声が高まっていた夢窓疎石を招いて父・光定の三十三回忌法要を催している。そして自身の領内に永保寺を創建し、夢窓をその開山とした。

 元亨4=正中元年(1324)9月に後醍醐天皇を首謀者とする幕府打倒計画が発覚、計画に参加していた頼貞の子・頼兼や一族の多治見国長らが幕府軍に討たれている(正中の変)。計画を密告した船木頼春(頼員?)も頼貞の甥と見られる。頼貞自身がこの計画に関与したかは不明だが、そう疑われるのも無理はなく、情報が鎌倉に届いた直後の9月23日に「土岐伯耆前司」すなわち頼貞の鎌倉・唐笠辻子の屋敷に幕府の兵が押し寄せて家臣たちを捕縛している(結城宗広の書状)
 その後頼貞個人がとがめられた形跡はないので、彼は事件と無関係だったと思われる。ただ後醍醐側が美濃の名族御家人である土岐氏の勢力に期待し、接近してその一部を抱き込んだという可能性は高い。

 元弘2年(正慶元、1332)秋から護国親王楠木正成ら倒幕派の畿内での動きが活発化し、幕府はこれを討つためさらなる大軍を派遣したが、『太平記』によればその中に「土岐伯耆入道」すなわち頼貞の名がみえる。しかしこれといった働きはしなかったとみられ、翌年に六波羅探題の一行が東国へと落ちのびようとする際にも「土岐はそもそも謀反の発端となった一族だから美濃は通れまい」というやりとりが書かれているように、依然として疑われていたらしい。

 建武2年(1335)に足利尊氏が建武政権に背くと、頼貞は早くから尊氏に味方した。尊氏が箱根・竹の下の戦い新田義貞を破り、京都へと攻め上る一連の戦闘では頼貞の息子・頼遠が活躍している。
 その翌年、尊氏がいったん九州まで落ちのび、東上して湊川の戦いに勝利して京を再占領、後醍醐方と京をめぐって攻防を繰り広げた折には頼貞自身も足利軍に加わっていたことが『太平記』巻17に書かれている。6月30日(「太平記」は7月13日とする)、後醍醐方の軍が各方面から攻勢に出て、その迎撃に兵を出したため東寺の尊氏本陣は手薄となり、そこへ敵が攻め寄せて来て危険な情勢となった。このとき「土岐伯耆入道存孝」すなわち頼貞が尊氏のそばにおり、そばをキッと見やって「愚息の悪源太を出撃させずにここにとどめておけばよかった。それならこの敵をすぐに追い払うのに」とつぶやくと、その悪源太(頼直もしくは頼清)が東寺に引き返して来て、頼貞の言ったとおりに活躍して敵を追い払うことになる。

 こうした足利幕府創業時の活躍により、土岐一族は尊氏から「御一家(足利一門)の次、諸家の頭たるべし」「土岐たえば足利たゆべし」と称賛されたという(土岐氏の家伝にある話なので全面的には信用し難いが)。頼貞は遅くとも建武3年(延元元、1336)9月には美濃守護として活動しており、室町から戦国に続く土岐氏の美濃支配の基礎を築いた。
 暦応2年(延元4、1339)2月22日に死去。嫡男であった頼清には先立たれていたため猛将として知られた頼遠が家督を継いだ。頼貞は歌人としても盛んに活動しており、当時編纂された多くの和歌集に作品が選ばれている。 
PCエンジンCD版北朝側武将として美濃飛騨に登場。初登場時の能力は統率68・戦闘62・忠誠87・婆沙羅68。孫の頼康が君主になっている。
SSボードゲーム版中立の「武将」クラスで、勢力地域は「東海」。合戦能力2・采配能力4。ユニット裏は息子の頼遠。

土岐頼忠とき・よりただ1323(元亨3)-1397(応永4)
親族父:土岐頼清
兄弟:土岐頼康・土岐直氏・土岐頼雄
子:土岐頼益
官職刑部少輔・弾正忠
幕府美濃守護
生 涯
―土岐惣領の地位を奪取―

 土岐頼清の六男。のちに名を「頼世」と改めている。美濃国池田に分家したので「池田」を名字としていた。
 明徳元年(元中7、1390)に土岐氏惣領の土岐康行足利義満の分断工作に怒って挙兵すると、頼忠は義満のもとに馳せ参じて甥の康行を討伐する側に回った。康行が没落すると義満は一時土岐氏の断絶も考えたが雲渓支山のとりなしもあって思いとどまり、頼忠の功績を評して彼に美濃守護職を与え、土岐氏惣領の地位を認めた。この結果頼忠の系統が美濃土岐氏本流の系譜となっていくのだが、そこまでのいきさつから土岐一族や美濃武士たちの反発もあり、やがて伊勢守護として復帰した康行の方を惣領家と仰ぐ者も少なくなかったようだ。

 応永2年(1395)に美濃守護職を息子の頼益に譲り、応永4年(1397)8月11日に死去した。法名は正庵真兼で、墓は岐阜県池田町の禅蔵寺にある。

土岐頼遠とき・よりとお?-1342(康永元/興国3)
親族父:土岐頼貞 兄弟:土岐頼清・土岐高頼・土岐頼衡・土岐頼仲・土岐頼基・土岐道謙・土岐頼兼・土岐頼直・土岐頼明(周済)
官職弾正少弼
幕府美濃守護
生 涯
 室町幕府草創期を支えた勇将だが、上皇に向かって無礼を働いた「ばさら大名」の代表として名高い。

―歴戦の勇将―


 土岐一族は美濃源氏で、父・頼貞の代からひそかに反北条の動きを見せ、「正中の変」(1324)の時に討たれた土岐頼兼も頼貞の子、頼遠の兄弟とみられる。早い段階から足利氏と連携した土岐氏は討幕から建武政権打倒までつき従い、美濃の支配者としての地位を固めていった。
 頼遠は頼貞の七男で「土岐七郎」とも呼ばれた。彼の名前が最初に確認できるのは「太平記」の巻14で、建武2年(1335)に中先代の乱を鎮圧して関東に独立の姿勢を見せた足利尊氏に対し、後醍醐天皇が新田義貞を司令官とする追討軍を送り、これを足利直義らが迎え撃った時の記事である。戦いは新田軍の連勝となり、直義らは箱根まで撤退。ここで鎌倉で寺にこもっていた尊氏が出陣を決意して別動隊として竹之下に向かい、頼遠とその弟の道謙はこの一軍に加わっていた。この竹之下方面の戦いでは公家たちが「官軍に刃向うと天罰が下るぞ。さっさと降伏せよ」と呼び掛けたが、その呼びかけた相手は佐々木道誉・土岐頼遠をはじめとする「ばさら連中」だったからたまらない。彼らは相手が公家と見るや一気に襲いかかり、公家たちが散り散りになって逃げるのを見ると、「言葉に似合わぬ連中だなぁ、引き返してこい!」と追い回したという。
 その後の京都攻防戦、九州での多々良浜の戦いなど、頼遠はじめ土岐一族は各所で善戦した。建武3年(延元元、1336)6月30日の京での戦いで名和長年が戦死した時にも頼遠の軍が活躍したと「太平記」は記している。

 だが、なんといっても頼遠の名を有名にしたのは、建武5年(延元3、1338)正月24日に行われた北畠顕家率いる南朝奥州軍との「青野原の戦い」である。吉野の後醍醐、北陸の新田義貞からの呼びかけに応えて陸奥を出陣した顕家の軍は鎌倉を攻め落とし、怒涛の勢いで京目指して攻めのぼってきた。足利方は美濃においてこれを迎え撃つことになったが、奥州軍の勢いを恐れて守りに入る意見が大勢を占めそうになるなか、頼遠が「相手が大敵だからと言って矢の一本も射ず、ただ勢いが衰えるのを待とうというのは情けない。他の方は知らぬがこの頼遠は命をかけたひと合戦をやってみせましょうぞ」と強硬策を唱えた。これに桃井直常も同調し、青野原での決戦が決定する。
 頼遠と直常は精鋭を率いて北畠の大軍の中に突入し、激戦を展開、頼遠は左目の下から右の口わき、鼻までが深々と斬られる重傷を負い、一時消息不明になるほどの奮戦をした。結局この戦いは北畠軍の勝利になるのだが、頼遠らの奮戦でそれ以上の進撃ができないほどダメージを受けたらしく、京へ進まず北畠氏の拠点の伊勢へ進路を変えた。
 以上は「太平記」が伝えるものだが、今川了俊「難太平記」でも頼遠や桃井直常が打って出ての決戦を主張したこと、「青野原の軍(いくさ)は土岐頼遠一人高名と聞きしなり」として頼遠の重傷を負っての奮戦が高く評価されたことを伝えている。もっとも了俊の趣旨は「頼遠ばかりでなく、私の父(今川範国)も活躍したのに「太平記」は書いてない!」と批判するものだが。

―院か、犬か―

 暦応2年(延元4、1339)2月に父・頼貞が没した。嫡子であった頼清は父より先に死去していたため、頼遠が家督を継ぎ(頼清の子・頼康への中継ぎだったかもしれない)、美濃守護職も相続した。
 前年に兄・義貞を失った脇屋義助率いる越前の南朝軍はこの年攻勢に出ており、越前の足利方守護・斯波高経を苦しめていた。この年7月に斯波軍を援護すべく、頼遠は美濃・尾張の軍勢を率いて越前へ進出、脇屋軍を攻撃している。
 越前の脇屋軍は一年はねばったが、ついに越前を失って美濃・根尾城(現・岐阜県本巣市)に入った。頼遠はこれを攻略し、暦応4年(興国2、1341)9月にこれを攻め落とした。敗れた脇屋義助はわずかな手勢を率いて吉野へと向かうことになる。

 そして康永元年(興国3、1342)6月。土岐頼遠は百騎ばかりの兵を率いて美濃から京へと上洛してきた(「師守記」)。このころには自国の美濃もおおむね平定し、南朝も勢いをすっかり失っていた時期である。歴戦の勇将として意気揚々と上洛した頼遠だったが、この年の9月6日、大事件を起こしてしまう。

 9月6日の夜、頼遠と二階堂行春とその郎党たちは比叡山の新日吉神社の馬場で笠懸(かさがけ。馬に乗って笠の的を射る武術訓練にしてスポーツ)を楽しみ、その後酒宴をして心地よく酔っ払った状態で京へと帰ってきた。そして樋口小路と東洞院大路の辻で、光厳上皇の一行と鉢合わせしてしまう。光厳はこの日伏見上皇の命日であったため伏見殿に出かけ、帰りが夜になってしまっていたのだ。
 このときの光厳上皇(院)は実質的に「国王」「最高君主」と同じである。当然他の者はこれと鉢合わせしたら下馬して道を譲らねばならない。上皇の従者が「下馬せよ」と呼ばわると、酔っていたとはいえ行春は相手が院だと知ってあわてて下馬した。ところが頼遠は「このご時世で、都でこの頼遠に下馬を命じる者がいるとは信じられぬ。いったいどこの馬鹿者だ!目に物見せてやるわ!」とわめいた。上皇の従者が「いかなる田舎者がこのような無礼をするのか。院のお車であるぞ」と叫ぶと、頼遠は大笑いし、「なに、院というのか。犬というのか。犬なら射てやろう」と言い、上皇の車を郎党たちと取り囲んで犬追物(いぬおうもの。犬を馬で追いかけて矢で射る武芸訓練にしてスポーツ)のように矢を射かけた。上皇の一行はあまりのことに大騒ぎとなり、牛車は倒されて上皇も路上に投げ出されてしまった。頼遠らは意気揚々と立ち去り、光厳らは泣く泣く引き揚げるほかはなかった。
 以上は「太平記」の有名な描写だが、この事件が実際にあったことは「鶴岡社務記録」「武家年代記」「中院一品記」などの資料で確認できる。

 この事件を知った足利直義は激怒した(このとき幕府政治は尊氏から弟の直義に任されていた)。政治的実権は幕府が持つとはいえ、光厳上皇は天皇より上位にあって院政を行う「治天」であり、かつて建武政権を打倒するための院宣を尊氏に下し、足利幕府成立を保証した人物なのである。それに対して無礼をはたらくことは幕府の存在理由そのものを揺るがしかねない暴挙だった。また直義は朝廷の皇族・公家・寺社など旧勢力との調和をはかる政策を志向しており、旧権威を認めないいわゆる「婆沙羅(ばさら)」な風潮には批判的だった。それもあって頼遠に対して断固たる姿勢、すなわち死罪をもって臨んだ。

 直後に頼遠・行春はさすがに危険を感じ、無断でそれぞれの本国へ帰ってしまった。幕府はただちに追手を差し向け、いちおう現場にいただけで無礼な行為に参加はしてなかった行春は京に上って自首し、死罪は免れて讃岐に流刑となった。頼遠は美濃に戻って武力をもって抵抗しようとしたようだが、恐らく一族を結束させられなかったのだろう、11月になって一人ひそかに京に戻り、臨川寺にいた夢窓疎石に会って助命の斡旋を頼んだ。夢窓は当時足利兄弟をはじめ幅広い層に絶大な影響力を持った高僧であり、頼遠の父・頼貞の時代に美濃に滞在してその庇護を受けていたこともあった。頼遠はその縁に賭けたのだと思われる。
 夢窓はいちおう頼みを聞いて直義に頼遠の助命を求めたが、直義は「これほどの大逆を許してしまっては、今後悪い例となります。しかしせっかくのお口添えですから、頼遠個人を死罪にするだけで、その一族の所領などは安堵しましょう」と答えたという(「太平記」)。頼遠の身柄は臨川寺から侍所頭人の細川顕氏に引き渡され、12月2日に六条河原で斬首の刑に処された。土岐氏の所領は一切安堵され、土岐氏の家督は頼清の子・頼康(頼遠の甥)に受け継がれた。頼遠の墓は美濃・乗船寺(岐阜市)にある。
 
 「ばさら大名」の代表とよく紹介される頼遠だが、この「院か犬か」事件は酒に酔った勢いでの行動でもあり、日頃の言動がそうだったのかは疑問もある。実は父・頼貞の薫陶を受けて優れた歌人という一面もあり、「新千載集」「新拾遺集」などの勅撰和歌集にも歌が選ばれている。他のばさら大名、高師直や佐々木道誉にも言えることだが、命も惜しまぬ勇将でもあり一流文化人でもあるという文武両道の優れた人物だったという見方もできる。

参考文献
稲生晃「土岐頼遠―出自と事跡」(新人物往来社「ばさら大名のすべて」所収)
新井孝重「青野原の決戦」(同上)ほか
大河ドラマ「太平記」第39回と第42回に登場(演:下元史朗)。第39回では青野原合戦の場面では姿は見えず、幕府での軍議の場面で顔を見せているだけ。第42回で光厳上皇狼藉事件が描かれ、「院じゃと言うたか、犬じゃというたか」というセリフが吐かれた。ドラマでは尊氏は死罪など考えてなかったが、直義が死罪を強行したように描かれている。
歴史小説では青野原の戦い、あるいは光厳上皇の一件が有名なので、それが出てくる小説ではたいてい登場している。
漫画作品では「院か犬か」事件の場面を描いたものとしては、さいとう・たかを「太平記」(マンガ日本の古典)、石ノ森章太郎「萬画日本の歴史」がある。学習漫画の南北朝時代や太平記を扱ったものでは「ばさら大名」の例として顔だけ出してるケースが多い。
PCエンジンCD版北朝側武将として美濃飛騨に登場。初登場時の能力は統率53・戦闘85・忠誠92・婆沙羅83でやはり婆沙羅が高め。甥の頼康が君主になっている。
SSボードゲーム版父・土岐頼貞のユニット裏で登場するため序盤では出てこない。武家方の「武将」クラスで勢力地域は「東海」。合戦能力2・采配能力4でまずまず。

土岐頼直とき・よりなお生没年不詳
親族父:土岐頼貞
兄弟:土岐頼清・土岐高頼・土岐道謙・土岐頼衡・土岐周崔・土岐頼遠・土岐頼仲・土岐頼基・土岐頼兼・土岐頼明
官職左衛門尉、左近蔵人、蔵人
位階従五位下
生 涯
―尊氏のためにたった一騎で大奮闘?―

 土岐頼貞の子で、通り名が「小太郎」。『尊卑分脈』では長男のようにも見えるが土岐氏の家系図類では兄弟の中でも頼遠周崔の弟と書かれている。また『太平記』では後醍醐天皇方についた「土岐出羽守頼直」という人物もいて、同一人物なのか混乱もある。これに限らずこの時期の土岐氏の系図は血族関係・人名の混乱が多い。
 『太平記』巻十七の京都をめぐる攻防戦のくだりで土岐頼貞の息子「悪源太」が活躍する場面がある。この「悪源太」の実名は不明だが、「太郎」ということから頼直のこととする意見が多い(嫡男とみなして頼清では、との説も根強い)。一応の有力説として「悪源太」の逸話をこの項目で紹介する。

 建武3年(延元元、1336)5月、足利尊氏の軍は湊川の戦いに勝利して京を再占領した。その後比叡山にこもる後醍醐方との攻防が繰り広げられたが、6月30日の戦闘では各方面に兵が出陣して当時が手薄になったところへ、八幡方面から四条隆資の軍が攻め寄せて危険な状況となった。尊氏のそばには土岐頼貞が控えていて「息子の悪源太を出陣させずにここに残しておくのだった。あれがいればたちまち敵を追い払うのに」と口にしたところ、その悪源太が東寺周辺の異変に気付いて引き返してきた。悪源太が高師直から状況を聞かされ出撃しようとすると、尊氏が呼びとめて腰につけていた「御所作りの兵庫鎖の太刀」を悪源太に与えた。
 悪源太はこれに勇み立ち、さっそく出撃して羅城門の西にまわり、そこで馬を下りて弓に矢をつがえ、押し寄せる敵へ次々と放った。一矢で二、三人を同時に倒し、しかも一本も外すことがなく、押し寄せた敵兵は恐れてぱっと引き退いた。すると悪源太は馬に乗って敵に襲いかかり、六騎を切って落とし、十一騎に傷を負わせて、敵前に立ちはだかった。これに敵兵は恐れをなしてひるみ、そこへ高師直・師泰兄弟が攻めかかったため敵軍は総崩れとなった。

 以上のように印象的な活躍をして場面をさらう「土岐悪源太」であるが、『太平記』でその後登場することはない。
 観応元年(正平5、1350)7月に土岐頼明と共に美濃で反乱を起こし、捕えられて処刑された人物に頼明の弟の「左衛門入道」がいるが、「左衛門」であることから頼直では、とする説もある。

土岐頼益とき・よります1351(観応2/正平6)-1414(応永21)
親族父:土岐頼忠(頼世)
兄弟:土岐光兼
子:土岐持益
官職美濃守・左京大夫
幕府美濃・志摩守護、侍所頭人
生 涯
―土岐氏再興の祖―

 土岐頼忠(頼世)の子。父・頼忠は美濃池田に分家していたため池田氏を称し、頼益も「池田二郎」と称していた。明徳元年(元中7、1390)に土岐氏惣領の土岐康行足利義満の策謀にはまって挙兵(土岐氏の乱)すると、頼忠父子は義満側について戦い、功績を評価されて美濃守護職と土岐惣領の地位とを獲得した。明徳の乱ののちの相国寺供養では弟の光兼と共に後陣の随兵として参加している。
 応永2年(1395)に頼益が惣領の地位を継いだ。しかし本来は土岐氏庶流の「池田氏」であったはずの頼益が惣領となったことに一族や国人の間では根強い反発もあったらしく、頼益はその対策にも心を砕いた。
 応永6年(1399)に大内義弘「応永の乱」を起こすと、かつて土岐氏の乱で敗北した従兄弟の詮直や康行の子・康政が美濃で義弘に呼応して挙兵した。頼益は義満の命を受けてその討伐に出陣、詮直を討ち取っている。

 幕府では応永8年(1401)に評定衆、応永10年(1403)から侍所頭人をつとめ、将軍の前での着座でも諸将の筆頭という扱いを受けた。義満によって一時勢力を減退させた土岐氏の勢いをある程度盛り返し、このため土岐氏の家伝などで「再興の祖」と称えられている。
 応永21年(1414)4月4日に64歳で死去した。

土岐頼康とき・よりやす1318(文保2)-1388(嘉慶元/元中4)
親族父:土岐頼清
兄弟:土岐直氏・土岐頼雄・土岐頼忠
子:二条良基室 養子:土岐康行
官職刑部少輔・右馬権頭・大膳大夫
位階従四位下
幕府美濃・伊勢・尾張守護、侍所頭人、評定衆
生 涯
―土岐氏の最盛期を現出―

 土岐頼清の子。頼清は兄弟たちの中で嫡男扱いであったとみられるが、父・頼貞に先立って死去したため、その弟の頼遠が家督を継いだ。恐らくはその時点では頼康が年少であったため、動乱の時期と言うこともあり中継ぎとして頼遠が惣領となったのだろう。『太平記』における頼康の初登場は巻22で、北陸から美濃に入った南朝方の脇屋義助を「刑部大夫・頼康」が叔父・頼遠と共に美濃から追い払ったという記事がある。その頼遠は康永元年(興国3、1342)に光厳上皇に対し矢を射かける事件を起こして処刑され、頼康が惣領の地位と美濃守護職を継ぐことになった。

 足利幕府内で足利直義派と高師直派の対立が深まり、貞和5年(正平4、1349)に高師直が直義打倒のクーデターを起こした際には頼康は弟の頼雄らと共に師直派に参じている。その後の「観応の擾乱」では一貫して足利尊氏派に立って行動し、その後の足利直冬派や南朝軍との京をめぐる攻防戦でも、一族の「桔梗一揆」を率いて幕府軍の主力として大いに活躍、文和2年(正平8、1353)に後光厳天皇足利義詮に奉じられて美濃へ避難した際には小島に頓宮を設けてその受け入れにも尽力した。こうした功績を評価されて美濃だけでなく尾張の守護も兼任し、幕府でも侍所の頭人を任され、文和3年(正平9、1354)には評定衆のメンバーとなった。延文3年(正平13、1358)に尊氏の死を受けて出家し、「善忠」と号した。

 延文4年(正平14、1359)末に将軍になったばかりの足利義詮が南朝への大攻勢をかけた際には幕府軍の主力の一つとして出陣したが、翌延文5年(正平15、1360)7月に共に出陣していた畠山国清細川清氏らと共に仁木義長打倒のクーデターを画策、結果的に義長を失脚させ南朝方に走らせている。『太平記』によると頼康の叔父・頼遠の子・氏光が仁木義長の養子となっており、頼康と義長は所領問題で対立していたという。その後、仁木義長が南朝に走ると、頼康は義長に代わって伊勢守護も兼任し、義長および南朝の北畠氏と対抗した。

 貞治5年(正平21、1366)年8月に義長が幕府に帰参すると伊勢守護職は義長に戻された。頼康はその後も伊勢守護職の奪回を狙ったが、義満時代初期に管領として幕政を主導した細川頼之が義長のあと一時伊勢守護になり、その後も佐々木高秀の娘婿に交代させてなかなか頼康の手に渡さなかった。これに怒った頼康は応安3年(建徳元、1370)12月に幕府の評定衆を辞めて領国の美濃に帰国してしまい、斯波義将ら反頼之派大名の一角をなすことになった。美濃国内各地の所領について土岐氏が「押領」をしているとして、管領の頼之から何度もその改善を求められたが、頼康はそれらをことごとく無視してさえいた。

 康暦元年(天授5、1379)に興福寺に反抗する十市遠康を討つため頼康は奈良に出陣させられたが、やがて勝手に美濃に帰国し、一時義満から追討令を出されている。しかし政治的駆け引きからすぐに赦免され、その直後に反頼之派諸将と共にクーデターを起こして細川頼之を失脚させた(康暦の政変)。この政変ののち、頼康は念願の伊勢守護職を奪回している。

 嘉慶元年(元中4)12月25日(西暦1388年2月3日)に死去。享年七十。法名は「建徳寺節叟善忠」で、美濃国瑞巌寺(揖斐川町)に墓がある。土岐氏歴代惣領同様に歌人としてもすぐれた業績を残し、多くの和歌集に歌が収録されている。
 土岐氏の最盛期を作り上げた頼康の死後、甥で養子の康行が跡を継ぐが、足利義満の分断工作にかかって土岐氏はその勢力を大きく減じられることになる。
PCエンジンCD版北朝方の独立勢力君主(なぜか祖父の頼貞・叔父の頼遠を家臣にしている)として美濃飛騨に登場。初登場時の能力は統率66・戦闘64・忠誠60・婆沙羅40
PCエンジンHu版シナリオ2「南北朝の動乱」で北朝方武将として美濃・土岐城に登場。能力は「長刀4」

常葉範貞ときわ・のりさだ1285(弘安8)?-1333(正慶2/元弘3)
親族父:常葉時範
官職越後守・駿河守
幕府六波羅探題北方・引付衆・評定衆・引付頭人・播磨守護
生 涯
―正中の変に対処―

 北条一門・極楽寺流常葉家。父の時範も六波羅探題北方を務めている。正和4年(1315)に引付衆、元応2年(1320)に評定衆を経て元亨元年(1321)から六波羅探題北方として赴任し、元徳2年(1330)まで長く務めた。
 元亨4年(1324)9月19日、後醍醐天皇による倒幕計画が密告により発覚(正中の変)。このとき六波羅探題南方の北条維貞は直前の8月30日に鎌倉に帰還して不在のため探題は北方の範貞しかおらず、彼一人がその対処にあたった。陰謀に参加した土岐頼兼多治見国長の屋敷を襲った山本時綱小串範行はいずれも範貞直属の被官(家臣)であったと考えられる。範貞は関東申次の西園寺実衡邸に小田時知二階堂行兼を派遣して事件の首謀者である日野資朝日野俊基の引き渡しを要請、この二人を捕えて尋問を行っている。
 元徳2年(1330)に病を得て仕事が務まらないとして鎌倉に戻るが、その後も評定衆・引付頭人をつとめ幕府の首脳の一人となっていた。しかし間もなく元弘の乱がおこり、正慶2年(元弘3、1333)5月に新田義貞の軍が鎌倉に突入、22日に得宗・北条高時以下の北条一門は菩提寺の東勝寺に集まって集団自決した。このとき「常葉駿河守範貞」も運命を共にしている(「太平記」)
大河ドラマ「太平記」第4回で正中の変が描かれ、京を訪れていた足利高氏が日野俊基との関与を疑われて六波羅探題において常葉範貞(役名としては北条範貞)が尋問するシーンがある(演:鶴田忍)
メガドライブ版新田・楠木帖でプレイすると、鎌倉攻防戦のシナリオで北条軍に登場する。能力は体力62・武力65・智力55・人徳51・攻撃力42

殿ノ法印良忠とののほういん・りょうちゅう生没年不詳
親族父:二条良宝 母:松殿基嗣の娘 養父:二条師忠
生 涯
―護良腹心の豪傑坊主―

 「尊卑分脈」によると関白となった二条良実の孫。良実の子・良宝の実子だが、その兄弟でやはり関白をつとめた師忠の養子となったという。時期は不明だが比叡山に入って僧となっている。「海人藻芥」には「関白の子は世俗では『殿の大将』『殿の大納言』と呼び、僧となっては『殿の僧正』『殿の法印』と呼ぶ」という記述があり、良忠もそれで「殿ノ法印」と呼ばれていたようである。比叡山にいるうちに天台座主となっていた護良親王(当時は尊雲法親王)の腹心となったとみられる。護良は天台座主でありながら武芸ばかりしていたと伝えられ、どうやらこの良忠もその相手をつとめていたと思しい。

 元弘元年(1331)8月に後醍醐天皇は笠置山に挙兵し、護良親王も比叡山から笠置山に合流、さらに楠木正成がいる赤坂城へと移った。9月末に笠置山は陥落、後醍醐は捕えられて京に送られ、10月には赤坂城も落ちて護良親王は大和・紀伊の山中に隠れて倒幕運動を続けた。この間に良忠が護良に同行していたかどうかは不明だが、笠置山まで行ったことは間違いないようである。

 翌年3月に後醍醐は隠岐に配流となるが、それより以前に良忠は後醍醐の奪回を計画し、失敗して六波羅探題に捕らえられた(「太平記」は6月20日のこととするが、3月以前でないとつじつまが合わない)。良忠は後醍醐の監禁場所の絵図まで所持していたとされ、当然彼一人で計画したこととは思えず、六波羅探題の北条仲時は使者を通して「帝でさえできなかった謀反を、そなた一人でやろうとは帝に対して恐れ多いだけでなく粗忽(思慮がない)というものではないか」と背後関係を訊問したが、良忠は「帝を奪い返すのがなぜ恐れ多いのか。無道の行いをする者を倒そうと計画するのがなぜ粗忽か」と言い返したという。彼の供述によると笠置山までは行ったが、笠置は陥落してしまい、北畠具行と相談して各地に後醍醐の綸旨を送ったという。

 当然良忠は六波羅探題の牢に放り込まれたが、なんと牢を破って脱走している。これは「尊卑分脈」にも明記されていることで、「大力勇健の猛将なり」とも書かれ、関白の息子で、なおかつ僧侶の身でありながら、かなり豪快な人物であったらしい。この点、皇子であり僧侶になりながら武芸を好んだ護良とよく似ており、気があったのは当然だったかもしれない。

 その後しばらく動静が分からないが、護良と合流してその「候人」すなわち腹心の法師武者となり、倒幕軍の一隊を率いて京攻撃に加わっていたことが「太平記」から分かる。そして六波羅探題が足利高氏によって攻め落とされたのち、殿ノ法印良忠の部下たち二十数名が土蔵破りを行い、京の治安を預かっていた足利軍によって逮捕・処刑され、そのさらし首に「大塔宮候人良忠の手の者が各所で昼強盗をはたらいた」と掲示したことが護良の激怒を買った…という逸話が書かれているのだ。これが護良と尊氏の対立の始まりだったと語るのだが、もちろんそんな単純な理由ではなかっただろう。ただこの事件じたいは実話と思われ、良忠の部下たちにはかなり素行の悪い者がいたことをうかがわせる(後の話だが護良が集めた者たちが市民の辻斬りをしたという逸話もある)

 護良は尊氏と激しく対立した末に、建武元年(1334)10月21日に後醍醐の命によって宮中で捕縛され、11月には鎌倉に監禁された。12月には護良の腹心たちが一斉に処刑されて護良一派は壊滅した。良忠もこのとき一緒に処刑された可能性もあるが処刑されたとする史料はなく(関白の子なので処刑されればさすがに記録に残るはず)、あるいはしぶとくどこかへ落ち延びたのかも知れない。

参考文献
岡見正雄「太平記(一)」解説(角川文庫)
森茂暁「太平記の群像・軍記物語の虚像と真実」(角川選書)ほか
大河ドラマ「太平記」第二部の建武政権期部分で、「殿の法印」の役名で護良親王の側近としてしばしば登場(演:大林丈史)。護良と一緒に足利を憎悪し(部下たちが処刑された一件も描かれる)、文観に向かって刀で切りつけるという勇ましいシーンもあって、かなり強烈な印象を残す。

豊原(とよはら)氏
 平安時代以来雅楽を家業とする「楽人」の家で、大津皇子の子孫とも、天智天皇系の子孫とも言われる。平安前期に「豊原」氏を称して雅楽専業の家柄となった。南北朝時代には特に政治的な動きを見せてはいないが、時の天皇や公家、武士など多くの有力者に雅楽の指導を行っている。
(豊原氏の系図や各人物の記事についてはブログ「雅楽研究所「研楽庵」」を参考にさせていただきました)

大津皇子?
…有秋─竜元─公元─時信
─時光
─時元
─時秋
─利秋
─忠秋
┬好秋
─豊秋
┬清秋
兼秋
則秋
─熙秋













竜秋
宗秋

量秋
─幸秋













竜秋
┬信秋
┴音秋















├成秋
英秋
┬量秋














├佐秋

└茂秋














└季秋
├定秋
─緑秋















└氏秋
─高秋










└近秋─政秋
─景秋
─脩秋
─惟秋
─房秋


豊原兼秋とよはら・かねあき
1287(弘安10)-1333(正慶2/元弘3)
親族父:豊原清秋 兄弟:豊原宗秋・豊原竜秋・豊原春秋・豊原藤秋
子:豊原則秋・豊原里秋・豊原具秋
官位
左近将監
位階
正五位上
生 涯
―後醍醐の輿をかついだ楽人―

 『衆清録』によると弘安10年(1287)に豊原清秋の長男として生まれた。豊原家は宮中で雅楽を担当する「楽人」の家系で、永仁5年(1297)に一族の豊原脩秋が勅勘をこうむった際、まだ十一歳であった兼秋が童形のまま代わって演奏の主役である「一者(いちのもの)」をつとめたという。正和5年(1316)2月16日に興福寺の常楽会において「荒序」を演奏、横皮一枚を賜っている(『体源鈔』)後醍醐天皇の宮廷で活躍したこともあって、尊良親王北畠親房四条隆資ら後醍醐周辺の重要人物たちに雅楽の教授をしている。
 元弘元年(元徳3、1333)8月24日、後醍醐天皇が京を脱出して奈良に向かうことを決意したとき、急なことで天皇の輿をかつぐ者はいなかった。やむなくこの豊原兼秋大膳大夫重康秦武久らが輿をかついだと『太平記』に記されている。そのまま後醍醐に同行して笠置山へ入っている。笠置陥落後に幕府軍に捕らわれたが、このとき弟の豊原宗秋、息子の豊原則秋も共に捕縛されている。
 それからおよそ一年半後の元弘3年(正慶2、1333)3月8日に47歳で死去した(『衆清録』)

豊原竜秋とよはら・たつあき
1291(正応4)-1363(貞治2/正平18)
親族父:豊原清秋 養父:豊原豊秋
兄弟:豊原兼秋・豊原宗秋・豊原春秋・豊原藤秋
子:豊原信秋・豊原成秋・豊原佐秋 養子:豊原元秋・豊原季秋
官位
隠岐守
位階
従四位下
生 涯
―南北朝の笙の名手―

 豊原清秋の三男。祖父・豊原豊秋の猶子となり、建武政権期の建武元年(1334)4月2日に内裏で行われた旬節会において「太子丸」という笙を使って演奏している。
 暦応2年(延元4、1339)より笙の首席奏者「一者(いちのもの)」となり、以後出家引退するまで21年にわたってその地位にあり、時代を代表する笙の名手と評される。延文3年(正平13、1358)12月に後光厳天皇に「蘇合香」「万秋楽」を伝授、他にも将軍・足利尊氏や多くの公家たちに指導をしている。秘曲を多く収録した『鳳笙呂律秘譜』の編纂も手掛けている。
 延文5年(正平15、1360)に出家して「竜覚」と号した。3年後の貞治2年(正平18、1363)閏正月9日に73歳で死去した。

豊原則秋とよはら・のりあき
1314(正和3)-1394(応永元)
親族父:豊原兼秋 兄弟:豊原里秋・豊原具秋
子:豊原熙秋
官位
雅楽兵衛尉・雅楽将監・雅楽允
位階
正五位下
生 涯
―南北朝時代全体を生き抜いた楽人―

 豊原兼秋の子。元弘元年(元徳3、1331)8月に後醍醐天皇が笠置山にこもって挙兵、このとき18歳の則秋は父・兼秋や叔父・宗秋と共に後醍醐に従って笠置山に入っている。9月に笠置山が陥落、則秋は父・叔父と共に幕府軍に捕縛されている(「太平記」)
 暦応2年(延元4、1339)5月30日の安楽光院御講において、則秋は三臺塩急の演奏で笙をつとめ初太鼓に付いたが、本来格から言えば二太鼓目につくべきであり、先例にもとると非難されている(「中院一品記」)
 至徳元年(元中元、1384)から没年まで、笙の第一人者「一者(いちのもの)」を11年にわたってつとめた。南北朝統一後の応永元年(1394)11月28日に死去。81歳の長寿であった。

豊原英秋とよはら・ひであき
1347(貞和3/正平12)-1387(嘉慶元/元中4)
親族父:豊原成秋 兄弟:豊原定秋・豊原氏秋 妻:豊原音秋の妹
子:豊原量秋・豊原基秋・豊原茂秋・豊原幸秋・豊原広秋・豊原葛秋
官位
左近将監・筑後守
位階
従五位下
生 涯
―京と鎌倉で笙を指導―

 豊原成秋の子。成秋が将軍の命を受けて鎌倉に下り、鎌倉公方の足利基氏に仕えたため、英秋は祖父・豊原竜秋の指導を受け、康安元年(1361)4月10日、わずか15歳にして祖父から秘曲「陵王荒序」を伝授された。
 貞治3年(正平19、1364)に父・成秋が鎌倉で死去したため、その代わりに鎌倉に下り、足利基氏の笙の指導役となった。貞治6年(正平22、1367)に基氏が死去すると京に戻り、以後は三代将軍・足利義満の笙の指導役をつとめることとなる。応安3年(建徳元、1370)に左近将監、永徳元年(弘和元、1381)に筑後守に任じられた。
 嘉慶元年(元中4、1387)正月に従五位下に叙せられたが、この都市の7月24日に41歳で死去した。

豊原宗秋とよはら・むねあき
1290(正応3)-1338(建武5/延元3)
親族父:豊原清秋 兄弟:豊原兼秋・豊原竜秋・豊原春秋・豊原藤秋
子:豊原則秋・豊原里秋・豊原具秋
官位
左兵衛尉・左近将監
生 涯
―笠置挙兵に同行した楽人―

 正応3年(1290)に豊原清秋の次男として生まれた。楽人として朝廷に仕えた豊原家の一員だが詳しい事跡は伝わらない。
 元弘元年(元徳3、1331)8月に後醍醐天皇が笠置山にたてこもって討幕の挙兵をした際、兄の豊原兼秋と共に天皇に同行し、9月に笠置山が陥落した直後に兄たちと共に幕府軍に捕縛された(「太平記」)
 建武5年(延元3、1338)正月22日に49歳で死去した(「系図纂要」)

虎女とらめ
 大河ドラマ「太平記」に登場した架空人物(演:にれはらゆい)。楠木家の侍女の一人で、40歳の中年女。若い侍女の小岩ともども楠木家の呑気な雰囲気を代表する。「中納言とは小納言の上、大納言の下」と説明したり、大好きな「源氏物語」を千早城にも持ち込んだり、「いい男じゃのう」とましらの石に言い寄ってきたりとコミカルな場面が多い。実は当初の脚本では石が隠岐から千早に戻ってくると、虎女が戦闘中に矢に当たって重傷を負いうめきながら介抱されている場面があったがドラマではカットされている。


南北朝列伝のトップへ