土岐頼遠 | とき・よりとお | ?-1342(康永元/興国3)
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親族 | 父:土岐頼貞 兄弟:土岐頼清・土岐高頼・土岐頼衡・土岐頼仲・土岐頼基・土岐道謙・土岐頼兼・土岐頼直・土岐頼明(周済)
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官職 | 弾正少弼 |
幕府 | 美濃守護 |
生 涯 |
室町幕府草創期を支えた勇将だが、上皇に向かって無礼を働いた「ばさら大名」の代表として名高い。
―歴戦の勇将―
土岐一族は美濃源氏で、父・頼貞の代からひそかに反北条の動きを見せ、「正中の変」(1324)の時に討たれた土岐頼兼も頼貞の子、頼遠の兄弟とみられる。早い段階から足利氏と連携した土岐氏は討幕から建武政権打倒までつき従い、美濃の支配者としての地位を固めていった。
頼遠は頼貞の七男で「土岐七郎」とも呼ばれた。彼の名前が最初に確認できるのは「太平記」の巻14で、建武2年(1335)に中先代の乱を鎮圧して関東に独立の姿勢を見せた足利尊氏に対し、後醍醐天皇が新田義貞を司令官とする追討軍を送り、これを足利直義らが迎え撃った時の記事である。戦いは新田軍の連勝となり、直義らは箱根まで撤退。ここで鎌倉で寺にこもっていた尊氏が出陣を決意して別動隊として竹之下に向かい、頼遠とその弟の道謙はこの一軍に加わっていた。この竹之下方面の戦いでは公家たちが「官軍に刃向うと天罰が下るぞ。さっさと降伏せよ」と呼び掛けたが、その呼びかけた相手は佐々木道誉・土岐頼遠をはじめとする「ばさら連中」だったからたまらない。彼らは相手が公家と見るや一気に襲いかかり、公家たちが散り散りになって逃げるのを見ると、「言葉に似合わぬ連中だなぁ、引き返してこい!」と追い回したという。
その後の京都攻防戦、九州での多々良浜の戦いなど、頼遠はじめ土岐一族は各所で善戦した。建武3年(延元元、1336)6月30日の京での戦いで名和長年が戦死した時にも頼遠の軍が活躍したと「太平記」は記している。
だが、なんといっても頼遠の名を有名にしたのは、建武5年(延元3、1338)正月24日に行われた北畠顕家率いる南朝奥州軍との「青野原の戦い」である。吉野の後醍醐、北陸の新田義貞からの呼びかけに応えて陸奥を出陣した顕家の軍は鎌倉を攻め落とし、怒涛の勢いで京目指して攻めのぼってきた。足利方は美濃においてこれを迎え撃つことになったが、奥州軍の勢いを恐れて守りに入る意見が大勢を占めそうになるなか、頼遠が「相手が大敵だからと言って矢の一本も射ず、ただ勢いが衰えるのを待とうというのは情けない。他の方は知らぬがこの頼遠は命をかけたひと合戦をやってみせましょうぞ」と強硬策を唱えた。これに桃井直常も同調し、青野原での決戦が決定する。
頼遠と直常は精鋭を率いて北畠の大軍の中に突入し、激戦を展開、頼遠は左目の下から右の口わき、鼻までが深々と斬られる重傷を負い、一時消息不明になるほどの奮戦をした。結局この戦いは北畠軍の勝利になるのだが、頼遠らの奮戦でそれ以上の進撃ができないほどダメージを受けたらしく、京へ進まず北畠氏の拠点の伊勢へ進路を変えた。
以上は「太平記」が伝えるものだが、今川了俊の「難太平記」でも頼遠や桃井直常が打って出ての決戦を主張したこと、「青野原の軍(いくさ)は土岐頼遠一人高名と聞きしなり」として頼遠の重傷を負っての奮戦が高く評価されたことを伝えている。もっとも了俊の趣旨は「頼遠ばかりでなく、私の父(今川範国)も活躍したのに「太平記」は書いてない!」と批判するものだが。
―院か、犬か―
暦応2年(延元4、1339)2月に父・頼貞が没した。嫡子であった頼清は父より先に死去していたため、頼遠が家督を継ぎ(頼清の子・頼康への中継ぎだったかもしれない)、美濃守護職も相続した。
前年に兄・義貞を失った脇屋義助率いる越前の南朝軍はこの年攻勢に出ており、越前の足利方守護・斯波高経を苦しめていた。この年7月に斯波軍を援護すべく、頼遠は美濃・尾張の軍勢を率いて越前へ進出、脇屋軍を攻撃している。
越前の脇屋軍は一年はねばったが、ついに越前を失って美濃・根尾城(現・岐阜県本巣市)に入った。頼遠はこれを攻略し、暦応4年(興国2、1341)9月にこれを攻め落とした。敗れた脇屋義助はわずかな手勢を率いて吉野へと向かうことになる。
そして康永元年(興国3、1342)6月。土岐頼遠は百騎ばかりの兵を率いて美濃から京へと上洛してきた(「師守記」)。このころには自国の美濃もおおむね平定し、南朝も勢いをすっかり失っていた時期である。歴戦の勇将として意気揚々と上洛した頼遠だったが、この年の9月6日、大事件を起こしてしまう。
9月6日の夜、頼遠と二階堂行春とその郎党たちは比叡山の新日吉神社の馬場で笠懸(かさがけ。馬に乗って笠の的を射る武術訓練にしてスポーツ)を楽しみ、その後酒宴をして心地よく酔っ払った状態で京へと帰ってきた。そして樋口小路と東洞院大路の辻で、光厳上皇の一行と鉢合わせしてしまう。光厳はこの日伏見上皇の命日であったため伏見殿に出かけ、帰りが夜になってしまっていたのだ。
このときの光厳上皇(院)は実質的に「国王」「最高君主」と同じである。当然他の者はこれと鉢合わせしたら下馬して道を譲らねばならない。上皇の従者が「下馬せよ」と呼ばわると、酔っていたとはいえ行春は相手が院だと知ってあわてて下馬した。ところが頼遠は「このご時世で、都でこの頼遠に下馬を命じる者がいるとは信じられぬ。いったいどこの馬鹿者だ!目に物見せてやるわ!」とわめいた。上皇の従者が「いかなる田舎者がこのような無礼をするのか。院のお車であるぞ」と叫ぶと、頼遠は大笑いし、「なに、院というのか。犬というのか。犬なら射てやろう」と言い、上皇の車を郎党たちと取り囲んで犬追物(いぬおうもの。犬を馬で追いかけて矢で射る武芸訓練にしてスポーツ)のように矢を射かけた。上皇の一行はあまりのことに大騒ぎとなり、牛車は倒されて上皇も路上に投げ出されてしまった。頼遠らは意気揚々と立ち去り、光厳らは泣く泣く引き揚げるほかはなかった。
以上は「太平記」の有名な描写だが、この事件が実際にあったことは「鶴岡社務記録」や「武家年代記」「中院一品記」などの資料で確認できる。
この事件を知った足利直義は激怒した(このとき幕府政治は尊氏から弟の直義に任されていた)。政治的実権は幕府が持つとはいえ、光厳上皇は天皇より上位にあって院政を行う「治天」であり、かつて建武政権を打倒するための院宣を尊氏に下し、足利幕府成立を保証した人物なのである。それに対して無礼をはたらくことは幕府の存在理由そのものを揺るがしかねない暴挙だった。また直義は朝廷の皇族・公家・寺社など旧勢力との調和をはかる政策を志向しており、旧権威を認めないいわゆる「婆沙羅(ばさら)」な風潮には批判的だった。それもあって頼遠に対して断固たる姿勢、すなわち死罪をもって臨んだ。
直後に頼遠・行春はさすがに危険を感じ、無断でそれぞれの本国へ帰ってしまった。幕府はただちに追手を差し向け、いちおう現場にいただけで無礼な行為に参加はしてなかった行春は京に上って自首し、死罪は免れて讃岐に流刑となった。頼遠は美濃に戻って武力をもって抵抗しようとしたようだが、恐らく一族を結束させられなかったのだろう、11月になって一人ひそかに京に戻り、臨川寺にいた夢窓疎石に会って助命の斡旋を頼んだ。夢窓は当時足利兄弟をはじめ幅広い層に絶大な影響力を持った高僧であり、頼遠の父・頼貞の時代に美濃に滞在してその庇護を受けていたこともあった。頼遠はその縁に賭けたのだと思われる。
夢窓はいちおう頼みを聞いて直義に頼遠の助命を求めたが、直義は「これほどの大逆を許してしまっては、今後悪い例となります。しかしせっかくのお口添えですから、頼遠個人を死罪にするだけで、その一族の所領などは安堵しましょう」と答えたという(「太平記」)。頼遠の身柄は臨川寺から侍所頭人の細川顕氏に引き渡され、12月2日に六条河原で斬首の刑に処された。土岐氏の所領は一切安堵され、土岐氏の家督は頼清の子・頼康(頼遠の甥)に受け継がれた。頼遠の墓は美濃・乗船寺(岐阜市)にある。
「ばさら大名」の代表とよく紹介される頼遠だが、この「院か犬か」事件は酒に酔った勢いでの行動でもあり、日頃の言動がそうだったのかは疑問もある。実は父・頼貞の薫陶を受けて優れた歌人という一面もあり、「新千載集」「新拾遺集」などの勅撰和歌集にも歌が選ばれている。他のばさら大名、高師直や佐々木道誉にも言えることだが、命も惜しまぬ勇将でもあり一流文化人でもあるという文武両道の優れた人物だったという見方もできる。
参考文献
稲生晃「土岐頼遠―出自と事跡」(新人物往来社「ばさら大名のすべて」所収)
新井孝重「青野原の決戦」(同上)ほか
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大河ドラマ「太平記」 | 第39回と第42回に登場(演:下元史朗)。第39回では青野原合戦の場面では姿は見えず、幕府での軍議の場面で顔を見せているだけ。第42回で光厳上皇狼藉事件が描かれ、「院じゃと言うたか、犬じゃというたか」というセリフが吐かれた。ドラマでは尊氏は死罪など考えてなかったが、直義が死罪を強行したように描かれている。 |
歴史小説では | 青野原の戦い、あるいは光厳上皇の一件が有名なので、それが出てくる小説ではたいてい登場している。
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漫画作品では | 「院か犬か」事件の場面を描いたものとしては、さいとう・たかを「太平記」(マンガ日本の古典)、石ノ森章太郎「萬画日本の歴史」がある。学習漫画の南北朝時代や太平記を扱ったものでは「ばさら大名」の例として顔だけ出してるケースが多い。
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PCエンジンCD版 | 北朝側武将として美濃飛騨に登場。初登場時の能力は統率53・戦闘85・忠誠92・婆沙羅83でやはり婆沙羅が高め。甥の頼康が君主になっている。
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SSボードゲーム版 | 父・土岐頼貞のユニット裏で登場するため序盤では出てこない。武家方の「武将」クラスで勢力地域は「東海」。合戦能力2・采配能力4でまずまず。 |