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にっき〜にのみやひょうごのすけ

仁木(にっき)氏
 清和源氏、足利氏の一門。足利義清の孫・実国が三河国仁木郷を領したことに始まる。南北朝動乱では足利軍の主力として各地で戦い、頼章は足利家執事(のちの幕府管領)をつとめた。その弟・義長は失脚して南朝に走り、のちに幕府に復帰するも仁木氏の威勢を取り戻すことはできなかった。室町時代には伊賀守護をつとめたが実際の支配力はほとんどなく、戦国時代には消え去ってしまった。

足利義康┬義兼惣領







└義清─義実┬義季細川

┌頼直┌義連頼夏



└実国
─義俊
─義継─師義┼義勝頼章義尹







├義任義長満長







└頼仲└頼勝義員

仁木満長にっき・みつなが生没年不詳
親族父:仁木義長
兄弟:仁木義員
子:仁木満将
幕府伊勢守護
生 涯
―義満を怨んで出家遁世―

 仁木義長の子。義長は伊勢守護であったが一時南朝に走ったこともあり、その晩年には伊勢守護職を土岐氏に奪われていた。康応元年(元中6、1389)に足利義満の策謀で土岐氏で内紛となり、土岐康行が反乱を起こすと、義満は康行から伊勢守護職を奪って満長に与えた。その後康行が幕府に赦免されたため、伊勢守護職はまたも康行に戻されてしまった。それでも時期は不明だが、応永年間の初めごろまでに満長は伊勢守護を奪回していたとみられる。
 しかし応永3年(1396)7月、義満は側近の結城満藤の讒言を聞き入れて満長から伊勢守護をとりあげ、僧から還俗した満長の庶兄・満員に与えてしまった。満長はこれに怒り、京で幕府に対してことを起こすのではと噂もたったほどだったが、結局満長は京を出て出家・遁世してしまった(『荒暦』)。その後の消息は不明であるが、その子孫は伊勢仁木氏として続いている。

仁木義員にっき・よしかず生没年不詳
親族父:仁木義長
兄弟:仁木満長
幕府伊勢・和泉守護
生 涯
―僧から還俗して守護へ―

 仁木義長の子。庶子扱いであったらしく、異母弟の仁木満長が父のあとを継いでおり、義員は出家して僧となっていた。還俗したのちは「土橋」の名字を称していたらしい(「荒暦」)
 しかし応永3年(1396)7月に将軍足利義満が側近の結城満藤の讒言を聞き入れて満長から伊勢守護職を奪い、還俗した義員に与えてしまった。状況からみて義員が弟から守護の地位を奪うべく運動したものとみられ、憤慨した満長は入れ替わるように出家・遁世してしまっている。
 応永6年(1399)に大内義弘「応永の乱」を起こして滅ぼされると、義弘の守護国・和泉は翌応永7年(1400)から仁木義員に与えられている。しかし入れ替えに長らく仁木氏の守護国であった伊勢の方は土岐康行に奪われ、応永10年(1403)には和泉守護もとりあげられて、以後仁木氏の守護国は完全になくなってしまった。

仁木義尹にっき・よしただ生没年不詳
親族父:仁木頼章 養父:仁木頼夏
子:仁木満尹
幕府丹波守護、伊予守護代、引付頭人
生 涯
―義父を相手に戦う―

 仁木頼章の実子だが、細川和氏の子・頼夏が頼章の養子となってあとを継いでおり、義尹はその義兄である義尹の養子という形になっている。あるいは母親の身分などが影響したのだろうか。当時の記録でも若いうちは「仁木三郎」としか呼ばれておらず、官職も確認できない。

 延文5年(正平15、1360)に叔父の仁木義長畠山国清細川清氏らと対立して失脚、一時伊勢に帰って南朝に走った。義尹も義父の頼夏ともども義長と行動をともしており、9月にやはり南朝に走っていた石塔頼房と共に伊勢・伊賀の兵を率いて近江へ進出、葛木山に布陣して守護の佐々木氏頼の軍勢と対峙した。このとき義尹は「数日も戦をしないままでは近隣住民に迷惑である上に伊勢の叔父上も残念にお思いだろう。京は吉日だからひとつ合戦をして敵に一撃を加えてやろう」と言って、まず佐々木高秀の部下が守る市原城を攻め落としてから安心して合戦をしようと主張した。しかしこの動きは氏頼に察知されて両者の激戦となり、結局佐々木軍が勝利、仁木義尹は降参した(「太平記」巻35)

 康安元年(正平16、1361)9月に幕府の執事であった細川清氏が失脚し、守護国の若狭へと走った。このとき幕府は義尹を丹波守護に任じ(前任者は義父の仁木頼夏だったが、彼は実兄の清氏と行動を共にした)、丹波勢を率いて若狭へ進攻させている(『太平記』『愚管記』)。その後清氏は南朝に走って12月に南朝軍と共に京を占領し、実弟の仁木頼夏を丹波へ向かわせたが、義尹はこの義父と戦って打ち破り、さらに丹波から京へ攻め込んで京奪回に貢献している。
 実父・義父から引き継いだ丹波守護職は貞治3年(正平19、1364)まで務めていたことが確認できる。しかしこれ以後丹波は山名時氏の守護国となってしまい、やがて叔父の仁木頼勝が守護をしていた但馬も山名氏に奪われ、仁木氏はしばらく守護国なしとなってしまう。

 応安元年(正平23、1368)に義尹は幕府の命で伊予に渡り、南朝について勢力回復をはかる河野通直と対決した。しかしこの年の9月に義尹は伊予国府を河野軍に奪回され、伊予から追い出されてしまった。
 応安3年(建徳元、1370)に幕府の引付頭人になっていることが確認できる。

仁木義長にっき・よしなが?-1376(永和2/天授2)
親族父:仁木義勝 兄:仁木頼章
子:仁木満長・仁木義員
官職右馬権頭・越後守・修理亮・右京大夫
幕府備後・遠江・伊勢・志摩・伊賀・三河守護、侍所頭人
生 涯
―足利幕府創設に功績―

 通称「四郎次郎」あるいは「二郎四郎」。足利一門として兄・頼章と共に足利尊氏につき従い、建武政権下では足利直義に従って関東廂番をつとめた。建武2年(1335)正月の鎌倉での弓場始めの儀式でも義長が参加している。この年11月に建武政権に離反した尊氏が追討を受けると直義に従って矢作川新田義貞と戦い、以後、翌年にかけて京都占領と九州敗走まで各地に転戦した。
 とくに菊地武敏相手の多々良浜の戦いでは義長は宗像大宮司から直義に贈られた黄威(きおどし)の鎧を直義から与えられ、これを着けて最前線に切り込み「鎧も馬も血に染まるほど」の奮戦をしたと伝えられる(『梅松論』)。多々良浜の戦いに勝利して西上するにあたり尊氏は菊地氏らの平定を義長と一色範氏に任せている。

 尊氏が幕府を設立すると義長は九州を一色範氏に任せて上洛、伊勢・志摩・伊賀の守護に任じられ、畿内南部を拠点とする南朝勢力と対峙した。康永3年(興国5、1344)年4月に侍所頭人に任じられ幕政に重きをなしている。
 足利幕府の内戦「観応の擾乱」では一貫して尊氏・義詮高師直側についた。観応2年(正平6、1351)10月に兄・頼章が幕府の執事(後の管領に相当)に任じられると、義長は三河・遠江・備後の守護も兼ねて6か国を押さえる大大名となった。義長は兄・頼章と共に尊氏に従って直義との薩埵山合戦にも参加、この戦いで敗れて伊豆に逃れた直義のもとに投降を呼びかける使者にもなっている。その後の関東での新田義宗義興ら南朝勢力の攻勢にもよく戦い、尊氏の危機を救うなど「勇士」として評判は高かったようだ。実際東大寺の文書でも「勇士の名望、世に以て隠れなし」と評されている。
 一方で文和4年(正平10、1355)4月、義長は細川清氏がもつ三条西洞院の土地に勝手に建物を建て始めて清氏と合戦寸前の大ゲンカとなり、尊氏が清氏のもとへ、義詮が義長のもとへ出かけて説得し、ようやく収まったという妙なトラブルも起こしている。

―南朝に走ったことも―

 尊氏が死去し、2代将軍・義詮の時代になると義長は兄と共に幕府のなかで権勢をふるった。しかし義詮が仕掛けた南朝への大攻勢のなかで、味方の畠山軍の敗北を嘲笑して一人気勢をあげ、「敵なのか味方なのか、分からぬやつ」『太平記』で批判されるなど敵も多く作ってしまった。
 延文4年(正平14、1359)10月に兄・頼章が亡くなり、翌延文5年(正平15、1360)7月、畠山国清細川清氏土岐頼康らが楠木討伐を口実に軍を集めて義長打倒のクーデターを画策する。察知した義長は義詮を将軍邸に包囲・監禁して対抗しようとしたが、佐々木道誉の策略により義詮に逃げられ、やむなく守護国の伊勢へと逃亡した。

 近江の佐々木氏・美濃の土岐氏の攻勢にさらされた義長は翌康安元年(正平16、1361)に生き残りのために南朝に降伏している。その後義長を追い落とした細川清氏も失脚して南朝に降り、楠木正儀ら南朝勢と京へ攻め込み一時占領を果たすが、このとき義長も呼応して美濃の土岐氏を攻撃している。これ以後伊勢では長野城に立てこもる仁木義長と南朝の有力者・北畠顕能、そして義長を攻める土岐氏と三者鼎立の状態となった。

 5年後の貞治5年(正平21、1366)年8月に幕府内の政変(斯波高経の失脚)をきっかけに幕府に復帰、伊勢守護には返り咲いたが他の国の守護職は失い、以後、仁木氏の勢威が回復することはなかった。永和2年(天授2、1376)9月10日に死去している。

参考文献
森茂暁「太平記の群像・軍記物語の虚構と真実」(角川選書)ほか
大河ドラマ「太平記」第47回と最終回に登場(演:田城勲)。兄・頼章とセットで義詮の側近として登場する。
PCエンジンCD版紀伊国の北朝方君主・畠山国清の配下として登場。初登場時のデータは統率59・戦闘73・忠誠66・婆沙羅67
メガドライブ版「新田・足利帖」では一部合戦のみだが「足利帖」ではかなりのシナリオに味方として登場する。能力は体力68・武力78・智力72・人徳49・攻撃力52。 
SSボードゲーム版兄・仁木頼章のユニット裏で登場。武家方の「武将」クラスで勢力地域は「山陰」。合戦能力2・采配能力5で強力なほう。

仁木頼章にっき・よりあきら(よりあき)1299(正安元)-1359(延文4/正平14)
親族父:仁木義勝 
弟:仁木義長・仁木頼勝 
子:仁木義尹・仁木頼夏(養子)
官職兵部大輔・周防守・伊賀守・左京大夫
幕府執事、侍所頭人、丹波・武蔵・下野・丹後守護
生 涯
―足利幕府創設に貢献―

 通称「二郎三郎」あるいは「太郎」。足利一門の一員として弟の義長と共に挙兵以来足利尊氏に従い、『太平記』では「高・仁木・細川・上杉の人々」としばしばセットで尊氏直属部隊として活躍が記されている。
 仁木頼章の名が史料中に現れるのは建武元年(1334)正月。前年発足した後醍醐天皇の建武政権がまだそのかげりを見せてはいなかった段階での正月の馬場殿での「弓場始め」の儀式に「仁木伊賀守頼章」が参加していることが「御的日記」に見える。

 「太平記」での頼章の初出は建武2年(1335)11月、関東に自立の姿勢を見せた足利尊氏に対して新田義貞の征討軍が派遣されてきた時、足利直義がこれを矢作川で迎え撃った軍の中に「仁木太郎頼章」の名が弟の義長と共にみえる。
 建武3年(延元元、1336)、いったん京都攻防戦に敗れた尊氏が九州へ逃れている間、頼章は京近くの丹波に残り、久下・長沢・荻野・波々伯部(ほうきべ)といった丹波豪族たちを配下に、播磨の赤松円心と連絡をとりつつ抵抗を続けた。今日から攻めのぼった尊氏が湊川の戦いに勝利して京へ攻めよせる時に頼章は丹波・但馬の兵をまとめて京へ入り、新田義貞らと京市内での攻防戦を戦った。その後、越前金ヶ崎城の攻略や、貞和4年(正平3、1348)の楠木正行との四条畷の戦いにも参加している。
 建武年間に丹波守護になっていたと推測される頼章はこれらの戦いに丹波武士団を率いて参加しているが、自身の家臣で丹波守護代であった荻野朝忠が康永2年(1343)に謀反を起こし、頼章もその責任をとって丹波守護職を下りている。

―執事から管領へ―

 足利幕府の内戦「観応の擾乱」では一貫して尊氏・義詮高師直側について、とくに京の警察をつかさどる侍所頭人として義詮を補佐した。幕府の執事であった高師直が殺害され、いったんは和睦した尊氏と直義たったが再び決裂、観応2年(正平6、1351)7月に尊氏派の佐々木道誉赤松則祐などの武将達はわざと京を離れ、頼章も「病のため有馬温泉に湯治にいく」といって京を離れた(「太平記」)。これを追うように尊氏・義詮も京を離れ、これは直義らを京に包囲しようという作戦で、それを察した直義はすぐに北陸、そして関東へと逃亡した。このあと頼章は高師直の地位を引き継いで幕府の執事職に任命されている(観応2年10月21日)
 尊氏は南朝と和睦してこれを追い、頼章・義長の仁木兄弟は尊氏に従って関東へ向かって、尊氏・直義の最終決戦である薩タ山の戦いにも参加した。この戦いに敗れて伊豆に逃げ込んだ直義に投降を呼びかける使者に仁木頼章と弟の義長が派遣されている。

 投降した直義は直後の観応3年(正平7、1352)2月に鎌倉で急死した。直後に南朝側は京と鎌倉を一挙に奪取する作戦を実行に移し、関東では宗良親王新田義宗新田義興らの軍が鎌倉を目指した。これを足利側が迎え撃った武蔵野の戦いでも仁木兄弟はよく奮戦し、尊氏の危機を救っている。
 翌文和2年(正平8、1353)9月に関東の平定を終えた尊氏は京にもどった。仁木頼章も執事としてこれに同行し、このころから足利家の執事にとどまらず、土地問題など政務にも関与するようになっていく。このころから「執事」職は室町幕府における首相ともいうべき「管領」へと移行し始めたとされ、「太平記」でも実際に頼章のことを「時の管領」と表現している部分がある。
 文和3年(正平9、1354)12月に直義の養子・足利直冬が南朝に下って山陰の山名時氏と共に京へ攻めのぼると、その途上の丹波を治める頼章はこれを阻止しようと出撃したが、全くかなわず佐野の城に引き揚げた。直冬軍が京に入るとこれを追って京・嵐山に陣をとるが、ここで戦況を眺めて情勢の変化に一喜一憂するばかりで桂川から東に出撃することがなかったと「太平記」は批判的に記している。

 延文3年(正平13、1358)4月30日に尊氏が死去すると、翌月に頼章はこれに殉じる意味で執事職を辞して出家し、法名を「道m」と号した。その後も二代将軍・義詮のもとで弟の義長ともども重んじられたが、翌延文4年(正平14、1359)10月に「雑熱(ぞうねつ)」(腫物の一種らしい)のために連日苦しみ、10月3日に死去した。享年61歳。彼の死を日記に記した公家・洞院公賢「武家随分の重人なり」(幕府において大変重要な人物であった)と記し、その死により幕府政治の先行きに不安すら感じている。それだけ頼章の存在は大きいものだったのだろう。

参考文献
森茂暁「太平記の群像・軍記物語の虚像と真実」(角川選書)
大河ドラマ「太平記」第45回に初登場し、この時は演じたのは岩井弘。ところが第47回・第49回では山本信吾が演じている。義詮の側近という扱いになっており、第47回では義詮についていながら上皇の確保を忘れる失態を演じ、師直から叱責される一幕がある。
PCエンジンCD版相模伊豆の尊氏の配下として登場。初登場時のデータは統率42・戦闘51・忠誠71・婆沙羅56
メガドライブ版足利軍の武将として登場、「新田・楠木帖」では敵に回すことになる。能力は体力86・武力109・智力118・人徳83・攻撃力89。 
SSボードゲーム版武家方の「武将」クラスで、勢力地域は「山陰」。合戦能力1・采配能力4。ユニット裏は弟の仁木義長。

仁木頼夏にっき・よりなつ生没年不詳
親族養父:仁木頼章 実父:細川和氏
養子:仁木義尹
官職中務少輔・左京権大夫
位階正五位下
幕府丹波守護、侍所頭人
生 涯
―翻弄され続けた仁木氏養子―

 仁木頼章の子としてその跡を継いでいるが、『尊卑分脈』『愚管記』によると実父は細川和氏で、仁木頼章の養子になったものだという。頼章には実子の仁木義尹もいるのだが、わざわざ細川氏から養子をとった経緯は不明である。
 延文4年(正平14、1359)10月に頼章が死去するとその跡を継いで丹波守護になっている。ところが翌延文5年(正平15、1360)7月に叔父の仁木義長細川清氏畠山国清らと対立、将軍・足利義詮を我が手に押さえようと将軍邸を包囲し義詮を監禁する挙に出たが、このとき頼夏は義長の指示に従って警備に当たっている。ところが佐々木道誉の計略によって義詮がまんまと逃げてしまうと、頼夏は怒りのあまり屏風や障子を踏み破り、「日本一のふがいない方を頼みにしたのが無念だ。これからの戦で我らが勝利すれば、あの方は我らの方へ手揉みしながら出て来るに違いない」と散々に悪態をついた(「太平記」巻35)
 義詮に逃げられた義長は伊勢へ逃亡、頼夏も守護国丹波へ逃れた。そのまましばらく丹波にひきこもって義詮の上洛命令も無視し続けたが、10月に細川頼和(頼夏の実の兄弟)率いる幕府軍の追討を受け、時期は不明だが投降して京に戻ったようである。

 その後、実の兄である幕府執事・細川清氏と行動を共にしていたようだが(「太平記」には清氏の「猶子」となっていたように書かれている)、康安元年(正平16、1361)9月に今度は清氏が佐々木道誉の策謀にはまって義詮から追討を受けることになってしまう。頼夏は清氏兄弟、いとこの細川氏春らと清氏邸にたてこもったが結局清氏が若狭に逃亡。頼夏はいったん京にどとまったが伊勢に走り、若狭を出て南朝に投降した清氏に合流した。12月に清氏は楠木正儀らと共に南朝軍を率いて京を占領し、頼夏は丹波へ出陣して義弟であり丹波守護となった仁木義尹と戦ったが敗れて京に逃げ帰った(「太平記」)
 その後まもなく南朝軍は京を奪い返され、翌年7月に清氏も讃岐で細川頼之に討たれることになるが、その間の頼夏の行動については不明である。他の細川一族同様に降伏して寛大な処分を受けたと推測され、貞治5年(正平21、1366)には侍所頭人を務めている。

新田(にった)氏
 清和源氏。源義家の三男・源義国が長男・義重と共に上野国新田荘を開いて拠点としたことから始まり、義国の二男・義康は足利氏の祖先となっている。つまり新田氏の方が足利の兄筋なのだが、頼朝挙兵に協力的でなかったことなどから鎌倉時代には冷遇され、足利氏に大きく差をつけられて無位無官の一御家人となっていった。1333年に義貞が鎌倉を攻め落とす殊勲を上げ、後醍醐天皇の思惑もあって一気に足利尊氏に対抗しうる武家の棟梁候補にのし上がるが、尊氏との対決では敗北を重ねた。義貞の子孫や新田一門の多くは一貫して南朝方として戦い、足利幕府の追討を受け、各地で消えていった。

源義家┬義親─為義─義朝─頼朝








└義国┬義重───┬義範→山名





義顕


├義康足利├義俊→里見


┌足利家時室

義興┌岩松満純


└季邦
├義兼───┬義房────政義
┬政氏─基氏───朝氏義貞──義宗義則




└女子→岩松
├家氏─大館
脇屋義助義治└由良貞氏




├得川義季─┬頼有
└家貞─
堀口







├経義→額戸└世良田頼氏┬教氏世良田








├義光
└有氏
江田








└義佐








新田氏義にった・うじよし生没年不詳
官職蔵人
生 涯
―鎌倉攻めに参加―

 新田一族のなかで重きを置かれたものであることは確実だが、その系譜については未確定の人物。元弘3年(正慶2、1333)5月の鎌倉攻略戦に参加した三木俊連の軍忠状に「日大将軍新田蔵人七郎氏義」と記され、5月21日に「日の大将(その日担当の指揮官)」を務めていたことがわかる。前日には岩松経政が「日の大将」を務めているのでそれと同クラスの武将と思われる。新田一門の大館宗氏の甥に「氏義」がいるので彼かと推測されるが「蔵人」を称したことが確認できないため断定はされていない。

参考文献
山本隆志「新田義貞」(ミネルヴァ書房日本評伝選)
大河ドラマ「太平記」第22回「鎌倉炎上」の回のみ登場(演:河合隆司)。義貞のそばで参謀役をつとめ、稲村ケ崎突破作戦にも従い、鎌倉市街に突入するさい木戸の見張り台の上にいた兵士を矢で射殺し、脇屋義助から褒められていた。

新田朝氏(朝兼)にった・ともうじ(ともかね)1274(文永11)?-1318(文保2)?
親族父:新田基氏
兄弟:新田朝氏(氏光)・新田満氏・義量・義円
子:新田義貞・脇屋義助・大館宗氏室
生 涯
―存在感の薄い義貞の父―

 新田本家7代目当主で新田基氏の子。新田義貞の父である。しかしその事跡はほとんど伝わっていない。その名前も初名が朝氏だがやがて「朝兼」に改名(「長楽寺文書」)、「氏光」と名乗ったこともあるとされる。鑁阿寺の「新田足利両家系図」に生没年が記されているが、この史料自体あまり信頼度が高くない。息子の義貞を生んだ妻についても諸説あって分からず、義貞は実は養子であるとの説も無視できない扱いを受けている。要するにほとんど何も分からない人物なのである。
 事跡がはっきりと確認できる資料は正和3年(1314)5月28日と翌正和4年(1315)2月22日の二度にわたり、八木沼郷の領地を由良景長の妻・紀氏に売却した記録のみである。新田氏と縁の深い長楽寺の再建事業のためだったとみられる。この土地売却の書類には執事の船田政綱も名を連ねている。この売却文書で朝氏は「源光」、政綱は「妙質」と法名で署名していることから、この時点ですでに二人そろって出家していることが確認できる。この時期すでに病身であったのか、新田家当主の座を息子の義貞に譲っていたのかもしれない。文保2年(1318)10月6日に義貞が父と同じように土地を売却している証文があるため、これ以前に死去したものと思われる。父の基氏に先立つ死であった。

参考文献
峰岸純夫「新田義貞」(吉川弘文館人物叢書)
山本隆志「新田義貞」(ミネルヴァ書房日本評伝選)
久保田順一「新田一族の盛衰」(あかぎ出版)
歴史小説では新田次郎「新田義貞」では主人公の実父ということで前半の重要人物。労咳を病んでいたという設定になっている。

新田武蔵守にった・むさしのかみ?-1409(応永16)
親族父:新田義則?
官職武蔵守
生 涯
―南朝新田一族最後の活動―

 『本土寺過去帳』に記録が残る新田一族。応永16年(1409)7月に「新田武蔵守」なる者が鎌倉・七里浜で討たれたと書かれているだけで詳しいことは全く分からないが、確実な史料で確認できる南朝支持の新田一族の最後の活動記録である。
 軍記物『鎌倉大草紙』でこの記述に対応していると思われるのが、7月22日に鎌倉公方・足利満兼が病死した際の記事である。この日に「新田殿の嫡孫」が廻文をまわして謀反を企んだために侍所の千葉兼胤によって討たれたとあるのだ。満兼の急死を機に鎌倉で何か陰謀を企てたものとみられるが、具体的なことは分からない。
 文字どおりの「新田殿の嫡孫」となると新田義則のことになるが、義則はすでに応永10年(1403)に箱根で殺されている。『鎌倉大草紙』では義則と行動を共にしていた息子の「刑部少輔」という人物が登場しているが、これが「新田武蔵守」と同一人物とも考えられるが確たるものではない。『南方紀伝』ではこの人物を新田義宗の子・貞方(つまり義貞の孫)とするが、この史料は近世以降の南朝人気の産物だけに信用はほとんどできない。
 ともあれ、「新田」の名によって南朝方・反足利の活動をした人物は彼で最後となる。

参考文献
久保田順一「新田一族の盛衰」(あかぎ出版)

新田基氏にった・もとうじ1253(建長5)-1324(元亨4)
親族父:新田政氏 母:平秀時の娘?
兄弟:新田国氏・新田知信・新田重氏・新田快義・新田惟氏・新田貞氏・足利家時室
子:新田朝氏(氏光)・新田満氏・義量・義円
生 涯
―新田氏復活に尽力した義貞の祖父―

 新田本家6代目当主で新田政氏の五男。新田義貞の祖父である。五男にも関わらず当主となったのは母が北条氏一門(赤橋系らしい)平秀時の娘であったためとみられている。具体的な事跡はほとんど伝わらないが、基氏は母親が北条氏出身という縁を生かして、地位低下が著しかった新田氏の復活に尽力した人物だったと推測されている。
 鑁阿寺の「新田足利両家系図」によると基氏は北条氏が三浦氏を滅ぼした宝治合戦(1247)で活躍し、その功により上野国甘羅郡の所領を与えられたとあるのだが、宝治合戦の段階では基氏はまだ生まれておらず、父・政氏の事跡を誤ったものではないかと見られている。ただこの甘羅郡の領地を得た縁でこの地に所領を持つ有力御内人・安東重保の娘を孫の義貞の妻に迎えることに成功したのは基氏の力によるところが大きかったらしい。
 年齢から推測すれば1310年前後に息子の新田朝氏(のち朝兼・氏光とも)に家督を譲り出家したと思われる。法名は「道義」と号した。しかし文保2年(1318)に孫の義貞が当主として活動していることが確認できるので、それ以前に朝氏が死去したことになる。恐らく義貞が当主を継いだ初期には祖父・基氏がその後見役をつとめたであろう。
 新田荘・円福寺には新田氏歴代の墓があり、そのうち一つの五輪塔の銘文に「沙弥道義 七十二逝去 元亨四年甲子六月十一日巳刻」と彫られている。この銘文により新田氏歴代の中で珍しく基氏はその死の年月日と享年が特定できる(新田足利両家系図には異なる日付と享年が記されているが、この銘文によりあまりアテにならないことになる)。七十二歳といえば当時としてはかなりの長命である。この元亨4年(1324)の9月に後醍醐天皇による最初の倒幕計画が発覚する「正中の変」が起こっており、南北朝動乱はすぐ目の前に迫っていた。

参考文献
峰岸純夫「新田義貞」(吉川弘文館人物叢書)
山本隆志「新田義貞」(ミネルヴァ書房日本評伝選)
久保田順一「新田一族の盛衰」(あかぎ出版)
大河ドラマ「太平記」ドラマ中への登場はないが、「正中の変」直後を描く第5回で新田義貞が足利貞氏を訪ねる場面があり、貞氏が「先ごろは祖父基氏どのを亡くされて…」とおくやみの挨拶をするセリフがある。基氏死去の日付がその3か月前と確認できることから生まれた、さりげないがよく調べられた創作である。
歴史小説では新田次郎「新田義貞」では前半の重要人物。若い義貞を見守る心強い祖父である。

新田義顕にった・よしあき1317(文保元)?-1337(建武4/延元2)
親族父:新田義貞 母:安東重保の娘?
兄弟:新田義興・新田義宗
官職越後守・春宮亮
位階従五位下→贈従三位(明治42)
建武新政武者所頭人
生 涯
―自害の手本を示した義貞長男―

 新田義貞の長男。その生母について鑁阿寺の『新田足利両氏系図』では安東重保の娘とするが、史料の信用度の問題が若干あり断定できない。『太平記』でも鎌倉陥落の際に義貞の妻が伯父の安東聖秀に投降を進めた逸話が載り、義顕の母が実際に安東氏の出身だとすれば、安東氏は得宗被官の有力者であったとみられるから義顕の母は義貞の正室であったことになる。
 元弘3年(正慶2、1333)5月に父・義貞に従って鎌倉攻略に参加した可能性も高いが、『太平記』のそのくだりで登場はしておらず、元服はしているものの若年と言うことで付き従わなかったのかもしれない(父の義貞の推定年齢からすればまだ十代のはず)。建武政権では越後守、春宮亮に任じられたほか、武者所(一番)の頭人にも任じられている。

 建武2年(1335)11月に足利尊氏が建武政権に反旗を翻し、義貞を主将とする追討軍が関東へ向かったが、このとき義顕は京都にとどまって留守を守っていた(「太平記」)。義貞は箱根・竹之下の戦いで敗北して京へ戻り、これを追って足利軍が西上、これに呼応するように播磨から赤松範資、四国から細川定禅らの軍が京へと迫った。
 延元元年(建武3、1336)正月9日、義貞・脇屋義助・義顕らは山崎で細川・赤松軍を防ごうとしたが、味方にいた宇都宮公綱大友氏泰が寝返ったために敗退、義顕はこのときわざと後方にとどまって父たちを京へ撤退させ、父たちが京についたと思われた頃になって反撃に転じた。敵に寝返った宇都宮・大友勢は義顕の姿をみつけると討ち取ろうと取り囲んだが、義顕は包囲を何度も打ち破って激戦を繰り返し、鎧の袖もかぶとのしころも切り落とされ半死半生の重傷を負ってようやく京へ帰ったという(「太平記」)

 この重傷のためか『太平記』でも義顕の姿はしばらく現れず、義貞の山陽方面への遠征や湊川の戦いにも参加した様子がない。湊川の戦いの直後に後醍醐天皇が比叡山に逃れるが、その時の同行者の中に義貞らと共に義顕の名がみえる。そして10月10日に後醍醐が尊氏と一時和睦して比叡山をおりると、義貞・義顕ら新田勢は皇太子の恒良親王を「天皇」として奉じ、後醍醐の長男・尊良親王らと共に北陸へ向かい、苦難の峠越えの末に越前の要害・金ヶ崎城に入った。
 ここで義貞は「越後守」である義顕を越後へ下向させて北陸に新田勢力圏を築こうと考え、義顕と義治を出発させたが、途中で瓜生保の寝返りがあったために越後行きを断念して金ヶ崎に引き返した。『太平記』ではこのとき義顕が自ら人質に残ろうと申し出るなど殊勝な言動があったと伝えている。

 翌延元2年(建武4、1337)正月から高師泰斯波高経ら足利軍による金ヶ崎城攻撃が始まり、新田軍は善戦するも兵糧が尽き、3月には全員餓死寸前の状況となった。義貞は事態打開のためひそかに金ヶ崎を脱出して杣山城に移ったが、その直後の3月6日に金ヶ崎城は陥落した。
 義貞の留守を守っていた義顕は覚悟を決め、尊良親王のもとに「もはやこれまで」と伝えに来た。尊良が「自害とはどのようにするものか」と聞くと、義顕は「このようにするのです」と自らの腹を切り、自害の手本を示した上で刀を尊良の前に置いたまま突っ伏して息絶えた。尊良もそれにならって自害したという(「太平記」)。このとき享年二十一とする史料を信用するなら文保元年(1317)の生まれということになる。

参考文献
峰岸純夫「新田義貞」(吉川弘文館・人物叢書)
山本隆志「新田義貞」(ミネルヴァ書房日本評伝選)ほか
歴史小説では「太平記」における自害の場面が印象的なので、新田次郎『新田義貞』や山岡荘八『新太平記』など義貞メインの小説では必ず登場している。
PCエンジンCD版南朝方の独立君主として越後に登場する。初登場時の能力は統率78・戦闘80・忠誠87・婆沙羅26

新田義興にった・よしおき?-1358(延文3/正平13)?
親族父:新田義貞 母:天野時宣の娘?
兄弟:新田義顕・新田義宗
官職左兵衛佐
位階贈従三位(明治42)
生 涯
―猛将として活躍した義貞次男―

 新田義貞の次男で幼名は「徳寿丸」。その生母について鑁阿寺の『新田足利両氏系図』では上野国一宮・抜鉾神社の神主・天野時宣の娘としているが、この史料自体の信用性は低いとの意見もある。『太平記』の記述では「義貞の思い者の腹に出来た」ことになっており、義興は母の出自ゆえに低い扱いを受け、三男の義宗の地位の方が上であったとされている。

 延元2年(建武4、1337)に北畠顕家が大軍を率いて奥州から京を目指して出発すると、当時まだ徳寿丸と呼ばれ、北陸で戦う父や兄とは離れて上野で留守を守っていた義興は義貞に心を寄せる武蔵・上野の兵を率いて入間川で顕家軍に馳せ参じた。なお、このとき北条高時の遺児である北条時行も顕家軍に参じており、以後義興と時行は反足利でしばしば行動を共にすることになる。
 顕家軍は鎌倉を占領、年が明けて延元3年(建武5、1338)正月にさらに西へと攻め上って美濃の青野原の戦いで足利方に勝利、この戦いでは徳寿丸も奮戦している。その後伊勢から大和へと進み、義興は吉野の南朝に赴いて後醍醐天皇に拝謁している。後醍醐はまだ少年の徳寿丸を見て大いに気に入り「まことに武勇に優れた者である。きっと義貞の家を盛りたてるであろう」と誉めたたえ、目の前で彼を元服させ、「左兵衛佐義興」と名乗らせた(「太平記」巻33)
 このあと義興は北畠顕国(顕家の弟)と共に男山八幡へ進出、京をうかがった。しかし高師直が男山八幡を焼き払うという強硬策に出たため男山から撤退した。このあと5月に顕家も堺で戦死し、閏7月に義貞も越前で戦死してしまい、南朝は窮地に立たされる。南朝は長期計画の態勢立て直しを迫られ、義興は時行と共に関東に戻った。義興は一時北畠親房に同行して常陸で連戦していたらしいが、関東で失敗した親房が吉野に帰ると、しばらく姿をくらますことになる。

 それから十数年のあいだ、義興は弟で新田当主の義宗、従兄弟の脇屋義治と共に上野・武蔵・信濃・越後を転々としていたとみられる。やがて足利幕府で内戦「観応の擾乱」が起こり、正平6年(観応2、1351)11月に足利尊氏が弟・直義と戦うため南朝と和睦する「正平の一統」が実現する。翌正平7年(文和元、1352)2月に直義が鎌倉で急死すると、南朝は和睦を破って鎌倉と京を一挙に奪取する作戦を実行に移す。南朝は信濃にいた宗良親王を総大将にして義興ら新田一族、北条時行らに挙兵させ、尊氏のいる鎌倉を攻略させた。
 閏2月8日に新田軍は行動を開始し、20日に小手指原で尊氏軍と激突、義興は義治と共に義宗とは別隊を率いて奮戦したが、仁木頼章らに阻まれて重傷を負う。義興と義治は上野へ戻るよりはと手薄になっていた鎌倉を直接狙い、留守を守っていた足利基氏を追い出して一時とはいえまんまと鎌倉を占領した。だが義興らはいったん海を越えて安房へと逃れ(名草清源寺文書)、その後また戻って来て28日に鎌倉を再占領した(佐藤文書)。しかし宗良・義宗の軍勢が28日の笛吹峠の戦いで足利軍に敗北したため3月2日に義興らは鎌倉から撤退(太平記は3月4日とする)、国府津城から河村城へと移動してたが河村城が15日に攻め落とされ、その後はまた上野・越後方面に潜伏することとなる。

―矢口の渡しで謀殺、「大明神」に―

 6年後の正平13年(延文3、1358)4月に長年の宿敵であった尊氏が死んだ。このとき義興ら新田一族は越後に拠点を構えていたが、関東の南朝方から旗頭として出馬してほしいとの要請があった。義宗や義治は慎重な姿勢を示したが義興は気が急く性格で人に先んじて戦功を挙げようといつも考えている男だったため(「太平記」)、すぐに話に乗って百人ばかりの部下を連れて旅人の姿になりすまして武蔵へと潜行した。義興は南朝方の武士たちの間をあちこち渡り歩いて活動し、その動きはすぐに鎌倉公方の足利基氏、それを補佐する関東執事の畠山国清の知るところとなった。
 国清はかつて義興に味方していた竹沢右京亮を呼び出して計略を練った。竹沢はわざと国清の怒りを買って所領を取り上げられ、義興に味方すると申し入れて接近した。さらに都から「少将殿」と呼ばれる美女を連れて来て義興のもとに送り、色仕掛けでも義興を籠絡した。

 義興の信用を得た竹沢は、一度月見の宴に誘って義興を殺そうとしたが、少将殿が義興に忠告したため果たせなかった。そこで竹沢は国清に連絡をとってさらに同族である江戸遠江守とその甥の江戸下野守の二人を自分と同様に義興に接近させた。そして10月10日、竹沢らは一挙に鎌倉を攻め落とそうと義興を誘い、途中の多摩川の矢口の渡しで義興の乗る船にひそかに穴を開けて栓をしておき、川の中央に来たところで漕ぎ手たちに栓を抜いて川に飛び込ませた。両岸には竹沢・江戸の兵たちが待機していて逃れるすべもなく、沈みゆく船の中で義興は「なんということか。日本一の不道人(卑怯者)どもにだまされるとはな。七生まで生まれ変わってお前たちへの恨みを晴らしてくれようぞ」と罵って切腹、同行していた部下たちもあとを追った。義興らの首は入間川に在陣していた基氏・国清のもとへ届けられたという。

 以上の話は『太平記』巻33に詳細に記されている物語で、このあと義興の怨霊が江戸遠江守にとりついて死に至らしめたとか、国清の夢に義興の亡霊がでたとか、落雷で入間川一帯の民家や寺院が燃えて灰燼に帰した、その後も矢口の渡し辺りに夜な夜な光る物が見えたといった怪談が語られ、人々が義興の怨霊を鎮めるために神社を建立し、義興を「新田大明神」として祭ったという説話につながってゆく。なお『太平記』はこの謀殺事件を正平13=延文3年(1358)10月10日とするが、当時の記録で比較的信用のおける『大乗院日記目録』では同じ10月10日でも一年違いの「延文四年」(1359)のこととしており、こちらの方が正しい可能性もある。
 『太平記』のこの義興謀殺のくだりは独立した物語としてよくまとまっており、江戸時代に奇才・平賀源内がこの物語を下敷きにした戯曲『神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)』を創作している。この戯曲の影響もあってか義興を祭った新田神社は今日でも人々の信仰を集めている(彼に冷たかったらしい父・義貞よりも信仰を集めているのは間違いない)。『太平記』に載るということは死の直後から義興の悲劇の英雄視が始まっていたということでもあり、同時代人の注目と同情を集めるような猛将だったのであろう。

参考文献
小久保順一「新田一族の盛衰」(あかぎ出版)
峰岸純夫「新田義貞」(吉川弘文館・人物叢書)
山本隆志「新田義貞」(ミネルヴァ書房日本評伝選)ほか
その他の映像・舞台「神霊矢口渡」を映画化した「お舟と頓兵衛」(大正14)で市川桝十郎が義興を演じたとされる。「神霊矢口渡」の原作は義興が死んだ後の話なので本来義興は登場しないが、この映画版では前日譚として義興謀殺のシーンがあったようである。
PCエンジンCD版1340年になると元服して父・義貞のいる国に登場する。初登場時の能力は統率63・戦闘84・忠誠95・婆沙羅29
PCエンジンHu版シナリオ2「南北朝の大乱」で南朝方武将として上野・反町館に登場する。能力は「騎馬2」
SSボードゲーム版父・義貞のユニット裏で、身分は「大将」クラスで勢力地域は「全国」。合戦能力1・采配能力5

新田義貞
にった・よしさだ1300(正安2)?-1338(建武5/延元3)
親族父:新田朝氏 弟:脇屋義助 
妻:安東重保娘・天野時宣娘・小田真知娘・勾当内侍?
子:新田義顕・新田義興・新田義宗 
官職越後守、左近衛中将
位階従四位下→贈正三位(明治9)→贈正一位(明治15)
建武新政越後・上野・播磨国司、武者所頭人
生 涯
 清和源氏の名門の血を受け継ぐ家に生まれ、鎌倉幕府の打倒から南北朝動乱まで一貫して後醍醐天皇・南朝側について戦った武将。武士のなかにあっては足利尊氏の最大のライバルであった。

―名門ながら無位無官―

 新田一族は源義家を祖とする清和源氏の名門として鎌倉初期まで源頼朝や北条氏から重んぜられたが、その後代々のトラブルも続いて鎌倉末期には上野新田荘を支配する一地方御家人に過ぎない立場まで落ちぶれていた。義貞の誕生年も判然とせず、延元3年(1338)の戦死時の年齢が37〜39歳とされることから永仁6年(1298)から正安2年(1300)の生まれと推測されるだけである。

 父・朝氏(朝兼・氏光とも改名している)についても事跡がほとんど伝わらず、文保2年(1318)10月に新田荘の田畑を売却する証文に「源義貞」とあることから、これ以前に朝氏が死んで義貞が家督を継いでいることが分かる。義貞がこれらの証文で「新田太郎」ではなく「小太郎」あるいは「孫太郎」という名を記すこと、「宮下過去帳」「義貞は実は里見義忠の五男で新田朝氏の養子である」との記述があることから朝氏の実子ではなく養子であったとする見解もある(あまり有力視されないが無視もされてない)。なお、文保2年の売地証文に対する幕府の確認には「新田孫太郎貞義と誤記されており、義貞が無位無官の単なる「孫太郎」であり、名も間違えられるなど軽い扱いを受けていることが分かる。

 いっぽう義貞の祖父の基氏は長命で、元亨4年(1324)6月に72歳で死去するまで新田氏の家運再興に力を尽くし、義貞の妻に御内人(北条家臣)の有力一族の安東重保の娘を迎えたのは基氏の運動によるものだったと推測される。
 元亨2年(1322)、新田一族の大館宗氏岩松政経が用水をめぐる紛争を起こし、岩松側が幕府に訴え出てこの年10月に岩松寄りの判決が出ている(正木文書)。一門内の争いに対して惣領である義貞が調整にあたれなかったことに新田惣領家の地位の低下を見る声もあるが、岩松氏が新田一門というより足利一門に近い立場で独自の台頭を見せていたという事情もあるようだ。

―鎌倉幕府の打倒―

 義貞がようやく歴史の表舞台に登場するのは鎌倉幕府が滅ぶ元弘3年(正慶2、1333)の年明けのことである。大番役の務めのため京に出ていた義貞ら新田一族(里見・山名含む)は正月に河内の楠木正成の攻略を命じられて出陣している(「楠木合戦注文」)。そして千早城攻撃に参加していた義貞はここで世の流れが倒幕に向かっていると判断、執事の船田義昌と相談のうえ護良親王の配下と接触してその令旨を受け、仮病を使って新田荘に帰ったと『太平記』は物語る。令旨を受けたという明確な証拠はないが、千早攻めの陣から抜け出すように領地に帰ったのは事実で、やはり後醍醐側と何らかの接触があったとみるのが自然だろう。

 義貞が新田荘・生品明神において討幕の挙兵を行ったのは元弘3年5月8日とされる。『太平記』によれば幕府の徴税使・黒沼彦四郎出雲介親連が「五日のうちに五6万貫を差し出せ」と要求、これに対して義貞は二人を捕え(黒沼は殺害)、ついに挙兵に踏み切ったと記されている。5月8日付で幕府は義貞の土地を没収して長楽寺に寄進しているのでこの日に義貞が挙兵したのは間違いないと思われるが、この前日の5月7日に足利高氏が丹波・篠村で討幕の挙兵をしており、両者の間に連絡があったのかどうか古くから議論がある。

 この時期、護良親王が義貞はじめ各地の武士に挙兵を呼び掛けているが、それと同規模で高氏も広く挙兵を呼び掛けていたことが知られ、挙兵の直後に義貞の軍に鎌倉を脱出してきた高氏の子・千寿王(足利義詮)が合流することから新田・足利間に事前の密約があったのではとみる見方は根強い。『保暦間記』は義貞の挙兵は高氏の指示を受けたものとまで明記する。また新田一門であるが血統的には足利一門といえる岩松経家が両者の連絡の間に立っていたと考えられ、のちの応永年間に経家の子孫が「鎌倉攻めは高氏の指示を受けて経家と義貞が「両大将」として実行した」と主張したこともある。
 また北畠親房『神皇正統記』『増鏡』が義貞について「高氏の末の一族」と記すなど、京の公家からみれば無位無官の新田など足利一門の末席ぐらいにしか思われていなかったし、事実として足利と新田にはそれだけの勢力差があった。『増鏡』は「義貞が高氏の子を総大将に立てて兵を起こした」とまで書いており、兵力も小さい義貞が一見無謀とも思える挙兵に踏み切ったのは高氏の指示と後援が最初からあったとみるほうが自然だろう。

 5月8日に挙兵した義貞はまず上野中心部に進出、ここで越後から来た新田一族と合流した。兵力を増大させた義貞は上野から武蔵へと南下、12日に小手指河原で最初の合戦を行った。この頃に鎌倉を脱出した高氏の子・千寿王が新田荘・世良田に入って挙兵し、やがて新田軍に合流している。さらに護良親王と高氏の呼びかけに応じた各地の武士が次々と加わり、新田軍はたちまち大軍に膨れ上がる。
 新田軍の勢いに幕府側も北条泰家率いる大軍を繰り出し、5月15日に分倍河原で両軍が激突した。初日の戦いは義貞軍が敗れいったん退いたが、翌16日に三浦大多和義勝が新田軍に内通して幕府軍に奇襲をかけ、戦いは新田軍の勝利に終わる。

 新田軍が鎌倉攻撃にかかったのは5月18日からである。義貞は軍勢を三手に分け、大館宗氏らが極楽寺坂から、堀口貞満らが小袋坂(巨福呂坂)から、義貞自身は化粧坂(けわいざか)から鎌倉への侵入を試みた。さすがに幕府軍の防戦も凄まじく、一度は稲村ケ崎を突破した大館宗氏が戦死するなど新田軍も攻めあぐねた。
 義貞は宗氏同様に稲村ケ崎を突破する作戦を実行し、5月21日に干潟となった稲村ケ崎海岸を突破して鎌倉市中への突入に成功した。このとき義貞が太刀を海中に投じて龍神に祈ったところたちまち潮が引いて干潟となったという『太平記』の名場面があるが、『梅松論』にも潮が引いて干潟となる「不思議」があったと書かれており、ある程度の事実を脚色したものと考えられる。
 翌5月22日に得宗・北条高時以下北条一門とその郎党数百人は東勝寺にて集団自決し、鎌倉幕府はここに滅亡した。義貞が生品明神で挙兵してからわずか14日後のことである。このとき義貞の正室の伯父で北条家臣であった安東聖秀が義貞の投降の誘いを拒否して自害している。

―建武政権を支えて―

 幕府の拠点・鎌倉を短期間で攻め落とした義貞は無名の存在から一躍倒幕の功労者にのし上がったが、鎌倉陥落直後から足利高氏との間に軋轢を生じている。高氏の子・千寿王が鎌倉に入って陣所を構えると、戦いに参加した武士たちは軍忠状を新田に出すか足利に出すか迷った末に、すでに名門である上に六波羅を陥落させて京を制圧した足利側に馳せ参じるようになった。さらに高氏は腹心の細川和氏らを鎌倉に送って千寿王を補佐させ、同時に義貞を牽制させた。鎌倉市中では新田・足利両陣営の武士たちの紛争が頻発し、いまにも合戦かという事態になったが、細川和氏らが義貞の陣所を訪問して真意をただしたところ義貞は「野心はない」とする起請文を出して事態を収拾したという(『梅松論』)

 間もなく上洛した義貞は8月5日の除目(朝廷人事)で上野・越後・播磨の国司、および治部大輔に任じられた。そして後醍醐天皇の親衛隊として京の治安維持にあたる「武者所」が設置されると、義貞がその頭人(長官)に任じられ、新田一族がその主要メンバーを占めた。

 後醍醐が開始した建武政権は早くから深刻な内部対立を抱えており、足利尊氏と対立した護良親王の失脚、西園寺公宗による後醍醐暗殺未遂など事件が相次いだ。しかし義貞がそのなかでどのような立場をとっていたかは明らかではない。「三木」と称された結城親光・楠木正成・名和長年のように名が取りざたされることもなく、親護良・反護良どちらの態度もうかがえず(『梅松論』に義貞が護良派の一員であるかのように書く個所はあるが)、武者所を統括しながら西園寺公宗事件で出動した様子もなく(楠木正成・高師直は出動している)、その他の軍事行動も記録が見られない。恩賞では一門の岩松経家のほうが独自にうまく立ち回っており、義貞は政治的な運動にはほとんど無関心だったのではないかとすら思える。建武政権期の義貞の逸話といえば宮殿を警護しているうちに勾当内侍の姿をみかけて恋に落ちたという『太平記』が記す艶っぽい物語ぐらいのものだ。

 建武2年(1335)7月、北条時行が北条残党を率いて信濃に挙兵し、鎌倉を奪回した(中先代の乱)。足利尊氏は後醍醐の許可を受けぬまま出陣してこの乱を鎮圧し、そのまま鎌倉に居座って事実上の幕府再建を開始した。このとき尊氏は義貞が支配する上野に腹心の上杉憲房を守護として送り込むなど新田一族の利権を犯す行為をし、ここで初めて義貞は尊氏と明白な対立姿勢を見せることになる。
 『太平記』は後醍醐に対して尊氏が義貞討伐を、義貞が尊氏討伐を求める上奏文を出したとしてその全文を載せるが、これが実際に出された文面であることには疑問がもたれる。ただ足利側では尊氏ではなく弟の直義名義で義貞討伐の軍勢催促状が各地の武士に発せられており、『保暦間記』には護良親王の腹心(四条隆資か?)が義貞に尊氏打倒を吹き込んだという記述があることから、この時期の建武政権対新武家政権の対立構図が「足利対新田」という形に持ち込まれていたのは確かなようだ。少なくとも足利側は後醍醐天皇との直接対決の形を避け、あくまで「義貞討伐」という形式にこだわった。

―尊氏との対決―

 尊氏の反逆が明らかになったとして後醍醐は尊氏追討の命を下し、東海道・東山道の二手に分けて追討軍を発した。義貞は東海道軍の総司令官となって新田一門を率いて出陣、11月18日に京を発って11月25日に三河・矢作川高師泰らの足利軍を撃破した。さらに12月5日に駿河・手越河原で迎撃してきた足利直義の軍に圧勝し、ここで佐々木道誉ら投降兵を味方に加えて兵力を増し、一気に箱根へと迫った。この間、尊氏は浄光明寺にこもって出家遁世の意思を示していたが足利家の危機に出陣を決意、12月11日に新田軍の分隊として竹ノ下に進んでいた義貞の弟・脇屋義助の軍を奇襲した。脇屋軍は崩壊し、さらに佐々木道誉・塩冶高貞大友貞載らが足利側に寝返って形勢が逆転したため、義貞はやむなく西へと敗走する(箱根・竹之下の戦い)

 この敗走時、新田軍は天竜川に浮橋をかけて数日がかりで渡り、義貞自身は一番最後に渡った。兵士たちが追跡してくる足利軍を妨害するため浮橋を破壊しようとすると義貞は「勝ちに乗った足利軍なら浮橋などすぐにかけてしまうだろう。むしろ橋を切り落として慌てて逃げたとみられては末代までの恥辱だ。よく橋を警固しておけ」と渡し守に言い、浮橋をかけたままにしておいたという。あとから川にやって来た足利軍の兵たちはこの話を渡し守から聞いて「弓矢とる者(武士)としてはこうありたいものだ」と大いに感動したという。この逸話は足利側の軍記である『梅松論』『源威集』に載り、敵方からも義貞の行為が賞賛され喧伝されたことがうかがえるが、『太平記』では微妙に話が異なり、浮橋を義貞と船田入道(義昌)が最後に渡ったことは同じだが、このとき何者かの工作で橋が途中で切れて義貞と義昌が手を取り合ってジャンプし間を飛び越えたことになっている。

 義貞はいったん尾張にとどまって足利軍の西上を阻止する構えだったが、四国・中国から足利軍に呼応する軍が起こり京に迫ったため急いで京へと引き返した。年が明けて建武3年(1336)正月からの京都攻防戦では義貞はいったんは足利軍の入京を許すものの、奥州から駆け付けてきた北畠顕家軍と合流して京を奪回(この時の戦いで執事・船田義昌が戦死)、なおも京をうかがう足利軍を摂津で破ってついに尊氏を九州まで敗走させた。

 このころ、楠木正成が後醍醐に「義貞を誅罰して尊氏と和睦すべし」と主張し「不思議な事を言う」と相手にされなかったとする話が『梅松論』に載っている。正成が義貞と対立していたわけではなく、尊氏が後醍醐との直接対立を形式上避けて「義貞討伐」を旗印にしているので、和睦をはかることが可能と判断しての意見と思われる。
 このとき義貞は九州へ敗走した尊氏をすぐに追わず、3月になってからようやく播磨へ出陣しており、『太平記』はその理由を後醍醐から与えられた勾当内侍との別れを惜しんだためとして非難している。義貞が「瘧(おこり)」を発病したとの話も書いており、勾当内侍の話も多分に「亡国の美女」の筋書きから脚色されたものと思われるのだが、義貞が速やかに追撃戦をしなかったことは事実であろう。負けたはずの尊氏に武士たちが集まって行くのを知っていた正成には義貞の緩慢な動きに失望を禁じ得なかった可能性もある。

―湊川の戦い―

 ようやく3月末に出陣した義貞は、自身が国司を務める播磨に入った。播磨は足利方の赤松円心の支配地であり、その居城・白旗城は難攻不落の山城であった。『太平記』によれば円心は義貞に「播磨守護職をくれたら降参しよう」と申し出て、義貞がその手続きのために京に使者を往復させているうちに防備を調え、義貞が播磨守護職の綸旨を届けさせると「播磨守護職はすでに将軍(尊氏)から頂戴している」とつき返した。激怒した義貞は円心のこもる白旗城の攻略に固執してここで数十日を無駄に費やしてしまい、結果的に尊氏軍の中国東上を許すことになったという。
 この逸話がどこまで事実なのかは分からないが播磨は義貞にとって自らの支配地であり赤松勢力を完全に駆逐する必要があり、だからこそ白旗攻略に固執したという見方はできる。また『太平記』では義貞が円心にしてやられる道化役になっているが、一方で赤松軍は善戦しつつも義貞の攻勢の前に落城の危機に陥っており、円心の子・則祐が尊氏のもとへ赴き緊急の東上をうながした事実もある。

 義貞もさすがに危険を感じて弟の義助に備中まで進出させているが、水陸二手の大軍で東上する尊氏・直義兄弟にかなわず、5月18日に白旗城の包囲を解いて、兵庫への撤退を余儀なくされた。兵庫では京から楠木正成の軍が合流し、水陸の足利軍をこの兵庫で迎撃する作戦が定められる。『太平記』によればこのとき義貞は正成に箱根・竹ノ下から中国遠征にいたる敗戦の数々を恥じていると打ち明け、すでに翌日の死を覚悟していた正成は逆に義貞を慰め励まし、夜通し飲み明かしたとされている。

 5月25日、湊川の決戦が行われる。義貞は和田岬に、正成は会下山に陣を張って連携して足利軍の進出を止めようとした。しかし細川定禅の水軍が和田岬を越えて東へ向かうのを見た義貞は、これが背後に上陸して前後から挟撃される危険を感じ、東へと軍を移した。
 この移動で新田・楠木両軍の間に空白が生じ、そこに尊氏の本隊が上陸して新田・楠木軍を完全に分断し、結果的に義貞の移動の判断が敗北を決定的なものにした。足利軍は孤立した楠木軍を包囲殲滅し、義貞は敗戦を悟って京へと撤退を開始した。この両軍の動きについては「義貞が正成を見殺しにした」「義貞を逃がすために正成が我が身を犠牲にした」等々、古来さまざまな見解を呼んでいる。『太平記』はこの撤退戦でも義貞は最後尾で奮戦して味方を助け、以前義貞に恩義を受けていた家臣が身代りになって戦死したために命を永らえたとしている。

―北陸での戦い―
 
 湊川で敗れた義貞を追って足利軍は京に入った。後醍醐天皇方は比叡山に逃れ、義貞らは京を奪回するべく戦いを続ける。この戦いのなかで義貞自身が東寺の尊氏本陣に駆けつけ、尊氏に「大将同士の一騎打ち」を挑んだとする話が『太平記』にある。この挑戦に尊氏はいったんは応じようとしたが上杉重能に諌められ思いとどまったとされている。この話は『梅松論』には見えず、逆に細川定禅の軍が義貞に迫って討ち取る寸前までいったが勇士たちが命を捨てて義貞を守ったため義貞は逃れることができたという話が載る。

 戦いは長引いたが、秋に入って琵琶湖方面の補給が断たれたことで比叡山の戦闘継続は困難となった。この情勢のなかで尊氏からの和睦の申し入れがあり、10月10日に後醍醐はこれに応じて比叡山を下りることにした。しかしこのことは義貞らには全く知らされず、後醍醐は義貞らを完全に見捨てる気であったと考えられる。新田一門のなかでも江田行義大館氏明らは後醍醐の下山に同行しているので、義貞が一門を掌握しきれていなかったことも推測させる。あくまで『太平記』の描写だが、公家の洞院実世から直前になって後醍醐下山を知らされた義貞は驚くどころか「何かの間違いでしょう」とすました顔で言ったとされ、純朴といえば純朴だが、総司令官でありながら致命的に情勢把握に疎い様子が描かれている。

 新田一門の堀口貞満が後醍醐下山を確認し、後醍醐の前に立ちはだかって「和睦するなら新田一族の首をはねてからにしてくれ」と激しい怒りの演説を行った。やがて事態を知った義貞も怒りの形相で駆けつけ、恐れをなした後醍醐は皇太子・恒良親王に皇位を譲り、義貞に対して恒良と尊良の二皇子を連れて北陸に下るよう命じた。
 この一幕も『太平記』のみが記すことでどこまで史実を描いているかは疑問もあり、後醍醐の仕打ちに怒った義貞らのクーデターであったとも、尊氏との講和がいずれ破綻すると予想した後醍醐が形勢逆転のために打った策であったとも様々な解釈がなされている。恒良への譲位が実際にあったかどうかについても議論があるが、北陸に下った義貞が恒良の名で天皇の発する「綸旨」を発行しており、少なくとも義貞は自分たちが「新天皇」を奉じていると考えていたことは確認できる。

 後醍醐が下山するのと同時に義貞らは琵琶湖西岸を経由して山を越え、越前に入った。新田軍は足利軍の追撃もさることながら峠越えでの猛烈な吹雪に苦しめられ、多くの凍死者、脱落者を出したことが『太平記』『梅松論』ともに記されている。義貞は越前国府を目指したが足利方の越前守護・斯波高経が妨害していると知って方向を変え、10月14日に天然の要害である敦賀・金ヶ崎城に入った。ここで義貞は恒良の綸旨を各地に発し、特に奥州の北畠顕家・結城宗広に畿内への出陣を呼びかけた。この間に後醍醐天皇は京を脱出して吉野に入り、自身が依然として「天皇」であることを表明している。

 高師泰ら率いる足利軍の金ヶ崎城攻撃は翌延元2年(建武4、1337)正月から開始された。義貞は周囲に一門や地元の豪族を配置してよく防いだが、金ヶ崎城は兵糧が尽き餓死寸前の悲惨な状態に追い詰められた末に3月6日に落城、尊良親王と義貞の子・義顕は自害、恒良親王は捕えられた。義貞は陥落直前に救援を呼ぶべく城を脱出していたため戦死を免れたが、足利方はしばらくのあいだ義貞の戦死を信じていた。あるいは死んでいないとしても再起不能とみていたと思われる。

―あっけない最期―

 しかし義貞は杣山城を拠点にして勢力の挽回に務めていた。金ヶ崎陥落から間もない3月14日に発した軍勢督促状が残っており、これが現存が確認できる義貞最後の文書となる。義貞は地道に勢力を拡大し、やがて越前をほぼ制圧していく。
 この年8月、奥州の北畠顕家の軍が京目指して長征を開始した。これは吉野の後醍醐の呼びかけに応じたものであるのはもちろんだが、顕家は義貞からの連絡もあったことを書状でうかがわせている。顕家の軍は年末までに鎌倉を制圧し、年が明けた延元3年(建武5、1338)正月に鎌倉を発って東海道を西上、美濃・青野原の戦いで足利軍を打ち破った。この北畠軍には義貞の三男・義興堀口貞満ら新田一門も合流しており、越前の義貞と連携する可能性もあった。しかし顕家は方向を転じて伊勢から吉野へ向かい、両軍の呼応は果たせぬまま、5月22日に顕家は和泉・堺で戦死してしまう。

 このとき北畠・新田両軍の合流・連携があれば京を奪還できたはず、とする意見は『太平記』にもみえ、顕家が義貞との合流を避けて転進した理由を「義貞に功を奪われることを恐れたため」としている。少なくとも北畠親房・顕家のような保守的な公家たちからみれば義貞は成り上がり者の関東武士であり冷淡視、あるいは警戒視していたと思われる。また義貞の方も比叡山で手ひどく見捨てられかけた経験や、恒良「天皇」がいるにも関わらず後醍醐が吉野で「天皇」と主張していることに違和感があり、越前での足固めを優先していた可能性もある。

 実際、この年の7月にかけて義貞は越前国府を拠点に優勢に戦いを進めており、越前をほぼ制圧して越後の新田勢力との連携を強め、北陸全体を「新田王国」状態にする勢いであった。黒丸城に追い詰められた足利方の越前守護・斯波高経は平泉寺の僧兵を恩賞でつって味方につけ、義貞はその平泉寺の兵がこもる藤島城を攻略していた。そして閏7月2日、義貞は藤島攻略に手間取る味方を助けようとしてか50騎ばかりの少数を連れて出かけたところを、黒丸城から藤島救援のために出動していた斯波軍300騎と燈明寺畷で遭遇して戦闘となり、矢に当たってあっけない最期を遂げてしまう(享年38とも39ともいう)

 『太平記』は義貞が部下の撤退の勧めを拒んで奮戦した末、深田にはまって落馬し顔を上げた瞬間に眉間に矢が刺さり、観念した義貞は自身の首をかき切って自害したと記しているが、『平家物語』の木曽義仲の最期を参考にした創作であるとされている。ただ『太平記』は戦場の現場にいて義貞の葬儀も行った時衆の僧侶に取材した可能性もあり、偶発的な戦いの中で名もない歩兵の弓矢で南朝の総大将があっけなく死んでしまうという展開自体はほぼ事実なのだろう。『太平記』作者はこれまでも義貞に対して厳しい書きぶりを見せているが、このあっけない戦死についてもその大将らしからぬ軽率さを非難している。

 義貞の首をとったのは越中の武士・氏家重国だった。彼は自分がとった首が何者かすら知らなかったが、首実検をした斯波高経は顔の矢傷と所持品の刀、そして懐に入れていた後醍醐親筆の書状からこれが義貞であると確認した。義貞戦死の報はただちに京に伝えられ、その首は間もなく京市外で獄門にかけられた。その首をみて妻・勾当内侍が嘆き悲しんだという話を『太平記』は語っている。
 義貞の死は「源氏の棟梁」候補の死であり、足利尊氏が義貞戦死の翌日に北朝から征夷大将軍に任じられたことも義貞の存在がそれだけ大きいものになったいたということを示している。義貞という柱を失った北陸新田軍は義貞の弟・脇屋義助の指揮でしばらく抗戦を続けたが翌年には越前を失陥し、脇屋義助らは吉野から四国へと渡った。義貞の息子たち、義宗や義興は新田氏のふるさと上野を拠点に一貫して南朝方で活動を続けることになる。

―その評価―

 新幕府を開いた足利尊氏のライバルの立場にあった武将だが、同時代からその評価はあまり高くない。鎌倉攻略戦は義貞自身の指揮であり彼の最大の戦功だが、「尊氏の指示のもとの行動」「高氏の一族の末」などと書かれる程度の認識しかもたれなかった。建武政権期では尊氏と武家の棟梁の地位をかけて対等の形で渡り合うが、尊氏からすれば後醍醐を直接敵に回すのを避ける方便として義貞を敵にした部分が多く、後醍醐にしても尊氏の対抗馬として義貞を引き出して手駒にしただけであった(都合が悪くなると平気で切り捨てようともした)
 そして現実に尊氏と対抗するほどの戦果をあげたとは言い難く、『太平記』は義貞の個人的奮戦を描きつつも大局を読めない凡将としか読めない描き方をしている。勾当内侍への愛に溺れて戦機を逸したり、白旗城攻めで赤松円心にまんまと騙されたり、尊氏に大将同士の一騎打ちを挑んだり、後醍醐の講和に全く気付かなかったり、藤島の戦いにおけるあっけない最期…などなど、その能力を疑いたくなる逸話が多い。

 ただし『太平記』は京都在住の知識人(僧侶)によって書かれたと思われ、楠木正成に対する賞賛一辺倒の語り口と逆のベクトルで田舎者で古風な関東武士・義貞をことさらに強調している可能性もある。むしろ足利氏の立場から書かれた『梅松論』では義貞の戦いぶりが「武士らしい」と高評価されており、関東武士たちからみればまた別の評価があったかもしれない。湊川の戦いの直後に尊氏が書いた書状には正成のことは呼び捨てにしながら義貞については「新田殿」と表現されていて、形式的には義貞を最大の敵の頭目としているはずの尊氏が義貞に対して一定の敬意を表していたことをうかがわせる。尊氏が義貞の戦死を受けて征夷大将軍に就任するのも彼の存在が決して小さくはなかったことを示している。

 足利氏が将軍家をつとめた室町時代において、新田一族は逆賊の最たるものとして敵視された。『太平記』は室町幕府編集の公式軍記という側面があり、このために義貞に関する記述が辛くなったとの見解もある。義貞の評価が高まるのは江戸幕府を開いた徳川氏が新田一族の末裔を称して以降で(その真実性は疑問大だが)、とくに南朝正統論を打ち出した水戸史学が浸透するにつれ、江戸時代を通して正成ともども義貞の神格化も進められていく。明治以後もこの傾向は強まるが、正成が極端に神格化されるなか、その陰に隠れてしまったことも否めない。『太平記』の書きぶりもさることながら、湊川の戦いにおいて総司令官である義貞が正成を死に追いやったようにみえることも一因かもしれない。

 第二次大戦後、戦前・戦中にむやみに称揚された南朝の歴史人物の評価は一気に低下、あるいは自由化された。楠木正成は「悪党的武士」「散所長者」など新たなアプローチで戦前とはまた異なる魅力を語られるようになったが、義貞の方は戦前に正成の陰に隠れたあおりで戦後の評価の低下はさらにいちじるしく、「実力もないのに尊氏に対抗した」「保守反動の公家政権の飼い犬」といった悪評を受けることになる。
 一方でこの変転常なき時代のなかで義貞の純朴・一本気な「古風な東国武者」ぶりはむしろ貴重なのではないかという評価もあるし、80年代以降、新田氏の地域領主としての研究が進んで従来言われたような「無位無官の貧乏御家人」とはまた違った有力者との視点も提示されている。また短期に崩壊したとはいえ義貞らが目指した「北陸王朝」にこの時代に各地にみられる地域の自立性の一例をみてその構想を評価する声もあり、義貞論も尊氏なみに変転を続けていくことになりそうだ。

 義貞の墓は福井県坂井市の長林山称念寺にある。また一族の由良氏が故郷の上野に菩提をとむらって建てたもう一つの墓は寺ごと茨城県竜ケ崎市金竜寺に移転している。
 明治時代に南朝忠臣を軒並み神社に祭る動きが続く中で、義貞も戦死地に藤島神社が建てられ神として祭られた。また明暦2年(1656年)にこの藤島の戦場で農民が兜を掘りだし、鎌倉時代に作成されたかなり上位の武将が持つものと鑑定されたため「新田義貞着用のもの」として越前松平家が所蔵し、現在は藤島神社に保存されている。もちろん義貞のものである証拠はないのだが、義貞軍の誰かのものである可能性は高いだろう。
 なお、2010年2月に挙兵の地・生品明神に建っていた義貞銅像(稲村ケ崎の場面を表したもの)が台座から外されて何者かに盗まれてしまうという事件が起き、その後2012年5月に改めて作りなおした銅像が据えつけられた。義貞の銅像はこのほか太田駅前や太田市立新田荘歴史資料館、鎌倉攻めの際の激戦地である東京都府中市の分倍河原駅前にも存在する。

参考文献
峰岸純夫「新田義貞」(吉川弘文館・人物叢書)
山本隆志「新田義貞」(ミネルヴァ日本評伝選)ほか
大河ドラマ「太平記」主人公・尊氏のライバルとしてレギュラーキャラとして登場。当初萩原健一がキャスティングされたが、序盤で病気降板してしまった。萩原義貞が見られるのは第1回の闘犬場シーン、第2回の日野俊基との密会、第5回の安藤氏の乱にからめて足利決起を促す場面、第7回で尊氏と玄関先ですれ違う場面、とこの4つしかない。だがその独特の迫力はセリフがほとんどないにも関わらず強い印象を残す。どうも序盤ではもっと出番が多く陰謀にも積極的に関わる予定だったのではないかと思われる。
 萩原健一のあとは根津甚八に交代し、第16回の貞氏葬儀の場面から再登場。根津義貞は貧乏くささと共に生真面目な純朴さを前面に出したキャラクターになっていて、政治的立ち回りが苦手な「古風な武者」ぶりや、勾当内侍との恋愛模様がじっくりと描かれた。ただ「武将」としては、鎌倉攻めはさすがに「主役」だったが、その後は負け戦のシーンばかり。白旗城攻略戦も短いながらも挿入され、湊川の戦いでは尊氏の「錦の御旗」の作戦にまんまと騙され正成から非難される描写まであり、総じて凡将扱い。古典「太平記」に出てくる尊氏に一騎打ちを挑む場面は忠実に再現されるが、なんと尊氏と義貞が本当に一騎打ちしてしまう創作が加えられ、大河ドラマ史上でも珍しい一場面となった。
 第40回「義貞の最期」で藤島での戦死シーンが描かれるが、『太平記』の描写とは異なり、首筋に矢を受けて懐の後醍醐の勅書を取り出し、それを口にくわえたまま倒れるという描写になった。
 第1回では少年時代の高氏との出会いが描かれ、そこでは近藤大基が演じている。

その他の映像・舞台 大正13年(1924)に「新田義貞」という映画があり、「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助が義貞を演じたという例が見つかる程度で、戦前の映画界でも義貞は不遇であったようだ。舞台では大正11年(1922)に「義貞最期」という芝居で市川左団次(二代目)が演じている。
 アニメでは1978年の「まんが日本絵巻」の「海を引裂く竜神の剣 新田義貞」でめでたく主役を張った(声:加藤和夫)。義貞が剣を海に投げ込むと海が引き裂かれて本当に龍神が出現するというアニメらしいダイナミックな演出となっていた。1983年のアニメ「まんが日本史」でも登場しており、佐藤正治が義貞の声を演じた。
歴史小説では南北朝時代を代表する武将であるから、重要人物として登場する機会は多い。ただし上記の「評価」の事情があるせいか、主役級で扱われる機会はかなり少ない。
 義貞を主人公とした本格的な歴史小説は新田次郎『新田義貞』が最初である。新田次郎がそのペンネームの近似から興味をもって取材・小説化した作品で、文庫本2冊分とかなりの長さがある。まったく不明の義貞の前半生をフィクションでかなり長く埋めた上で動乱の時代に突入する構成になっており、津軽安藤氏の乱に義貞が出陣するなど大胆な創作もある。面白いのが各章の最後に示される創作ノートで、作者自身がどこまで史実かフィクションか明記したうえそのようなフィクションに至った理由まで書く「楽屋話」が読めるという異例の試みがなされている。戦前・戦後ともに評価があまりかんばしくない義貞を弁護し「よくみれば凄い人じゃないか」という趣旨で全編が貫かれている。
 吉川英治『私本太平記』は尊氏を主役とした南北朝小説なので、義貞は基本的にカタキ役。勾当内侍のことがあるせいか好色な男に描かれており、正成に比べると良くも悪くもキャラが立っていない。山岡荘八『新太平記』は特に主役を置かない群像劇になっているが正成死後の終盤は義貞が主役扱いで、義貞の戦死をもって物語を終えている。ただしこの作品でも義貞はいま一つ影が薄い。
 南北朝時代もしばしば取り上げる安部龍太郎が『義貞の旗』を執筆、久々の義貞単独主役小説となった。しかし終盤やたら駆け足になり義貞が青野ヶ原合戦に唐突に乱入、戦死までは描かず中途半端に終わるなど雑誌連載事情に何かあったのかもしれない。
漫画作品では横山まさみち画「コミック太平記」シリーズの5・6巻が新田義貞を主役とする長編。義貞の前半生の不明ぶりを反映して前半はほとんどフィクションで占められている。妻となる安東重保の娘・阿弥との出会い(阿弥が黒沼彦四郎にからまれてるところを救う)が描かれ、古典太平記ではその伯父・聖秀の話となっている「投降を断っての自害」は重保の話に変えられている。後半になると勾当内侍とのエピソードが中心になり、阿弥は全く登場しなくなる。
 沢田ひろふみ『山賊王』では主人公・樹を中心とする七つの星の一人で、二枚目の若武者として登場する。足利高氏がやや屈折したキャラになっているのに対し、爽やかな体育会系好青年といった描かれ方だ。
 変わったところではウォーシミュレーションゲーム雑誌「シミュレイター」の太平記特集号に掲載された松田大秀・作のSSシリーズ「太平記」紹介のギャグ漫画がある。建武の乱をテーマにしたこのゲームでは義貞の負け戦ばかりが連発されるせいもあって、義貞は完全に戦下手扱いのいじられキャラ。湊川合戦の責任も負わされて逆切れする様子が描かれている。
 湯口聖子『風の墓標』は北条氏滅亡のドラマを描く少女マンガのため北条打倒側のキャラがほとんど描かれないという特徴があるのだが、鎌倉を攻め落とす新田義貞も稲村ケ崎で太刀を捧げる場面がロングショットのシルエットのみで描かれている。
 河村恵利「時代ロマンシリーズ」のうち足利直義を主役とする「雨の糸」では直義の策略にまんまと乗せられ足利に鎌倉討伐の功績を奪われる「お人好し」な人物として描かれる。
 河部真道『バンデット』では足利荘の相撲大会シーンで初登場。高氏の兄・高義と親友同士で「義」の字を彼から受けた設定になっている。従来の「足利新田ライバル説」ではなく最近の「新田は足利一門扱い説」に近い描写となっているのが斬新だったが連載自体が短縮されたため出番がなくなってしまった。単行本最終巻のおまけ漫画で挙兵前の義貞の平和な日常が描かれている。
 南北朝時代を扱う学習漫画類では確実に登場はするものの、尊氏・正成に比べると圧倒的に出番が少なく、影が薄い。あかね書房「まんがで学習・人物日本の歴史2」(ムロタニ・ツネ象著)では「やはりわしは戦べたなのかのう」などと自分で言っていた。
PCエンジンCD版プレイヤーキャラの一人。義貞を選んでプレイしクリアすると南朝方で天下を統一するエンディングが見られる。北朝の尊氏でプレイする場合と比べると、かなり厳しい情勢から開始となるので上級者向けである。義貞自身の能力は統率91・戦闘94・忠誠99・婆沙羅16で、数値では尊氏とタメを張れる。またこのゲームのウリであったかなり長時間のオープニング・エンディングのビジュアルデモでは主役として声も聞ける。声優は辻親八
PCエンジンHu版シナリオ1「鎌倉幕府の滅亡」で登場、能力は「騎馬4」。シナリオ2では義貞の役回りを弟の脇屋義助がつとめている。
メガドライブ版「新田・楠木帖」を選ぶと、千早・赤坂の戦いを除いてプレイヤーキャラとして登場。能力は体力74・武力143・智力132・人徳89・攻撃力137。  最強レベルといっていいが、楠木正成・正季兄弟には少し劣る。
SSボードゲーム版公家方の「総大将」クラスとして登場、勢力地域は「全国」で公家方の司令官的存在。ただし合戦能力2・采配能力6とやや微妙なパラメーターで、正成とセットにすると正成の能力を殺してしまい「湊川の再現」ができてしまうことが紹介コミックでもネタにされている。ユニット裏は子の新田義興。

新田義則にった・よしのり?-1403(応永10)
親族父:新田義宗?
子:新田貞方?
官職相模守
生 涯
―南北朝統一後も暗躍―

 南北朝末期から南北朝合一後まで活動していたことが確認できる新田一族。新田義宗の子とされるが(「鎌倉大草紙」)、その前半生については史料も不足していてはっきりしないことが多い。新田一族の多くが足利方に討たれてしまった時期に成長したとみられ、越後・信濃・上野などを転々としていたと思われる。
 比較的確かな行動の最古の記録としては、『鎌倉大草紙』に載る元中2年(至徳2、1385)3月の「新田相模守義則」による陰謀の露見がある。このとき義則は各地に廻文をまわして挙兵を呼びかけており、その使者が斬られたり捕えられたりしたという。新田一族の発祥の地である新田荘でも岩松直国により義貞ゆかりの安養寺の別当と寺僧が関与した疑いで捕えられていることも注目される。
 この動きに反応して幕府方が信濃の南朝勢力の掃討に当たり、義則は信濃の大河原に潜んで追跡を免れ、陸奥の岩城・酒辺(現いわき市?)へ逃れたという。『鎌倉大草紙』では義則と共に息子の「刑部少輔」なる者も同行していたとされる。

 翌元中3年(至徳3、1386)には小山若犬丸の反乱があり、鎌倉公方によって鎮圧されたが、このとき新田一族が小山方に加わっていたとする史料がある(「上杉系図」)。元中5年(嘉慶2、1388)7月にも「新田殿一族二人」が京都で討たれたと『常楽記』に記されていて、義則が関わっていたかは分からないが新田一族が各地で散発的な反足利運動を展開していたことは事実のようである。
 南北朝合体が成ったのちも活動は続いたようで、応永3年(1396)に小山若犬丸と共に義則・刑部少輔父子は陸奥で挙兵して白河方面へ進出している(「鎌倉大草紙」)。この反乱は鎌倉公方・足利氏満によって平定されているが、軍忠状など信頼性の高い直接史料に新田義則父子の名前は確認されていないという。

 応永10年(1403)4月25日、義則は箱根山中で暗殺された。このとき義則は箱根底倉の木賀彦六なる者のもとにかくまわれていたが、竹之下の十人・藤田某によって謀殺されたという(「鎌倉大草紙」)。ただし『喜連川判鑑』ではかくまっていた木賀彦六自身が討ち取ったとしていて、真相は判然としない。

参考文献
久保田順一「新田一族の盛衰」(あかぎ出版)

新田義宗にった・よしむね?-1368(応安元/正平23)?
親族父:新田義貞 母:小田真知の娘?
兄弟:新田義興・新田義宗
子:新田義則・岩松満純・由良貞氏
官職武蔵守
位階贈従三位(明治42)
生 涯
―義貞の三男にして後継者―

 新田義貞の三男。その生母について鑁阿寺の『新田足利両氏系図』では常陸の小田真知の娘とするが、史料の信用度の問題があり断定できない(小田氏側の史料に「真知」という名も見当たらない)。ただ小田氏は常陸守護をつとめたこともある名族であり、義宗が異母兄の義興をおしのけて上位の扱いをうけていたことも事実で、それは母親の家柄によるものだったはずである。
 『太平記』では兄の義興の経歴を説明するなかで、兄より重んじられていた義宗が「六歳で昇殿」したことが語られている。これはどの時点でのことかはっきりしないが、建武政権の成立直後から足利尊氏による反乱が起こるまでのいずれかの時期と考えられ、義宗の誕生は1328年〜1330年のいつか、ということまでは絞り込める。「昇殿」したということは建武政権期は義貞と共に京にいたと考えられ、あるいは長兄の義顕よりも嫡子扱いであったのかもしれない。

 その後義宗がどこにいたかは不明であるが、義貞と行動を共にしていたかもしれない。義貞の戦死前後に越後に下向していたとみられ、興国元年(暦応3、1340)6月27日に越後の武士・南保重貞に奥山荘内黒河条の地頭職を与える書状を残している。これが義宗の確実な史料における初出であり、「武蔵守義宗」と署名していて、すでに元服して南朝から武蔵守に任じられていることが確認できる。
 この年の8月に義宗らは信濃との国境の長峰に進出、8月20日から21日にかけて足利方と戦い撃退されている(市河文書)。義宗らの動きを知った幕府は翌年5月に上野守護の上杉憲顕、信濃守護の小笠原貞宗に命じて越後国妻有荘に進攻させ、6月までにこの地の新田一族の拠点を壊滅させた。義宗らはしばらく姿をくらますことになる。

 その後足利幕府の内戦「観応の擾乱」が起こり、正平6年(観応2、1351)に尊氏が弟の直義と戦うために南朝に投降する「正平の一統」が成る。『新田足利両氏系図』の義宗の項に付された注によると、この年の冬に兄の新田義興と従兄弟の脇屋義治が義宗の潜伏先を訪れ、「挙兵して尊氏を討ち父や兄の仇を討とう」ともちかけたが、義宗は「父が戦死したとき、尊氏は私に書状をおくってねんごろに弔ってくれた。それは尊氏の計略とも思ったが、以後はここにひきこもっている」と答えて当初は挙兵に反対したという。この記事の信憑性は高いものではないが、尊氏と楠木正行の逸話と呼応するところもあり、義宗と尊氏の間に和解の交流があったことはありえない話ではない。少なくとも義宗は挙兵には消極的で、のちに義宗の子が新田岩松氏を継承したとの伝承とつながってくるとの見解もある。

 翌正平7年(文和元、1352)2月に直義が鎌倉で死ぬと、南朝は鎌倉と京を一挙に奪取する作戦を実行に移し、関東では宗良親王を総大将に立てて、義宗・義興・脇屋義治ら新田一族がその主力として挙兵した。閏2月8日に行動を起こした新田勢は閏2月20日に武蔵野の小手指原で足利尊氏の軍と激突、義宗らは敗退したが、別働隊で動いていた義興らは一時とはいえ鎌倉の占領に成功する。しかし28日に笛吹峠の戦いで義宗らは敗北、新田勢は3月までに上野方面へと撤退した。
 義宗らは宗良親王を奉じて越後へと逃れ、正平8年(文和2、1353)11月に拠点にしていた小国城を幕府方に攻め落とされたが、翌正平9年(文和3、1354)には魚沼一族を味方につけて反転攻勢に出ており、正平10年(文和4、1355)4月にも志都乃岐荘へ攻め込むなど活発な活動を続けている(「三浦和田文書」)。『太平記』でも一時は越後半国ほどを切り従える勢いにもなったと記されている。

 しかし正平13年(延文3、1358)10月に、武蔵まで進出して活動していた兄・義興が関東執事・畠山国清らの策謀にはまって矢口渡で謀殺された。これ以後の義宗の活動については定かではなくなる。
 江戸時代に編纂された足利氏の記録『喜連川判鑑』では正平23年(応安元、1368)7月に義宗と義治が越後・上野国境付近で挙兵し、上野守護の上杉憲顕が息子の憲将憲能憲春らを新田討伐に派遣して、義宗はこの戦いで戦死、義治は出羽に逃れたと記している。この時期に上野国沼田付近で上杉勢が新田勢を破った小規模な戦闘があったことは確からしいが、義宗がそこで戦死したと確認できる史料は存在しない。生存伝承もいくつかあり、僧侶になって余生をおくったとする説や、四国に逃れて応永12年(1405)まで生存していたとする説などがある。
 南北朝末期から活動がみられる新田義則は義宗の子とみられている。また『新田足利両氏系図』によると、その後新田荘を支配した岩松氏の岩松満純は実は義宗の子で、岩松氏の養子に入ったことになっているが、後年上杉禅秀の乱で禅秀側に加担し処刑されている。

参考文献
峰岸純夫「新田義貞」(吉川弘文館・人物叢書)
山本隆志「新田義貞」(ミネルヴァ書房日本評伝選)
久保田順一「新田一族の盛衰」(あかぎ出版)
       「新田三兄弟と南朝」(戎光祥出版「中世武士選書」28)ほか
その他の映像・舞台平賀源内作の浄瑠璃・歌舞伎「神霊矢口渡」には重要な役どころとして新田義興の弟・新田義峯が登場するが、これは義宗をモデルとしたフィクションキャラクターである。
PCエンジンCD版1338年に元服して父・義貞のいる国に登場する。初登場時の能力は統率78・戦闘80・忠誠87・婆沙羅26
PCエンジンHu版シナリオ2「南北朝の大乱」の中で南朝方武将として越後・三条城に登場する。能力は「弓2」

二宮兵庫助にのみや・ひょうごのすけ?-1355(文和4、正平10)
官職兵庫助
生 涯
―身代わりとなって細川清氏に討たれる―

 『太平記』巻33にのみ登場する人物。越中国の武士で、四十過ぎほどの年齢であったという。
 文和4年(正平10、1355)正月に足利直冬を主将とする南朝軍が京を占領、2月から京を奪回しようとする将軍・足利尊氏の軍と激しい攻防を繰り広げた。このとき直冬側には越中を本拠地とする勇将・桃井直常が加わっており、二宮兵庫助はその桃井軍に参加していた。彼は初めからこの戦いで命を投げ打ってでも名を挙げようと考えていたようで、京へ上る途中の越前敦賀の気比神社の神前で「このたびの京都の合戦で仁木・細川(尊氏軍の主力)の人々に出会ったなら、私は桃井であると名乗って一騎打ちをいたしましょう。もし偽りを申し上げたなら今生においては武士として面目を失い、死後には地獄にも落ちましょう」と誓ったという。

 2月8日、尊氏配下で猛将として知られた細川清氏が四条大宮に押し寄せて桃井直常ら北陸勢と激しく戦った。夕方になって二宮兵庫助は「そこで勇敢に戦っているのは細川相模守(清氏)どのか、これは桃井播磨守直常なるぞ」と偽って名乗りをあげ、清氏と組み合った。清氏は意外にあっさりと相手の首をとり、尊氏の前へ馳せ参じて「清氏が桃井播磨守を討ち取りましたぞ」と報告したが、よくよく見ると知っている直常の顔と違う。前日に降参していた八田左衛門太郎という者を呼び出して首を確認させたところ、八田はこれが二宮であると悟り、涙を流して事情を説明した。清氏らが二宮がつけていた母衣を取り寄せて調べてみると、「越中国の住人二宮兵庫助、しかばねを戦場にさらして名を末代にとどめる」と書かれていた。人々は源平合戦の時に白髪を黒く染めて戦いに出た斉藤実盛の故事と重ね合わせて「なんという剛の者よ」と惜しんだという。


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