新田義貞
| にった・よしさだ | 1300(正安2)?-1338(建武5/延元3) |
親族 | 父:新田朝氏 弟:脇屋義助
妻:安東重保娘・天野時宣娘・小田真知娘・勾当内侍?
子:新田義顕・新田義興・新田義宗 |
官職 | 越後守、左近衛中将 |
位階 | 従四位下→贈正三位(明治9)→贈正一位(明治15) |
建武新政 | 越後・上野・播磨国司、武者所頭人 |
生 涯 |
清和源氏の名門の血を受け継ぐ家に生まれ、鎌倉幕府の打倒から南北朝動乱まで一貫して後醍醐天皇・南朝側について戦った武将。武士のなかにあっては足利尊氏の最大のライバルであった。
―名門ながら無位無官―
新田一族は源義家を祖とする清和源氏の名門として鎌倉初期まで源頼朝や北条氏から重んぜられたが、その後代々のトラブルも続いて鎌倉末期には上野新田荘を支配する一地方御家人に過ぎない立場まで落ちぶれていた。義貞の誕生年も判然とせず、延元3年(1338)の戦死時の年齢が37〜39歳とされることから永仁6年(1298)から正安2年(1300)の生まれと推測されるだけである。
父・朝氏(朝兼・氏光とも改名している)についても事跡がほとんど伝わらず、文保2年(1318)10月に新田荘の田畑を売却する証文に「源義貞」とあることから、これ以前に朝氏が死んで義貞が家督を継いでいることが分かる。義貞がこれらの証文で「新田太郎」ではなく「小太郎」あるいは「孫太郎」という名を記すこと、「宮下過去帳」に「義貞は実は里見義忠の五男で新田朝氏の養子である」との記述があることから朝氏の実子ではなく養子であったとする見解もある(あまり有力視されないが無視もされてない)。なお、文保2年の売地証文に対する幕府の確認には「新田孫太郎貞義」と誤記されており、義貞が無位無官の単なる「孫太郎」であり、名も間違えられるなど軽い扱いを受けていることが分かる。
いっぽう義貞の祖父の基氏は長命で、元亨4年(1324)6月に72歳で死去するまで新田氏の家運再興に力を尽くし、義貞の妻に御内人(北条家臣)の有力一族の安東重保の娘を迎えたのは基氏の運動によるものだったと推測される。
元亨2年(1322)、新田一族の大館宗氏と岩松政経が用水をめぐる紛争を起こし、岩松側が幕府に訴え出てこの年10月に岩松寄りの判決が出ている(正木文書)。一門内の争いに対して惣領である義貞が調整にあたれなかったことに新田惣領家の地位の低下を見る声もあるが、岩松氏が新田一門というより足利一門に近い立場で独自の台頭を見せていたという事情もあるようだ。
―鎌倉幕府の打倒―
義貞がようやく歴史の表舞台に登場するのは鎌倉幕府が滅ぶ元弘3年(正慶2、1333)の年明けのことである。大番役の務めのため京に出ていた義貞ら新田一族(里見・山名含む)は正月に河内の楠木正成の攻略を命じられて出陣している(「楠木合戦注文」)。そして千早城攻撃に参加していた義貞はここで世の流れが倒幕に向かっていると判断、執事の船田義昌と相談のうえ護良親王の配下と接触してその令旨を受け、仮病を使って新田荘に帰ったと『太平記』は物語る。令旨を受けたという明確な証拠はないが、千早攻めの陣から抜け出すように領地に帰ったのは事実で、やはり後醍醐側と何らかの接触があったとみるのが自然だろう。
義貞が新田荘・生品明神において討幕の挙兵を行ったのは元弘3年5月8日とされる。『太平記』によれば幕府の徴税使・黒沼彦四郎と出雲介親連が「五日のうちに五6万貫を差し出せ」と要求、これに対して義貞は二人を捕え(黒沼は殺害)、ついに挙兵に踏み切ったと記されている。5月8日付で幕府は義貞の土地を没収して長楽寺に寄進しているのでこの日に義貞が挙兵したのは間違いないと思われるが、この前日の5月7日に足利高氏が丹波・篠村で討幕の挙兵をしており、両者の間に連絡があったのかどうか古くから議論がある。
この時期、護良親王が義貞はじめ各地の武士に挙兵を呼び掛けているが、それと同規模で高氏も広く挙兵を呼び掛けていたことが知られ、挙兵の直後に義貞の軍に鎌倉を脱出してきた高氏の子・千寿王(足利義詮)が合流することから新田・足利間に事前の密約があったのではとみる見方は根強い。『保暦間記』は義貞の挙兵は高氏の指示を受けたものとまで明記する。また新田一門であるが血統的には足利一門といえる岩松経家が両者の連絡の間に立っていたと考えられ、のちの応永年間に経家の子孫が「鎌倉攻めは高氏の指示を受けて経家と義貞が「両大将」として実行した」と主張したこともある。
また北畠親房の『神皇正統記』や『増鏡』が義貞について「高氏の末の一族」と記すなど、京の公家からみれば無位無官の新田など足利一門の末席ぐらいにしか思われていなかったし、事実として足利と新田にはそれだけの勢力差があった。『増鏡』は「義貞が高氏の子を総大将に立てて兵を起こした」とまで書いており、兵力も小さい義貞が一見無謀とも思える挙兵に踏み切ったのは高氏の指示と後援が最初からあったとみるほうが自然だろう。
5月8日に挙兵した義貞はまず上野中心部に進出、ここで越後から来た新田一族と合流した。兵力を増大させた義貞は上野から武蔵へと南下、12日に小手指河原で最初の合戦を行った。この頃に鎌倉を脱出した高氏の子・千寿王が新田荘・世良田に入って挙兵し、やがて新田軍に合流している。さらに護良親王と高氏の呼びかけに応じた各地の武士が次々と加わり、新田軍はたちまち大軍に膨れ上がる。
新田軍の勢いに幕府側も北条泰家率いる大軍を繰り出し、5月15日に分倍河原で両軍が激突した。初日の戦いは義貞軍が敗れいったん退いたが、翌16日に三浦大多和義勝が新田軍に内通して幕府軍に奇襲をかけ、戦いは新田軍の勝利に終わる。
新田軍が鎌倉攻撃にかかったのは5月18日からである。義貞は軍勢を三手に分け、大館宗氏らが極楽寺坂から、堀口貞満らが小袋坂(巨福呂坂)から、義貞自身は化粧坂(けわいざか)から鎌倉への侵入を試みた。さすがに幕府軍の防戦も凄まじく、一度は稲村ケ崎を突破した大館宗氏が戦死するなど新田軍も攻めあぐねた。
義貞は宗氏同様に稲村ケ崎を突破する作戦を実行し、5月21日に干潟となった稲村ケ崎海岸を突破して鎌倉市中への突入に成功した。このとき義貞が太刀を海中に投じて龍神に祈ったところたちまち潮が引いて干潟となったという『太平記』の名場面があるが、『梅松論』にも潮が引いて干潟となる「不思議」があったと書かれており、ある程度の事実を脚色したものと考えられる。
翌5月22日に得宗・北条高時以下北条一門とその郎党数百人は東勝寺にて集団自決し、鎌倉幕府はここに滅亡した。義貞が生品明神で挙兵してからわずか14日後のことである。このとき義貞の正室の伯父で北条家臣であった安東聖秀が義貞の投降の誘いを拒否して自害している。
―建武政権を支えて―
幕府の拠点・鎌倉を短期間で攻め落とした義貞は無名の存在から一躍倒幕の功労者にのし上がったが、鎌倉陥落直後から足利高氏との間に軋轢を生じている。高氏の子・千寿王が鎌倉に入って陣所を構えると、戦いに参加した武士たちは軍忠状を新田に出すか足利に出すか迷った末に、すでに名門である上に六波羅を陥落させて京を制圧した足利側に馳せ参じるようになった。さらに高氏は腹心の細川和氏らを鎌倉に送って千寿王を補佐させ、同時に義貞を牽制させた。鎌倉市中では新田・足利両陣営の武士たちの紛争が頻発し、いまにも合戦かという事態になったが、細川和氏らが義貞の陣所を訪問して真意をただしたところ義貞は「野心はない」とする起請文を出して事態を収拾したという(『梅松論』)。
間もなく上洛した義貞は8月5日の除目(朝廷人事)で上野・越後・播磨の国司、および治部大輔に任じられた。そして後醍醐天皇の親衛隊として京の治安維持にあたる「武者所」が設置されると、義貞がその頭人(長官)に任じられ、新田一族がその主要メンバーを占めた。
後醍醐が開始した建武政権は早くから深刻な内部対立を抱えており、足利尊氏と対立した護良親王の失脚、西園寺公宗による後醍醐暗殺未遂など事件が相次いだ。しかし義貞がそのなかでどのような立場をとっていたかは明らかではない。「三木」と称された結城親光・楠木正成・名和長年のように名が取りざたされることもなく、親護良・反護良どちらの態度もうかがえず(『梅松論』に義貞が護良派の一員であるかのように書く個所はあるが)、武者所を統括しながら西園寺公宗事件で出動した様子もなく(楠木正成・高師直は出動している)、その他の軍事行動も記録が見られない。恩賞では一門の岩松経家のほうが独自にうまく立ち回っており、義貞は政治的な運動にはほとんど無関心だったのではないかとすら思える。建武政権期の義貞の逸話といえば宮殿を警護しているうちに勾当内侍の姿をみかけて恋に落ちたという『太平記』が記す艶っぽい物語ぐらいのものだ。
建武2年(1335)7月、北条時行が北条残党を率いて信濃に挙兵し、鎌倉を奪回した(中先代の乱)。足利尊氏は後醍醐の許可を受けぬまま出陣してこの乱を鎮圧し、そのまま鎌倉に居座って事実上の幕府再建を開始した。このとき尊氏は義貞が支配する上野に腹心の上杉憲房を守護として送り込むなど新田一族の利権を犯す行為をし、ここで初めて義貞は尊氏と明白な対立姿勢を見せることになる。
『太平記』は後醍醐に対して尊氏が義貞討伐を、義貞が尊氏討伐を求める上奏文を出したとしてその全文を載せるが、これが実際に出された文面であることには疑問がもたれる。ただ足利側では尊氏ではなく弟の直義名義で義貞討伐の軍勢催促状が各地の武士に発せられており、『保暦間記』には護良親王の腹心(四条隆資か?)が義貞に尊氏打倒を吹き込んだという記述があることから、この時期の建武政権対新武家政権の対立構図が「足利対新田」という形に持ち込まれていたのは確かなようだ。少なくとも足利側は後醍醐天皇との直接対決の形を避け、あくまで「義貞討伐」という形式にこだわった。
―尊氏との対決―
尊氏の反逆が明らかになったとして後醍醐は尊氏追討の命を下し、東海道・東山道の二手に分けて追討軍を発した。義貞は東海道軍の総司令官となって新田一門を率いて出陣、11月18日に京を発って11月25日に三河・矢作川で高師泰らの足利軍を撃破した。さらに12月5日に駿河・手越河原で迎撃してきた足利直義の軍に圧勝し、ここで佐々木道誉ら投降兵を味方に加えて兵力を増し、一気に箱根へと迫った。この間、尊氏は浄光明寺にこもって出家遁世の意思を示していたが足利家の危機に出陣を決意、12月11日に新田軍の分隊として竹ノ下に進んでいた義貞の弟・脇屋義助の軍を奇襲した。脇屋軍は崩壊し、さらに佐々木道誉・塩冶高貞・大友貞載らが足利側に寝返って形勢が逆転したため、義貞はやむなく西へと敗走する(箱根・竹之下の戦い)。
この敗走時、新田軍は天竜川に浮橋をかけて数日がかりで渡り、義貞自身は一番最後に渡った。兵士たちが追跡してくる足利軍を妨害するため浮橋を破壊しようとすると義貞は「勝ちに乗った足利軍なら浮橋などすぐにかけてしまうだろう。むしろ橋を切り落として慌てて逃げたとみられては末代までの恥辱だ。よく橋を警固しておけ」と渡し守に言い、浮橋をかけたままにしておいたという。あとから川にやって来た足利軍の兵たちはこの話を渡し守から聞いて「弓矢とる者(武士)としてはこうありたいものだ」と大いに感動したという。この逸話は足利側の軍記である『梅松論』『源威集』に載り、敵方からも義貞の行為が賞賛され喧伝されたことがうかがえるが、『太平記』では微妙に話が異なり、浮橋を義貞と船田入道(義昌)が最後に渡ったことは同じだが、このとき何者かの工作で橋が途中で切れて義貞と義昌が手を取り合ってジャンプし間を飛び越えたことになっている。
義貞はいったん尾張にとどまって足利軍の西上を阻止する構えだったが、四国・中国から足利軍に呼応する軍が起こり京に迫ったため急いで京へと引き返した。年が明けて建武3年(1336)正月からの京都攻防戦では義貞はいったんは足利軍の入京を許すものの、奥州から駆け付けてきた北畠顕家軍と合流して京を奪回(この時の戦いで執事・船田義昌が戦死)、なおも京をうかがう足利軍を摂津で破ってついに尊氏を九州まで敗走させた。
このころ、楠木正成が後醍醐に「義貞を誅罰して尊氏と和睦すべし」と主張し「不思議な事を言う」と相手にされなかったとする話が『梅松論』に載っている。正成が義貞と対立していたわけではなく、尊氏が後醍醐との直接対立を形式上避けて「義貞討伐」を旗印にしているので、和睦をはかることが可能と判断しての意見と思われる。
このとき義貞は九州へ敗走した尊氏をすぐに追わず、3月になってからようやく播磨へ出陣しており、『太平記』はその理由を後醍醐から与えられた勾当内侍との別れを惜しんだためとして非難している。義貞が「瘧(おこり)」を発病したとの話も書いており、勾当内侍の話も多分に「亡国の美女」の筋書きから脚色されたものと思われるのだが、義貞が速やかに追撃戦をしなかったことは事実であろう。負けたはずの尊氏に武士たちが集まって行くのを知っていた正成には義貞の緩慢な動きに失望を禁じ得なかった可能性もある。
―湊川の戦い―
ようやく3月末に出陣した義貞は、自身が国司を務める播磨に入った。播磨は足利方の赤松円心の支配地であり、その居城・白旗城は難攻不落の山城であった。『太平記』によれば円心は義貞に「播磨守護職をくれたら降参しよう」と申し出て、義貞がその手続きのために京に使者を往復させているうちに防備を調え、義貞が播磨守護職の綸旨を届けさせると「播磨守護職はすでに将軍(尊氏)から頂戴している」とつき返した。激怒した義貞は円心のこもる白旗城の攻略に固執してここで数十日を無駄に費やしてしまい、結果的に尊氏軍の中国東上を許すことになったという。
この逸話がどこまで事実なのかは分からないが播磨は義貞にとって自らの支配地であり赤松勢力を完全に駆逐する必要があり、だからこそ白旗攻略に固執したという見方はできる。また『太平記』では義貞が円心にしてやられる道化役になっているが、一方で赤松軍は善戦しつつも義貞の攻勢の前に落城の危機に陥っており、円心の子・則祐が尊氏のもとへ赴き緊急の東上をうながした事実もある。
義貞もさすがに危険を感じて弟の義助に備中まで進出させているが、水陸二手の大軍で東上する尊氏・直義兄弟にかなわず、5月18日に白旗城の包囲を解いて、兵庫への撤退を余儀なくされた。兵庫では京から楠木正成の軍が合流し、水陸の足利軍をこの兵庫で迎撃する作戦が定められる。『太平記』によればこのとき義貞は正成に箱根・竹ノ下から中国遠征にいたる敗戦の数々を恥じていると打ち明け、すでに翌日の死を覚悟していた正成は逆に義貞を慰め励まし、夜通し飲み明かしたとされている。
5月25日、湊川の決戦が行われる。義貞は和田岬に、正成は会下山に陣を張って連携して足利軍の進出を止めようとした。しかし細川定禅の水軍が和田岬を越えて東へ向かうのを見た義貞は、これが背後に上陸して前後から挟撃される危険を感じ、東へと軍を移した。
この移動で新田・楠木両軍の間に空白が生じ、そこに尊氏の本隊が上陸して新田・楠木軍を完全に分断し、結果的に義貞の移動の判断が敗北を決定的なものにした。足利軍は孤立した楠木軍を包囲殲滅し、義貞は敗戦を悟って京へと撤退を開始した。この両軍の動きについては「義貞が正成を見殺しにした」「義貞を逃がすために正成が我が身を犠牲にした」等々、古来さまざまな見解を呼んでいる。『太平記』はこの撤退戦でも義貞は最後尾で奮戦して味方を助け、以前義貞に恩義を受けていた家臣が身代りになって戦死したために命を永らえたとしている。
―北陸での戦い―
湊川で敗れた義貞を追って足利軍は京に入った。後醍醐天皇方は比叡山に逃れ、義貞らは京を奪回するべく戦いを続ける。この戦いのなかで義貞自身が東寺の尊氏本陣に駆けつけ、尊氏に「大将同士の一騎打ち」を挑んだとする話が『太平記』にある。この挑戦に尊氏はいったんは応じようとしたが上杉重能に諌められ思いとどまったとされている。この話は『梅松論』には見えず、逆に細川定禅の軍が義貞に迫って討ち取る寸前までいったが勇士たちが命を捨てて義貞を守ったため義貞は逃れることができたという話が載る。
戦いは長引いたが、秋に入って琵琶湖方面の補給が断たれたことで比叡山の戦闘継続は困難となった。この情勢のなかで尊氏からの和睦の申し入れがあり、10月10日に後醍醐はこれに応じて比叡山を下りることにした。しかしこのことは義貞らには全く知らされず、後醍醐は義貞らを完全に見捨てる気であったと考えられる。新田一門のなかでも江田行義・大館氏明らは後醍醐の下山に同行しているので、義貞が一門を掌握しきれていなかったことも推測させる。あくまで『太平記』の描写だが、公家の洞院実世から直前になって後醍醐下山を知らされた義貞は驚くどころか「何かの間違いでしょう」とすました顔で言ったとされ、純朴といえば純朴だが、総司令官でありながら致命的に情勢把握に疎い様子が描かれている。
新田一門の堀口貞満が後醍醐下山を確認し、後醍醐の前に立ちはだかって「和睦するなら新田一族の首をはねてからにしてくれ」と激しい怒りの演説を行った。やがて事態を知った義貞も怒りの形相で駆けつけ、恐れをなした後醍醐は皇太子・恒良親王に皇位を譲り、義貞に対して恒良と尊良の二皇子を連れて北陸に下るよう命じた。
この一幕も『太平記』のみが記すことでどこまで史実を描いているかは疑問もあり、後醍醐の仕打ちに怒った義貞らのクーデターであったとも、尊氏との講和がいずれ破綻すると予想した後醍醐が形勢逆転のために打った策であったとも様々な解釈がなされている。恒良への譲位が実際にあったかどうかについても議論があるが、北陸に下った義貞が恒良の名で天皇の発する「綸旨」を発行しており、少なくとも義貞は自分たちが「新天皇」を奉じていると考えていたことは確認できる。
後醍醐が下山するのと同時に義貞らは琵琶湖西岸を経由して山を越え、越前に入った。新田軍は足利軍の追撃もさることながら峠越えでの猛烈な吹雪に苦しめられ、多くの凍死者、脱落者を出したことが『太平記』『梅松論』ともに記されている。義貞は越前国府を目指したが足利方の越前守護・斯波高経が妨害していると知って方向を変え、10月14日に天然の要害である敦賀・金ヶ崎城に入った。ここで義貞は恒良の綸旨を各地に発し、特に奥州の北畠顕家・結城宗広に畿内への出陣を呼びかけた。この間に後醍醐天皇は京を脱出して吉野に入り、自身が依然として「天皇」であることを表明している。
高師泰ら率いる足利軍の金ヶ崎城攻撃は翌延元2年(建武4、1337)正月から開始された。義貞は周囲に一門や地元の豪族を配置してよく防いだが、金ヶ崎城は兵糧が尽き餓死寸前の悲惨な状態に追い詰められた末に3月6日に落城、尊良親王と義貞の子・義顕は自害、恒良親王は捕えられた。義貞は陥落直前に救援を呼ぶべく城を脱出していたため戦死を免れたが、足利方はしばらくのあいだ義貞の戦死を信じていた。あるいは死んでいないとしても再起不能とみていたと思われる。
―あっけない最期―
しかし義貞は杣山城を拠点にして勢力の挽回に務めていた。金ヶ崎陥落から間もない3月14日に発した軍勢督促状が残っており、これが現存が確認できる義貞最後の文書となる。義貞は地道に勢力を拡大し、やがて越前をほぼ制圧していく。
この年8月、奥州の北畠顕家の軍が京目指して長征を開始した。これは吉野の後醍醐の呼びかけに応じたものであるのはもちろんだが、顕家は義貞からの連絡もあったことを書状でうかがわせている。顕家の軍は年末までに鎌倉を制圧し、年が明けた延元3年(建武5、1338)正月に鎌倉を発って東海道を西上、美濃・青野原の戦いで足利軍を打ち破った。この北畠軍には義貞の三男・義興や堀口貞満ら新田一門も合流しており、越前の義貞と連携する可能性もあった。しかし顕家は方向を転じて伊勢から吉野へ向かい、両軍の呼応は果たせぬまま、5月22日に顕家は和泉・堺で戦死してしまう。
このとき北畠・新田両軍の合流・連携があれば京を奪還できたはず、とする意見は『太平記』にもみえ、顕家が義貞との合流を避けて転進した理由を「義貞に功を奪われることを恐れたため」としている。少なくとも北畠親房・顕家のような保守的な公家たちからみれば義貞は成り上がり者の関東武士であり冷淡視、あるいは警戒視していたと思われる。また義貞の方も比叡山で手ひどく見捨てられかけた経験や、恒良「天皇」がいるにも関わらず後醍醐が吉野で「天皇」と主張していることに違和感があり、越前での足固めを優先していた可能性もある。
実際、この年の7月にかけて義貞は越前国府を拠点に優勢に戦いを進めており、越前をほぼ制圧して越後の新田勢力との連携を強め、北陸全体を「新田王国」状態にする勢いであった。黒丸城に追い詰められた足利方の越前守護・斯波高経は平泉寺の僧兵を恩賞でつって味方につけ、義貞はその平泉寺の兵がこもる藤島城を攻略していた。そして閏7月2日、義貞は藤島攻略に手間取る味方を助けようとしてか50騎ばかりの少数を連れて出かけたところを、黒丸城から藤島救援のために出動していた斯波軍300騎と燈明寺畷で遭遇して戦闘となり、矢に当たってあっけない最期を遂げてしまう(享年38とも39ともいう)。
『太平記』は義貞が部下の撤退の勧めを拒んで奮戦した末、深田にはまって落馬し顔を上げた瞬間に眉間に矢が刺さり、観念した義貞は自身の首をかき切って自害したと記しているが、『平家物語』の木曽義仲の最期を参考にした創作であるとされている。ただ『太平記』は戦場の現場にいて義貞の葬儀も行った時衆の僧侶に取材した可能性もあり、偶発的な戦いの中で名もない歩兵の弓矢で南朝の総大将があっけなく死んでしまうという展開自体はほぼ事実なのだろう。『太平記』作者はこれまでも義貞に対して厳しい書きぶりを見せているが、このあっけない戦死についてもその大将らしからぬ軽率さを非難している。
義貞の首をとったのは越中の武士・氏家重国だった。彼は自分がとった首が何者かすら知らなかったが、首実検をした斯波高経は顔の矢傷と所持品の刀、そして懐に入れていた後醍醐親筆の書状からこれが義貞であると確認した。義貞戦死の報はただちに京に伝えられ、その首は間もなく京市外で獄門にかけられた。その首をみて妻・勾当内侍が嘆き悲しんだという話を『太平記』は語っている。
義貞の死は「源氏の棟梁」候補の死であり、足利尊氏が義貞戦死の翌日に北朝から征夷大将軍に任じられたことも義貞の存在がそれだけ大きいものになったいたということを示している。義貞という柱を失った北陸新田軍は義貞の弟・脇屋義助の指揮でしばらく抗戦を続けたが翌年には越前を失陥し、脇屋義助らは吉野から四国へと渡った。義貞の息子たち、義宗や義興は新田氏のふるさと上野を拠点に一貫して南朝方で活動を続けることになる。
―その評価―
新幕府を開いた足利尊氏のライバルの立場にあった武将だが、同時代からその評価はあまり高くない。鎌倉攻略戦は義貞自身の指揮であり彼の最大の戦功だが、「尊氏の指示のもとの行動」「高氏の一族の末」などと書かれる程度の認識しかもたれなかった。建武政権期では尊氏と武家の棟梁の地位をかけて対等の形で渡り合うが、尊氏からすれば後醍醐を直接敵に回すのを避ける方便として義貞を敵にした部分が多く、後醍醐にしても尊氏の対抗馬として義貞を引き出して手駒にしただけであった(都合が悪くなると平気で切り捨てようともした)。
そして現実に尊氏と対抗するほどの戦果をあげたとは言い難く、『太平記』は義貞の個人的奮戦を描きつつも大局を読めない凡将としか読めない描き方をしている。勾当内侍への愛に溺れて戦機を逸したり、白旗城攻めで赤松円心にまんまと騙されたり、尊氏に大将同士の一騎打ちを挑んだり、後醍醐の講和に全く気付かなかったり、藤島の戦いにおけるあっけない最期…などなど、その能力を疑いたくなる逸話が多い。
ただし『太平記』は京都在住の知識人(僧侶)によって書かれたと思われ、楠木正成に対する賞賛一辺倒の語り口と逆のベクトルで田舎者で古風な関東武士・義貞をことさらに強調している可能性もある。むしろ足利氏の立場から書かれた『梅松論』では義貞の戦いぶりが「武士らしい」と高評価されており、関東武士たちからみればまた別の評価があったかもしれない。湊川の戦いの直後に尊氏が書いた書状には正成のことは呼び捨てにしながら義貞については「新田殿」と表現されていて、形式的には義貞を最大の敵の頭目としているはずの尊氏が義貞に対して一定の敬意を表していたことをうかがわせる。尊氏が義貞の戦死を受けて征夷大将軍に就任するのも彼の存在が決して小さくはなかったことを示している。
足利氏が将軍家をつとめた室町時代において、新田一族は逆賊の最たるものとして敵視された。『太平記』は室町幕府編集の公式軍記という側面があり、このために義貞に関する記述が辛くなったとの見解もある。義貞の評価が高まるのは江戸幕府を開いた徳川氏が新田一族の末裔を称して以降で(その真実性は疑問大だが)、とくに南朝正統論を打ち出した水戸史学が浸透するにつれ、江戸時代を通して正成ともども義貞の神格化も進められていく。明治以後もこの傾向は強まるが、正成が極端に神格化されるなか、その陰に隠れてしまったことも否めない。『太平記』の書きぶりもさることながら、湊川の戦いにおいて総司令官である義貞が正成を死に追いやったようにみえることも一因かもしれない。
第二次大戦後、戦前・戦中にむやみに称揚された南朝の歴史人物の評価は一気に低下、あるいは自由化された。楠木正成は「悪党的武士」「散所長者」など新たなアプローチで戦前とはまた異なる魅力を語られるようになったが、義貞の方は戦前に正成の陰に隠れたあおりで戦後の評価の低下はさらにいちじるしく、「実力もないのに尊氏に対抗した」「保守反動の公家政権の飼い犬」といった悪評を受けることになる。
一方でこの変転常なき時代のなかで義貞の純朴・一本気な「古風な東国武者」ぶりはむしろ貴重なのではないかという評価もあるし、80年代以降、新田氏の地域領主としての研究が進んで従来言われたような「無位無官の貧乏御家人」とはまた違った有力者との視点も提示されている。また短期に崩壊したとはいえ義貞らが目指した「北陸王朝」にこの時代に各地にみられる地域の自立性の一例をみてその構想を評価する声もあり、義貞論も尊氏なみに変転を続けていくことになりそうだ。
義貞の墓は福井県坂井市の長林山称念寺にある。また一族の由良氏が故郷の上野に菩提をとむらって建てたもう一つの墓は寺ごと茨城県竜ケ崎市金竜寺に移転している。
明治時代に南朝忠臣を軒並み神社に祭る動きが続く中で、義貞も戦死地に藤島神社が建てられ神として祭られた。また明暦2年(1656年)にこの藤島の戦場で農民が兜を掘りだし、鎌倉時代に作成されたかなり上位の武将が持つものと鑑定されたため「新田義貞着用のもの」として越前松平家が所蔵し、現在は藤島神社に保存されている。もちろん義貞のものである証拠はないのだが、義貞軍の誰かのものである可能性は高いだろう。
なお、2010年2月に挙兵の地・生品明神に建っていた義貞銅像(稲村ケ崎の場面を表したもの)が台座から外されて何者かに盗まれてしまうという事件が起き、その後2012年5月に改めて作りなおした銅像が据えつけられた。義貞の銅像はこのほか太田駅前や太田市立新田荘歴史資料館、鎌倉攻めの際の激戦地である東京都府中市の分倍河原駅前にも存在する。
参考文献
峰岸純夫「新田義貞」(吉川弘文館・人物叢書)
山本隆志「新田義貞」(ミネルヴァ日本評伝選)ほか
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大河ドラマ「太平記」 | 主人公・尊氏のライバルとしてレギュラーキャラとして登場。当初萩原健一がキャスティングされたが、序盤で病気降板してしまった。萩原義貞が見られるのは第1回の闘犬場シーン、第2回の日野俊基との密会、第5回の安藤氏の乱にからめて足利決起を促す場面、第7回で尊氏と玄関先ですれ違う場面、とこの4つしかない。だがその独特の迫力はセリフがほとんどないにも関わらず強い印象を残す。どうも序盤ではもっと出番が多く陰謀にも積極的に関わる予定だったのではないかと思われる。
萩原健一のあとは根津甚八に交代し、第16回の貞氏葬儀の場面から再登場。根津義貞は貧乏くささと共に生真面目な純朴さを前面に出したキャラクターになっていて、政治的立ち回りが苦手な「古風な武者」ぶりや、勾当内侍との恋愛模様がじっくりと描かれた。ただ「武将」としては、鎌倉攻めはさすがに「主役」だったが、その後は負け戦のシーンばかり。白旗城攻略戦も短いながらも挿入され、湊川の戦いでは尊氏の「錦の御旗」の作戦にまんまと騙され正成から非難される描写まであり、総じて凡将扱い。古典「太平記」に出てくる尊氏に一騎打ちを挑む場面は忠実に再現されるが、なんと尊氏と義貞が本当に一騎打ちしてしまう創作が加えられ、大河ドラマ史上でも珍しい一場面となった。
第40回「義貞の最期」で藤島での戦死シーンが描かれるが、『太平記』の描写とは異なり、首筋に矢を受けて懐の後醍醐の勅書を取り出し、それを口にくわえたまま倒れるという描写になった。
第1回では少年時代の高氏との出会いが描かれ、そこでは近藤大基が演じている。
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その他の映像・舞台 | 大正13年(1924)に「新田義貞」という映画があり、「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助が義貞を演じたという例が見つかる程度で、戦前の映画界でも義貞は不遇であったようだ。舞台では大正11年(1922)に「義貞最期」という芝居で市川左団次(二代目)が演じている。
アニメでは1978年の「まんが日本絵巻」の「海を引裂く竜神の剣 新田義貞」でめでたく主役を張った(声:加藤和夫)。義貞が剣を海に投げ込むと海が引き裂かれて本当に龍神が出現するというアニメらしいダイナミックな演出となっていた。1983年のアニメ「まんが日本史」でも登場しており、佐藤正治が義貞の声を演じた。 |
歴史小説では | 南北朝時代を代表する武将であるから、重要人物として登場する機会は多い。ただし上記の「評価」の事情があるせいか、主役級で扱われる機会はかなり少ない。
義貞を主人公とした本格的な歴史小説は新田次郎『新田義貞』が最初である。新田次郎がそのペンネームの近似から興味をもって取材・小説化した作品で、文庫本2冊分とかなりの長さがある。まったく不明の義貞の前半生をフィクションでかなり長く埋めた上で動乱の時代に突入する構成になっており、津軽安藤氏の乱に義貞が出陣するなど大胆な創作もある。面白いのが各章の最後に示される創作ノートで、作者自身がどこまで史実かフィクションか明記したうえそのようなフィクションに至った理由まで書く「楽屋話」が読めるという異例の試みがなされている。戦前・戦後ともに評価があまりかんばしくない義貞を弁護し「よくみれば凄い人じゃないか」という趣旨で全編が貫かれている。
吉川英治『私本太平記』は尊氏を主役とした南北朝小説なので、義貞は基本的にカタキ役。勾当内侍のことがあるせいか好色な男に描かれており、正成に比べると良くも悪くもキャラが立っていない。山岡荘八『新太平記』は特に主役を置かない群像劇になっているが正成死後の終盤は義貞が主役扱いで、義貞の戦死をもって物語を終えている。ただしこの作品でも義貞はいま一つ影が薄い。
南北朝時代もしばしば取り上げる安部龍太郎が『義貞の旗』を執筆、久々の義貞単独主役小説となった。しかし終盤やたら駆け足になり義貞が青野ヶ原合戦に唐突に乱入、戦死までは描かず中途半端に終わるなど雑誌連載事情に何かあったのかもしれない。
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漫画作品では | 横山まさみち画「コミック太平記」シリーズの5・6巻が新田義貞を主役とする長編。義貞の前半生の不明ぶりを反映して前半はほとんどフィクションで占められている。妻となる安東重保の娘・阿弥との出会い(阿弥が黒沼彦四郎にからまれてるところを救う)が描かれ、古典太平記ではその伯父・聖秀の話となっている「投降を断っての自害」は重保の話に変えられている。後半になると勾当内侍とのエピソードが中心になり、阿弥は全く登場しなくなる。
沢田ひろふみ『山賊王』では主人公・樹を中心とする七つの星の一人で、二枚目の若武者として登場する。足利高氏がやや屈折したキャラになっているのに対し、爽やかな体育会系好青年といった描かれ方だ。
変わったところではウォーシミュレーションゲーム雑誌「シミュレイター」の太平記特集号に掲載された松田大秀・作のSSシリーズ「太平記」紹介のギャグ漫画がある。建武の乱をテーマにしたこのゲームでは義貞の負け戦ばかりが連発されるせいもあって、義貞は完全に戦下手扱いのいじられキャラ。湊川合戦の責任も負わされて逆切れする様子が描かれている。
湯口聖子『風の墓標』は北条氏滅亡のドラマを描く少女マンガのため北条打倒側のキャラがほとんど描かれないという特徴があるのだが、鎌倉を攻め落とす新田義貞も稲村ケ崎で太刀を捧げる場面がロングショットのシルエットのみで描かれている。
河村恵利「時代ロマンシリーズ」のうち足利直義を主役とする「雨の糸」では直義の策略にまんまと乗せられ足利に鎌倉討伐の功績を奪われる「お人好し」な人物として描かれる。
河部真道『バンデット』では足利荘の相撲大会シーンで初登場。高氏の兄・高義と親友同士で「義」の字を彼から受けた設定になっている。従来の「足利新田ライバル説」ではなく最近の「新田は足利一門扱い説」に近い描写となっているのが斬新だったが連載自体が短縮されたため出番がなくなってしまった。単行本最終巻のおまけ漫画で挙兵前の義貞の平和な日常が描かれている。
南北朝時代を扱う学習漫画類では確実に登場はするものの、尊氏・正成に比べると圧倒的に出番が少なく、影が薄い。あかね書房「まんがで学習・人物日本の歴史2」(ムロタニ・ツネ象著)では「やはりわしは戦べたなのかのう」などと自分で言っていた。 |
PCエンジンCD版 | プレイヤーキャラの一人。義貞を選んでプレイしクリアすると南朝方で天下を統一するエンディングが見られる。北朝の尊氏でプレイする場合と比べると、かなり厳しい情勢から開始となるので上級者向けである。義貞自身の能力は統率91・戦闘94・忠誠99・婆沙羅16で、数値では尊氏とタメを張れる。またこのゲームのウリであったかなり長時間のオープニング・エンディングのビジュアルデモでは主役として声も聞ける。声優は辻親八。 |
PCエンジンHu版 | シナリオ1「鎌倉幕府の滅亡」で登場、能力は「騎馬4」。シナリオ2では義貞の役回りを弟の脇屋義助がつとめている。 |
メガドライブ版 | 「新田・楠木帖」を選ぶと、千早・赤坂の戦いを除いてプレイヤーキャラとして登場。能力は体力74・武力143・智力132・人徳89・攻撃力137。 最強レベルといっていいが、楠木正成・正季兄弟には少し劣る。
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SSボードゲーム版 | 公家方の「総大将」クラスとして登場、勢力地域は「全国」で公家方の司令官的存在。ただし合戦能力2・采配能力6とやや微妙なパラメーターで、正成とセットにすると正成の能力を殺してしまい「湊川の再現」ができてしまうことが紹介コミックでもネタにされている。ユニット裏は子の新田義興。 |