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きたばたけ〜きんりゅう

北畠(きたばたけ)家
 村上天皇の子孫・村上源氏の公家。中院通方の子・雅家が京の「北畠」の地に住んだことからその子孫が北畠氏を称した。代々大覚寺統の重鎮となり、後醍醐天皇の時代には北畠親房・顕家・顕信・顕能の父子が南朝方として各地で活躍した。南北朝合体後も後南朝を支援する動きも見せたが基本的には室町幕府に服属し伊勢国司の大名として生き残る。戦国大名としても成長するが、織田信長の侵攻を受けて滅亡した。顕信の子孫といわれる津軽の浪岡氏も室町時代も命脈を保ったが戦国時代に滅亡した。

雅家┬師親─師重親房顕家──顕成



└師行具行顕信──浪岡
┌雅俊坂内



顕能──┬顕俊─俊通┴俊康木造



└女子興良親王顕泰満雅
─教具─政郷






├顕雅







満泰


北畠顕家きたばたけ・あきいえ1318(文保2)-1338(建武5/延元3)
親族父:北畠親房 弟:北畠顕信・北畠顕能 子:北畠顕成
官職侍従・右近衛少将・武蔵介・少納言・左近衛少将・中宮権亮・右中弁・左中弁・参議・左近衛中将・弾正少弼・陸奥守・右近衛中将・陸奥権守・鎮守府将軍・検非違使別当・権中納言・右衛門督・鎮守府大将軍・贈右大臣
位階従五位下→従五位上→正五位下→従四位下→従四位上→正四位下→正四位上→正三位→従二位→贈従一位
生 涯
 しばしば「南朝の貴公子」「南朝最強の公家武将」などと呼ばれ昔から人気の高い青年公家。わずか20年の生涯ながら、南北朝動乱の序盤の激動を鮮烈に駆け抜け、強い印象を残した。

―激動の中の幼少―


 村上源氏・北畠家は鎌倉時代に皇室が分裂するなか一貫して大覚寺統に忠節を尽くし、とくに北畠親房は博学で知られ、後醍醐天皇の腹心で「後の三房」と呼ばれたうちの一人。顕家はその親房の嫡男として、後醍醐天皇即位の年に生まれた。北畠家という血筋のよさと後醍醐の信任厚い父親の後ろ盾もあり、元応3年(1321)に4歳で叙位され、少年期のうちにかなりのスピードで昇進している。元徳3=元弘元年(1331)1月にはわずか14歳で参議となり、このことは中原師守の日記『師守記』によれば60年以上前の康元2年(1257)に15歳で参議となった前例を挙げてその異例ぶりを記している。

 この年の3月、後醍醐天皇は花見のために北山の西園寺邸(後醍醐の中宮の実家)に行幸した。このとき公家たちが勢ぞろいした華やかな宴の模様は『舞御覧記』とそれを参考にした『増鏡』に詳細に記されており、そこには14歳の少年参議・北畠顕家が「陵王」の舞楽を後醍醐みずからが奏でる笛に合わせて華麗に舞ったことが印象的に記されている。舞い終えた顕家が退場の前のひと舞(「入綾」という)を見事に見せると、前関白・二条道平がわざわざ顕家を呼び返し、見事な舞に対する褒美として「紅梅の表着・二色の衣」を与えた。顕家はそれを左の肩にかけてさらに一曲待って退場したという。「陵王」は中国・南北朝時代の武将・高長恭(蘭陵王)がその美貌を隠して恐ろしい仮面をつけていたという故事にちなんで仮面をつけて舞うものだが、女性や子供が演じる時は仮面をつけず頭に桜の挿頭花を挿した前天冠を着けて舞うことが多いので当時14歳の顕家も素顔で舞ったのではないかとの推測がある。蘭陵王のイメージが重なり、少年貴族・顕家の美貌を想像させるが、その後の生涯も何やら蘭陵王の悲劇的生涯を彷彿させるものとなった。

 その後まもなく後醍醐は倒幕の挙兵をし、一時は失敗して隠岐に流されるが、元弘3年(正慶2、1333)5月ついに鎌倉幕府を滅ぼした。この間の北畠父子の動向はほとんど不明だが(元弘2年11月5日に顕家が職を辞してはいる)、親房はもともと討幕計画には批判的で関与しなかったため京に滞在し続けることができたと思われる。
 元弘3年(正慶2、1333)10月、後醍醐天皇は東北支配のため奥州将軍府を設置、皇子・義良親王を陸奥国・多賀城に派遣し、北畠父子はその補佐役に任じられて同行することになった。すでに出家している親房が後見となり、16歳の顕家が陸奥守として幼い義良を奉じて東北統治にあたることになる。この奥州将軍府は護良親王の発案とされ、鎌倉幕府を小規模に模した「ミニ幕府」で、もともとこの地方を支配していた北条得宗家、およびそれを引き継ごうとした足利尊氏の影響力を排除し、さらに関東に拠点を置く尊氏を牽制する目的があったと言われる。一方で親房たちは当初「我が家は学問の家だから」と渋った事実もあり、後醍醐が自分や阿野廉子とそりが合わない北畠父子を遠ざけた面もあると指摘される。2ヶ月後には足利側の巻き返しにより、やはり後醍醐の皇子である成良親王を奉じて関東を支配する「ミニ幕府」鎌倉将軍府が設置され、尊氏の弟・直義が鎌倉に下ることとなった。ここに関東を押さえる足利と、東北を押さえる北畠とが対抗する構図ができあがる。

―建武の乱―

 多賀城に入った顕家は広大な東北の統治にあたったが、後醍醐の目指す独裁的な天皇親政とは一線を画した。奥州将軍府は現地の有力武士をスタッフに加えて実質幕府と変わらぬ体制であったし、北条氏とそれに味方した武士の領地の没収という後醍醐の方針を顕家はあっさり撤回して東北各地の北条氏領の代官たちの信望を得た。また源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼして以来、東北には関東御家人の庶流が地頭として入っているケースが多く、顕家はこうした庶流武士たちの本家への対抗心を利用して味方を増やしたと言われる。藤原秀郷の子孫・小山氏の分家の分家である白河結城氏の結城宗広はそうした奥州武士の代表であり、顕家の腹心となって勢力を拡大した。こうした政策は少年顕家よりも後見の親房の構想が大きかったと思われるが、その後の顕家の二度の遠征を支えた東北武士たちが顕家個人に魅力を感じていたことは十分考えられる。

 建武2年(1335)11月、中先代の乱の平定後鎌倉に居座っていた足利尊氏の叛意が明らかとなったとして、後醍醐は尊氏討伐の命を下し、新田義貞の軍に東海道を、忠房親王らの軍に東山道を東進させると同時に、顕家を鎮守府将軍に任じて東北から関東へ攻め込ませた。顕家・親房父子は義良親王を奉じて大軍を起こし11月22日に多賀城を出発したが、12月に箱根・竹ノ下合戦で新田軍は足利軍に大敗して西走、これを足利軍が追って京を目指し、その背後をさらに北畠軍が追うという日本史上でもまれな大軍3つの同時大移動が展開される。

 翌延元元年(建武3、1336)1月11日に足利軍は京を占領、後醍醐は比叡山に逃れた。しかしそのわずか2日後に驚異的な強行軍をしてきた北畠軍が琵琶湖東岸に達し、新田・楠木軍と合流した。1月16日から後醍醐軍と足利軍の京都をめぐる大激戦が展開され、ついに1月30日に足利軍は京を捨てて丹波、さらに摂津へと逃れた。摂津での戦いにも敗れた足利軍は船で九州へと落ち延びていった。
 この勝利を後醍醐たちは大いに喜び、顕家は右衛門督・検非違使別当、さらに権中納言に昇進し、東北に加え常陸・下野の二国も与えられた。そして3月に改めて義良親王と共に奥州に下ることとなったが、このとき顕家はそれまでの「鎮守府将軍」ではなく「鎮守府“大”将軍」の称号を天皇に求め、許されている。顕家は上奏文のなかで「鎮守府将軍は従五位上相当の官である。自分はすでに参議となり従二位にのぼっており、位が高く官が低いのは先例に違う。ぜひ帝の御決定により『大』の字を加えていただき、公卿の貴さを示していただきたい」と述べており、そこには親房ゆずりの強烈な家格意識、そして鎮守府将軍に任じられ武士として公卿(三位以上)になった尊氏に対する敵愾心がみえ、「本物の公卿の貴さ」を示そうという気迫がうかがえる。

 尊氏が敗走したとはいえいまだ西方に健在のこの時点で、北畠奥州軍をただちに奥州に帰してしまったことは建武政権の重大な戦略ミスと指摘される。だが一方で親房が「東国がおぼつかないため」と記しているように北畠軍が留守にしている間に東北・関東では反後醍醐派の活動が活発化しており、これらをただちに押さえ込む必要があったと考えられる。また本拠地を遠く離れことに従う武将たちの不安もつのっていただろう。3月10日に京を発った北畠軍(父・親房は京にとどまった)は途中で足利方の武士たちの妨害を受け続け、これと戦いながらの苦しい行軍を強いられ、ようやく多賀城に到着したのは5月25日のことだった。ちょうどこの日に湊川の戦いがあり、九州から攻めのぼった足利軍が新田・楠木軍を撃破、建武政権の崩壊を決定的なものとしていた。

―再度の長征―

 中央の情勢に呼応して奥州各地で足利方の攻勢が続き、延元2年(建武4、1337)正月には顕家は多賀城を放棄して伊達郡にある天然の要害・霊山に拠点を移した。この間に後醍醐は尊氏といったん和睦したものの前年12月に京を脱出、大和・賀名生から吉野に入った。そして全国の後醍醐派に尊氏討伐の指令を発し、霊山の顕家のもとにも一刻も早く畿内へ攻めのぼるよう綸旨が届けられた。正月25日に顕家は返書をしたため「すぐにも参上したいが義良親王と共に霊山に包囲されている状態で、これを打ち破ってから上洛したいと思います。義貞にもその旨伝えてあります」と苦戦の状況を報告している。

 顕家がようやく京を目指しての遠征の途についたのは8月11日のことだった。霊山の包囲をなんとか解いたこと、そして当面の兵糧を確保したことでこの時期にあわただしく出発することになったと推測される。今回も義良親王を奉じ、結城宗広・伊達行朝南部師行ら腹心の武将たちを引き連れての出発だったが、前回の遠征とは異なり事実上の「奥州撤退」であったとの見解もある。
 北畠軍は白河の関を越え下野・宇都宮に入ったところでいったん進軍は止まり(宇都宮公綱が味方する一方で庶流の芳賀禅可が抵抗、小山氏も妨害したためらしい)、4ヶ月後の12月8日になってようやく小山城を攻略、それから利根川を挟んでの足利軍との戦いに勝利してこれを突破、12月24日ついに鎌倉へ突入した。鎌倉を守る足利義詮は逃亡し、奥州管領に任じられて顕家とは地位的にライバルの関係にあった斯波家長は自害に追い込まれた。年越しして正月2日に鎌倉を出発、東海道を足利方の妨害を撃破しつつ進撃し、24日には美濃国に入った。この途中、新田義貞の子・新田義興、義貞の家臣・堀口貞満、そして北条高時の子で中先代の乱を起こして信濃に潜んでいた北条時行が北畠軍に合流している。勝ちに乗ってふくれあがった北畠軍の兵数は「太平記」によれば50万騎、「難太平記」では30万騎と伝えられるがいずれも誇張した数字でせいぜい数万人程度だったのではないかと思われる。また北畠軍は奥州産の駿馬を多くかかえて機動性に富む軍団だったのではないかという見方もある。
 「太平記」はこのとき北畠軍は通過する各地で略奪・放火をおこない、彼らが通り過ぎたあとは草木一本残らぬありさまであったと伝え、「もともと恥というものを知らぬ夷(えびす)どもであるから」とその理由を記す。この「夷」が当時も北東北に住んだいわゆる「蝦夷(えぞ・えみし)」を指すという見方と、単に京都人が東国人全般に蔑視をこめて呼んだものとする見方とがあるが、いずれにせよ北畠軍が無理な長征のために物資の現地調達を余儀なくされたであろうことは疑いない。

 北畠軍の勢いに恐れをなした足利幕府は土岐頼遠桃井直常今川範国らを美濃に集め、顕家の進撃を食い止めようとした。1月28日に両軍が激突したのは美濃国・青野原、およそ260年後に天下分け目の戦いが行われる関ヶ原と同一の戦場である。激戦となったが最終的に勢いに勝る北畠軍が足利軍を粉砕し、土岐頼遠は重傷を負って一時行方不明となった。敗北を知った足利方は高師泰細川頼春佐々木道誉らを派遣して黒地川(黒血川)に第二の防衛ラインを敷いた。これを突破すれば京は目の前であり、このとき越前で勢力を復活させつつあった新田義貞と合流すれば京奪回を果たせるかと思われたが、北畠軍は垂井から南下し、伊勢へと転進してしまった。
 この顕家の転進は当時から議論の的であったようで、「太平記」は顕家が義貞に功を立てさせることを嫌ったため、と記している。実際に顕家の父・親房は著書『神皇正統記』で義貞のことをほとんど無視しているし、武士が発言力を増すことを顕家が警戒していた節はある。また青野原の戦いで完勝したとはいえ味方の損害も大きく、黒地川の突破は不可能と見て北畠氏の拠点である伊勢で態勢を整えようとしたとの見解も有力だ。異説として北畠軍に加わっていた北条時行が「親の敵」である義貞との合流に反対したためとするものがあるが、当時の時行にそこまでの発言権があったとは思えず、また時行は義貞よりも尊氏を「親の敵」とみなしていた可能性が高いのでまずありえない話だろう。

―壮絶に散華―

 伊勢に入った顕家はいったん兵を休めた上で伊賀を経由して大和に入り、2月21日に奈良を占領、ここから北上して京を目指した。これを2月28日に奈良の北・般若坂で迎え撃ったのが足利氏執事・高師直桃井直常らで、師直は畿内の武士たちを編成した自軍と「分捕切捨の法」と呼ばれる革新的な戦闘管理により北畠軍を大いに打ち破った。敗れた顕家は楠木氏の勢力圏である河内・和泉へ逃れ、ここで態勢を立て直しつつ一族の春日顕国の軍に京ののどもとにあたる男山八幡を占領させた。そして3月8日には攻撃してきた足利方の細川顕氏の軍を天王寺付近で破っている。しかし3月16日に出撃してきた高師直・細川顕氏らの反撃にあい、和泉への撤退を余儀なくされた。顕家はそれから一か月ほど和泉国・坂本郷(堺南方)観音寺に城をかまえて動かず、男山八幡の顕信の軍も果敢な籠城戦を続けた。両者が優位を保ちながらも動かなかったのはやはり長躯の遠征と連戦に疲れた兵を休めていたものと思われる。あるいは北陸の新田義貞との連動を画策していたのかも知れない。

 5月15日、決戦を前に死を覚悟してのことであろう、顕家は後醍醐にむけた有名な諫奏文をしたためている。その中で顕家は「無理な中央集権をやめ地方の分割統治を行うこと」「諸国の税を三年間免除して戦乱に疲れた民を救うこと」「功績があっても才能のない者に官位をむやみに与えず土地だけ与えること」「貴族・僧侶・武士への恩賞の区別を明確にすること」「たびたびの行幸や宴会は国を乱すもとだから禁止すること」「法令をおごそかにして朝令暮改の状態を改めること」「政治に害をなす貴族・女官・僧侶を排除し政治への口出しを許さぬこと」と、後醍醐の建武新政への痛烈な批判を列挙した。中央集権体制への批判は奥州経営の実体験からくるものであろうし、家柄の低い者をしばしば抜擢し阿野廉子文観といった女性・僧侶を政治に関与させた後醍醐に対する批判には父親・親房ゆずりの上級貴族家格意識が強烈ににじみでてている。この諫奏文はその内容からもともと後醍醐の政策に批判的だった父・親房が書いたものではないかとする見解もあるが、親房の教育を徹底的に仕込まれた顕家が素直にそれを文章にぶつけているとみるのが自然だろう。文末には「先非を改め太平の世に戻す努力をなされないのなら、私は范蠡(はんれい。越王勾践に仕えた名参謀で功を立てた直後に世を捨てた)や伯夷(はくい。殷を倒した周に仕えるのを拒否して山の中で餓死した)のように世を捨て山林に隠れるでありましょう」と書かれていた。

 5月22日、堺の石津川周辺で北畠顕家と高師直の両軍が激突した(石津の戦い、境野の戦い、堺浦の戦いとも)。『太平記』によると師直は大軍を男山八幡の包囲に回して顕信を釘づけにしておいた上で、少数の手勢で顕家の軍を襲ったという。『保暦間記』では戦闘は当初は北畠軍の方が優勢で、足利方の諸将が撤退を始める中で師直が果敢に踏みとどまって奮戦、形勢を逆転してついに顕家軍を撃破したとする。この戦いでは河野水軍・忽那水軍が北畠軍に呼応して海上にあり、足利側との海戦が同時に行われて南朝側の軍船が六隻焼かれたという(後述の上杉清子の書状)。顕家はわずか二十余騎となって包囲を突破し吉野へ向かおうとしたが果たせず、武蔵の武士・越生四郎左衛門尉に討ち取られ、丹後の武士・武藤右京進政清がその首をあげたという(『太平記』)。享年21歳であった。この戦いでは南部師行・名和義高らも戦死し、男山に籠城していた顕信も7月には撤退を余儀なくされ、南朝勢力にとって痛恨の打撃となった。

 尊氏の生母・上杉清子は、上杉一族への手紙の中で顕家が高師直・細川顕氏に討たれその首が都に届いたことを伝え、住吉八幡が霊験をあらわし南朝方の船を焼いたと記して「ひとえに神々のおはからいのおかげである」と喜んだ。一方で愛息・顕家の戦死を父・親房は『神皇正統記』のなかで「時が至らなかったのか、忠孝の道はここに極まったのである。苔の下にうずもれてしまってはただ空しく名をとどめるだけである。物悲しい世であることよ」と嘆きつつその善戦を称えた。南朝は顕家に従一位・右大臣の贈位をしている。
 江戸時代中に南朝尊崇の気運が高まり、明治になってから『太平記』が顕家の戦死の地とする阿倍野に阿部野神社が建てられ、父の親房ともども神として祭られた。実証的に戦死の地を阿倍野ではなく石津とする研究者も出たが、戦前の皇国史観まっさかりの時代には「霊威をふみにじるもの」と非難されている(現在では「石津の戦い」と呼ぶのが一般的である)。顕家が拠点とした霊山にも霊山神社が建てられ顕家・親房が祭られている。

―人物―
 
 南北朝時代は武士だけでなく公家も甲冑を身にまとい剣をふるって戦った時代だった。北畠顕家はそんな時代の公家武将の代表的存在といえる。紅顔の美少年であったと思わせる『増鏡』の記述や、『太平記』の伝える二度の東北から畿内への疾風のような大遠征、しかも連戦連破の実績もあって古くから人気は高い。ただ古典『太平記』ではその軍勢の破竹の勢いは記しながらも顕家個人の性格をしのばせるエピソードなどはまったく書かれない。

 『太平記』以外の一次史料から見えてくる顕家像は、「鎮守府“大”将軍」要求の上奏や死の直前の諫奏文に見られるように、強烈な「貴種意識」を抱くいささか鼻もちならない若者である。父・親房も武士たちに対して時代錯誤的(当時としても)な発言を繰り返しているが、そんな父に純粋培養された生れながらの貴公子だからこそであろう。しかし一方で東北経営にあたっては現実的な処理をして武士たちの信望を集めており、単に上級公家意識・武士蔑視丸出しの若者だったら二度の大遠征自体が実現できなかったに違いない。その戦死にあたってもそばに従っていた武士たちがそろって腹を切り一人残らず戦死したという「太平記」の記事が事実ならそこまでさせるだけの魅力のある人物だったのかもしれない。当時の地方では都から来た少年貴公子というだけでかなりのカリスマを持ったことも考慮される。
 死の直前の諫奏文も父・親房の意向がかなり反映していることは疑いないが、若者らしい純粋さで歯に衣せぬ批判を後醍醐にぶつけており、読んだ後醍醐も相当に耳が痛かったのではなかろうか。なお当人の意図とは別に、この諫奏文は「建武の新政」なるものの実態を知る上で「二条河原の落書」と並ぶ貴重な証言として、大いに後世の歴史家の役に立っている。

 武将として戦闘指揮能力は、その実績を見る限りでは南北朝時代中でもほぼ最強と言える。むろん同行していた結城宗広ら武士たちの働きも大きかったと思われるが、他の公家武将の体たらくと比べると顕家は実際に指揮官として優れていたのだろう。北畠軍は「孫子」の「疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山」のいわゆる「風林火山」の旗印を使っていたとも言われ(阿部野神社にこの旗が蔵されている)、学問の家らしく古典から兵法を学んでいた可能性も高い。
 だが後醍醐の指示を受けての大遠征自体に無理があったことも否めない。遠征途中の軍勢の略奪・放火行為もその表れであったろうし、最終的に動きを鈍らせて敗北するのも長征の疲れによるところが大きかっただろう。さらに敵将の高師直がこれまた足利側にあって最強と言われる指揮官であり、悪党的存在を含む畿内の武士を配下に入れ「分捕切捨の法」など新時代のゲリラ的なその戦術の前に、古典的な東国流武士団が敗北したとする見解もある。
大河ドラマ「太平記」誰が顕家を演じるのか注目されたが、なんと女優・後藤久美子がキャスティングされた。本人によるとNHK側からは「お姫様か少年武将」としてオファがあり、それならと「少年武将」を選んだという。当時美少女アイドルとして絶頂期といえた「ゴクミ」と、藤夜叉役の宮沢りえの「アイドル対決」と煽る記事があった記憶もあるが、この両人の共演シーンは一度もない。もともとボーイッシュな後藤久美子が美少年公家武将を演じるのは外見的にはそう無理がなかったものの、時代劇演技としてはどうしても浮いてしまっていた。初登場は第12回で、ドラマ中では弓の名手という設定になり目を閉じたまま針を射るという技まで見せた。建武新政期には後醍醐の前で「陵王」の舞を見せる場面が『増鏡』記述を時代を移して再現されている。建武の乱における京都攻防戦では京市街オープンセットを騎馬軍団で疾走し直義らを蹴散らす勇壮な場面もチラッとあったが、時間の制約で出番は大幅に少なくなった。二度目の遠征では青野原合戦、石津合戦も描かれるがスタジオ撮影のためスケール感に乏しく、その最期は頸動脈を斬っての自害という形にされた。問題の「伊勢転進」は義貞に対する警戒感もさることながら「顕家はもう疲れました」と父・親房に甘えるためという個人的動機になっている。
その他の映像・舞台戦前に「みちのくの僧兵」という芝居があり、1938年に市川左団次(二代目)、1939年に片岡我当が演じている。
歴史小説では北方謙三の南北朝歴史小説第二弾「破軍の星」は北畠顕家を主人公にした長編小説。「サンカ」を思わせる山の民が顕家を支援し、東北に独立国家建設を夢見るという設定は九州を舞台にした前作「武王の門」と対応する。
このほか、複数ある父・親房を主人公とする小説、あるいは南北朝・太平記をテーマとする作品でたいてい登場している。
漫画作品では学習漫画系での登場は多い。ただし奥州将軍府の件と尊氏を九州に追うくだりでチラッと登場するのみ。小学館版「少年少女日本の歴史」では実年齢より高めのキャラデザインとなっている。さいとう・たかを「太平記」では凛々しい若武者に描かれた。
変わったところでウォーシミュレーションゲーム雑誌「シミュレイター」の太平記特集号に掲載された松田大秀・作のSSシリーズ「太平記」紹介のギャグ漫画があり、ここで顕家は建武政権のピンチを救う颯爽たる貴公子として紹介され「いやはは、てれるじゃん」などと言っている(笑)。尊氏を九州に追った後奥州へ帰されることになると「出番もう終わりなのね、つまらないなぁ」などとボヤいている。
PCエンジンCD版陸奥に拠点を置く南朝方独立君主として登場、初登場時のデータは統率88・戦闘91・忠誠84・婆沙羅28で指揮官能力は最高レベル、かつ調略にほとんど応じないカタブツのため足利尊氏でプレイする場合はかなり厄介な強敵となる。ただし新田義貞でプレイした場合は独立君主のため指示が一切出せず、史実と違って大遠征せず東北地方に居座ってしまうので敵への牽制以外ほとんど役に立たない。
PCエンジンHu版シナリオ2「南北朝動乱」ではなんとプレイヤーキャラであり、南朝側で全国を制覇することがゲームの目的となっている。能力は「騎馬8」と最強で、東北から遠征するのではなく最初から伊勢に拠点を構えている。
メガドライブ版当然南朝方で、「顕家登場」「打出浜の合戦」の2シナリオのみ登場。能力は体力119・武力133・智力142・人徳93・攻撃力117とまさに最強レベルに設定されている。  
SSボードゲーム版公家方の「総大将」クラスで、勢力地域は「奥羽」。合戦能力3・采配能力6でゲーム内でも最強クラス。公家側プレイヤーには頼みの綱ともいえる。ユニット裏は北畠顕信。

北畠顕成きたばたけ・あきなり(あきしげ?)生没年不詳
親族父:北畠顕家
官職少納言?
生 涯
―ほとんど実態不明の顕家の子―

 北畠顕家の子として『尊卑分脈』に名前が載るが、詳しい事績はほとんど分からない。そもそも16歳で奥州に下り、21歳で戦死した顕家に子供がいたのかという声すらあり、実際には弟の北畠顕信の子ではないかとの説もある。実際に顕家の子だとすれば顕成は建武年間(1334-1338)に生まれたと推定される。
 北畠顕信は兄・顕家のあとを継いで鎮守府将軍となり、興国元年(暦応 3、1340)から奥州に入って葛西氏や南部氏など南朝勢力を糾合して活動しているが、このとき顕信が「吉野殿」と呼ばれる貴人を擁していたことが葛西清顕結城親朝に宛てた書状に書かれており、清顕から親朝に「吉野殿は無事である」と伝えていることからこの人物がそれ以前は結城氏のもとにいた可能性が高い。南朝の皇子とも考えられるが「殿」と呼ぶことからそれも考えにくく、結城氏が預かっていた幼い顕家の遺児、すなわち顕成ではないかとの推測がある。「吉野」の名が気になるが、吉野で生まれたか育ったということかもしれない。
 八戸の豪族・南部信光の天授2年(1376)正月22日付の譲状の中で「しゃうせう(少将)殿」に領地の一部を譲るとの文言があり、南朝で少将クラスの官位を東北で持つ人物とは北畠氏の誰かとしか考えられず、これがやはり顕成ではないかとの推測もある。また津軽の浪岡氏は「浪岡御所」と呼ばれて室町期を通じて重んじられ、北畠氏の子孫である可能性が高いとみられ北畠顕成を祖とするとの伝承もある。ただこれも実際には顕信の子孫との見方も有力である。
 また一方で瀬戸内海の村上水軍の祖を顕成とする系図類もある。さすがにこれは後世の付会と見られているが、顕成の弟が村上水軍の祖となったとするものもある。

参考文献
大友幸雄「史料解読奥羽南北朝史」(三一書房)ほか
歴史小説では北畠顕家を扱った北方謙三『破軍の星』、北畠親房を扱った童門冬二『南北朝の梟』でチラッと「顕家の遺児」のことが触れられている。
PCエンジンCD版1339年になると「元服」して父・顕家のいる国に登場する(いくらなんでも若すぎるような…)。初登場時のデータは統率77・戦闘79・忠誠88・婆沙羅33

北畠顕信きたばたけ・あきのぶ生没年不詳
親族父:北畠親房 母:春日局
兄弟:北畠顕家・北畠顕能 子:北畠守親?
官職左近衛少将、伊勢国司、近衛中将、陸奥介、鎮守府将軍、内大臣?(いずれも南朝)
位階従一位?
生 涯
―東北南朝勢力の司令官―

 北畠親房の次男。母親は春日局と伝わり、左近衛少将となったために「春日少将」とも呼ばれた。生年は不明だが建武政権時にはまだ少年であったはずである。
 延元元年(建武3、1336)12月、いったんは足利尊氏と和睦(実質投降)した後醍醐天皇が京を脱出して吉野に入ると、これに呼応して顕信が伊勢で挙兵した(『保暦間記』)。一連の動きは顕信の父・親房が指揮したものとみられ、顕信は親房が拠点としていた伊勢の国司に任じられている。以後北畠氏は戦国時代にいたるまで伊勢国司を継承することになる。

 兄の北畠顕家は延元3年(建武5、1338)に奥州から大軍を率いて畿内に入り、一時は京に迫ったが5月に堺で戦死した。直後に北陸の新田義貞も戦死して南朝は戦略の練り直しを迫られた。親房は再び東北・関東の各地に南朝勢力圏を作るべくこの年の7月に次男の顕信を陸奥介・鎮守府将軍に任じて顕家の後継者とし、9月に息子ともども義良親王宗良親王らを奉じて伊勢大湊から船団で出発したが、船団は嵐にあって散り散りとなり、顕信は義良親王と共に伊勢へ吹き戻され、親房は常陸にたどりついた。延元4年(暦応2、1339)8月後醍醐天皇が吉野で死去し、義良が後村上天皇として即位した。

 このころ親房は常陸で転戦しつつ、奥州と関東に南朝の拠点を作る戦略を立てていた。この戦略に沿って顕信は改めて奥州に向かうことになり、興国元年(暦応3、1340)の春に伊勢を発ち、途中で常陸の親房の所に寄ってから奥州へと向かった。顕信は現在の石巻に拠点を置いて、葛西氏・南部氏ら顕家と関わりのある武士たちに奉じられて奥州における南朝の中心的存在となり、関東の親房と連動した動きを見せた。このとき顕信が「吉野殿」と呼ばれる身分の高い人物を奉じていたことが書状から知られるが、これは兄・顕家の遺児・北畠顕成ではないかとの推測がある。また他に「宇津峰宮」と呼ばれる皇族を奉じていたともされるが、こちらはほとんど詳細が分からない。顕信の活動自体も史料が断片的にしか残っていないため詳細な再現が難しい。
 
 興国3年(康永2、1343)に各地の勢力と共に陸奥府中(多賀城付近)奪取を目指して活動したが、栗原郡三迫で大敗、以後顕信じ自身は南出羽に拠点を移した。あてにしていた白河の結城親朝も幕府側に投降し、関東の親房も関東経略に失敗して興国5年(康永3、1341)に吉野に戻ったため、本来の構想であった奥州・関東の連動作戦は失敗に終わるが、顕信の奥州における活動は続いた。
 やがて幕府側が内戦「観応の擾乱」に突入すると東北でも尊氏派・直義派の抗争が始まり、その隙を突いて顕信ら南朝勢力も息を吹き返した。正平6年(観応2、1351)11月、顕信らの南朝勢は陸奥府中の奪取に成功する。しかし幕府の奥州探題・吉良貞家の反撃で翌年正月には奪い返され、正平8年(文和2、1353)7月には拠点としていた宇津峰城も攻め落とされて顕信はまた出羽へと戻った。

 その後顕信は出羽北部にいたとみられ、各地に発した書状が断片的に残っている。正平13年(延文3、1358)に出羽の鳥海山の大物忌神社に寄進をして陸奥・出羽二国の静謐を祈願した寄進状が残っているが、そこに「従一位前内大臣」と官位が書かれているため、一度南朝朝廷に帰って内大臣となったとも、そもそも後世の偽作とも意見があるが、出羽で活動を続けていたことは事実とみてよさそうである。
 確認される顕信最後の書状は正平17年(貞治元、1362)正月18日付の南部信光あてのものである。その中で顕信は京都から来た者から得た情報として、細川清氏が幕府に反逆して南朝に降伏、これと結んだ南朝軍が京都を占領したとの最新ニュースを伝え、後村上天皇からの綸旨も受け取ったと記しており、畿内の南朝勢力と密接な連絡をとっていた様子がうかがえる。
 その後顕信の動向を確認できる資料はなく、吉野に戻って右大臣になったとか、九州の懐良親王に合流して筑後川の戦いで戦死したとか(「太平記」の筑後川合戦の場面で「北畠源中納言」の戦死が書かれているため)、天授6年(康暦2、1380)11月に死去といった風聞もあるが、いずれもあまり信用できない。室町時代に津軽浪岡に拠点を置いた浪岡氏は「浪岡御所」と呼ばれ、北畠氏の子孫を自称しているが、これが顕信の子孫であるとの見解も有力である(顕家の子・顕成の子孫ともされ、二系統あったとの説もある)

参考文献
大友幸雄「史料解読奥羽南北朝史」(三一書房)ほか
PCエンジンCD版北畠親房の配下として伊勢志摩に登場。初登場時のデータは統率63・戦闘73・忠誠90・婆沙羅36
SSボードゲーム版北畠顕家のユニット裏。公家方の「大将」クラスで、勢力地域は「奥羽」。合戦能力1・蔡杯能力5

北畠顕泰きたばたけ・あきやす生没年不詳
親族父:北畠顕能
兄弟:北畠(木造)顕俊 子:北畠満泰・北畠満雅・大河内顕雅
官職伊勢国司、権大納言(いずれも南朝)
位階正二位
生 涯
―南北朝合体時の伊勢北畠当主―

 北畠顕能の次男。兄に顕俊がいるが、恐らくは母親の身分の問題で顕泰が北畠家を継ぎ、顕俊は分家の木造氏の祖となった。父・顕能から伊勢国司の地位を引き継いで伊勢北畠家第三代となったが、その時期は不明である。父同様に多気に拠点を置いて幕府側の土岐氏と伊勢支配をめぐって抗争している。
 明徳3年(元中9、1392)閏10月、南朝の後亀山天皇が京に入って後小松天皇に三種の神器を引き渡し、南北朝合体が実現した。顕泰はその動きにこれといった反応は見せておらず、直後の11月に南朝の「元中」年号を記した御教書を出していることから顕泰は合体に抵抗していたとの見方もある(この御教書は顕泰の活動が確認できる最古の資料である)。だが現実には特に幕府に抵抗した形跡もなく、翌明徳4年(1393)9月に足利義満が伊勢神宮参拝の旅に出た時はこれを歓待し、長男・親能に「満」の字を与えられ満泰と改名させている。
 応永元年(1394)11月に京に来て伝奏の広橋仲光のもとを訪問していることが仲光の子・広橋兼宣の日記で確認できる。顕泰は仲光を通して何かの運動をしようとしていたらしく、仲光は敬遠するためか脚気を理由に面会を断っている。

 応永6年(1399)11月、大内義弘が義満に反旗を翻して和泉・堺に籠城する「応永の乱」が勃発した。この反乱には楠木氏など南朝残党の一部が呼応したが、北畠顕泰は息子の満泰と共に幕府側の一翼を担って参戦した。親房以来の「南朝の忠臣」の家としては驚かされる忠勤ぶりだが、この段階では南北両朝の交互即位も一応約束されており、伊勢大名・北畠氏として生き延びるには義満に協力するのもやむを得なかったのだと思われる。北畠父子はかなりの奮戦を見せており、三百余騎を率いて山名軍と合流して堺の城に攻め入ろうとして命を軽んじて戦ったが、大内側も必死の防戦を見せ、満泰が戦死するという痛恨の結果を招いた(『応永記』)。だがその犠牲は報われたようで、このころ義満の御教書が「北畠大納言入道」すなわち顕泰に宛てて出され、伊勢半国の守護の地位を認められている。ここに北畠氏は名実ともに室町幕府のもとの一守護大名となるのである。

 江戸時代に編纂された南朝通史『南方紀伝』では応永9年(1402)10月に死去とされるが、応永13年(1406)12月に顕泰と思われる「伊勢国司入道」が北山殿を訪問して義満と対面しているため、事実とは思われない。さらに応永19年(1412)6月12日にもこの「伊勢国司入道」が元管領・斯波義重の館を訪問して何かを談義しており、この直後に後小松の子・称光天皇が践祚していることから、顕泰は「両統迭立」の約束を守るよう幕府に求めていた可能性がある。これに先立つ応永17年(1410)に後亀山法皇が吉野に出奔するという事件を起こしていて、顕泰が後亀山を保護していたとの見方もある。
 顕泰の行動はこの一件以後は不明で、恐らく間もなく死去したのだろう。次男で伊勢国司を継いだ北畠満雅は応永14(1407)9月から国司として活動しているため、その時点で家督を譲っていたと見られる。

参考文献
森茂暁「闇の歴史、後南朝・後醍醐流の抵抗と終焉」(角川選書)

北畠顕能きたばたけ・あきよし1326(嘉暦元)?-1383(永徳3/弘和3)?
親族父:北畠親房(実父は中院具平?)
兄弟:北畠顕家・北畠顕能 子:北畠(木造)顕俊・北畠顕泰
官職伊勢国司、
位階正二位?
生 涯
―一度は京に入った伊勢北畠第二代―

 北畠親房の三男。実際には北畠氏と同族の中院具平の子で、親房の養子となったとの説もある。じっさい『太平記』では彼のことを一部で「中院衛門督顕能」と記している(もっとも親房についても同様に記される例がある)
 顕能の生年は不明だが、建武政権の誕生と崩壊時はまだ少年であったと推測される。延元3年(建武5、1338)に兄の北畠顕信が鎮守府将軍として奥州に下ることに決まった時に兄から伊勢国司を引き継いだと見られる。伊勢渡会郡の田丸城を拠点として、伊勢神宮神官度会家行の補佐を受け、父・親房や兄・顕信が義良親王らを奉じて伊勢から海路東国へ向かうのを支援した。
 興国3年(康永元、1342)8月、幕府軍の高師秋の攻撃を受けて顕能は田丸城、さらに坂内城を失い、拠点をより内陸の一志郡多気城に移した。このころ父・親房も関東経略に失敗して伊勢を経由して吉野に帰り、顕能は父と共に南朝運営の中心となる。

 正平3年(貞和4、1348)には楠木正行らと呼応する形で伊勢山田方面に進出、度会家行と共に幕府側の守護代のいる泊浦を攻略して南朝勢力を拡大した。南朝の勅撰和歌集である『新葉和歌集』に載る「いかにして 伊勢の浜荻 吹く風の おさまりにきと 四方(よも)に知らせむ(伊勢の海岸に吹きつける風がおさまったとどうやって全国に知らせよう)」という顕能の和歌は沿岸部まで勢力を回復したこのときに詠んだものとの見解がある。

 その後足利幕府側が内戦「観応の擾乱」に突入し、正平6年(観応2、1351)11月に足利尊氏が弟・足利直義との戦いのために南朝に投降して北朝を放り出し、一時的に南北朝が統一する「正平の一統」が実現した。南朝にしても尊氏にしてもこれは一時の方便でしかなく、南朝側は翌正平7年(文和元、1352)閏2月に京と鎌倉を一挙に占領する同時作戦を実行し、後村上天皇自ら京に入るべく賀名生から住吉、さらに男山八幡まで進出した。これに顕能も伊勢・伊賀の兵3000余りを率いて馳せ参じ(『太平記』)、閏2月16日には数百騎を率いて先行して京に入って威嚇、京の留守を守っていた足利義詮を慌てさせている(『園太略』)

 そしてついに閏2月20日に顕能・千種経顕楠木正儀らの南朝軍主力が京に突入、足利義詮を近江に追って京占領に成功する。そしてすぐ翌日の21日に南朝軍は北朝の光厳光明崇光の三上皇らを男山八幡に連行しているが、『太平記』の記述ではこの連行を指揮したのは顕能で、泣きつく上皇や公家たちを「すでに勅命が出た上は聞く耳はもたぬ。遅くなったから急げ」と冷たくせかし、東寺までついてきた公家たちを追い返す様子が描かれている。南朝総帥である父・親房もこのとき京に入っているが、表向きの総指揮官は顕能で、北朝皇族の連行も親房の指示で顕能が実行したのだろう。親房が洞院公賢に出した手紙によると、顕能はただちに軍を率いて近江へ義詮の追撃に向かおうとしたようだが、義詮が近江で早期に反撃の態勢をとったため実際の近江進出は行われなかったようである。

 3月に入ると義詮軍が近江から京奪回に動きだし、15日には顕能は京を捨てて淀に陣をとり、さらに後村上がこもる男山八幡へと移った。南朝軍は男山八幡に籠城して2ヶ月近く幕府軍相手によく防いだが、5月10日に顕能の指揮下にあって南朝にとって重要な戦力であった湯川庄司が幕府側に投降したことで勝負は決した。南朝軍は多くの公家・武将を失い、後村上自身も鎧武者の姿でようやく逃走するというありさまで、顕能も後村上や親房を賀名生に届けて多気へと帰った。それでも翌年2月には大和・宇陀方面に顕能の軍が進出するなど(『園太略』)、活動は活発であった。
 ただ、このころから父・親房の消息がはっきりしなくなり、こののち足利直冬らと結んでの南朝軍の京占領が繰り返されるが、そこに北畠顕能が参加している形跡がない。このためこの時期南朝内で内紛があり、北畠一族が後村上とやや距離を置いていたのではないかとの見方もある。親房の死は通説では正平9年(文和3、1354)のことである。

 康安元年(正平16、1361)に、それまで伊勢守護として北畠氏と対決してきた仁木義長が、幕府内の政争に敗れて南朝に投降してきた。顕能はこれを機に伊勢南部・伊賀方面へ進出し、義長を美濃から攻める土岐氏とも対決、伊勢は北畠・仁木・土岐の三者が鼎立してせめぎ合う情勢となった。
 顕能の伊勢国司としての活動が最後に確認できるのは文中2年(応安6、1373)9月8日の御教書で、その後は息子の北畠顕泰に国司職を譲って吉野に入り、長慶天皇の側近として南朝における強硬派となった(和平派の楠木正儀が幕府側に走った原因ともみられる)。天授5年(康暦元、1379)に東宮・熙成親王(後の後亀山天皇)の傅(教育係)となって、翌年に出家して曇宰と号し、父と同じく准三后の待遇を授けられたともいうが、この時期の南朝人事の実態は不確かなことが多く、断定はできない。弘和3年(永徳3、1383)7月28日に58歳で死去したとの資料もあるが、恐らくその頃と推定されるだけで確実ではない。後に江戸時代以降、南朝の忠臣として称揚され、父・親房、兄・顕家と共に北畠神社(三重県津市)の主神として祭られている。
 
参考文献
佐藤進一「南北朝の動乱」(中公文庫)
林屋辰三郎「内乱のなかの貴族・南北朝と「園太略」の世界」(角川選書)
小川信監修「南北朝100話」(立風書房)
森茂暁「闇の歴史、後南朝・後醍醐流の抵抗と終焉」(角川選書)
岡野友彦「北畠親房」(ミネルヴァ日本評伝選)ほか
SSボードゲーム版父・親房のユニット裏で、公家方「武将」クラスの勢力地域「全国」。合戦能力1・采配能力4

北畠親房きたばたけ・ちかふさ1293(永仁元)-1354(正平9/文和3)
親族父:北畠師重 母:藤原隆重の娘 養父(祖父):北畠師親 子:北畠顕家・北畠顕信・北畠顕能
官職兵部権大輔・左近衛権少将・右近衛権中将・権左少弁・伊予権介・左少弁・弾正大弼・参議・左近衛権中将・備前権守・左兵衛督・検非違使別当・権中納言・中納言・淳和院別当・右衛門督・権大納言・奨学院別当・按察使・大納言・内教坊別当・准三后(南朝)
位階従五位下→従五位上→正五位下→従四位下→従四位上→正四位下→正四位上→正三位→従二位→従一位→准后→贈正一位(明治41)
生 涯
 後醍醐天皇の腹心の一人として建武政権を支え、南朝の政治的・思想的な柱石となった名門公家。当時の「戦う公家」の代表であり、その神国思想・皇国史観のイデオロギーは後世の日本の歴史観に多大な影響を残した。

―博学の名門公家―


 北畠家は村上源氏の名門・中院家から分かれた家系で、親房の曽祖父・中院雅家が京都北部郊外の「北畠」に居を構えたことからその名がついた。その名の通り畑に囲まれた郊外地域だったらしく、やや「都落ち」した感のある家であったようだ。その地位を挽回させるためであろうか、北畠家は後嵯峨亀山後宇多と代々の天皇、とくに大覚寺統と密接に結びつき、親房の父・師重の代ですでに三代続けて大覚寺統派の重鎮となっていた。こうした環境が親房の人生の方向をはっきりと定めてらしい。
 親房が生まれたのは永仁元年(1293)。実父は北畠師重だが、早くから祖父・北畠師親の養子となっていて、元服後の諱も養父の「親」の字を継いでいる。どうしてそうなったのか理由ははっきりしないが、親房の元服当時、大覚寺統内部で亀山上皇派と後宇多上皇派との間で後継を巡る対立があり、それに対応するため祖父・師親の意向で決まったことなのではないかとの説がある(岡野友彦『北畠親房』)

 嘉元3年(1305)正月の亀山法皇の御幸始に十三歳の親房が右近衛権中将としてつき従っていて、これが史料上で最初に確認できる親房の行動である。そして徳治2年(1307)11月に15歳の親房は突然左少弁職を辞している。これは冷泉頼俊が大蔵卿から少弁・中弁を経ずにいきなり右大弁に昇進したことに対する「腹立ちの余り」の辞職であったと伝えられていて(「公卿補任」)、少年親房がこの年ですでに貴族階級の任官のルールに異様にうるさかったことを物語っている(もっともこの一件は祖父にして養父の師親の意向が大きかったとみる研究者もいる)

 成長した親房は早くからその博学を高く評価されていたようで、代々大覚寺統派に属する家にも関わらず、持明院統の花園天皇即位・伏見上皇院政のもとでも重んじられて早いスピードで昇進している。和漢、とくに中国古典知識に造詣の深かった親房は1311年に「応長」年号を決定した「改元の儀」に19歳で参加したのを皮切りに、後醍醐天皇の治世で「元応」(1319)「元亨」(1321)「嘉暦」(1326)「元徳」(1329)と合計5回も改元決定に関与している。親房と吉田定房万里小路宣房の後醍醐側近三人組を、白河天皇の側近「三房」にならって「後の三房」と呼ぶこともある。
 元亨2年(1322)4月に親房は唐突に京の治安をあずかる検非違使別当に任じられているが、これは花園上皇が日記で「何か事情があるのか」と不思議がったように前任者を唐突に辞めさせての異例の抜擢であった。翌年正月には検非違使別当の地位は親房から日野資朝に引き継がれており、これは天皇親政を目指す後醍醐が京の治安・経済のコントロールを狙った人事ではなかったかと言われている。元亨4年(1324)にはそれまで北畠家では極官であった権大納言から、初めての大納言にまで昇進した。そしてこの年に後醍醐最初の討幕計画が発覚した「正中の変」が起こるのである。

 親房や日野資朝、日野俊基ら後醍醐の側近たちは当時日本に持ち込まれたばかりで公家社会でも流行しつつあった「宋学」(朱子学)に深く傾倒していた。大義名分論による正統性を説く宋学は当時玄恵によって広められており、宋学と共に『資治通鑑』のような通史も広く読まれ、親房もそれらの「蘊奥(うんのう)を得た(その奥義を極めた)」と伝えられている(一条兼良『尺素往来』)。宋学は後醍醐の倒幕・天皇親政計画の思想的根拠とされたと言われ、後年親房が記した『神皇正統記』に見られる「正統性」論にも多分に宋学の影響がみられる。もっとも親房自身は幕府政治については否定的ではなく(源頼朝や北条政子、北条泰時らについては賞賛している)、後醍醐の討幕計画に直接参加していた形跡もない。後に建武政権に対して批判的な意見を持っていたともされるため討幕計画を進める後醍醐とは一定の距離を置いていた可能性も指摘されるが、明確なことは分からない。
 
 それでも後醍醐と親房の関係が深いものであったことは、亀山法皇の晩年の子で後醍醐の養子となっていた尊珍法親王、そして後醍醐がもっとも愛したと言われる皇子・世良親王が親房に預けられ養育されている事実で明らかだ。とくに世良については後醍醐は自身の後継者と考えていた可能性が高く、その乳父(めのと)を任された親房への信頼の厚さがうかがえる。
 ところが元徳2年(1330)9月、その世良が病で重態に陥った。9月13日夜に世良は死を覚悟して親房に遺言を伝えたが、親房は世良の回復を願ってあえて遺言書を作成しなかった。しかし17日に世良が亡くなり、親房はただちに13日に聞いていた内容をもとに遺言書を作成している(この件は親房が遺言書の中で明記しており、死後に作った遺言書の内容に疑念を持たれないようにわざわざ書いたとの見方もある)。世良の急逝を育ての親であった親房は深く悲しみ、「わが世つきぬる心地して」(「増鏡」)その日のうちに出家を遂げた。法名を宗玄、のちに覚空と改める。この年の12月にはやはり育ての子である尊珍法親王が越前に流刑(理由不明)となって間もなく世を去っており、出家した親房はますます世を捨てたい心地になり、ほとんど隠遁状態になっていたと推測される。この直後の鎌倉幕府滅亡にいたる動乱のなかで親房の動向がまったくうかがえないのはそれが理由なのかもしれない。

―奥州への赴任〜建武の乱―

 元弘元年(1331)8月の後醍醐の笠置挙兵に始まる「元弘の乱」の中で親房の姿はまったく見られないが、接点が少なくとも二点ある。一つは父の従兄弟に当たる北畠具行が笠置挙兵に参加して捕えられ、翌年処刑されていること。もう一つは倒幕戦の司令官ともいえる護良親王が親房の肉親に等しかったという点である。護良親王の生母「民部卿三位局」については謎が多いが北畠師親の養女であったとする史料があり、また護良親王の子・興良親王の母は親房の妹であったとされるのだ。
 鎌倉幕府が滅んで建武政権が成立した元弘3年(正慶2、1333)10月、北畠親房は陸奥国司に任じられた息子の顕家とともに義良親王を奉じて奥州へと下った。北条氏が支配していた東北地方を統括する「ミニ幕府」を作るという構想で、これは関東を押さえる足利氏を牽制する目的で護良親王によって提案され、親房もこれに深く関わったとも言われている。ただし親房自身の『神皇正統記』によると「我が家は代々学問の家柄であるから」とこの任務を再三断ったが後醍醐に押し切られたとしており、この構想の提案者については見解が分かれている。ともあれ京にいるのが当然の上級貴族が皇子を奉じて遠く奥州まで出向くというのはおよそ前例のない政策であり、先例にこだわることのない後醍醐天皇がその決定を最終的に下したことは間違いないだろう。
 当初は乗り気ではなかったにせよ、陸奥国府・多賀城に着任した北畠父子は精力的に奥州統治にいそしんでいる。もともと北条氏の支配地域であった津軽では北条残党による反乱も起こっていて、北畠父子は総力を挙げてその鎮圧にあたっている。その間に都では護良親王が失脚し、建武元年(1334)10月に捕えられて足利氏に引き渡され、鎌倉に幽閉されている。この情報に接して北畠父子が何を思ったかはまったく史料がなく、『神皇正統記』でも護良の惨死についてずいぶん突き放した書きぶりをしているため親房と護良の関係はあまり親密ではなかったのではないかとの見解もある。

 建武2年(1335)7月に北条残党による反乱軍が鎌倉を占領、足利尊氏が出陣してこれを平定した(中先代の乱)。この直後から尊氏は建武政権から離脱して関東に武家政権を復活させる姿勢を見せ始める。
 このとき親房は危機感を抱いたか、急きょ自ら少人数のみを連れて都へ帰還している(ながらく否定的に見られていたが『関城書』『北畠准后伝』に記述があるほか結城親朝に「同行は無用」と伝える親房書状もある)『太平記』では尊氏の叛意について朝廷で議論が行われる中で、親房と三条公明「尊氏が謀叛を起こしたとの情報があるが確かなことは分からない。疑わしいというだけで功臣を罰してはならない」とむしろ尊氏を擁護し確認を求める意見を述べている場面がある(巻十四。この場面が『太平記』における親房の初登場である)。この場面について親房は当時奥州にいたはずだし尊氏を擁護するような意見をするのはおかしいとして作者の勘違いとみる意見が多かったのだが、このとき実際に親房が都に舞い戻っていたとすると実際にこのような意見を朝廷で述べた可能性も高い。ただし親房が尊氏を終始警戒していたことは疑いなく(南朝側の人間で親房だけが「高氏」表記を執拗に続けて「尊氏」と認めていない)、この場面での意見はあくまで戦略的に尊氏を刺激するのは好ましくないという発想から出たものだったのだろう。
 この年の末に尊氏は実際に反旗を翻し、新田義貞を主力とする討伐軍が関東へ向かったが、箱根・竹之下の戦いで敗北して京へ引き返し、これを追って足利軍が京を目指した。そしてほぼ同時に北畠顕家ひきいる奥州軍が関東に入ってさらに足利軍を追って京を目指す。「関東の足利を奥州から牽制する」という奥州ミニ幕府当初の構想はここで現実のものとなったのである。このとき親房も奥州軍に参加していたとする『梅松論』などの記事があるが、近年の研究では親房は一足先に京に戻っていて後醍醐と行動を共にしていたとする見解のほうが有力のようである。

 翌建武3年(延元2、1336)の正月の京都攻防戦で足利軍は敗れ、遠く九州へと敗走した。この勝利の大きな要素が奥州からかけつけた北畠軍であったことは疑いなく、それまでどちらかといえば建武政権のなかで冷遇されていた感のある親房の政治的地位を高めることになった。恐らく足利軍を撃退し京を回復した直後のことであろう、建武3年初頭のうちに比叡山に避難していた後醍醐が親房を最高位の「従一位」に叙していることが確認できる。このころ後醍醐の急進的すぎる政策に対して反省を迫る声が朝廷内で増して後醍醐側近が失脚に追い込まれる現象が見られ、後醍醐政治に批判的意見を持っていた保守派公家の代表である親房を重用することでそうした声を封じる狙いもあったかもしれない。

 3月に息子の顕家は義良親王と共に奥州勢を率いて多賀城へと戻って行ったが、親房はこれに同行していない。理由は不明だが、恐らく今後は京にとどまって朝廷の重鎮としての活躍が期待されたのだろう。しかし足利軍敗走直後の2月8日に親房が「足利軍を追討する件について、みんないまひとつ気合いが入っていない。どうにもおかしなことだ」結城宗広への書状で書いているように、九州へと逃れた足利軍に対する朝廷の反応は鈍かった。同時期に楠木正成が「武士たちが勝った官軍を捨てて負けた足利軍に走ってしまう」と嘆いたと伝わる発言と呼応するところもあるようだ。
 はたして親房の不安は予想以上に早く現実となり、九州で体勢を立て直した足利軍は4月に東上開始、5月の湊川の戦いで正成を敗死させた。一説に、対足利強硬派の親房がこのとき朝廷の重鎮となっていたことが、足利との和睦を主張する正成を死に追いやる結果をもたらしたのではないかとの見方がある。後年親房が南朝の指導者となっていたときに正成の子・楠木正行が無理な出陣で戦死に追いこまれているのも同じパターンだったのではないか、との意見だ。実際、親房は『神皇正統記』の中で湊川の戦いと正成の戦死についてわざと省いたかと疑われるほど一文字も言及していない。
 
―常陸での奮闘と『神皇正統記』―

 湊川で勝利した足利尊氏は京を再占領し、後醍醐は比叡山に逃れて抵抗、激しい攻防が10月まで続いた。10月10日に後醍醐は尊氏との和睦にひとまず応じて比叡山を降りて帰京したが、このとき恒良親王・新田義貞を北陸へ、宗良親王・北畠親房を伊勢へと派遣、各地から京を包囲奪還する布石を打っている。親房は確認される限りこのとき初めて伊勢に足を踏み入れるが、それ以前から伊勢神宮の外宮宮司・度会家行らと関係を持っていた可能性も指摘される。またこの年の末に後醍醐が京を脱出して吉野に入り「南朝」をひらくことになるが、親房はその直後に顕家にあてた手紙の中で「帝は京奪回の宿願を果たすために伊勢においでになるとおっしゃった」と記しており、当初から後醍醐と親房の間で吉野から伊勢へと拠点を移して京奪還を狙うという構想が話し合われていた可能性が高い。結局後醍醐の伊勢行きは実行されなかったのだが、吉野→伊勢→都という進撃ルートは「壬申の乱の故事」にならったものではないか、との指摘もある(岡野友彦「北畠親房」)

 親房の最大の期待は息子・顕家ひきいる奥州軍の再度の上京だった。親房は早くも延元3年(建武4、1337)正月から顕家に出陣をうながしているが、奥州の情勢は厳しく、顕家の出陣は遅れに遅れてその年の8月になった。顕家軍はその年の暮れに鎌倉を攻め落とし、翌延元4年(建武5、1338)正月に東海道を経由して美濃まで進撃、ここで迎え撃った足利方の大軍を青野原の戦いで激闘の末に撃ち破った。しかしその直後、顕家は北陸の義貞軍と呼応することもなく南へ転進、伊勢へと入った。この「伊勢転進」は結果的に足利側を救う結果になったため『太平記』でも戦略ミスとして強く非難されるほか古来議論の対象となっているのだが、そこに伊勢に拠点を置いていた親房の意向が強く働いていた可能性も高い。
 顕家軍は奈良に入り、ここから京を目指したが高師直らに阻止された。顕家はさらに和泉・河内方面で体勢を立て直して転戦するも、5月22日の堺・石津の戦いで高師直に壊滅させられ戦死してしまう。父・親房は『神皇正統記』のなかで「時が至らなかったのか、忠孝の道はここに極まったのである。苔の下にうずもれてしまってはただ空しく名をとどめるだけである。物悲しい世であることよ」とこのくだりだけ激しく感情をぶつけてその死を悼んでいる。顕家はその戦死の直前に後醍醐に向けて「中央集権ではなく分割統治を」「無能な者に官位を与えるな」「女や僧の政治介入を許すな」といった内容で建武政権を痛烈に批判する諫奏文を提出しているが、これは恐らく親房の主張そのままであったろうとも言われている。

 顕家の戦死に続き、閏7月には越前で新田義貞が戦死した(親房は『神皇正統記』で義貞の戦死もほぼ無視している)。8月には足利尊氏が征夷大将軍となり、南朝の劣勢は覆いがたい情勢となった。親房は反撃の体勢を整えるため、自ら再び奥州へ向かうことを決意する。この年の9月に義良親王・宗良親王・結城宗広そして親房を乗せた大船団(一説に500艘)が奥州目指して伊勢を出航した。ところが船団は暴風雨に襲われて散り散りになり(『神皇正統記』によると房総沖、『太平記』では天竜灘沖)、義良と宗広は伊勢へ吹き戻され、宗良は遠江に漂着、鎌倉周辺に漂着して足利方に討ち取られる者も多くいた。親房の乗る船はいったん房総沖から伊豆まで吹き戻されたが、ひとまず北上して常陸の内海(霞ヶ浦。当時はより広大・複雑だった)に入って東条荘(現・茨城県稲敷市)に上陸した。ここには南朝に味方する勢力があったようで、親房はまず神宮寺城に、それから阿波崎城へと入っている。しかし上陸直後にその情報が出回ったらしく、足利方の烟田時幹の攻撃を受けて神宮寺・阿波崎2城は10月上旬に相次いで落城した。続いて親房は常陸の有力武士で南朝方となっていた小田治久の居城・小田城(現・つくば市)へと入った。小田治久は常陸守護をつとめることもあった名門で、元弘の乱の折に流刑となった後醍醐の腹心・万里小路藤房を預かり、それが縁で南朝方となっていたのである(彼が旧名「高知」から「治久」に改名しているのも後醍醐の諱「尊治」の一字を与えられたものとみられている)

 小田城に腰を落ち着けた親房はこの常陸の地で5年間に及ぶ奮闘を開始する。はじめ親房は義良親王と結城宗広が奥州に到着したものと信じていたが、彼らが伊勢に吹き戻されてしまったことを知って構想の修正を迫られる。親房がもっとも頼りにしたのは白河にいる宗広の子・結城親朝で、親房は五年間で合計70通に及ぶ書状を親朝に送り続け、出陣を催促し続ける。結果的に親朝が実際に出陣することなく終わるのだが、親朝は彼なりに可能な限りの資金や物資の援助、あるいは足利方への軍事的圧力を北からかけるといった親房への支援を行っている。
 延元4年(暦応2、1339)8月16日、後醍醐天皇が吉野で無念のうちにこの世を去った。後を継いで即位したのはかつて親房が擁していた11歳の義良親王=後村上天皇である。このころ親房は小田城内において「大日本は神国なり」で始まる日本通史『神皇正統記』の執筆にとりかかる。この『神皇正統記』は建国神話から始まって後村上に至るまでの歴史をつづり、「万世一系」の皇統が連綿と続いてきたことが日本の特殊性であると主張する一方で、「不徳の皇統は断絶する」(武烈、称徳、陽成の例)という儒教的価値観も導入され、それが「天照大神のおはからい」によって皇室の「正統」が“移動”して続いていく、という論理で大覚寺統=後醍醐=後村上こそが「正統」であるという結論を導き出す。当時最高水準の和漢の歴史に精通していた親房らしく、手元に持っていた簡単な皇統譜のみを材料に日本・中国の史書・前例をちりばめた濃厚な一冊であり、江戸時代以降の尊王論、いわゆる「皇国史観」へとつながって後世の日本に重大な影響を与えることになる。
 この書は「ある童蒙のために書いた」という執筆動機が書かれており、この「童蒙=ものをよく知らない子供」が誰を指すのか議論があった。少年である後村上を指すと見るのが素直なところだが、天皇を「童蒙」などと呼ぶだろうか、という疑問から結城親朝を念頭に東国武士を諭す意図があるのではないかとの意見も出た。近年では「童蒙」は君主を指す用例があることからやはり後村上を読者に想定したものと考えられるようになっている。なお親房は後村上を「上さま御幼稚」と呼んで、周囲の声にたぶらかされていると懸念する書状も残している。

 親房は『神皇正統記』と同時に『職原抄』も執筆している。こちらは朝廷の官職・位階の秩序をまとめたもので、どのくらいの位階を持つものがどのような官職に就くか、またそのような地位につけるのはどのような家柄かといったものを一目瞭然に示している。親房は平安時代に確立された貴族階級の階層秩序、家格観念を絶対のものと固く信じており、後醍醐がそうした家格を無視した抜擢人事を行うことに対しても批判的であった。ましてその貴族の下の階級であるはずの武士が高い地位を得ることなど断じてあってはならなかった。武士たちが南朝側に味方するのと引き換えに官位や領地の恩賞を求めてくることに対して、親房はあくまで「古来の秩序を乱すな」という信念で応えようと『職原抄』を執筆していたようだ。『神皇正統記』ともども自身の信念を再確認するための執筆作業といってもいいだろう。
 実際、親房は南朝に鞍替えする代わりに恩賞の土地を要求してくる武士(福島中通りの豪族・石川氏)に対して「一度は敵だったのだから本来土地をとりあげられてもおかしくない。降参人は領地を半分にするという武士のルールもあるのだから、今ある土地を安堵してもらえるだけでもありがたいと思え。さらに要求をするなど商人の考えというものだ」とする意見を結城親朝あてに書き送っている。南朝側に味方すると言ってくる武士たちの多くは自身の勢力拡大の方便として南朝を利用しているに過ぎず、親房のこの観念的発言には呆れかえるほかなかったろう。親房は『神皇正統記』の中で足利尊氏ほか倒幕に参加した武士たちについても「北条が滅んだのは天命によるものであって人間の力によるものではない。武士などという連中は、いわば数代の朝敵(何世代も北条に仕えていたことを指す)である。味方に来て家を失わぬようにするだけでも大変な帝の恩恵である」という文章を書いてもいる。また本文中貴族層を「人」と呼ぶ一方で武士層を「者」と呼ぶ点にも彼が武士を低く見ていたことがうかがえる。

 興国2年(暦応4、1341)、南朝内部で分派運動が起こっていた。もともと北朝で関白まで勤めながら吉野南朝に鞍替えしてその首脳となっていた近衛経忠がこの年の5月に突然出奔するという事件が起きたのだ。親房が書状に書くところによると経忠は京に走ったが相手にされず、やむなく関東の下野の小山氏ら藤原系武士に呼びかけて「藤氏一揆」なるグループを作ろうとし、上野の新田義興らの勢力にも声をかけていたという。「藤氏一揆」なる動きが実際にあったのかについては親房の書状しか根拠がないために疑問の声もあり、この一件は後醍醐亡きあと南朝内で北朝との講和をさぐる動きが現れ、彼らが強硬派の親房の排除を狙ったのではないかともみられている。
 南朝首脳間の混乱は東国の南朝方武士の動揺も招いた。結城親朝も慎重な姿勢を見せるようになり、高師冬軍の攻勢を受けて小田城内にも足利方に通じる者が現れ、ついに11月に小田治久が高師冬に投降した。親房はそれより前に治久から出て行くように懇願されたらしく、11月11日に関城(現・茨城県筑西市)へと移った。同族の春日顕国を近くの大宝城(現・茨城県下妻市)に配置して、抗戦の構えをとった。当然高師冬は大軍を動員してこれを攻めたが、関・大宝の二城は鬼怒川と小貝川に挟まれた沼沢地帯に建設された要害で、まさに難攻不落だった。親房に味方する武士も決して少なくはなかったようで地形も利用してよく抵抗し、高師冬軍を悩ませた。このときの師冬軍の苦戦ぶりはこの戦いに動員された山内経之という武蔵の武士が家族に送った書状によって生々しく伝えられている。攻めあぐねた師冬は日本戦争史上でも珍しい地下トンネル作戦まで展開している。

 興国3年(康永元、1342)5月、吉野から派遣されてきた律宗の僧・浄光なる人物が東国に現れる。親房自身の書状によると後醍醐在世のころから南朝の使者として各地を往来していた人物で、降伏前後の小田城でも親房から疑念の目で見られていた人物だった。この浄光が親房の頭越しに後村上天皇の「勅命」を下してまわっていたらしく、東国のことは全て後醍醐から委任されていると考えていた親房は彼に大いに不審を抱いている。この浄光の活動も吉野と親房の不協和音を深めることになり、親房は善戦しつつもますます孤立していった。
 そしてついに翌興国4年(康永2、1343)8月に結城親朝が足利方の奥州総大将・石塔義房からの呼び掛けに応じ、足利方に鞍替えしてしまった。ここに親房は完全に有力支援者を失うことになり、11月11日から12日にかけて関・大宝二城は陥落、関城城主・関宗祐ら一族は自害して果てた。しかし親房はどこをどうやって逃げたのか、無事に翌年春には吉野に姿を現すことになる(海路説が有力)

―正平の一統〜京への帰還―

 興国5年(康永3、1344)、吉野に戻った親房は南朝で准大臣に任じられたとみられる。出家の身ながら南朝の首脳となるための措置で、これ以後南朝における和平派は一掃され、親房を中心とする強硬派の体制が固まったと思われる。だが南朝の史料は少ないためにこの間親房がどのように南朝を主導していたか詳しいことは分からない。

 親房が吉野に戻って3年後、正平2年(貞和3、1347)に南朝は正成の子・楠木正行の活躍により久々の反撃攻勢に出た。しかし正行は翌正平3年(貞和4、1348)正月に四条畷の戦いで高師直に敗れて戦死、勢いに乗った師直軍は吉野へ突入して南朝皇居を焼き払った。四条畷の戦いにおける親房の動向は不明だが、先述したようにこのときの正行の、まるで父・正成をコピーしたかのような無謀とも思える出陣・戦死の背後に強硬論を唱える親房の存在があったのではないかと推測する研究者もいる。実際、正行の弟でその後の南朝を支える楠木正儀は和平工作に奔走して親房を対立することも多かったとみられている。
 師直軍が吉野に突入する前に、後村上・親房はじめ南朝の人々はさらに山奥の賀名生へと拠点を移した。これで南朝はとどめをさされたも同然と言え、実際に講和(実質降伏)の交渉も行われたのだが、親房らは断固としてはねつけたものと思われる。

 ところが南朝にとって起死回生のチャンスがめぐってくる。足利幕府内で足利直義と高師直両派の内紛、いわゆる「観応の擾乱」が始まるのだ。直義と師直の険悪さはかなり前から明らかだったようで、親房もまだ関城にいた興国4年(康永2、1343)の段階で「直義と師直の不和は今にも戦いになりそうだという。滅亡するのもそう遠いことではあるまい」と予見していた。その予見がだいぶ遅れたとはいえ、現実のものとなったのである。
 正平4年(貞和5、1349)8月、高師直一派のクーデターが起こり、直義は失脚に追い込まれた。一年以上が経った正平5年(観応元、1350)10月末に直義は京都を脱出、大和の南朝方豪族・越智氏に身を寄せ、そのまま南朝に降伏を申し入れる。南朝側では直義の降伏の真意を疑い、これを受け入れるかどうか議論が戦わされたが、『太平記』によれば最終的に親房が項羽と劉邦の戦いの故事を長々とひいて「勝利のためには謀略も必要である。ここは直義の言うとおりにして両朝の合体を果たそうではないか。いったん帝位を手に入れれば武士たちもつき従うから、それから逆臣を滅ぼせばよい」と意外にマキャベリスト的な意見を披露し、お互い一時の方便と百も承知で手を結ぶ結論に至ったとされる。12月13日に南朝は直義の降伏を認める勅命を下した。
 南朝という「錦の御旗」を得た直義派は各地で一斉に蜂起、翌正平6年(観応2、1351)正月には京を占領、2月には打出浜の戦いで尊氏・師直軍を壊滅させ、直後に師直一族を殺戮した。勝利を確実にした直義にとって南朝の利用価値はすぐに消えたわけだが、直義はねばりづよく南北両朝合体の交渉を続けている。このとき直義と親房が交わした往復書簡は「吉野御事書案」として後世に伝わっており、あくまで幕府政治のもと両朝迭立を主張する直義と、後村上こそが「神国」日本の正統な天皇であると主張する親房との、お互い原理原則論の一歩も譲らぬ激しい応酬となっている。結局この交渉は5月19日をもって決裂して終わった。洞院公賢ほか複数の証言では講和交渉に直接あたっていたのは楠木正儀で、一時はほぼ話がまとまりかけたが親房が全てぶち壊し、正儀が激怒するという一幕もあったようだ。

 ただ親房もやみくもに交渉をぶち壊したわけではなかったかもしれない。結局この直後に尊氏・直義の対立が再燃し、今度は尊氏が南朝に降伏してしまうのだ。親房の思惑はそこまで読んでの作戦であった可能性もある。
 直義と戦うことになった尊氏は8月に南朝に降伏を申し入れたが、彼は直義よりもっと大胆に、それまで自分が担いできた北朝をあっさりかなぐり捨てて南朝側の主張を全面的に受け入れる「完全降伏」を申し出た。これにはかえって南朝側も疑心暗鬼になったようだが、結局10月24日に尊氏に降伏を認める勅命を下した。この交渉の仲介者はかつて護良親王の部下であり、北畠親房とも「村上源氏どうし」で連絡があったともいわれる幕府の重鎮・赤松則祐であったらしい。親房も直義のときと同様、尊氏の全面降伏が一時的なものであることは百も承知だったが「一時の謀略」としてこれを受け入れ、ともかく北朝を接収して京へ帰還することを優先したとみられる。
 南朝の勅命を受けた尊氏は直義を討つべく関東に去り、11月7日に南朝は北朝の天皇・上皇・皇太子および年号を廃して、南朝の後村上天皇が一時的にせよ唯一正統の天皇となった(正平の一統)。親房はこの「統一政権」の実質的最高指導者として両朝合体の工作を進め、12月23日には北朝のもつ「三種の神器」を「虚器ではあるが北朝で神器として使われた」という屁理屈でちゃっかり接収している(南朝では後醍醐が北朝に譲った神器はあくまで偽物と主張していた)。この間に親房は後村上天皇から「准后」(皇族の后に准じる待遇)の宣下を受け、いわば「位人臣をきわめた」形となった。

 翌正平7年(観応3、1352)2月26日、尊氏に敗れて鎌倉に幽閉されていた足利直義が急死した。ここに「観応の擾乱」は一応終結し、尊氏と南朝とが手を結ぶ必然性はなくなった。それを見越したように、親房はこのとき東西同時の大作戦をひそかに進めていた。
 直義が死んだその日、後村上・親房・阿野廉子ら南朝の人々は賀名生を出発、住吉大社を経て京都を見下ろす男山八幡へと入った。そのときの行列は元弘の乱で鎌倉幕府が滅亡し後醍醐が凱旋した時の例にならったとされ、しかもほぼ同時に南朝は宗良親王を征夷大将軍(征東将軍との説もある)に任じ、関東の新田一族らと共に尊氏のいる鎌倉攻略の作戦を進めさせていた。親房の脳裏には鎌倉幕府滅亡時の東西同時作戦の再現が構想されていたのではないかとの説もある。親房は尊氏の降伏を受け入れた段階からこの計画を持っていたと予想され、ここにも親房のマキャベリストぶりを見て取れる。
 閏2月20日、楠木正儀・千種経顕北畠顕能らを主力とする南朝軍が京へ突入、父・尊氏の留守を守っていた足利義詮は不意を突かれて近江へ逃亡し、南朝軍はついに京占領に成功した。翌21日に南朝は北朝の光厳光明崇光の三上皇および元皇太子の直仁親王の身柄を確保して北朝の再建を不可能のものとした。これとほぼ時を同じくした閏2月18日には宗良親王と新田一族の南朝軍が鎌倉を攻め落として尊氏を一時にせよ窮地に追い込んでおり、親房の東西同時作戦はひとまず絵にかいたような大成功を収めたのである。

 親房がついに京都の土を踏んだのは閏2月24日のことであった。親房は北朝を代表する公家・洞院公賢に以下のような挨拶の書状を送っている。「今度の突然の事態にはあなたも驚いたことでしょう。まさに筆舌につくしがたいことであります。さてもともとは息子の顕能が京の治安に当たる予定でしたが近江へ出陣しており、京のことも放っておけないので四条隆資にも上洛するよう再三言いましたが固辞されてしまったので、老いさらばえた私が京に入ることになりました。十七年ぶりに故郷の土を踏むことについては自重しなかったわけではありません。しかしながらこれを実行すべきかどうかは迷いました。一昨日京に入ったのですが忙しくて挨拶が遅れました(『園太略』閏2月26日付記事)」親房が最後に都をあとにしたのは湊川の戦いの直後、後醍醐と共に比叡山に避難する際のことであり、正確には16年ぶりとなるが、ともあれ親房も感慨ひとしおであっただろう。『太平記』はこれより先、親房が准后の宣下を受けた時に「花をつけた大童子を引き連れ、豪華な輿に乗って宮中を出入りする派手な様子が天下の人を驚かせた」と書くが、これはむしろ親房が京に入った時の得意満面の模様と考える方が自然かもしれない。

―無念のうちに死去―
 
 京・鎌倉の同時占領という大作戦に成功した親房だったが、尊氏・義詮はすぐに体勢を立て直して東西で同時反撃し、3月には形勢は逆転し、京・鎌倉は共に一か月も経たないうちに奪回されてしまった。親房は後村上と共に男山八幡にたてこもったとみられ、この4月25日付で親房が京の公家・久我氏あてに「屋敷の敷地の件ではお世話になった。本望を遂げたら立派な屋敷を建てたい。これは別に個人的欲ではなく先祖を顕彰するためである」という強気な内容の手紙を送っている(ただし日付のみのため前年の可能性もある)。しかし結局5月11日に男山は陥落、南朝は宿老の四条隆資を戦死させ、後村上も鎧を身につけてほうほうの体で逃亡して行った。親房がいつ男山を離れたかは不明だがこれとほぼ同時であっただろう。
 これに先立って、4月中に南朝軍が京に入り、光厳の皇子で僧となることが決まっていた弥仁親王の身柄を確保しようとしている。むろんこれは北朝再建を阻止するためだったのだが失敗に終わり、はたして直後に幕府は光厳の生母・広義門院の「院宣」を用い三種の神器もなしという、かなり強引な方法により弥仁を後光厳天皇として即位させた。

 翌正平8年(文和2、1353)6月、佐々木道誉と反目した山陰の雄・山名時氏が南朝に寝返り、旧直義党や楠木正儀らと京都を攻略した。そして6月9日に南朝軍は二度目の京占領を果たすことになる。このとき南朝側は後光厳を「偽朝」と糾弾して後光厳即位に加担した公家たちに対して過酷な処分を下しており、これは先例主義者にして原理主義者である親房が後光厳即位に激しく怒ったためではないかと見られている。しかし今回の南朝軍の京占領も長くは続かず、7月26日には京から追い出されることになった。
 この間、南朝内でも何か穏やかならぬことが起こっていたらしい。洞院公賢の日記では二度目の京占領直前の6月4日の記事に「賀名生において、後村上の女御となっている親房の娘が中院具忠と密通・駆け落ちした。これに怒った親房がこの件に関係した土民数人をさらし首にしたところ、不満を抱いた土民が蜂起するか逃げ出すかしてしまい、恐れた後村上は賀名生を離れた」という情報が書かれているのだ。もちろんこの記事は公賢自身も「不確かな噂で尾ひれがついているだろう」として書いているもので、親房の娘と駆け落ちしたという中院具忠も前年に死んでいるはずの人物なのでこれがそのまま事実を伝えているとみるのは難しい。ただこのとき南朝内で親房の立場を揺るがすようなこと、たとえば南朝を支えている「土民」たちと原理主義者の親房との間で深刻な対立が起こったことは事実ではないかとみる研究者も少なくない。

 実際、このころから親房の消息がはっきりしなくなる。正平9年(文和3、1354)4月17日に親房が賀名生で死去した、とする見解が現在ほぼ通説となっているが、これは当時の有名人過去帳といえる一級資料『常楽記』がそう記しているため。現在賀名生に親房の墓なる墳丘も存在して近代以降に立派に整備されているが、その上に立つ五輪塔に文中2年(1373)の銘文があるため親房の墓でないことは明らかとされている。
 一方で『北畠准后伝』という史料では大和・宇陀郡福西の灌頂寺阿弥陀院に閉居しているうちにこの年の9月15日に死去したとの記事がある。そして宇陀郡の室生寺には「親房の墓」とされるものが存在するのである。しかも近くには親房の娘で後村上の中宮となった顕子の墓である「笠間山陵」があり、顕子は「正平8年に子の坊雲と共に世を避けて陽雲寺雲上庵に閑居、正平14年に亡くなった」と伝えられているという(旧榛原町役場HP。出典未確認)。このことと洞院公賢が伝える親房と娘がらみのトラブルの噂を結びつけて、死の間際の親房が後村上と対立、あるいは南朝内で失脚して宇陀の地へ「閉居」していたのではないかとみる説もある。親房の死を正平14年まで遅らせる史料も存在するが、後世の作ということもあってあまり信用されていない。

―子孫たちと後世への影響―

 晩年の親房の南朝内における地位がどうあれ、彼の著した『神皇正統記』のイデオロギーがその後の南朝を強く縛り続けた自体は間違いない。親房の死後、南朝が38年も曲りなりに持ちこたえた一因であるのも確かだ。
 親房の遺志は息子の北畠顕能が継ぎ、伊勢を本拠地として支配しつつ南朝を支えた。しかし孫の顕泰の代になると明徳3年(1392)に足利義満のもとで南北朝は統一され、応永の乱(1399)では幕府軍の一員として出陣さえした。それでも次の満雅の時には「両統迭立」の約束が反故にされたことに怒って二度にわたり挙兵している。しかしこれが鎮圧されたのちは北畠氏は室町幕府に忠誠を誓う一守護大名となり、そのまま戦国大名へと移行、最終的に織田信長に滅ぼされることになる。

 親房自身の知ったことではないが、親房の『神皇正統記』の論理からいえば、その後まもなく断絶してしまった南朝は「不徳」であり「正統性」はなかった、ということになってしまう。しかしそうした論理を超えたところで日本通史としての評価は南北朝統一直後から高かったらしく、15世紀後半に北朝を正統とする立場ながら「正統記」を書き継ぐという形式をとった『続神皇正統記』という史書も現れている。
 江戸時代に入ると水戸藩の『大日本史』が「南朝正統史観」を打ち出し、親房をその忠臣として称えた(親房が「地元・常陸」で活躍したことも一因ではないかと言われる)。そして『神皇正統記』の神国日本観・万世一系の皇統といったイデオロギーは尊王思想と結びついて幕末の志士達のバイブルともなっていく。もっとも親房にしてみれば北朝の子孫の正統の根拠に利用されるのは不本意だったに違いなく、明治の皇室でも「南北朝」は微妙な問題であり続け、親房への正一位贈位は明治41年(1908)、いわゆる「南北朝正閏論争」が起こって明治天皇が南朝正統と明言するのも明治44年(1911)のことである。
 昭和に入って軍国主義の風潮が高まり「建武中興600年」という節目とあいまって親房も皇国史観の中で「神格化」された(これ以前のことだが親房は実際に阿倍野神社・霊山神社・北畠神社で神として祭られている)。『神皇正統記』中に明記のあることにも関わらず親房が院政・摂関政治・幕府政治を肯定していたこと、後醍醐に対して批判点も持っていたことなどは完全に黙殺され、その点に触れた歴史学者が自己批判を余儀なくされたこともあった。
 戦前の後遺症で、戦後はかえって親房を「皇国史観の元祖」「保守反動の代表」として毛嫌いする、あるいはほとんど黙殺するような風潮も見られた。やがて南北朝史の研究の進展の中で後醍醐に対して批判的意見を持っていたことへの注目もされ(もっとも後醍醐の方が革新的と見られるため親房はやっぱり保守反動的な人と評価されてしまうのだが)、あの時代にあって公家ながら手段を選ばぬ謀略家・スケールの大きい戦略家としての側面を見ようとする動きもある。

参考文献
岡野友彦『北畠親房』(ミネルヴァ日本評伝選、2009)…最新の親房研究書で本項は多くをこれに依拠した。
伊藤喜良『東国の南北朝動乱・北畠親房と国人』(吉川弘文館)
林屋辰三郎『内乱の中の貴族・南北朝と「園太暦」の世界』(角川選書)ほか
大河ドラマ「太平記」当初平幹二郎が演じる予定だったとされるが、結局は近藤正臣が演じた。史実では出家しているのだが終始俗体のままで、後醍醐側近の公家たちの中で特殊な存在感を放った。後醍醐が挙兵して捕えられる「攻防赤坂城」の回で初登場しているが、出番が増えるのは建武政権期から。息子・顕家と共に奥州に派遣され、古風な甲冑姿で佐竹勢相手に吠える場面や京へ攻めのぼるため騎馬姿で疾駆する場面などが印象深い。建武政権にあっては護良親王派になり、阿野廉子・文観らを鋭く追及する場面もある。息子・顕家の戦死の報を聞いて人前では冷静さを装い、一人きりになると号泣し、涙で化粧を落としていく名シーンも忘れ難い。後醍醐亡きあとは南朝の主導権を握り、楠木正儀を死に追いやり、足利家内紛の謀略をめぐらし、尊氏と虚々実々の駆け引きをするなど老獪ぶりが際立った。あれほど険悪だった廉子と終盤ではすっかりうちとけてもいた(笑)。親房の関東での転戦は挿入が困難のためカットされ、「太平記のふるさと」コーナーでフォローされる形となった。
その他の映像・舞台1941年の映画「孤城の桜」は常陸時代の親房を描いた作品で、松本泰輔が親房を演じた。
舞台「幻影の城」では1961年・1969年の両方とも立岡晃が親房を演じた。
1983年のアニメ「まんが日本史」では田の中勇が声を演じている。
歴史小説では戦前には神格化され、戦後にはほとんど黙殺された、あるいはかなり否定的に見られた存在と言うこともあってその扱いにくさから歴史小説への登場はそれほど多くはない。吉川英治『私本太平記』では「皇国史観」論者として後醍醐からもやや煙たがられているような描写がある程度。他の南北朝小説でも一応登場はするものの特に印象に残らない。
大河ドラマ「太平記」放映の1991年には便乗する形で親房小説が2作登場した。一つは童門冬二『南北朝の梟』で、親房の常陸での奮戦を中心に顕家の隠し子や「藤氏一揆」といった要素をとりまぜて描いたもの。もう一つが志茂田景樹『南朝の日輪』で、こちらは常陸から戻った親房が「正平の一統」時に進めた東西同時作戦の展開が中心となっている。
2008年に刊行された賀名生岳『風歯』は南北朝時代の歯医者を主人公とした異色作で、最終話の患者が親房である。
漫画作品では学習漫画系での登場にほぼ限定される。小学館『少年少女日本の歴史』では史実通り法体姿で描かれ、結城宗広と共に伊勢から出航、常陸への難破、小田城での「神皇正統記」執筆の経緯が2ページ程度でまとめられている。
石ノ森章太郎『萬画日本の歴史』でも法体姿で登場、結城親朝に公家意識丸出しの手紙を70通も送りつける様子がコミカルに描かれる。とうとうブチ切れた親朝が北朝に寝返ると、「手紙を書くって大変なことなんだぞ!」と変なところで怒る親房がオカシイ。正平の一統の直後に親房が京へ帰還する様子が描かれているのも珍しい。親房の死後、後村上が「神皇正統記」を手にその遺志を継ぐことを表明する場面もある。
PCエンジンCD版南朝方独立君主として伊勢志摩に登場する。初登場時のデータは統率79・戦闘73・忠誠81・婆沙羅21。尊氏でプレイしても義貞でプレイしても存在感が薄い。
メガドライブ版当然南朝方なのだが、「足利帖」「新田・楠木帖」双方の最終シナリオである「湊川の戦い」のみおまけキャラ的に登場。能力は体力120・武力96・智力133・人徳88・攻撃力89。湊川で奮戦する親房というありえない場面が楽しめる?(笑)
SSボードゲーム版公家方の「大将」クラスで、勢力地域は「全国」。合戦能力1・采配能力4。ユニット裏は北畠顕能。

北畠具行
きたばたけ・ともゆき1290(正応3)-1332(正慶元/元弘2)
親族父:北畠師行 
官職右馬頭・左近衛少将・右近衛中将・美作介・左近衛中将・少納言・右衛門佐・左衛門佐・摂津権守・蔵人頭・参議・伊予権守・侍従・山城権守・権中納言・
位階従五位下→従五位上→正五位下→従四位下→従四位上→正四位下→正四位上→従三位→正三位→従二位→贈正二位(大正4)
生 涯
―後醍醐挙兵に参加し斬首―

 北畠師行の子で、北畠親房から見ると実父の従兄弟、親房は祖父の養子でもあるので具行とは「いとこ同士」ということにもなる。ただし同じ後醍醐天皇の腹心同士でありながら具行・親房の直接的関係をうかがえる史料は残されていない。元徳2年(1330)9月に世良親王の死に伴い親房が出家したのち、その嫡子・顕家がまだ少年であるため具行が北畠家を代表する形で後醍醐に重んじられるようになったと思われる。『太平記』では後醍醐の具行に対する恩寵は深いものがあったと語られている。
 元徳3=元弘元年(1331)3月の後醍醐の北山行幸にも具行は同行し、笙を奏で舞を舞ったことが『増鏡』に見える。

 この北山行幸の直後に後醍醐の討幕計画が再び発覚し、日野俊基が首謀者として捕えられた。8月に幕府が強硬措置をとる方針を固めると、後醍醐は先手を打って挙兵し六波羅を攻撃しようと計画し、各地の武士に宣旨を発した。『増鏡』によればそれを仕切ったのが具行であったとされ、それほどに後醍醐に信用されていたことを示すと同時に、このことが結果的に具行の命を縮めることにもなる。
 結局後醍醐の六波羅攻撃計画も、護良親王のいる比叡山への合流もうまくいかず、後醍醐たちは奈良へ、そして笠置山へと向かった。このとき京から笠置まで後醍醐に同行したわずかな腹心たちの中にも具行の姿があった。9月28日に幕府軍の攻撃を受けて笠置山が陥落した時にも、具行は後醍醐や万里小路藤房らと共に手に手を取って脱出し、結局翌日にもろともに捕えられている。10月12日には持明院統の光厳天皇の綸旨により他の後醍醐腹心らと共に官職を剥奪された。

 翌元弘2年(正慶元、1332)3月、後醍醐が隠岐へ配流となり、具行は絶望の涙にくれて「この世をもう一度元に戻せればよいのに」とくやしがったが、人にめめしく見られまいと気丈にふるまっていたという(「増鏡」)。5月に具行は関東へと連行されたと『公卿補任』にあるが処分決定までのあいだ近江の佐々木道誉に預けられ柏原宿にとどめおかれている。道誉は鎌倉に使者を送って処置の連絡をまつ一方、その間に具行を手厚くねぎらった。道誉はその直前に後醍醐の隠岐配流の護送から戻ったばかりで、その旅の物語をして後醍醐を賞賛し具行を喜ばせたという。
 しかし後醍醐挙兵の中心人物と目された具行に対する幕府の処分は、鎌倉に送るまでもなくその場で処刑せよ、というものであった。連絡を受けた道誉はあえて具行に告げなかったが具行は気配で察し、道誉に「出家したい」と申し出た。道誉は「鎌倉がどう思うかわかりませんが、大したことにはならないでしょう」とこれを快諾した。出家した翌日の6月19日に具行は柏原宿で斬首される。辞世は「消えかかる 露の命の 果ては見つ さてもあづまの 末ぞゆかしき(露のようなはかない我が人生の終わりは見届けた。それにしても関東=幕府の行く末が知りたいものだ)」という、大いにこの世に未練を残した歌であった。
 以上は『増鏡』の伝える最期だが、『太平記』ではやや異なる話を伝える。道誉が具行を丁重に扱ったと語るのは『増鏡』とほぼ同じだが、処刑は街道から離れた松の下に敷き皮を敷いてそこに座らせ、具行が和歌ではなく「逍遥生死 四十二年 山河一革 天地洞然(生死をさまようこの四十二年、死を前にすると山河が見違えて、大自然の広大さが感じられる)」と辞世の頌(一種の漢詩)を詠んでその末尾に「六月十九日某」と書いたところで筆をなげうち、手を組んだとみたところを後ろに回った田児六郎左衛門尉が首を落としたと目撃談のように詳細に描写している。いずれにしても内面はともかく表面は気丈に勇ましく最期を迎えたことは確かなようだ。なお、具行の命日は『公卿補任』『増鏡』『太平記』いずれも6月19日とするが、『常楽記』は日野資朝の処刑と同じ6月25日としている。

 『増鏡』によれば具行はまだ官位が低いころ、後醍醐の後宮に入って皇女を生んでいた勾当内侍(「つねすけの三位」あるいは「経朝の三位」の娘という)を妻として与えられ、夫婦仲むつまじく暮らしていたが、こうして死に別れることになり悲しんだ妻は近江の寺に入ったという。この勾当内侍が『太平記』で有名な新田義貞の妻となった女性とは別人であることは間違いないが、あまりにも話が似ているため具行の逸話を『太平記』が拝借して義貞の話に置き換えたのではないかとする見解もある。
大河ドラマ「太平記」第4回と第12回に登場する(演:押切英樹(秀樹?))。特に個性は見せず、大勢いる公家の中の一人というだけ。
歴史小説では吉川英治『私本太平記』では道誉が具行に直前まで「命は助かる」と吹き込んで喜ばせながら、突然状況が変わったので具行の顔も見ずに処刑を命じたため、具行が激しく道誉を罵って死んでいくという創作がなされている。

北畠満雅きたばたけ・みつまさ?-1428(正長元)
親族父:北畠顕泰
兄弟:北畠満泰・大河内顕雅
官職伊勢国司
生 涯
―後南朝運動の中心―

 北畠顕泰の次男。北畠氏は親房以来南朝の有力者として伊勢に代々勢力を張ったが、明徳3年(1392)に南北朝合体が成ると足利義満の軍門に下って伊勢半国を治める一守護大名として生き残る。顕泰の子、満泰満雅の「満」はいずれも義満の一字を与えられたものである。応永6年(1399)に応永の乱が起こると、北畠氏も幕府軍の一翼を担って参戦し、嫡男の満泰を戦死させてしまう。このため次男の満雅が後継者となった。応永14年(1407)9月には満雅が伊勢国司として活動している証拠があるので、それ以前に父の顕泰から家督と国司の地位を譲られていたとみられる。

 南北朝合体の時の条件として持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)の交互即位、「両統迭立」があった。義満が存命のうちは幕府もこれを守る意向だったと見られるが、義満の死後、後小松天皇からその子・称光天皇への譲位が決定的となると、南朝最後の天皇・後亀山法皇は応永17年(1410)に吉野に出奔し抗議の意志を示した。しかし応永19年(1412)に称光の践祚は実行され、両統迭立は反故にされた。このとき満雅が伊勢で挙兵したとの説もあるが、定かではない。
 満雅が確実に挙兵したのは応永22年(1415)春のことである(「南方紀伝」など後世の史書では前年9月挙兵とするが史料的に確認できるのはこの時期)。これに対し幕府は4月から6月にかけて一色・畠山・土岐・京極ら諸大名に伊勢への派兵を命じており、北畠一族のうち木造俊康は幕府方に立って満雅と戦った。この満雅の挙兵に呼応して大和では楠木党も活動し、南北朝合体から20年を経ながらも「南朝勢力」がなお健在であることを示した。幕府軍は優勢に戦いを進めつつも同時期に将軍・足利義持と弟・義嗣の確執や関東の情勢もからんで早期に事態を収拾する必要に迫られ、南朝皇族の「上野宮」(護聖院宮説成?)が仲介役となって8月には満雅と幕府は和睦した。翌年9月に後亀山も京に帰還し、事態はひとまず終息した。

 応永30年(1423)8月、鎌倉公方の足利持氏が義持に挑戦して兵を起こすと、これに呼応するように北畠満雅も挙兵した。このとき満雅は「南方宮」つまり南朝系の皇族の誰かを奉じたとされるが(『看聞日記』)、それが誰なのかは不明である。しかし11月には持氏が義持に謝罪して兵を収めたため、満雅もすぐに矛を収めたと見られる。

 応永35=正長元年(1428)正月に足利義持が死去して、くじ引きで選ばれた弟の足利義教が将軍位を継いだ。そして7月には称光天皇が重態となって北朝・崇光系の彦仁王(後花園天皇)が皇位を継ぐ可能性濃厚となったため、後亀山の孫・小倉宮聖承は7月6日に京を出奔して伊勢の満雅のもとに身を寄せた。同時に将軍の地位を狙う持氏も満雅に連携をもちかけてきたこともあり、満雅は8月にまたも挙兵する。しかし結局持氏は挙兵には至らず、幕府が派遣した土岐氏の軍の攻撃を受けて12月21日に満雅は戦死してしまう。その首は26日に京に運ばれて義教の実検を受けたのち六条河原にさらしものとなった。なおこの時の阿坂城の籠城戦で北畠軍が白米で馬を洗い敵軍にまだ城内に水が豊富にあると見せかけたという伝説がある(中国故事の流用の可能性が高い)
 満雅を失った北畠家は嫡子の教具はまだ幼く、弟の大河内顕雅がひとまず継ぎ、赤松満祐(同じ村上源氏、南朝との関わりで両家は何かと縁がある)らの斡旋で幕府に投降して許された。小倉宮は京に送り返され、出家させられている。
 
 江戸時代に南朝正統論が高まると、藤堂藩の学者・斉藤拙堂は北畠満雅の後南朝運動を顕彰し(「後南朝」という歴史用語を作ったのも拙堂である)、著書『伊勢国司略記』のなかで壮烈な戦死をした満雅を「断頭将軍」と呼んで称えている。戦時中の昭和16年には津市市内に顕彰碑も建てられている。

参考文献
森茂暁「闇の歴史、後南朝・後醍醐流の抵抗と終焉」(角川選書)

北畠満泰きたばたけ・みつやす?-1399(応永6)
親族父:北畠顕泰
兄弟:北畠満雅・大河内顕雅
官職?少将
生 涯
―応永の乱で戦死―

 北畠顕泰の長男。もとは「親能」と称したと言い、南北朝合体の翌年の明徳4年(1393)9月に伊勢参拝の旅に出た足利義満を顕泰が歓待した際、義満から「満」の一字を与えられて改名したと言われる。弟の満雅も同様であったと見られる。南朝を支えた有力者であった北畠氏が足利の軍門に降ったことを示す象徴的な出来事と言えよう。
 応永6年(1399)11月に大内義弘が義満に背いて堺にたてこもり、「応永の乱」を起こすと、北畠顕泰・満泰父子はそろって幕府側で出陣し、前線に立って奮戦した。11月29日の戦闘で顕泰・満泰は大内側の城の中へ突入しようと300騎あまりを率いて突入したが大内側の抵抗も激しく、満泰は十数名の部下と共に戦死してしまった。嫡子であった満泰の死により、北畠家督は弟の満雅に引き継がれることになるが、後年満雅が南朝復興運動で反乱を繰り返した一因に兄の非業の死があったかもしれない。
 なお、江戸時代後期に滝沢馬琴が著した歴史伝奇小説「開巻驚奇侠客伝」は新田氏や楠木氏など南朝遺臣の活躍を描いたフィクションだが、そのなかに「伊勢国司」として北畠満泰が登場する。馬琴が『南方紀伝』などから満泰について取材していたことを示す書状も残されており、実際には国司にもならずに戦死してしまっているし、詳しいことが分からないからかえってキャラクターとして使いやすいと判断して登場させたようである。

吉次きちじ
 NHK大河ドラマ「太平記」に登場する架空人物。第8回「妖霊星」の回のみに登場し、演じたのはまだブレイク前だった豊川悦司。「矛の名手」と紹介されるが忍者のたぐいであるらしく、白塗りの顔で不気味な雰囲気を漂わせる。楠木正季に命じられて幕府に混乱を起こそうとし、ましらの石を誘って幕府の実力者・長崎円喜の暗殺を企てた。烏天狗の姿で宴席で矛の舞を披露、明かりが消えた闇を利用して円喜の席に矛を突き入れたが、事前に察知していた円喜が席を変えていたため失敗。この計画は実は執権・北条高時が仕組んだもので、失敗を知り焦った高時は自ら吉次を斬り捨てようとしたが、吉次は忍術(?)を使って逃げてしまう。古典「太平記」の伝える高時を囲んで「妖霊星、妖霊星」と歌い踊った烏天狗をヒントに創作された人物である。

魏天ぎてん生没年不詳
生 涯
―東アジア三国を駆け巡った通事―

 もともと中国人で、足利義満足利義持に仕えた通事(通訳官)。応永27年(1420)の時点で「七十歳を過ぎ」ていたとされるので1350年頃の生まれと見られる。その生涯については彼に直接会った朝鮮使節・宋希mの日本紀行『老松堂日本行録』に詳しい。
 中国人とされるだけで具体的な出身地は不明だが、幼い時に倭寇にさらわれたとあるから1350年代に倭寇の襲撃を受けた山東地方の可能性が高いか。倭寇にさらわれて日本に来て、恐らく奴隷として売り飛ばされ転々としたとみられ、時期は不明だが高麗に渡り、『陶隠集』などで名高い文人・李崇仁の家の奴になっていたという。彼の家にいたということはすでにその才能を見いだされていたとみてよく、やがて高麗から日本への回礼使に同行して(恐らく通訳としてであろう)日本に戻った。しかし「江南の使」がたまたま日本に来て魏天を見かけ、「中国人ではないか」と彼を中国へと連れ去ってしまったという。この「江南の使」というのが明から日本への使者を指しているのか判然としないが、あるいは倭寇に連れ去られた被虜人の送還事業の中に本人の意図に反して巻き込まれたのかもしれない。
 思わぬ形で帰国した魏天は明建国者・洪武帝(朱元璋)に謁見した。洪武帝は魏天を日本に返して通事をつとめさせたとあるので、魏天はすでに生活の基盤が日本にあり、日本への「帰国」を望んだのだろう。洪武帝は洪武31年=応永5年(1398)に死去しているので、魏天の日本への帰還はそれ以前と言うことになる。日本に帰った魏天は妻をめとり、二人の娘をもうけたという。

 その後魏天は通訳および義満の外交ブレーンの一員として活躍したとみられ、義満に寵愛されて莫大な財産を築いたという(だとすると交易にも関わったのかもしれない)。義満の死後も義持に仕え、朝鮮軍が倭寇討伐のため対馬に侵攻した「応永の外寇」(1419)の戦後処理のため宋希mが来日して京都の等持院に入ると、それを聞きつけて大喜びし、酒も持参して七十過ぎの魏天が等持院に駆けつけてきた。魏天は宋希mと朝鮮語で会話し、まるで旧知の友と語るように懐かしがったという。宋希mは魏天の家にも赴いてここでやはり帰化中国人の陳外郎(ちんういろう)とも会い、酒を酌み交わして語り合ってこの家に宿泊している。魏天の数奇な人生はここで聞かされたものなのであろう。魏天と陳外郎の仲介で宋希mと足利義持の交渉は無事平和裏にまとまっている。

 魏天については日本側に史料がなく、その死去の時期も不明である(普通に考えれば宋希mと会ってから数年のうちであろう)。運命に翻弄されるように東アジア三国を渡りあるきつつ、自らの才覚で道を切り開き、地位も財もなして平和外交にも尽力したこの人物の存在はもっと注目されてよいと思う。

参考文献
宋希m著・村井章介校注『老松堂日本行録・朝鮮使節の見た中世日本』(岩波文庫)
その他の映像・舞台映像作品はもちろん小説などでも登場例はないが、あまりにも劇的な人生なので当サイトの仮想大河ドラマ『室町太平記』において重要サブキャラの一人として大いに活躍してもらった。他の架空キャラたちと絡む部分が多いため架空人物と思った読者も少なくなかったようだが、レッキとした実在人物であることを終盤で明かしている。彼と肥富を結びつけたのは全くの創作だが状況的には十分ありうると考えている。

義堂周信ぎどう・しゅうしん1326(嘉暦元)-1389(康応元/元中6)
生 涯
―五山文学の代表的禅僧―

 土佐国高岡(現・高知県高岡郡)の出身。わずか8歳の時に、父親が無本覚心から授かったという『臨済録』(中国臨済宗開祖・臨済義玄の言行録)を大喜びで呼んだという説話がある。暦応2年(延元4、1339)、14歳の時に比叡山に上って出家。その後土佐に戻って新福寺の道円に師事して密教(台密)を学んだが、間もなく禅宗に触れてこちらに惹かれ、17歳の時に叔父の周念道人につきそわれて上京、臨川寺に入った。康永元年(興国3,1342)に元への渡航を思い立って旅立ったが病を得て断念、京に戻って天龍寺に入り、叔父の師であった夢窓疎石に師事した。このとき自ら「持浄」(厠の掃除係)を買って出て爪で厠の汚れを落とすといった熱心な働きぶりが認められて夢窓に近侍するようになり、「周信」の法名を授けられたという。
 観応2年(正平6、1351)に夢窓が死去すると、ちょうど前年に半世紀もの元留学を終えて帰国した建仁寺の龍山徳見のもとで学芸を学んだ。後年の義堂の中国人に自国人の作と思わせたまで言われる漢詩の才能はここで磨かれたのだろう。文和3年(正平9、1354)に龍山が南禅寺の住持となるとこれに従って南禅寺に移り、延文3年(正平13,1358)に天龍寺が火災に見舞われるとその復興事業のため故郷の土佐に戻って勧進を行っている。

 延文4年(正平14、1359)8月に鎌倉公方・足利基氏は夢窓の後継者・春屋妙葩に弟子10人を鎌倉に派遣してくれるよう要請し、義堂らが選ばれて鎌倉・円覚寺に入ることとなった。さらに貞治5年(正平21、1366)には善福寺の住持となる。義堂は基氏と深い親交を結んでその相談役ともなり、貞治6年(正平22、1367)4月に基氏が死去する直前には病床に呼ばれて後事を託され、まだ幼い基氏の子・足利氏満の後見役となって継承を円滑に進ませた。
 応安4年(建徳2、1371)にはやはり親交のあった関東管領・上杉能憲に請われて能憲が建立した報恩寺の開山となっている。永和2年(天授2、1376)5月に能憲が重病のために管領職をいったん辞し、その後回復して管領職に復帰したときも義堂が能憲と氏満の連絡役となって奔走していて、事態の二転三転に困惑する一幕もあった。永和4年(天授4、1378)4月に能憲が本当に亡くなった時、義堂は熱海で湯治中だったが知らせを受けて急遽鎌倉に帰り、能憲の遺体と対面している。

 康暦元年(天授5、1379)に三代将軍・足利義満の要請を受けて翌年に京にもどるが(兄弟子にあたる春屋妙葩の画策があったらしい)、このとき義満は氏満が反乱を起こすのではないかと強く疑っており、しつこく義堂にそのことを問いただした。義堂は「流言をお信じになってはならない」と答えてそれを否定している。義堂はその後義満の顧問的立場となり、建仁寺・等持院の住職をつとめ、至徳3年(元中3、1386)に南禅寺の四十四世住職となった。同時期に義堂の提案もあって相国寺が創建され、義満は相国寺を「京都五山」の筆頭におくために南禅寺を五山の上の別格の禅寺としている。

 康応元年(元中6、1389)4月4日に64歳で死去。義堂は「空華道人」と号して詩文をよくし、詩文集『空華集』20巻がある。また日記『空華日用工夫略集』は当時の京・鎌倉の政治情勢の貴重な記録となっている。同じ土佐国高岡出身の弟子に絶海中津がおり、義堂と絶海の二人で初期五山文学の双璧と称えられている。故郷の高知県津野町には義堂と絶海の二人が並んだ銅像も建てられている。

参考文献
本郷恵子『将軍権力の発見』(講談社選書メチエ)ほか

衣摺助房
きぬずり・すけふさ
?-1324(正中元)
生 涯
―正中の変で頭を射抜かれ戦死―

 『太平記』によると狩野下野前司の若党。元亨4=正中元年(1324)9月19日の「正中の変」で、六波羅軍に参加し、多治見国長宿所の攻撃の最前線に立っていた。合戦の開始時に国長の家臣・小笠原孫六が櫓の上から矢を放ち、助房はその矢をまともに頭に受けてしまった。孫六の矢は助房のかぶとの正面から後頭部まで貫通し、助房は馬から転げ落ちて死んだ。
 不思議なのはこのいきなりあっけなく戦死する、特に情報もないこの人物のフルネームが明記されていることである。当時何か史料でもあったのだろうか。

紀良子きの・よしこ1336(建武3/延元元)-1413(応永20)
親族父:紀(善法寺)通清 母:智泉聖通 
姉妹:広橋仲子(崇賢門院)、輪王寺殿(伊達政宗室)
夫:足利義詮 子:足利義満・足利満詮
位階従三位→従二位→従一位三条大宮長福寺長老・神泉苑大勧進
生 涯
―足利義満の生母―

 石清水八幡の社務・紀(善法寺)通清智泉尼聖通の間に生まれた娘で、室町幕府二代将軍足利義詮の側室となって三代将軍足利義満らの生母となった。母親の智泉尼聖通は順徳天皇の皇子・四辻宮善統親王の孫にあたり、このことをもって義満が母系で天皇の子孫であることを意識し、それが皇位簒奪の動機となったとする見解もあるが、二重の母系での皇族子孫がそれほど意味を持ったとも思えず、かなり無理がある。それよりも良子の妹であり広橋家の養女となった仲子後光厳天皇の後宮に入って後円融天皇の生母となっており、義満と後円融が母親同士が姉妹の「いとこ」同士であったことが心理的に影響した可能性の方が高い。

 良子がいつ義詮の側室となったかはさだかではないが、延文元年(正平11、1356)あたりではなかったか。義詮には正室・渋川幸子がいて男子・千寿王をもうけていたが、この千寿王は文和4年(正平10、1355)に5歳で夭折してしまっている。二代将軍予定者の義詮に子がないことは深刻な不安材料であり、そのため建武の乱の折に足利尊氏に協力して縁のあった通清の娘が側室とされたのだと思われる。いずれにしても良子の世間での扱いはあまりいいものではなかったらしく、当時の日記類では彼女のことを義詮の「愛物」と書いたものもあるという。

 延文2年(正平12、1357)5月5日、良子が男児を生んだとの記録がある。この男児のその後の消息は全く不明で、同じ時期に生まれた可能性が高い義詮の子の禅僧・柏庭清祖との見方もあったが、『祇園執行日記』の記事から柏庭の生母は良子とは別人とみた方が自然と考えられている。
 足利尊氏が死去した延文3年(正平13、1358)の8月22日に良子は伊勢貞継の屋敷で「春王」、のちの足利義満を産んでいる。その後貞治3年(正平19、1364)5月29日に「乙若」、後の足利満詮を産み、さらに翌貞治4年(正平20、1365)4月10日も良子は男児を産んだが、これは早産で翌日に死亡している。義満にはこの他に弟一人と妹一人がいるが、これらが良子の産んだ子であるかはわからない。
 その直後の5月3日に8歳の義満が「矢開きの儀」を行って義詮の後継者であることが公式に示された。このため生母の良子の扱いも重くなり、三条坊門の義詮邸の一対(いちのたい)に住まいを与えられ、従三位に叙された。

 貞治6年(正平22、1367)12月7日に義詮が38歳の若さで死去、10歳の義満が三代将軍となった。
 応安7年(文中3、1374)6月16日、良子は突然家を飛び出し、母親・智泉尼のいる清水坂の草庵に逃げ込んで隠遁しようとした。慌てた義満と管領・細川頼之があとを追いかけて説得して連れ戻したが、京の人々は「将軍と管領が京から逃げ出した」と大騒ぎしたという(『後愚昧記』)。この事件の原因は不明だが、良子が何らかの強い不満を抱いていたことは間違いない。有力視されるのは義詮の正室で義満の公式の「母親」でもあり、このころも政界に隠然とした影響力を持っていた渋川幸子の存在で、義満が幸子に生母以上の孝養を尽くしたと伝わることもあり、義満が幸子に遠慮して良子を冷遇したことに不満を抱いたとも考えられる。この翌年の永和元年(天授元、1375)正月6日に良子は髪をおろして尼となり(『愚管記』)、以後「北向三品禅尼」と呼ばれるようになる。春屋妙葩に帰依し、法名は「如光」、「宝池」の号もあった。
 永徳元年(弘和元、1381)3月、室町第(花の御所)に後円融天皇の行幸があり、ここで行われた綸旨の徐目で良子は従二位に叙された(幸子は従一位)

 義満が将軍を辞し北山第に住んでますます権勢を強めるなか、良子は武者小路小川の満詮の屋敷に身を寄せて「小川殿大御所」と呼ばれ、母子ともに政治の舞台とは無縁にひっそくりと暮らしている。また応永3年(1396)末に義満に男児・法尊が生まれたが(生母不明)、翌年春から良子がこの孫をひきとって応永16年(1409)まで養育している(良子自身が後年書いた法尊への譲状にそう書かれている)
 応永15年(1408)5月に義満が母に先立って急死した。良子はそれからさらに五年生き、応永20年(1413)7月13日に78歳で死去した。死の前月に従一位に叙されている。法号を「洪恩院殿月海如光禅定尼」という。

参考文献
臼井信義『足利義満』(吉川弘文館・人物叢書)
小川剛生『足利義満・公武に君臨した室町将軍』(中公新書)ほか
歴史小説では足利義満を主人公とした平岩弓枝『獅子の座』で登場している。

慶円
ぎょうえん
1264(文永元)-1341(暦応4/興国2)
生 涯
―後醍醐の討幕計画に関与した唐招提寺の僧―

 『太平記』では「教円」と表記されるのみで詳細は語られないが、その正体は奈良・唐招提寺第三十世(中興十世)住持の慶円、字を「寂禅」とする人物であったと確定されている。唐招提寺の記録『招提千載伝記』によれば、弘安7年(1284)に唐招提寺で受戒、山城国綴喜郡興戸郷にあった興善寺や大和・室生寺の住持をつとめていたという。
 元徳3=元弘元年(1331)5月、後醍醐天皇による討幕計画が再び発覚した際、関与したとして円観文観忠円尊鏡(智教)らと共に鎌倉幕府により捕縛されている。ただし慶円はこの時点ですでに78歳という高齢であり、尋問のために鎌倉まで送られた記録はない。『招提千載伝記』には六波羅に捕らえられたが「罪なきをもって本寺に帰る」とあり、証拠不十分ということで釈放されたようである。
 建武元年(1334)2月に唐招提寺長老となるが、建武政権との関係は特に深くはなかったようで、建武政権崩壊後も興福寺・春日大社の造営律家奉行となって領地の管理や関所の徴税にあたっている。暦応元年(延元3、1338)9月には唐招提寺において鑑真がもたらした仏舎利の容器の前で十種供養を執り行っており、現存する同寺・鼓楼の金亀舎利塔は慶円がこの供養の際に補修したものと見られている。
 暦応4年(興国2、1341)6月15日に死去。実に88歳の長寿であった。

参考文献
岡見正雄『太平記(一)』(角川文庫)補注
細川涼一「三条大宮長福寺尊鏡と唐招提寺慶円」(『日本中世の社会と寺社』思文閣出版2013所収)

京極為兼きょうごく・ためかね1254(建長6)-1332(正慶元/元弘2)
親族父:京極為教 母:三善雅衡の娘
姉:京極為子 養子:京極為基・正親町公蔭
官職右中将・蔵人頭・参議・権中納言・権大納言
位階正二位
生 涯
―京極派を起こした歌壇の革命児―

 藤原北家御子左流・京極為教の子。御子左家は鎌倉初期の藤原定家以来「和歌の家」で京極為兼はその定家の曾孫にあたる。為兼の父・為教のときに定家の孫である三兄弟で対立があり、二条・京極・冷泉の三家に分裂した。冷泉家は鎌倉に下って鎌倉歌壇の中心となったが、京にあった二条・京極両家はそれぞれ「二条派」「京極派」と称される和歌の歌風をもち、厳しく対立した。とくに為兼は保守的で形式・故実にこだわる二条派を強く批判し、自らは「心のままに詞をにほひゆく」すなわち心に起こった感動をありのままに詞にあらわすことにこそ和歌の本質があると主張して京極派の理論を体系づけ、鎌倉後期の歌壇に旋風を巻き起こした。

 弘安元年(1278)に右中将に任じられる。翌弘安2年(1279)に父・為教が亡くなり、さらに翌年の弘安3年(1280)から東宮・熙仁親王(=伏見天皇)に仕えてその歌道師範となった。弘安10年(1287)に伏見天皇が践祚すると為兼はその側近として重んじられ、正応元年(1288)に蔵人頭、正応2年(1289)に参議、正応4年(1291)に権中納言と出世を重ねた。さらには伏見の皇子、胤仁親王(後伏見天皇)富仁親王(花園天皇)の乳父としてその養育を任されるなど、伏見の厚い信頼を受けた。
 このころ朝廷は二つの皇統「持明院統」と「大覚寺統」の分裂・対立の形が出来上がっており、為兼の伏見への接近は京極派がそのまま持明院統の派閥に属することを意味し、対する二条派は大覚寺統に接近して、歌壇の派閥抗争はそのまま政界の派閥抗争と重なることになる。永仁2年(1294)に為兼は伏見から次期勅撰和歌集の撰者の一人に指名されたが、撰者のなかには二条派の二条為世も名を連ねており、為世と為兼は和歌論から人格攻撃的なものまで含めて激しく対立することになる。

 永仁4年(1296)に理由不明だが為兼は権中納言を辞して謹慎した。そして永仁6年(1298)正月、為兼は突然幕府によって逮捕され、3月に佐渡に流刑となってしまう。この事件の詳細は不明だが、持明院統派の実力者で幕府との連絡役「関東申次」をつとめる西園寺実兼に権勢をねたまれて陥れられたとも言われる。あるいは伏見の意向を受けて皇位継承問題に深入りして暗躍したことが幕府に警戒されたともいい、その両方なのかもしれない。永仁元年の伏見の日記には為兼から「夢の中に縁戚の宇都宮景綱(為兼の祖母が宇都宮氏)が現れ、天皇に逆らう不忠者はみな追討すべきと言っていた」という不思議な夢の話を聞かされた、というくだりがあり、実は伏見と為兼は幕府打倒の計画をめぐらしていたのでは、との推測もある。

 為兼の佐渡滞在は5年に及び、嘉元元年(1303)に赦されて京に戻った。彼が佐渡にいる間に皇位は後伏見(持明院統)から後二条(大覚寺統)に移り、持明院統派の二条為世が選者となって勅撰和歌集『新後撰和歌集』が編まれていた。延慶元年(1308)8月に後二条が急死して花園が践祚、伏見が院政を敷いたため為兼も完全に復権し延慶3年(1310)に権大納言に昇進する。このころ為兼は勅撰和歌集の方針をめぐって二条為世と大激論をした末に為世を排除、伏見上皇の院宣により勅撰和歌集の単独撰者となり、ついに正和元年(1312)に『玉葉和歌集』を完成させた。翌正和2年(1313)に伏見が出家したため為兼もこれにつきあって出家、法名を蓮覚、のちに静覚と号した。
 正和4年(1315)4月、為兼は「宿願」を果たすためと称して一族を率いて奈良へ赴き春日大社参詣を行ったが、このとき供養・歌合・蹴鞠など盛大に行い、公卿や殿上人を従者のように従わせ、儀礼は摂関家のごとく、天皇の行幸にすら匹敵すると騒がれたほどの派手な旅行をしたという。このときの関東申次である西園寺公衡(実兼の子)もこれには呆れ「天下に騒ぎを起こす」と批判した。

 はたしてその年の12月、為兼は再び幕府によって逮捕される。そして翌年2月に今度は土佐へ流刑となった。今回も西園寺実兼の讒言によるものだったとされ(直前に公衡が死に実兼が申次に復していた)、春日大社参詣の際に僭上のふるまいがあったことが理由とされたが、やはり真相は不明である。このとき伏見・後伏見父子がそろって幕府に対していささかも敵意はないと弁明する起請文を出しているので、今回も倒幕計画が裏にあったのではとの見方もある。
 為兼は和歌でもラディカルであったが、政治的にもそうだった、ということかもしれない。属する派閥こそ異なるがのちの後醍醐天皇らのさきがけとなったとも思える。実際、このとき六波羅に連行されてゆく為兼を見て「この世に生きた思い出にあのようになりたい」と羨ましがったのが若き日の日野資朝である(『徒然草』)

 63歳で土佐に送られた為兼はその後和泉・河内まで戻ってくるが、京への帰還はなかなか許されず、ついに元弘2年(正慶元、1332)3月21日に河内の山間で死去した。享年79(『常楽記』)。折しも前年に後醍醐天皇が倒幕の挙兵をして河内で楠木正成が幕府軍相手に奮戦しており、為兼も時代の変化の気配を察しつつ世を去ったのかもしれない。
 為兼の京極派は持明院統=北朝と結びついていたが、南北朝分裂期に北朝側でも二条派が優勢となり、為兼の養子・京極為基、その弟子の今川了俊へと京極派和歌の流れは受け継がれていくが、以降は続かなかった。その「対象をありのままに見て、わきあがった感動をありのままに歌う」という姿勢が再評価され注目されるようになるのは近代以降のことである。

参考文献
網野善彦『蒙古襲来』(小学館文庫)
小川信監修『南北朝史話100話』(立風書房)ほか

京極為基きょうごく・ためもと生没年不詳
親族父:二条為言 養父:京極為兼
兄弟:二条俊言 子:西園寺実尹室
官職内蔵頭
位階正四位下
生 涯
―為兼の養子で了俊の師となった歌人―

 藤原北家御子左流・二条為言の子とみられる。『尊卑分脈』では為言の子の二条俊言の子とされているが年代的に合わず、実際には俊言の弟だったと考えられている。京極派歌人として名高い京極為兼の養子となり、自身の出身である二条派には批判的で養父の京極派の歌風を強く受け継いだ。
 正和2年(1313)に正四位下・内蔵頭に叙され、同年4月の内裏詩歌会に出詠している。しかし正和4年(1315)に養父・為兼が陰謀の疑いをかけられて捕えられると、為基も官を解かれ謹慎処分を受けた。翌年に為兼が土佐に流刑になるとき為兼から和歌に関する書物を多く託されたという。為兼が京に帰れぬまま正慶元年(元弘2、1332)に河内で死去すると、為基も世をはかなんだか翌正慶2年(元弘3、1333)に出家、「玄誓」と号した(了俊の表記に拠る。『尊卑分脈』では「玄哲」とあり、どちらかが書き間違い)
 
 鎌倉幕府の滅亡、建武政権の成立と崩壊、南北朝分立と移ろいゆく世相のなか、為基は為兼の「心のままに詞をにほひゆく」精神を引き継いだ京極派歌人として活動した。暦応4年(興国2、1341)ごろ16〜17歳の今川貞世(了俊)に和歌の指導をしており、貞世は為基から京極派歌風を強く叩きこまれている。折から北朝において勅撰和歌集『風雅和歌集』の編纂がはじまり、為基は寄人として編纂に参加し、かなり発言力があったらしく彼自身の歌が22首も入選している。なお、貞世の歌も一首入選したがこれも為基の推薦によるという。
 観応元年(1350)4月の玄恵法印追善詩歌などに出詠しているのが確認できる最後の事績で、没年は不明である。

参考文献
川添昭二『今川了俊』(吉川弘文館・人物叢書)ほか

教司きょうし生没年不詳
生 涯
―義満の家庭教師―

 『細川頼之記』『後太平記』といった後世の俗史書にのみ出てくる人物で、実在したかどうかも怪しい。「教因」と書かれている場合もあり、どちらかが書き写し間違いと思われるがどちらが正しいかも分からない。
 『細川頼之記』によれば、幼い足利義満の父親代わりとなった細川頼之は義満に学問を教える師を探すことになり、春屋妙葩から正蔵主山名時氏から澄快という、それぞれ文才博学で評判の者を推薦されたが頼之はその性格が師としてふさわしくないと考えて退け、その代わり個人的に知っていた奈良の隠者・教司を抜擢した。実は教司は学問の才能はそれほどでもなかったが、その性格が誠実で親しみやすい好人物であることが決め手になったという。もう一人讃岐国の近藤盛政という者も似たような理由で抜擢し、この二人に義満を教育させ、年齢相応の賢い受け答えを諸大名の前でさせて人々を感心させたという。二人の成功を聞いて学問や武道で身を建てようとする人々が京に集まって来て、大いに文化が栄えた、というエピソードになっているのだが、『頼之記』に載る他の逸話同様に「できすぎた話」の感があり、そのまま事実とは思われない。ただモデルになるような人物はいたのかもしれない。

清久泰行きよく・やすゆき生没年不詳
生 涯
―師直派についた武蔵武士―

 清久氏は武蔵国埼玉郡清久(現・久喜市)に起こった藤原秀郷流の一族で、中先代の乱の時に北条時行に従った者も出ている。泰行は康永4=貞和元年(興国5、1345)8月の天竜寺供養の行列の中に「清久左衛門次郎泰行」として名前が見え(「天竜寺供養日記」)、「太平記」にもその場面で「清久左衛門次郎」として登場する。
 貞和5年(正平4、1349)8月に高師直らが足利直義を失脚させるべくクーデターを起こした際、師直邸に駆けつけた武将の中に「清久左衛門次郎」の名がみえる(「太平記」)
大河ドラマ「太平記」ドラマ中に登場はしなかったが、第44回「下剋上」の回で直義方から寝返って高師直邸に馳せ参じた武将の一人として「清久どの」の名が言及された。

吉良(きら)氏
 足利氏支流の名門。足利義氏の長男・長氏と四男・義継が三河国吉良荘に分家したことに始まり、とくに長氏の子孫の三河吉良氏は足利一門の重鎮として重んじられ、仮に足利本家が絶えた場合は吉良氏がそれを継ぐことになっていたと言われる。足利幕府の内戦「観応の擾乱」では足利直義派に属し、一時南朝にくみしたこともある。室町から戦国期には内紛も起こり、家格は高いものの大名としての実質は失われてゆき、最終的に徳川家に服属、江戸時代には「高家筆頭」として遇され典礼指導をつかさどった。そのことが「忠臣蔵」で有名な赤穂事件につながることにもなる。
 なお義継の子孫は「奥州吉良氏」と呼ばれ、南北朝動乱では直義派に属して東北の支配をめぐって南朝や尊氏派と争った。こちらも衰退しながらも家格の高さは認められ、江戸時代に「高家」になっている。


足利義氏┬泰氏惣領




├長氏
┬満氏貞義満義満貞西条吉良

└国氏今川└助時尊義新東条吉良

└義継─経氏─経家貞家┬満家





貞経└治家




└氏家


吉良貞家きら・さだいえ?-1354(文和3/正平9)?
親族父:吉良経家 兄弟:吉良貞経・吉良氏家
子:吉良満家・吉良治家
官職修理権大夫・右京大夫
建武の新政関東廂番第三番頭人
幕府因幡・但馬守護、引付頭人、奥州管領
生 涯
―奥州吉良氏の初代―

 足利一門のうち、吉良荘の東条に分家した吉良義継の子孫・東条吉良氏の出身。元弘3年(正慶2、1333)足利尊氏が鎌倉幕府打倒の挙兵をして六波羅攻めを行った際にも一族として同行したと見られる。建武政権期には成良親王を奉じて関東を治めることになった足利直義に従って鎌倉に下り、関東廂番第三番の頭人を務めているのが史料上貞家について最初に確認できることである。
 足利尊氏が建武政権に反旗を翻すとその配下で各地に転戦し、足利幕府成立後は康永3年(興国5、1344)まで幕府の引付頭人をつとめたほか、暦応年間〜貞和2年(正平元、1346)10月まで因幡・但馬二国の守護を任されている。

 貞和2年(正平元、1346)末ごろから貞家は畠山国氏と共に奥州管領に任じられ、奥州に派遣された。当時奥州では北畠顕信を中心に葛西・南部といった南朝方が活発に活動しており、前任者の石塔義房から交代となったのである。畠山国氏との二人体制となったのは当時の幕府内の足利直義派・高師直派の対立を反映したもので、貞家は直義の腹心として、国氏は尊氏・師直に近い立場で共に奥州平定にあたることとなった。貞和3年(正平2、1347)にはさっそく南朝方拠点の霊山・宇津峰城などを攻略、さらに翌年から翌翌年にかけて平泉・雫石などの方面へも進出して南朝方を追い詰めた。

 しかし貞和5年(正平4、1349)に京では直義派と師直派の対立がついに頂点に達し、「観応の擾乱」と呼ばれる内戦が勃発。奥州においても直義派の貞家と師直派の国氏が衝突し、観応2年(正平6、1351)正月に貞家は国氏のいる名生城を攻撃、国氏が岩切城に逃れると貞家は師直・師泰兄弟討伐を理由に軍勢を集め、2月12日に岩切城を攻め落として国氏とその父・高国を自害に追い込んだ。
 この幕府側の内紛に乗じて北畠顕信の南朝軍も攻勢に転じ、観応2年(正平6、1351)11月に陸奥府中を奪取した。貞家はすぐさま反撃に転じて弟の吉良貞経と共に翌年3月までに府中を奪い返したが、南朝側の抵抗もしぶとく、およそ一年ほど各地で戦闘が続いた。この間に直義が鎌倉で急死し、南朝軍の京・鎌倉一時占領と情勢がめまぐるしく変わり、尊氏は直義派だった貞家をひとまず許して東北の平定に力を注がせている。

 文和2年(正平8、1353)7月に貞家は南朝軍の拠点・宇津峰城を攻撃して攻め落とし、北畠顕信を出羽に追いやって陸奥南部における南朝勢力をほぼ掃討することに成功する。しかし貞家の消息はこの年の12月3日付の書状を最後に途絶え、翌年からは息子の吉良満家・治家の活動が確認されるため、このころに貞家が急死したものとみられる。一説に尊氏の指示で暗殺されたという伝承もあるようだが、文和3年(正平9、1354)6月に吉良治家と石塔義憲(義房の子で奥州にどとどまっていた)が陸奥府中で戦闘し、敗北した治家が伊達氏を頼って逃亡している事実があり、貞家の死が自然なものではなかった可能性も高い。このあと斯波家兼が奥州管領として派遣され、幕府の奥州支配をめぐる混乱もひとまず収拾された。

参考文献
大友幸男『史料解読・奥羽南北朝史』(三一書房)
SSボードゲーム版斯波家長のユニット裏で、武家方「武将」クラスの勢力地域「奥羽」。戦闘能力1・采配能力3

吉良貞経きら・さだつね生没年不詳
親族父:吉良経家 兄弟:吉良貞家・吉良氏家
官職宮内大輔(少輔?)、左近大夫将監?
生 涯
―奥州に転戦した貞家の弟―

 足利一門のうち、吉良荘の東条に分家した吉良義継の子孫・東条吉良氏の出身で、奥州探題にもなった吉良貞家の弟。
 足利尊氏が建武政権に反旗を翻し、一度京を占領したのち敗北して九州へ移っていた建武3年(延元元、1336)4月に新田左馬助(江田義氏か?)が三河に侵攻した際、「宮内少輔四郎」なる人物が仁木義高細川頼種らを指揮してこれを撃退、6月ごろまで三河各地で戦っていたことが軍忠状から知られるが、この「宮内少輔」がその地位・官位から吉良貞経ではないかとみられている(「尊卑分脈」では宮内大輔となっている)。吉良一族のうち東条吉良氏は尊氏の本隊とは別に東海道の要所である三河をおさえる役割を担ったらしい。

 貞和5年(正平4、1349)8月に幕府内の足利直義派・高師直派の対立が頂点に達し、師直派がクーデターを起こして直義を失脚させたが、『太平記』によるとこのとき貞経は師直の屋敷に馳せ参じている。この時期兄の貞家は奥州探題として陸奥にあり、その後の行動からも直義派であったと思われるが、『太平記』の記述が確かならこの時点では貞経は兄とは別行動をとったことになる。
 文和元年(正平7、1352)閏2月には兄・貞家のもとで南朝方の北畠顕信から陸奥府中を奪回するべく戦闘に参加している。その後も貞経の出した軍勢催促状が確認されており、兄を助けて陸奥南部の南朝勢力一掃に尽力していたことがうかがえる。
 しかし文和2年(正平8、1353)末から貞家の消息が途絶えることからこの時期に急死したとみられ、貞経もその直後の文和3年(正平9、1354)2月21日付の書状を最後に消息が途絶えるという。

参考文献
大友幸男『史料解読・奥羽南北朝史』(三一書房)ほか

吉良貞義きら・さだよし?-1343(康永2/興国4)?
親族父:吉良満氏 子:吉良満義・吉良助時
官職左京亮・式部丞・上総介
位階従五位下→従四位下
生 涯
―尊氏の決起をうながした一門長老―

 吉良氏は足利の支族で、足利義氏の庶長子・長氏が三河国吉良荘(現・愛知県西尾市)に入って「吉良家」の初代となったとされるが、貞義の時代まで「足利」の名字で呼ばれることもあり、一門の中でも足利本家にもっとも近い存在として重んじられた。
 貞義の父・満氏は「足利上総三郎」と呼ばれ、弘安8年(1285)に起きた「霜月騒動」安達泰盛派に与したとして平頼綱派に攻め滅ぼされた(『保暦間記』)。足利宗家の足利家時もこの直後に自殺したとも考えられており、吉良満氏の問題が背景にあった可能性もある。
 こうした父の死を受け、貞義は祖父長氏から直接家督を継いでいる。その後かなりの期間事跡は伝わっておらず、霜月騒動関係者として逼塞を余儀なくされていた可能性もある。元亨3年(1323)10月26日に鎌倉で北条貞時の十三回忌法要が執り行われたが、吉良貞義は宗家の足利貞氏斯波高経と共に参列者に名を連ねて砂金等を献上しており、このころには足利一門の中で重きをなす存在になっていることが分かる。彼の生年は不明だが、一門の中ではすでに長老格であったとみられる。時期は不明だが貞義は出家して法名「省観」を名乗っており、「上総入道省観」と呼ばれていた。
 
 元弘3年(正慶2、1333)3月末、すでに鎌倉幕府に対する挙兵の意思を固めつつ出陣した足利高氏は三河国に入った。ここで高氏は上杉憲房を使者として吉良貞義のもとへ遣わし、挙兵の意思を伝えて意見を求めた。それだけ貞義が足利一門が結集する三河において重大な影響力を持つ長老であったということであろう。貞義は「これまで遅すぎたぐらいでございます。なんともめでたいことであります」と返事をし、高氏の決意を固めさせたと言う(『難太平記』)。霜月騒動で父を失って以来、彼個人の中でもこの日が来るのを待ち焦がれていたことをうかがわせる逸話である。このころすでに貞義は高齢であったため戦場に出ることはなかったとみられるが、彼の息子や孫たち吉良一族は足利軍団の主力として各地で活躍している。

 なお、吉良家から分家したのが今川家で、両者の間では今川荘の一部の相続権をめぐり数代にわたる対立が続いていた。今川了俊『難太平記』によれば吉良貞義が今川範国(了俊の父)に譲歩することで和解を成立させ、両家の長年の確執を解消したという。
大河ドラマ「太平記」山内明が演じ、ドラマ中盤の尊氏の相談役・一門の長老として7回にわたり登場した。第20回「足利決起」で初登場、高氏から「敵は北条」と聞かされて平伏し「それはまた良い敵…戦を致すに不足なき相手じゃ!諸国の源氏も我らに味方しましょうぞ。よく仰せられた…」と感激した(『難太平記』の逸話を参考にしたと思われる)。その後も尊氏からは「じい」と呼ばれて何かと相談を受ける場面が多く、中先代の乱のあたりまで登場していた。
PCエンジンCD版なぜか尾張国の北朝方独立君主として登場するので尊氏でプレイしても直接操作は不能。初登場時のデータは統率78・戦闘77・忠誠66・婆沙羅48
メガドライブ版「足利帖」でプレイ時のみ、六波羅攻撃や中先代の乱関係、箱根・竹之下合戦のシナリオで登場。能力は体力42・武力85・智力145・人徳98・攻撃力56。 

吉良尊義きら・たかよし1348(貞和4/正平3)-?
親族父:吉良満義 兄弟:吉良満貞・一色有義・岡山満康・橋田満長
子:吉良朝氏
官職中務大輔
生 涯
―下吉良家の初代―

 吉良満義の四男と言われる(三男とも)。生まれて間もなく足利幕府の内戦「観応の擾乱」が始まり、父・満義と兄・満貞の二人は足利直義直冬派の主力として戦い、南朝と結んで足利尊氏側と戦った。満義は晩年に尊氏に投降したが満貞は南朝方として戦い続け、これを憂慮した一部の家臣たちが延文元年(正平11、1356)に満義が死んだのを機にまだ9歳の尊義をかつぎだして吉良荘東条に拠点を構え、尊氏側について南朝方の満貞に対抗した。尊義ははじめ「義貫」といったが尊氏から一字を与えられて改名している。
 東条の地はもともと吉良義継が分家した地で、その系統は吉良定家以降奥州に移っていた。そこに尊義は新たな東条吉良氏を起こしてその初代となったのである。満義は当然これを「押領」とみなして敵対したが、やがて満義も幕府方に帰順したこともあり両者は和解した。しかしこの尊義系「東条吉良(下吉良)」と満義系「西条吉良」はその後およそ100年に渡って対立を続けることになる。
 応安元年(正平23、1368)に京都東福寺において父・満義の十三回忌法要を盛大に行い、自らが正統の後継者であることをアピールもしている。没年は不明で、吉良荘花岳寺内に自らが開基した塔頭霊源寺に葬られ、「霊源寺殿」とおくり名された。この花岳寺が東条吉良家歴代の菩提寺となる。

吉良満貞きら・みつさだ?-1384(至徳元/元中元)
親族父:吉良満義 兄弟:吉良尊義・一色有義・岡山満康・橋田満長
子:吉良俊氏・斯波義将室
官職治部大輔、左兵衛佐
幕府引付頭人
生 涯
―直義派の武将、兄弟と対立―

 吉良満義の嫡男。はじめ「吉良上総三郎」と称した(鎌倉時代以来吉良家嫡男は代々そう称したらしい)。貞和元年(興国6、1345)8月の天竜寺供養の行列のなかに「吉良上総三郎満貞」の名がある(「太平記」)
 貞和5年(正平4、1349)8月に足利幕府内の足利直義高師直両派の対立が激化し一触即発の情勢となったとき、満貞は父・満義と共に三条坊門の直義邸に馳せ参じた。以後の「観応の擾乱」では父と共に一貫して直義方で戦っている。観応2年(正平6、1351)正月には桃井直常斯波高経ら直義派武将たちと共に京を攻めて直義派の一時的勝利に貢献する。その後直義が尊氏と対立して越前に逃れるとこれに同行して戦い、その後直義が北陸から関東に逃れると父と共に本拠地の三河・吉良方面に移り、東海地方を押さえて足利尊氏の東下を阻もうとした。このとき尊氏の指示を受けた信濃の小笠原政長が満貞と遠江国引馬で戦っている。結局尊氏の東下は阻止できず、破れた直義は鎌倉で急死。しかし満義・満貞父子は直義の養子・足利直冬を奉じる「直冬党」として南朝と結んで抵抗を続けた。

 正平7年(文和元、1352)閏2月に南朝の後村上天皇が男山八幡まで進出し、北畠顕能・楠木正儀らの南朝軍が京都占領に成功する。しかし間もなく足利義詮に奪回され男山で2ヶ月ほど籠城戦を続けた。これを知った各地の南朝方・直冬党が呼応して行動を起こし、満貞も石堂頼房らと共に4月27日に駿河を出発、兵を集めながら5月11日には美濃・垂井まで進出した(「太平記」)。しかしそれとほぼ同時に男山は陥落し、南朝軍は敗走。満貞らの動きは空振りとなったがそのまま南朝軍に合流したらしい。翌正平8年(文和2、1353)6月には南朝側に寝返った山名時氏らと呼応して四条隆俊・楠木正儀・石塔頼房らと京を攻撃、一時京を占領している。
 父の満義は正平10年(文和4、1355)までには尊氏に投降し、正平11年(延文元、1356)9月に死去した。すると本拠地・吉良荘では家臣の一部が満貞の弟・尊義を立てて跡を継がせたため、吉良家は満貞系(西条吉良)と尊義系(新東条吉良)に分裂することとなった。

 正平15年(延文5、1360)8月に関東執事の畠山国清が南朝への攻勢の失敗から関東へ引き上げたが、その途中を満貞が三河守護代の西郷兵庫助と共に矢作川に陣を敷いて妨害しようとした。これは国清と対立して南朝に走った仁木義長の呼びかけに応じたものであったという。しかし義詮から三河守護を任された大島義高が彼らを討ち、西郷は伊勢へ逃れ、満貞は降伏して京に上った(「太平記」)
 他の直義・直冬党の武将たち同様に二代将軍・義詮は投降した者にはかなり寛大な態度をとり、満貞も許されて康安元年(正平16、1361)に細川清氏が南朝軍と共に京に攻め込んできた際には義詮の命で大渡に出陣して京防衛にあたり、翌年には観応の擾乱以来取り上げられていた遠江・引馬荘を返還されている。貞治2年(正平18、1363)以降は幕府の引付頭人としても活動し、三河国内の南朝方・鵜殿氏と戦ってもいる
 しかし本拠地・吉良荘では弟・尊義の東条吉良家との争いが続き、一応和談となるもののしこりを残し、吉良氏が足利一門の中では足利将軍家に継ぐほどの家格とされ幕府の要職につきながらどこの国の守護にもなれず、地方にあっては小領主に過ぎなくなってしまうという結果を招いた。

 至徳元年(元中元、1384)9月5日に死去した。法名は「道興寺殿中宝省堅大禅定門」。
PCエンジンCD版祖父・吉良貞義が北朝系の独立君主となっており、その配下として尾張に登場している。初登場時のデータは統率44・戦闘70・忠誠54・婆沙羅49

吉良満義きら・みつよし?-1356(延文元/正平11)
親族父:吉良貞義 兄弟:吉良助時 子:吉良満貞・吉良尊義・一色有義・岡山満康・橋田満長
官職左兵衛佐、中務大輔、左京大夫
位階従五位下→従四位下→従四位上
建武の新政関東廂番第六番頭人
幕府信濃守護?、引付方一番頭人
生 涯
―直義派についた足利一門―

 鎌倉末期に足利一門の長老的存在であった吉良貞義の子で、老齢の父に代わり元弘3年(正慶2、1333)の足利高氏の挙兵、六波羅探題攻撃に参加したとみられる。建武政権成立後は、足利直義に従って鎌倉に下り、関東廂番第六番頭人に任じられている。
 建武2年(1335)7月に北条時行らによる中先代の乱が信濃に起こると、満義は同族の吉良時衡を信濃に派遣し、その鎮圧を試みている(「師守記」)。だが結局反乱の勢いは止められず、北条時行の軍は鎌倉を攻め落とし、足利直義は東海道を西へ脱出した。このとき満義は一足早く京に戻っていたらしく、足利尊氏が乱鎮圧のため京を出発した際に満義がその先鋒をつとめている(「太平記」)。以後、足利尊氏の建武政権からの離反、京都攻防戦、九州落ち、東上と京都再占領まで、満義は足利軍主力の一角として連戦した。九州での多々良浜の戦いの直後に尊氏が箱崎八幡宮を参拝した際、満義と思われる「吉良殿」が進めた四目結びの白剣を奉納したという(『梅松論』)
 
 足利幕府が設立されると、一時期信濃守護を務めたほか、康永3年(興国5、1344)からは幕府の引付方一番頭人をつとめて政務に携わり、とくに足利直義の腹心として活動するようになる。貞和3年(正平2、1347)6月に直義の嫡男・如意丸が生まれるが、それは二条京極の満義の屋敷でのことであった。
 このため貞和5年(正平3、1349)8月に高師直一派が直義失脚を狙ってクーデターを起こした際には、満義は素早く直義邸に馳せ参じている。以後の「観応の擾乱」でも終始直義派で活動し、観応2年(正平6、1351)11月に直義が関東に下って尊氏がこれを討つべく関東へ向かう際に吉良満義が本拠地の三河で尊氏軍を妨害している。このため尊氏は彼らを「吉良荘の凶徒」とまで呼んだ(「土岐右馬権頭頼康宛足利尊氏書状」)

 翌文和元年(正平7、1352)2月に直義が鎌倉で急死するが、満義はなおも直義の養子・直冬を奉じ、南朝方として尊氏に抵抗を続けた。翌文和2年(正平8、1353)6月には山名時氏石塔頼房楠木正儀ら南朝軍と共に京都を攻め、足利義詮を近江へ走らせた。だが文和4年(正平10、1355)正月に足利直冬軍が今日を占領した時には満義はすでに尊氏側に投降しており、近江に逃れた後光厳天皇の警備を任されている。ただし満義の息子・満貞はそのまましばらく南朝方で行動を続けることとなる。
 延文元年(正平11、1356)9月23日に死去した(「尊卑分脈」)。満義の死後、吉良家は息子の満貞と尊義の系統で分裂、対立することになる。
大河ドラマ「太平記」ドラマ本編への登場はなかったが、第44回「下剋上」で直義邸に集まった有力武将の一人として名前がナレーションで語られた。

金逸きん・いつ(キム・イル)生没年不詳
生 涯
―高麗遣日使節第二号―

 高麗国王・恭愍王が倭寇対策を日本に求めるために派遣した使者の一人で「検校中郎将」の肩書であったという。『太平記』に載る「金乙貴」は同一人物の可能性もある。
 至正26年=貞治5年(正平21、1366)8月にまず金龍が先に日本に派遣され、11月に金逸ら第二弾の使節が派遣された。立てつづけに二つの使節を派遣したのは安全を考えてのことだったかもしれないが、金龍が元の「征東行中書省」の牒文を持っていたのに対し、金逸らは「高麗国牒状」を所持していたとされ、より高麗独自の行動であることを強調しようとした可能性もある。
 金逸の一行は貞治6年(正平22、1367)2月27日に来日し(恐らく兵庫にこの日に到着した)、4月に京都に入って天竜寺に宿泊し、先行して来日していた金龍らと合流した。4月18日に将軍・足利義詮に対面して舞楽を披露、5月には奈良を訪問して東大寺大仏殿の観光もしている。
 彼らがもたらした国書は北朝朝廷に回されたが外交経験も知識もない公家たちはさんざん待たせたあげくに返書を出さないことに決定し、代わりに幕府が春屋妙葩の私信という形式で返書を送り、天竜寺の僧梵盪梵鏐を日本からの使者として彼らに同行させて翌年正月に金逸らを帰国させた。

参考文献
関周一「『中華』の再建と南北朝内乱」(吉川弘文館・日本の対外関係4『倭寇と「日本国王」』所収)

金龍きん・りゅう(キム・ヨン)生没年不詳
生 涯
―高麗遣日使節第一号―

 高麗国王・恭愍王が倭寇対策を日本に求めるために派遣した使者の一人。至正26年=貞治5年(正平21、1366)8月に高麗を出発、9月26日に出雲国に着岸した。彼らは「征東行中書省」(元の日本遠征のための役所だが実質高麗国王が主体だった)の牒状(国書)と各種の礼物(贈り物)を持って来ていたが、礼物の方は上陸後間もなく賊に奪い取られてしまった。その後金龍たちは外国との窓口である摂津国兵庫に連れて来られ、翌年2月14日に兵庫において牒状を幕府と深くかかわる禅僧・春屋妙葩に提出している。日本に正式な外国使節がやってくるのは元寇の頃以来70年ぶりのことで、この牒状はかなり世間の注目を集めてその内容は広く書写され、軍記物語『太平記』巻三十九にも全文が載せられている。
 その後3月には京都に入り、天竜寺に宿泊した。金龍のあとから派遣された第二の使節・金逸も2月末に来日して4月に天竜寺に合流してきた。

 4月18日に将軍・足利義詮が天竜寺雲居庵で金龍・金逸らと対面、使者たちが披露した舞楽を見物している。その後彼らは奈良を訪問し、東大寺大仏殿を見物するなど観光旅行もしていたようである。
 彼らがもたらした国書は北朝朝廷にまわされたが、朝廷は対応に苦慮した。倭寇対策といっても倭寇が発生する九州地方を押さえていないため、かえって外国に恥をさらすようなものだということで、高麗とは対等ではないといった論理を持ち出して結局返書は出さないことに決定する。その代わりに足利幕府が春屋妙葩名義の返書(でありつつ内容は義詮の意向を示す)を金龍・金逸らに与え、天竜寺の僧梵盪梵鏐を日本からの使者として彼らに同行させた。これが室町幕府最初の外交経験となり、朝廷ではなく幕府が外交をつかさどる端緒となった。
 金龍らは翌年正月に無事帰国している。この使者たちの要請がどう功を奏したのかは分からないが、直後に高麗への倭寇活動は一時的に鎮静化しており、高麗側では交渉の成功と見ていたようである。

参考文献
関周一「『中華』の再建と南北朝内乱」(吉川弘文館・日本の対外関係4『倭寇と「日本国王」』所収)


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