北畠顕家 | きたばたけ・あきいえ | 1318(文保2)-1338(建武5/延元3) |
親族 | 父:北畠親房 弟:北畠顕信・北畠顕能 子:北畠顕成 |
官職 | 侍従・右近衛少将・武蔵介・少納言・左近衛少将・中宮権亮・右中弁・左中弁・参議・左近衛中将・弾正少弼・陸奥守・右近衛中将・陸奥権守・鎮守府将軍・検非違使別当・権中納言・右衛門督・鎮守府大将軍・贈右大臣 |
位階 | 従五位下→従五位上→正五位下→従四位下→従四位上→正四位下→正四位上→正三位→従二位→贈従一位 |
生 涯 |
しばしば「南朝の貴公子」「南朝最強の公家武将」などと呼ばれ昔から人気の高い青年公家。わずか20年の生涯ながら、南北朝動乱の序盤の激動を鮮烈に駆け抜け、強い印象を残した。
―激動の中の幼少―
村上源氏・北畠家は鎌倉時代に皇室が分裂するなか一貫して大覚寺統に忠節を尽くし、とくに北畠親房は博学で知られ、後醍醐天皇の腹心で「後の三房」と呼ばれたうちの一人。顕家はその親房の嫡男として、後醍醐天皇即位の年に生まれた。北畠家という血筋のよさと後醍醐の信任厚い父親の後ろ盾もあり、元応3年(1321)に4歳で叙位され、少年期のうちにかなりのスピードで昇進している。元徳3=元弘元年(1331)1月にはわずか14歳で参議となり、このことは中原師守の日記『師守記』によれば60年以上前の康元2年(1257)に15歳で参議となった前例を挙げてその異例ぶりを記している。
この年の3月、後醍醐天皇は花見のために北山の西園寺邸(後醍醐の中宮の実家)に行幸した。このとき公家たちが勢ぞろいした華やかな宴の模様は『舞御覧記』とそれを参考にした『増鏡』に詳細に記されており、そこには14歳の少年参議・北畠顕家が「陵王」の舞楽を後醍醐みずからが奏でる笛に合わせて華麗に舞ったことが印象的に記されている。舞い終えた顕家が退場の前のひと舞(「入綾」という)を見事に見せると、前関白・二条道平がわざわざ顕家を呼び返し、見事な舞に対する褒美として「紅梅の表着・二色の衣」を与えた。顕家はそれを左の肩にかけてさらに一曲待って退場したという。「陵王」は中国・南北朝時代の武将・高長恭(蘭陵王)がその美貌を隠して恐ろしい仮面をつけていたという故事にちなんで仮面をつけて舞うものだが、女性や子供が演じる時は仮面をつけず頭に桜の挿頭花を挿した前天冠を着けて舞うことが多いので当時14歳の顕家も素顔で舞ったのではないかとの推測がある。蘭陵王のイメージが重なり、少年貴族・顕家の美貌を想像させるが、その後の生涯も何やら蘭陵王の悲劇的生涯を彷彿させるものとなった。
その後まもなく後醍醐は倒幕の挙兵をし、一時は失敗して隠岐に流されるが、元弘3年(正慶2、1333)5月ついに鎌倉幕府を滅ぼした。この間の北畠父子の動向はほとんど不明だが(元弘2年11月5日に顕家が職を辞してはいる)、親房はもともと討幕計画には批判的で関与しなかったため京に滞在し続けることができたと思われる。
元弘3年(正慶2、1333)10月、後醍醐天皇は東北支配のため奥州将軍府を設置、皇子・義良親王を陸奥国・多賀城に派遣し、北畠父子はその補佐役に任じられて同行することになった。すでに出家している親房が後見となり、16歳の顕家が陸奥守として幼い義良を奉じて東北統治にあたることになる。この奥州将軍府は護良親王の発案とされ、鎌倉幕府を小規模に模した「ミニ幕府」で、もともとこの地方を支配していた北条得宗家、およびそれを引き継ごうとした足利尊氏の影響力を排除し、さらに関東に拠点を置く尊氏を牽制する目的があったと言われる。一方で親房たちは当初「我が家は学問の家だから」と渋った事実もあり、後醍醐が自分や阿野廉子とそりが合わない北畠父子を遠ざけた面もあると指摘される。2ヶ月後には足利側の巻き返しにより、やはり後醍醐の皇子である成良親王を奉じて関東を支配する「ミニ幕府」鎌倉将軍府が設置され、尊氏の弟・直義が鎌倉に下ることとなった。ここに関東を押さえる足利と、東北を押さえる北畠とが対抗する構図ができあがる。
―建武の乱―
多賀城に入った顕家は広大な東北の統治にあたったが、後醍醐の目指す独裁的な天皇親政とは一線を画した。奥州将軍府は現地の有力武士をスタッフに加えて実質幕府と変わらぬ体制であったし、北条氏とそれに味方した武士の領地の没収という後醍醐の方針を顕家はあっさり撤回して東北各地の北条氏領の代官たちの信望を得た。また源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼして以来、東北には関東御家人の庶流が地頭として入っているケースが多く、顕家はこうした庶流武士たちの本家への対抗心を利用して味方を増やしたと言われる。藤原秀郷の子孫・小山氏の分家の分家である白河結城氏の結城宗広はそうした奥州武士の代表であり、顕家の腹心となって勢力を拡大した。こうした政策は少年顕家よりも後見の親房の構想が大きかったと思われるが、その後の顕家の二度の遠征を支えた東北武士たちが顕家個人に魅力を感じていたことは十分考えられる。
建武2年(1335)11月、中先代の乱の平定後鎌倉に居座っていた足利尊氏の叛意が明らかとなったとして、後醍醐は尊氏討伐の命を下し、新田義貞の軍に東海道を、忠房親王らの軍に東山道を東進させると同時に、顕家を鎮守府将軍に任じて東北から関東へ攻め込ませた。顕家・親房父子は義良親王を奉じて大軍を起こし11月22日に多賀城を出発したが、12月に箱根・竹ノ下合戦で新田軍は足利軍に大敗して西走、これを足利軍が追って京を目指し、その背後をさらに北畠軍が追うという日本史上でもまれな大軍3つの同時大移動が展開される。
翌延元元年(建武3、1336)1月11日に足利軍は京を占領、後醍醐は比叡山に逃れた。しかしそのわずか2日後に驚異的な強行軍をしてきた北畠軍が琵琶湖東岸に達し、新田・楠木軍と合流した。1月16日から後醍醐軍と足利軍の京都をめぐる大激戦が展開され、ついに1月30日に足利軍は京を捨てて丹波、さらに摂津へと逃れた。摂津での戦いにも敗れた足利軍は船で九州へと落ち延びていった。
この勝利を後醍醐たちは大いに喜び、顕家は右衛門督・検非違使別当、さらに権中納言に昇進し、東北に加え常陸・下野の二国も与えられた。そして3月に改めて義良親王と共に奥州に下ることとなったが、このとき顕家はそれまでの「鎮守府将軍」ではなく「鎮守府“大”将軍」の称号を天皇に求め、許されている。顕家は上奏文のなかで「鎮守府将軍は従五位上相当の官である。自分はすでに参議となり従二位にのぼっており、位が高く官が低いのは先例に違う。ぜひ帝の御決定により『大』の字を加えていただき、公卿の貴さを示していただきたい」と述べており、そこには親房ゆずりの強烈な家格意識、そして鎮守府将軍に任じられ武士として公卿(三位以上)になった尊氏に対する敵愾心がみえ、「本物の公卿の貴さ」を示そうという気迫がうかがえる。
尊氏が敗走したとはいえいまだ西方に健在のこの時点で、北畠奥州軍をただちに奥州に帰してしまったことは建武政権の重大な戦略ミスと指摘される。だが一方で親房が「東国がおぼつかないため」と記しているように北畠軍が留守にしている間に東北・関東では反後醍醐派の活動が活発化しており、これらをただちに押さえ込む必要があったと考えられる。また本拠地を遠く離れことに従う武将たちの不安もつのっていただろう。3月10日に京を発った北畠軍(父・親房は京にとどまった)は途中で足利方の武士たちの妨害を受け続け、これと戦いながらの苦しい行軍を強いられ、ようやく多賀城に到着したのは5月25日のことだった。ちょうどこの日に湊川の戦いがあり、九州から攻めのぼった足利軍が新田・楠木軍を撃破、建武政権の崩壊を決定的なものとしていた。
―再度の長征―
中央の情勢に呼応して奥州各地で足利方の攻勢が続き、延元2年(建武4、1337)正月には顕家は多賀城を放棄して伊達郡にある天然の要害・霊山に拠点を移した。この間に後醍醐は尊氏といったん和睦したものの前年12月に京を脱出、大和・賀名生から吉野に入った。そして全国の後醍醐派に尊氏討伐の指令を発し、霊山の顕家のもとにも一刻も早く畿内へ攻めのぼるよう綸旨が届けられた。正月25日に顕家は返書をしたため「すぐにも参上したいが義良親王と共に霊山に包囲されている状態で、これを打ち破ってから上洛したいと思います。義貞にもその旨伝えてあります」と苦戦の状況を報告している。
顕家がようやく京を目指しての遠征の途についたのは8月11日のことだった。霊山の包囲をなんとか解いたこと、そして当面の兵糧を確保したことでこの時期にあわただしく出発することになったと推測される。今回も義良親王を奉じ、結城宗広・伊達行朝・南部師行ら腹心の武将たちを引き連れての出発だったが、前回の遠征とは異なり事実上の「奥州撤退」であったとの見解もある。
北畠軍は白河の関を越え下野・宇都宮に入ったところでいったん進軍は止まり(宇都宮公綱が味方する一方で庶流の芳賀禅可が抵抗、小山氏も妨害したためらしい)、4ヶ月後の12月8日になってようやく小山城を攻略、それから利根川を挟んでの足利軍との戦いに勝利してこれを突破、12月24日ついに鎌倉へ突入した。鎌倉を守る足利義詮は逃亡し、奥州管領に任じられて顕家とは地位的にライバルの関係にあった斯波家長は自害に追い込まれた。年越しして正月2日に鎌倉を出発、東海道を足利方の妨害を撃破しつつ進撃し、24日には美濃国に入った。この途中、新田義貞の子・新田義興、義貞の家臣・堀口貞満、そして北条高時の子で中先代の乱を起こして信濃に潜んでいた北条時行が北畠軍に合流している。勝ちに乗ってふくれあがった北畠軍の兵数は「太平記」によれば50万騎、「難太平記」では30万騎と伝えられるがいずれも誇張した数字でせいぜい数万人程度だったのではないかと思われる。また北畠軍は奥州産の駿馬を多くかかえて機動性に富む軍団だったのではないかという見方もある。
「太平記」はこのとき北畠軍は通過する各地で略奪・放火をおこない、彼らが通り過ぎたあとは草木一本残らぬありさまであったと伝え、「もともと恥というものを知らぬ夷(えびす)どもであるから」とその理由を記す。この「夷」が当時も北東北に住んだいわゆる「蝦夷(えぞ・えみし)」を指すという見方と、単に京都人が東国人全般に蔑視をこめて呼んだものとする見方とがあるが、いずれにせよ北畠軍が無理な長征のために物資の現地調達を余儀なくされたであろうことは疑いない。
北畠軍の勢いに恐れをなした足利幕府は土岐頼遠・桃井直常・今川範国らを美濃に集め、顕家の進撃を食い止めようとした。1月28日に両軍が激突したのは美濃国・青野原、およそ260年後に天下分け目の戦いが行われる関ヶ原と同一の戦場である。激戦となったが最終的に勢いに勝る北畠軍が足利軍を粉砕し、土岐頼遠は重傷を負って一時行方不明となった。敗北を知った足利方は高師泰・細川頼春・佐々木道誉らを派遣して黒地川(黒血川)に第二の防衛ラインを敷いた。これを突破すれば京は目の前であり、このとき越前で勢力を復活させつつあった新田義貞と合流すれば京奪回を果たせるかと思われたが、北畠軍は垂井から南下し、伊勢へと転進してしまった。
この顕家の転進は当時から議論の的であったようで、「太平記」は顕家が義貞に功を立てさせることを嫌ったため、と記している。実際に顕家の父・親房は著書『神皇正統記』で義貞のことをほとんど無視しているし、武士が発言力を増すことを顕家が警戒していた節はある。また青野原の戦いで完勝したとはいえ味方の損害も大きく、黒地川の突破は不可能と見て北畠氏の拠点である伊勢で態勢を整えようとしたとの見解も有力だ。異説として北畠軍に加わっていた北条時行が「親の敵」である義貞との合流に反対したためとするものがあるが、当時の時行にそこまでの発言権があったとは思えず、また時行は義貞よりも尊氏を「親の敵」とみなしていた可能性が高いのでまずありえない話だろう。
―壮絶に散華―
伊勢に入った顕家はいったん兵を休めた上で伊賀を経由して大和に入り、2月21日に奈良を占領、ここから北上して京を目指した。これを2月28日に奈良の北・般若坂で迎え撃ったのが足利氏執事・高師直や桃井直常らで、師直は畿内の武士たちを編成した自軍と「分捕切捨の法」と呼ばれる革新的な戦闘管理により北畠軍を大いに打ち破った。敗れた顕家は楠木氏の勢力圏である河内・和泉へ逃れ、ここで態勢を立て直しつつ一族の春日顕国の軍に京ののどもとにあたる男山八幡を占領させた。そして3月8日には攻撃してきた足利方の細川顕氏の軍を天王寺付近で破っている。しかし3月16日に出撃してきた高師直・細川顕氏らの反撃にあい、和泉への撤退を余儀なくされた。顕家はそれから一か月ほど和泉国・坂本郷(堺南方)観音寺に城をかまえて動かず、男山八幡の顕信の軍も果敢な籠城戦を続けた。両者が優位を保ちながらも動かなかったのはやはり長躯の遠征と連戦に疲れた兵を休めていたものと思われる。あるいは北陸の新田義貞との連動を画策していたのかも知れない。
5月15日、決戦を前に死を覚悟してのことであろう、顕家は後醍醐にむけた有名な諫奏文をしたためている。その中で顕家は「無理な中央集権をやめ地方の分割統治を行うこと」「諸国の税を三年間免除して戦乱に疲れた民を救うこと」「功績があっても才能のない者に官位をむやみに与えず土地だけ与えること」「貴族・僧侶・武士への恩賞の区別を明確にすること」「たびたびの行幸や宴会は国を乱すもとだから禁止すること」「法令をおごそかにして朝令暮改の状態を改めること」「政治に害をなす貴族・女官・僧侶を排除し政治への口出しを許さぬこと」と、後醍醐の建武新政への痛烈な批判を列挙した。中央集権体制への批判は奥州経営の実体験からくるものであろうし、家柄の低い者をしばしば抜擢し阿野廉子や文観といった女性・僧侶を政治に関与させた後醍醐に対する批判には父親・親房ゆずりの上級貴族家格意識が強烈ににじみでてている。この諫奏文はその内容からもともと後醍醐の政策に批判的だった父・親房が書いたものではないかとする見解もあるが、親房の教育を徹底的に仕込まれた顕家が素直にそれを文章にぶつけているとみるのが自然だろう。文末には「先非を改め太平の世に戻す努力をなされないのなら、私は范蠡(はんれい。越王勾践に仕えた名参謀で功を立てた直後に世を捨てた)や伯夷(はくい。殷を倒した周に仕えるのを拒否して山の中で餓死した)のように世を捨て山林に隠れるでありましょう」と書かれていた。
5月22日、堺の石津川周辺で北畠顕家と高師直の両軍が激突した(石津の戦い、境野の戦い、堺浦の戦いとも)。『太平記』によると師直は大軍を男山八幡の包囲に回して顕信を釘づけにしておいた上で、少数の手勢で顕家の軍を襲ったという。『保暦間記』では戦闘は当初は北畠軍の方が優勢で、足利方の諸将が撤退を始める中で師直が果敢に踏みとどまって奮戦、形勢を逆転してついに顕家軍を撃破したとする。この戦いでは河野水軍・忽那水軍が北畠軍に呼応して海上にあり、足利側との海戦が同時に行われて南朝側の軍船が六隻焼かれたという(後述の上杉清子の書状)。顕家はわずか二十余騎となって包囲を突破し吉野へ向かおうとしたが果たせず、武蔵の武士・越生四郎左衛門尉に討ち取られ、丹後の武士・武藤右京進政清がその首をあげたという(『太平記』)。享年21歳であった。この戦いでは南部師行・名和義高らも戦死し、男山に籠城していた顕信も7月には撤退を余儀なくされ、南朝勢力にとって痛恨の打撃となった。
尊氏の生母・上杉清子は、上杉一族への手紙の中で顕家が高師直・細川顕氏に討たれその首が都に届いたことを伝え、住吉八幡が霊験をあらわし南朝方の船を焼いたと記して「ひとえに神々のおはからいのおかげである」と喜んだ。一方で愛息・顕家の戦死を父・親房は『神皇正統記』のなかで「時が至らなかったのか、忠孝の道はここに極まったのである。苔の下にうずもれてしまってはただ空しく名をとどめるだけである。物悲しい世であることよ」と嘆きつつその善戦を称えた。南朝は顕家に従一位・右大臣の贈位をしている。
江戸時代中に南朝尊崇の気運が高まり、明治になってから『太平記』が顕家の戦死の地とする阿倍野に阿部野神社が建てられ、父の親房ともども神として祭られた。実証的に戦死の地を阿倍野ではなく石津とする研究者も出たが、戦前の皇国史観まっさかりの時代には「霊威をふみにじるもの」と非難されている(現在では「石津の戦い」と呼ぶのが一般的である)。顕家が拠点とした霊山にも霊山神社が建てられ顕家・親房が祭られている。
―人物―
南北朝時代は武士だけでなく公家も甲冑を身にまとい剣をふるって戦った時代だった。北畠顕家はそんな時代の公家武将の代表的存在といえる。紅顔の美少年であったと思わせる『増鏡』の記述や、『太平記』の伝える二度の東北から畿内への疾風のような大遠征、しかも連戦連破の実績もあって古くから人気は高い。ただ古典『太平記』ではその軍勢の破竹の勢いは記しながらも顕家個人の性格をしのばせるエピソードなどはまったく書かれない。
『太平記』以外の一次史料から見えてくる顕家像は、「鎮守府“大”将軍」要求の上奏や死の直前の諫奏文に見られるように、強烈な「貴種意識」を抱くいささか鼻もちならない若者である。父・親房も武士たちに対して時代錯誤的(当時としても)な発言を繰り返しているが、そんな父に純粋培養された生れながらの貴公子だからこそであろう。しかし一方で東北経営にあたっては現実的な処理をして武士たちの信望を集めており、単に上級公家意識・武士蔑視丸出しの若者だったら二度の大遠征自体が実現できなかったに違いない。その戦死にあたってもそばに従っていた武士たちがそろって腹を切り一人残らず戦死したという「太平記」の記事が事実ならそこまでさせるだけの魅力のある人物だったのかもしれない。当時の地方では都から来た少年貴公子というだけでかなりのカリスマを持ったことも考慮される。
死の直前の諫奏文も父・親房の意向がかなり反映していることは疑いないが、若者らしい純粋さで歯に衣せぬ批判を後醍醐にぶつけており、読んだ後醍醐も相当に耳が痛かったのではなかろうか。なお当人の意図とは別に、この諫奏文は「建武の新政」なるものの実態を知る上で「二条河原の落書」と並ぶ貴重な証言として、大いに後世の歴史家の役に立っている。
武将として戦闘指揮能力は、その実績を見る限りでは南北朝時代中でもほぼ最強と言える。むろん同行していた結城宗広ら武士たちの働きも大きかったと思われるが、他の公家武将の体たらくと比べると顕家は実際に指揮官として優れていたのだろう。北畠軍は「孫子」の「疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山」のいわゆる「風林火山」の旗印を使っていたとも言われ(阿部野神社にこの旗が蔵されている)、学問の家らしく古典から兵法を学んでいた可能性も高い。
だが後醍醐の指示を受けての大遠征自体に無理があったことも否めない。遠征途中の軍勢の略奪・放火行為もその表れであったろうし、最終的に動きを鈍らせて敗北するのも長征の疲れによるところが大きかっただろう。さらに敵将の高師直がこれまた足利側にあって最強と言われる指揮官であり、悪党的存在を含む畿内の武士を配下に入れ「分捕切捨の法」など新時代のゲリラ的なその戦術の前に、古典的な東国流武士団が敗北したとする見解もある。
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大河ドラマ「太平記」 | 誰が顕家を演じるのか注目されたが、なんと女優・後藤久美子がキャスティングされた。本人によるとNHK側からは「お姫様か少年武将」としてオファがあり、それならと「少年武将」を選んだという。当時美少女アイドルとして絶頂期といえた「ゴクミ」と、藤夜叉役の宮沢りえの「アイドル対決」と煽る記事があった記憶もあるが、この両人の共演シーンは一度もない。もともとボーイッシュな後藤久美子が美少年公家武将を演じるのは外見的にはそう無理がなかったものの、時代劇演技としてはどうしても浮いてしまっていた。初登場は第12回で、ドラマ中では弓の名手という設定になり目を閉じたまま針を射るという技まで見せた。建武新政期には後醍醐の前で「陵王」の舞を見せる場面が『増鏡』記述を時代を移して再現されている。建武の乱における京都攻防戦では京市街オープンセットを騎馬軍団で疾走し直義らを蹴散らす勇壮な場面もチラッとあったが、時間の制約で出番は大幅に少なくなった。二度目の遠征では青野原合戦、石津合戦も描かれるがスタジオ撮影のためスケール感に乏しく、その最期は頸動脈を斬っての自害という形にされた。問題の「伊勢転進」は義貞に対する警戒感もさることながら「顕家はもう疲れました」と父・親房に甘えるためという個人的動機になっている。
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その他の映像・舞台 | 戦前に「みちのくの僧兵」という芝居があり、1938年に市川左団次(二代目)、1939年に片岡我当が演じている。 |
歴史小説では | 北方謙三の南北朝歴史小説第二弾「破軍の星」は北畠顕家を主人公にした長編小説。「サンカ」を思わせる山の民が顕家を支援し、東北に独立国家建設を夢見るという設定は九州を舞台にした前作「武王の門」と対応する。
このほか、複数ある父・親房を主人公とする小説、あるいは南北朝・太平記をテーマとする作品でたいてい登場している。 |
漫画作品では | 学習漫画系での登場は多い。ただし奥州将軍府の件と尊氏を九州に追うくだりでチラッと登場するのみ。小学館版「少年少女日本の歴史」では実年齢より高めのキャラデザインとなっている。さいとう・たかを「太平記」では凛々しい若武者に描かれた。
変わったところでウォーシミュレーションゲーム雑誌「シミュレイター」の太平記特集号に掲載された松田大秀・作のSSシリーズ「太平記」紹介のギャグ漫画があり、ここで顕家は建武政権のピンチを救う颯爽たる貴公子として紹介され「いやはは、てれるじゃん」などと言っている(笑)。尊氏を九州に追った後奥州へ帰されることになると「出番もう終わりなのね、つまらないなぁ」などとボヤいている。 |
PCエンジンCD版 | 陸奥に拠点を置く南朝方独立君主として登場、初登場時のデータは統率88・戦闘91・忠誠84・婆沙羅28で指揮官能力は最高レベル、かつ調略にほとんど応じないカタブツのため足利尊氏でプレイする場合はかなり厄介な強敵となる。ただし新田義貞でプレイした場合は独立君主のため指示が一切出せず、史実と違って大遠征せず東北地方に居座ってしまうので敵への牽制以外ほとんど役に立たない。 |
PCエンジンHu版 | シナリオ2「南北朝動乱」ではなんとプレイヤーキャラであり、南朝側で全国を制覇することがゲームの目的となっている。能力は「騎馬8」と最強で、東北から遠征するのではなく最初から伊勢に拠点を構えている。 |
メガドライブ版 | 当然南朝方で、「顕家登場」「打出浜の合戦」の2シナリオのみ登場。能力は体力119・武力133・智力142・人徳93・攻撃力117とまさに最強レベルに設定されている。 |
SSボードゲーム版 | 公家方の「総大将」クラスで、勢力地域は「奥羽」。合戦能力3・采配能力6でゲーム内でも最強クラス。公家側プレイヤーには頼みの綱ともいえる。ユニット裏は北畠顕信。 |