佐竹貞義 | さたけ・さだよし | 1287(弘安10)-1352(文和元/正平7) |
親族 | 父:佐竹行義 母:二階堂頼綱の娘 妻:海上胤泰の娘・二階堂頼綱の娘
子:佐竹義篤・佐竹師義・佐竹義春・佐竹義直 |
官職 | 駿河守・遠江守・上総介・常陸介
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幕府 | 常陸守護 |
生 涯 |
―鎌倉末〜南北朝期の佐竹氏当主―
佐竹氏は源義家の弟・新羅三郎義光の子孫で常陸北部に割拠した一族。鎌倉時代の末から南北朝時代にかけての激動期にその当主をつとめたのがこの貞義である。通名は「次郎」で、名乗りの「貞」はもちろん北条貞時の一字を与えられたものだ。
嘉元3年(1305)に父・行義が死去しているので、家督を継いだのはその直前ごろではないかと思われる。それ以前に嘉元元年(1303)に常陸国多賀郡竜孤山に興禅寺を建立し、そのときすでに出家して「崑山道源」と号したともいうが、少々若すぎるので不自然でもある(もっと遅い元弘のころの出家とする説もある)。
元弘元年(1331)に後醍醐天皇が笠置山に挙兵すると、幕府はこれを鎮圧するため大軍を派遣し、『太平記』はその軍の中に「佐竹上総入道」つまり貞義が加わっていたと記している。ただし『光明寺残篇』など一級史料にその名が見当たらず、このとき貞義が本当に参加していたかどうかは確定できない。ただ幕府の重臣である二階堂氏との縁戚関係があるので幕府から存在を重視された可能性は高い。
明確な証拠はないようだが、足利高氏(尊氏)が鎌倉幕府に反旗を翻すにあたっては同じ清和源氏一族としてその連絡を受けたものとみられ、恐らくは尊氏の働きかけで建武政権下において佐竹氏の宿願であった常陸守護職を獲得している(遅くとも建武2年には常陸守護となっている)。以後佐竹一族は一貫して足利方として戦うことになる。
建武の乱では息子の義篤、師義を尊氏に従軍させて各地で転戦させる一方、自身は常陸国内にあって陸奥から南下してくる北畠顕家や、常陸国瓜連城に入った楠木正家、小田城の小田治久ら南朝方と戦い、常陸における佐竹氏の地位を確立した。彼の晩年におこった幕府の内戦・観応の擾乱でもやはり高師直-尊氏方に属し、その混乱がひとまず終息した文和元年(1352)9月10日に没した。死去するまでおよそ20年にわたって常陸守護を務め続けている。
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大河ドラマ「太平記」 | ドラマ中への登場はないが、第33回で北畠親房・顕家父子が建武政権への反対勢力の攻撃を受けるシーンで、「敵は佐竹か」と親房が口にしている。
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漫画作品では | 小学館の学習漫画「少年少女日本の歴史」の「南朝と北朝」の巻で、隠岐にいる後醍醐天皇が各地の味方の名前を挙げるなかに「常陸の佐竹氏」の名があり、小さいがそのイラストも描かれている。時期的には貞義ということになる。 |
PCエンジンHu版 | シナリオ2「南北朝の大乱」で、北朝方武将として登場。本拠地は常陸の金砂山城で、能力は「長刀2」。 |
SSボードゲーム版 | 武家方の「武将」クラスで、勢力地域は「北関東」。能力は合戦能力1・采配能力4。ユニット裏は息子の佐竹義篤。 |