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さだうじのせいしつ〜さんぽういんけんしゅん

貞氏の正室さだうじのせいしつ
 NHK大河ドラマ「太平記」に登場した人物の役名(演:横山リエ)。第一回で貞氏が金沢貞顕の屋敷を訪ねると、酒を飲み双六に興じている。貞顕のセリフからすると彼女は貞顕の妹で、北条貞時の意向で結婚させられたが夫婦仲が決裂して別居したと推測される。登場はこれきり。→史実関係は「釈迦堂殿(しゃかどうどの)」を見よ。

佐竹貞義さたけ・さだよし1287(弘安10)-1352(文和元/正平7)
親族父:佐竹行義 母:二階堂頼綱の娘 妻:海上胤泰の娘・二階堂頼綱の娘
子:佐竹義篤・佐竹師義・佐竹義春・佐竹義直
官職駿河守・遠江守・上総介・常陸介
幕府常陸守護
生 涯
―鎌倉末〜南北朝期の佐竹氏当主―

 佐竹氏は源義家の弟・新羅三郎義光の子孫で常陸北部に割拠した一族。鎌倉時代の末から南北朝時代にかけての激動期にその当主をつとめたのがこの貞義である。通名は「次郎」で、名乗りの「貞」はもちろん北条貞時の一字を与えられたものだ。
 嘉元3年(1305)に父・行義が死去しているので、家督を継いだのはその直前ごろではないかと思われる。それ以前に嘉元元年(1303)に常陸国多賀郡竜孤山に興禅寺を建立し、そのときすでに出家して「崑山道源」と号したともいうが、少々若すぎるので不自然でもある(もっと遅い元弘のころの出家とする説もある)
 元弘元年(1331)に後醍醐天皇が笠置山に挙兵すると、幕府はこれを鎮圧するため大軍を派遣し、『太平記』はその軍の中に「佐竹上総入道」つまり貞義が加わっていたと記している。ただし『光明寺残篇』など一級史料にその名が見当たらず、このとき貞義が本当に参加していたかどうかは確定できない。ただ幕府の重臣である二階堂氏との縁戚関係があるので幕府から存在を重視された可能性は高い。
 明確な証拠はないようだが、足利高氏(尊氏)が鎌倉幕府に反旗を翻すにあたっては同じ清和源氏一族としてその連絡を受けたものとみられ、恐らくは尊氏の働きかけで建武政権下において佐竹氏の宿願であった常陸守護職を獲得している(遅くとも建武2年には常陸守護となっている)。以後佐竹一族は一貫して足利方として戦うことになる。

 建武の乱では息子の義篤師義を尊氏に従軍させて各地で転戦させる一方、自身は常陸国内にあって陸奥から南下してくる北畠顕家や、常陸国瓜連城に入った楠木正家、小田城の小田治久ら南朝方と戦い、常陸における佐竹氏の地位を確立した。彼の晩年におこった幕府の内戦・観応の擾乱でもやはり高師直-尊氏方に属し、その混乱がひとまず終息した文和元年(1352)9月10日に没した。死去するまでおよそ20年にわたって常陸守護を務め続けている。
大河ドラマ「太平記」ドラマ中への登場はないが、第33回で北畠親房・顕家父子が建武政権への反対勢力の攻撃を受けるシーンで、「敵は佐竹か」と親房が口にしている。
漫画作品では小学館の学習漫画「少年少女日本の歴史」の「南朝と北朝」の巻で、隠岐にいる後醍醐天皇が各地の味方の名前を挙げるなかに「常陸の佐竹氏」の名があり、小さいがそのイラストも描かれている。時期的には貞義ということになる。
PCエンジンHu版シナリオ2「南北朝の大乱」で、北朝方武将として登場。本拠地は常陸の金砂山城で、能力は「長刀2」
SSボードゲーム版武家方の「武将」クラスで、勢力地域は「北関東」。能力は合戦能力1・采配能力4。ユニット裏は息子の佐竹義篤。

貞成親王さだふさ・しんのう1372(応安5/文中元)-1456(康正2)
親族父:栄仁親王 母:阿野(三条)治子 
兄弟姉妹:治仁王・周乾・恵舜・権野寺主・洪蔭
妃:庭田幸子
子:後花園天皇・貞常親王・性恵女王・理延女王・雲岳聖朝
生 涯
―崇光系伏見宮家の皇統奪還―

 崇光天皇の子である伏見宮・栄仁親王の次男。その生涯は貞成親王自身の日記・回想録である『看聞日記(看聞御記)』『椿葉記』で詳しく知ることができる。
 貞成の生まれた伏見宮家は崇光天皇の子・栄仁から始まるが、そもそも崇光は文和元年(正平7、1352)に南朝に拉致され、その間の非常措置として弟の後光厳天皇が即位した経緯があり、その後北朝の皇位が後光厳の子孫たちに継承されてゆくなか、崇光系は何度か栄仁の皇位継承の実現をはかったが失敗、足利義満の時代には所領も多くを奪われ御所も転々とさせられて、京都郊外の伏見に居住する一宮家の立場に転落していた。しかし「我が家こそが正統な皇統」という意識は強く抱かれていたのである。
 なお、貞成について明治十年に編纂された皇統譜の貞成の注に「母西御方父不詳」とあるのをもって「貞成の実父が定かでないと公式に記している」とする主張が一部にあるが、これはもちろん「母親の父が不詳」の意味である(現在は生母の出自は確定している)
 
 幼少時の貞成は今出川公直に養育されている。応永18年(1411)4月4日にすでに40歳となっていた貞成は伏見御所で元服、兄の治仁王が加冠を行い、貞成は兄の「猶子」という形をとった。なおこの時点では貞成は親王の子であるから「貞成王」である。これ以後貞成は父・栄仁と共に伏見御所で生活するようになる。

 応永23年(1416)の元旦から『看聞日記』が記されることとなるが、この年の11月20日に父の栄仁が貞成に看取られつつ病死。兄の治仁が家督を継いで伏見宮家第二代となった。
 その翌年の応永24年(1412)2月11日に治仁王が急死する。病気もしない突然の死、しかも倒れているのを発見したのは貞成独りで、数日前に怪しげな「良薬」を治仁に献じる者がいて、その「良薬」を貞成が飲ませていることなど、貞成が治仁を「毒殺」したのではないか、との風聞が広がったという。貞成は後小松上皇に家宝の筝「銘梨花」を献じるなど運動して疑惑払拭に奔走、やがて噂も自然消滅した。
 治仁が死去した時点で治仁の妃が臨月となっていて、男子が生まれればその子が宮家を継ぐはずであった。しかし生まれてみれば女子であったため貞成が伏見宮家を継ぐことになる。こうした不確定要素もあることから貞成が兄を毒殺するのはリスクが高すぎる、そもそもこの時点では伏見宮家に皇位継承の目はまずなかった、という点から毒殺説には否定的な見方が有力である。

 応永25年(1413)7月、称光天皇の後宮に仕える新内侍が懐妊するが、称光は覚えがなかったのか「自分の子ではない」と言い出した。新内侍は2月に病を得て伏見荘内の寺に籠居していた時期があり、その時に貞成と関係したのでは、との疑惑が浮上したのである。貞成は必死に弁明して起請文も出し、幸い疑惑は晴れることとなったのだが、この事件の背後では称光天皇にまだ子がなく、伏見宮家に皇位継承の可能性が出てきたため後小松上皇周辺などの意向が働いた可能性もある。
 翌応永26年(1414)6月17日、貞成にとって待望の男子・彦仁王が誕生した。彼がのちの「後花園天皇」となる。

 一方で称光天皇は病気がちで子も生まれず、皇太弟の小川宮も応永32年(1425)2月に急逝、後光厳系の断絶は現実的なものとなった。後小松上皇もこれでは伏見宮家から次期天皇を出すしかないと観念したようで、この年の4月16日に貞成に「親王宣下」を行った。ここに貞成は「貞成親王」へと格上げされ、本人もしくは息子の彦仁が天皇になる可能性が強くなったのである。
 しかしその動きに反発した称光天皇が出奔騒動を起こし、後小松はそれをなだめるために貞成に出家を命じた。やむなく貞成は7月5日に伏見の指月庵で剃髪・出家し、「道欽」と号した。

 正長元年(1428)7月、それまでも何度も重態に陥っていた称光がついに危篤に陥った。彦仁が伏見御所から連れ出されて後小松の猶子となる手続きがとられ、20日に称光が死去すると28日に彦仁が践祚し皇位を継承した。後小松はあくまで天皇家の家長「治天」であり続け、彦仁を自身の養子として後光厳系を継承した形式を守らせたが、貞成にとってはまぎれもない自身の子が天皇になり、崇光系の宿願を果たしたことにほかならなかった。
 永享5年(1433)10月に後小松上皇が死去した。貞成はその日の日記に「後光厳院以来、子孫四代の治世は他の系統を交えずに思いのままに引き継がれた。しかしここで突然子孫が断絶することになるとは、不思議なものである」と記して長年の恨みを晴らした思いをつづっている。後小松の死後、貞成は後花園天皇の実父として重要度が増し、永享7年(1435)には将軍・足利義教からの要請もあって、京の一条東洞院に新築された御所に移住した。
 文安4年(1447)11月27日にはついに後花園から貞成に「太上天皇」、つまりは天皇の父としての「上皇」の尊号が贈られた。このとき貞成、すでに76歳である。翌年2月には尊号を辞しているが、実質的に貞成の宿願はすべて果たされたということになる。
 康正2年(1456)8月29日、貞成は一条東洞院の御所で死去した。実に85歳という長命であった。「後崇光院」と諡された。墓所は京都府伏見区丹後町の「伏見松林院陵」である。

 貞成の『看聞日記』は彼周辺のことはもちろん、彼の好奇心の強さから記された世間のさまざまな事件が記され、室町時代の政治・世相を知る上できわめて貴重な史料となっている。また貞成の次男・貞常親王は伏見宮家を継ぎ、以後伏見宮家は皇統からどれだけ世代が離れようとも宮家を相続し続ける「世襲宮家」となった。この伏見宮家からも多くの宮家が分家し、戦前まではそれらが全て皇族の一員として扱われた。この伏見宮系の宮家は昭和22年(1947)に一斉に皇籍離脱の措置がとられて民間人となったが、21世紀に入ってからも皇統の男系維持を主張する論者からはこれら旧皇族を皇族に復帰させよとの声もあがった。小泉内閣の諮問機関がこの問題について「共通の祖先が600年以上前」として否定的見解を出したが、その共通の祖先こそがこの貞成親王なのである。

参考文献
横井清『室町時代の一皇族の生涯・「看聞日記」の世界』(講談社学術文庫)
桜井英治『室町人の精神』(講談社学術文庫「日本の歴史」12)ほか

猿冠者さるかじゃ
 河合真道の漫画作品『バンデット-偽伝太平記-』に登場する人物。主人公の少年・と関わる謎の青年で、護良親王と知り合いであったり新田義貞と親友であるなど各方面に顔が広い。爆薬を入手して北条家打倒を図るが失敗、重傷を負って落ち延び、以後登場しなくなる。単行本の巻末おまけ漫画で再登場、新田義貞に挙兵をうながす様子が描かれた。
 その正体は、ある実在人物である。

猿回しさるまわし
 NHK大河ドラマ「太平記」に登場する架空人物(演:佐藤信一)花夜叉(実は楠木正成の妹・卯木)率いる田楽一座の一員で、子猿を手や肩に乗せている(猿がキーキー泣いてる声が聞こえる場面もある)。ただしセリフは全くなく、他の一座メンバーの中では存在感は乏しい。刊行された脚本集ではまったく出てこないので撮影にあたって「一座」らしくするために加えたのかも?一座が出る時は必ず登場するので第1回から第15回まで計10回登場している。

三条(さんじょう)家
 藤原北家閑院流で、藤原公実の二男・実行を祖とする公家。清華家の家格で、家名は邸宅のあった京都三条高倉にちなむ。途中で分家した正親町三条家もある。代々笛と装束を家業とし、平安・鎌倉・室町から江戸・明治初期まで多くの大臣を出している。幕末から明治の三条実美の活躍もあり明治以後は公爵家となった。

藤原公実┬実能徳大寺
┌公宣姉小路



┌実禅

├通季西園寺
├公氏正親町

┌公茂
├実円┌公宣

└実行┬公教─┬実房
┼公房
┬実親─┬公親
─実重┴実忠公忠実冬┴公冬


└公行
└実綱
├公兼└実平
└公泰


厳子後小松天皇




└公俊







三条公忠
さんじょう・きんただ1324(正中元)-1383(永徳3/弘和3)
親族父:三条実忠 母:藤原公直の娘 
妻:大宮季衡の娘 子:三条実冬・三条厳子(後円融妃・通陽門院)・実円・実禅
官職侍従・左近衛中将・播磨介・甲斐権守・権中納言・権大納言・内大臣
位階従五位下→従五位上→正五位下→従四位下→従四位上→正四位下→従三位→正三位→従二位→正二位→従一位
生 涯
―公卿も生活苦の時代―

 内大臣・三条実忠の子。南北朝動乱の始まりを告げる「正中の変」の起こった正中元年(1324)に生まれ、叙爵されている。上流公家の一員として順調に昇進を重ね、延文5年(正平15、1360)9月に内大臣にまで昇り、貞治元年(正平17、1362)12月に内大臣を辞して従一位に叙せられた。公忠は有職故実に通じていたので北朝朝廷において重きをなしたが、南北朝後期の北朝公家社会は幕府に権力を奪われ形骸化の一途をたどっており、公忠も特に目立った政治行動を見せてはいない。
 この時期、上流公家である三条家すらも地方の荘園を武士に浸食されて収入を大きく減らし、困窮する状況となっていた。実際、応安5年(文中元年、1372)4月に公忠は洞院公定を通して幕府の管領・細川頼之に自身の窮乏を訴えて対策を求めている。

 その前年の応安4年(建徳2、1371)3月14日に公忠の娘・厳子後光厳天皇の皇子・緒仁親王の妃となった。その7日後に緒仁は践祚して後円融天皇となる。もともとこの縁談は後光厳の後宮で権勢をふるった日野宣子が公忠に持ち込んだもので、当時北朝皇室では後光厳系と崇光系とで皇位継承問題があったために当初公忠は乗り気ではなかった。細川頼之の介入で緒仁の践祚が決定的になってからようやく娘を輿入れさせたのである。

 厳子は後円融の深い寵愛を受け、永和3年(天授3、1377)に幹仁親王(のちの後小松天皇)を産んだため、公忠は天皇の舅にして将来の天皇の外祖父の立場を得ることになる。しかし家計の困窮ぶりは相変わらずで、永徳元年(弘和元、1381)8月に公忠は地方の荘園からの収入があてにならないので代わりに京都の土地を得ることにした。その際に将軍・足利義満に土地入手の口添え(武家執奏)を頼んで、義満経由で後円融の許可を得るという手続きをとった。京都の土地に関する裁量権は依然として「治天」(この時は天皇)が握る形になっていたがすでにその権限さえも幕府に浸食されている状況だったので他の公家たちも同様の手続きをとっていたのだが、さすがに舅がそれをしたことに後円融は激怒し、厳子に対して「顔も見たくない」と八つ当たりをしたのだ。
 厳子から手紙で連絡を受けた公忠は慌てて土地の返上を申し出て、やがて後円融からもっと広い別の土地を与えられた。ひとまず話が落ち着いたかに見えたが、わずか二カ月後に後円融が借金の質でとられた土地を本来の持ち主に返還する一種の徳政令を発しながら義満に媚びた二条良基と公忠については「武家執奏」であるから例外とするという、露骨な嫌がらせを行い、再び厳子から手紙でせっつかれたため公忠は結局土地を返上せざるを得なくなってしまう。当然ながら公忠は一連の後円融の言動について日記に批判的に記している。

 翌永徳2年(弘和2、1382)4月に後円融はまだ2歳の後小松に譲位し、公忠は天皇の外祖父となった。このときも後円融は後小松の即位儀式が義満と二条良基らで勝手に進められることに激怒し、その奏上を一時無視する挙にも出たが、公忠はそんな後円融を「武家(将軍)にさからっても何もできないくせに」と日記の中で痛烈に皮肉っている。
 さらに永徳3年(弘和3、1383)2月1日、女子出産のために一時里帰りしていた厳子が二ヶ月も遅れて宮中に戻ったが、ここで寝所への召しを断ったために激怒した後円融から太刀の峰で激しく殴られるという事件が発生する。重傷を負った厳子は三条家へかつぎこまれ、公忠の妻も裸足で家を駆けだしていくほどの騒ぎになった。この事件はかねて公忠と厳子に鬱屈を抱いていた後円融のヒステリーによるものと見られるが、厳子と義満の密通を疑ったのではないかとの見方も強い(この直後に別の後宮の女性がやはり義満との密通を疑われて出家に追い込まれている)
 
 この年の12月24日(一説に27日)に公忠は60歳で死去した。のちに「後押小路内府」と呼ばれるようになる。書にも優れて『暮帰絵詞』の詞書を担当してもいるし、その日記『後愚昧記』は義満が権勢を強めていく過程を批判的に記しながらも自身もそれに迎合してゆかざるを得ない歯がゆさも吐露し、南北朝後期の政治情勢を知る貴重な史料となっている。その『後愚昧記』のなかで少年時代の世阿弥が義満や良基に寵愛され人々からもてはやされていることを批判し、「散楽(猿楽)は乞食の所行」と書きしるしていることも有名である。

参考文献
今谷明『室町の王権』(中公新書)
桜井英治『室町人の精神』(講談社学術文庫・日本の歴史12)
早島大祐『室町幕府論』(講談社選書メチエ)ほか
歴史小説では義満を描いた平岩弓枝『獅子の座』などにわずかながら登場する。
漫画作品では石ノ森章太郎『萬画日本の歴史』シリーズの第20巻で世阿弥のことを「乞食の所行」と張りきって日記に書く場面がコミカルに描かれている。なお、同じ巻では娘の厳子と後円融の一件も描かれているが、そちらでは公忠の登場はない。

三条厳子
さんじょう・げんし(いつこ?)1351(観応2/正平6)-1406(応永13)
親族父:三条公忠 母:藤原公直の娘 
夫:後円融天皇
子:後小松天皇・珪子内親王
位階従二位→准三后
生 涯
―義満と密通を疑われた妃―

 内大臣・三条公忠の娘。応安4年(建徳2、1371)3月14日に後光厳天皇の皇子・緒仁親王(のちの後円融天皇)の上臈女房となるが、これは当時宮中に影響力のあった緒仁の乳母・日野宣子の斡旋で、父の公忠はあまり気乗りがしなかったが緒仁への皇位継承が確実となったため輿入れさせたものであった。緒仁が践祚するのはその7日後のことである。このとき緒仁13歳に対して厳子は21歳とひとまわりほど年上であった。

 永和3年(天授3、1377)6月27日に皇子・幹仁親王(のちの後小松天皇)を産んだ。後円融の厳子に対する寵愛は確かなものだったようだが、その父・公忠が将軍であると同時に公家社会にも進出してきた足利義満に接近することに対して後円融は強い警戒感を抱いており、永徳元年(弘和元、1381)8月に京市内の土地の入手をめぐって公忠が義満の口添えを介して朝廷に申請してきたことに怒った後円融が厳子に対して「今後はお前とは口もきかぬし、お前の顔も見たくない」と八つ当たりをしている(『後愚昧記』)
 厳子はこれをすぐに手紙で父親に知らせ、公忠はただちに入手した土地を返上したが、それから間もなく後円融が代わりに別の土地を公忠に与えたうえでわざわざ没収に追い込むような嫌がらせをしたため、厳子はまた慌てて手紙を父に出し、土地の返上を要請している。後円融が父親に対する怒りを直接そちらにぶつけるのではなく娘の厳子に八つ当たりしている様子がうかがえ、公忠も後円融の言動を批判的に日記に記している。

 永徳2年(弘和2、1382)4月に後円融はまだ六歳の後小松に譲位し、ここに厳子は「国母」となった。このころ厳子は第二子となる珪子内親王を妊娠しており、出産のため実家の三条家に里帰りした。この年の末に無事出産を済ませたが、厳子はなぜか宮中に戻らず、後円融からの再三の呼び出しにも関わらず二ヶ月も遅れた永徳3年(弘和3、1383)2月1日になってようやく帰った。事件はその夜に起こる。
 久々に厳子が帰って来たので、後円融はさっそく寝所に彼女を呼び出した。しかし厳子は「急なことなので袴や湯巻が用意できない」ことを理由にこれを断った。すると後円融は逆上し、太刀を手に厳子の部屋に自ら乗り込んで来て、太刀の峰で厳子を激しく打ちすえた。厳子は出血がとまらないほどの重傷を負い、そのまま実家の三条家へかつぎこまれ、公忠の妻が慌てて裸足で屋敷を飛び出して迎えに行くという騒ぎとなった(『後愚昧記』)
 後円融がこれほどのヒステリーを起こしてしまった原因については、以前からの厳子・公忠との鬱屈した関係が積もり積もって爆発したものともみえるが、この直後に後円融後宮の女性である按察局が義満との密通を疑われて宮中を追われており、実は厳子も義満との密通を疑われたのではないかとみる意見は多い。直接的証拠は一切ないが、その後義満が節々で後小松の「実父」のごとく振舞うこと、周囲の公家も義満を光源氏になぞらえる表現をしていることなどから、後小松は実は義満と厳子の密通で生まれた子ではなかったか、との推測はある。
 この騒動ののち、すっかりノイローゼとなった後円融は自殺未遂騒動まで起こすが、義満が自身の潔白を誓い事実上わびを入れる形で落着、以後は後円融はすっかりおとなしくなり、その死まで目立った行動はみられない。一方の厳子はこの年の11月に天皇の生母として従二位に叙せられている。

 南北朝合体から間もない明徳4年(1393)4月26日に後円融が死去した。それから2年後の応永2年(1395)4月に厳子は「准三后」の待遇を受け、翌応永3年(1396)7月24日に「通陽門院」の院号宣下を受ける。
 応永13年(1406)12月25日、厳子は重態に陥り、子の後小松、そしてこの時は北山第に居して上皇のようにふるまっていた義満とが、相次いで土御門高倉の厳子の御所へ見舞いに駆けつけた。この夜はどうにか持ち直したらしく後小松はひとまず引き上げたが、翌26日に義満が再び病床に見舞いに行くとすでに今日明日も知れぬ命であると典医から通告された。このとき義満は「天皇一代で二度の諒闇(服喪)は不吉である」と言い立て、生母の厳子に代わる後小松の母親役「准母」を立てることを廷臣たちに提案する。
 結局義満の意図をおもんぱかった公家たちが義満の妻・日野康子を准母に立てることを決定するなか、27日に厳子は息を引き取った。享年56歳。最後はその死まで義満に利用された形で、国母にも関わらず諒闇は行われず、公式な葬礼も行われなかった。

参考文献
今谷明『室町の王権』(中公新書)
桜井英治『室町人の精神』(講談社学術文庫・日本の歴史12)ほか
歴史小説では義満を描いた平岩弓枝『獅子の座』、安部龍太郎の短編『バサラ将軍』などに登場する。
漫画作品ではさすがに児童向けの学習漫画系で登場することはまずないが、石ノ森章太郎『萬画日本の歴史』シリーズの第20巻で後円融が厳子を打った事件が詳しく描かれている(ただし密通ウンヌンの話は直接的にはない)
河村恵利の時代ロマンシリーズの一編「葉隠れ-将軍・義満の恋-」は厳子と義満の関係そのものをテーマにしており、少年少女時代の出会いから、猫を通した幻想的な恋愛模様が描かれる。「厳子」の読みは「たかこ」とされている。

三条実冬
さんじょう・さねふゆ1354(文和3/正平9)-1411(応永18)
親族父:三条公忠 母:大宮季衡の娘
兄弟姉妹:三条厳子(後円融妃・通陽門院)・実円・実禅
妻:水無瀬具景の娘 子:三条公宣・三条公冬・公承
官職侍従・左近衛権中将・下総権守・権中納言・権大納言・左近衛大将・内大臣・右大臣・左大臣・太政大臣
位階従五位下→従五位上→正五位下→従四位下→従四位上→正四位下→従三位→正三位→従二位→正二位→従一位
生 涯
―義満に必死に追従―

 内大臣・三条公忠の子。文和3年(正平9、1354)10月10日に生まれる。翌年8月に叙爵され、貞和6年(正平22、1367)に従三位に昇って公卿の列に加わった。後円融天皇の妃となった三条厳子(通陽門院)は姉にあたる。
 永徳元年(弘和元、1381)7月に大納言に欠員が生じた際、実冬大炊御門冬宗花山院通定が大納言の地位をめぐって争い、通定が義満に家臣同然にへりくだって運動し、義満の車簾役まで率先してつとめたため、義満の推挙を得て大納言の地位を獲得した。実冬は権大納言となったが、父の公忠はこのことを「言語道断」と日記に怒りと共に記している。しかし翌月の8月には義満からの強い希望を受けて実冬が車簾役をしぶしぶ勤めさせられるはめになっている。
 翌永徳2年(弘和2、1382)冬に実冬は義満の怒りを買ってしまったが、家宝である源有仁自筆の『節会次第』を自ら花の御所に持参して義満に献上し、ようやく怒りを解いてもらっている。この家宝の献上について父・公忠は『後愚昧記』に「追従のため」とはっきり書いている。

 永徳3年(弘和3、1383)2月1日に厳子が後円融の逆鱗に触れて刀の峰で背を激しく打たれ、重傷を負って実家の三条家にかつぎこまれるという事件が起きた。このとき実冬は厳子から聞いた事件のあらましを後日義満に報告しに行っている。
 嘉慶元年(元中4、1387) 正月3日に実冬の甥である後小松天皇が元服したが、その儀式での理髪役には外戚が伺候するのが通例であるにも関わらずその役は義満がつとめ、実冬は呼ばれもしなかった。

 応永2年(1395)に内大臣、翌応永3年(1396)に右大臣、応永6年(1399)に従一位左大臣となり、この年の9月15日に行われた壮麗な相国寺大塔落慶法要では儀式進行役を担当している。応永9年(1402)8月に太政大臣に任じられた。応永14年(1407)2月6日に出家して「常忠」と号し、応永18年(1411)閏10月17日に58歳で死去した。のちに「後三条入道相国」と呼ばれた。日記『実冬公記』は父・公忠の『後愚昧記』同様に当時の情勢を知る貴重な記録となっている。
 
参考文献
今谷明『室町の王権』(中公新書)
早島大祐『室町幕府論』(講談社選書メチエ)ほか

三宝院賢俊さんぽういんけんしゅん
 醍醐寺三宝院の賢俊のこと。→賢俊(けんしゅん)を見よ。


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