万里小路藤房
| までのこうじ・ふじふさ | 1295(永仁3)?-? |
親族 | 父:万里小路宣房 兄弟:万里小路季房・土御門親賢室 養子:万里小路仲房 |
官職 | 造東大寺長官、左大弁、参議、左兵衛督、検非違使別、左衛門督、中納言
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位階 | 正二位 |
生 涯 |
―笠置挙兵に同行―
「後の三房」と呼ばれた後醍醐天皇の側近・万里小路宣房の長男。初名は惟房。
後醍醐天皇が親政を開始した直後の元亨2年(1324)4月に三十歳で参議となり、父同様に後醍醐の腹心となった。「正中の変」がその直後に起こるが、藤房はこれに関わりをもっていない。その後も後醍醐親政のもとで順調に出世し、嘉暦2年(1327)7月から京の市政をあずかる検非違使別当を三年間という当時としては異例の長期間務めた。
元弘元年(1331)2月、中納言となる。この年、後醍醐の二度目の討幕計画が密告によって漏れ、日野俊基・文観らが逮捕される。8月24日に後醍醐は京を脱出して奈良に向かい、結局笠置山にたてこもって挙兵した。藤房は後醍醐に同行した公家の中の一人だった。
「太平記」では笠置山で強い味方を求めていた後醍醐が霊夢を見て「楠木正成」の存在を知り、その正成を呼び出すよう藤房に命じるくだりがある。ここで藤房自身が勅使にたって河内に向かったと読み、正成と藤房を結びつける伝説が後世いろいろと作られたが(藤房の妹が正成の妻になるとか、藤房が後年吉野に現れるとか)、「太平記」本文は「藤房が天皇の命令を受けて急いで正成を呼び出した。勅使が勅命をたずさえて楠木の館に行った」と書いているのであって、これでは藤房自身が勅使にたったわけではなさそうに読める。正成の身分を考えると藤房のような高位の公家がこの非常事態に直接河内まで呼び出しに行くとは思えない。このあと笠置にやってきた正成は後醍醐とのやりとりを藤房を仲介して行っている描写になっていて、やはり藤房は別の人間を勅使に向かわせたと読むのが妥当だろう。そもそもこの話じたいが「太平記」の創作で、『増鏡』などでは挙兵以前から後醍醐は正成を頼りにしていたとある。「太平記」のこの部分で藤房の名前が出てくるのは単純にもっとも身近な側近であり取次ぎ役だったからととるべきだろう。
9月28日に笠置山は幕府軍の奇襲を受けて陥落、後醍醐と藤房、北畠具行、千種忠顕らは正成のいる赤坂城を目指して笠置を脱出した。「太平記」では山野を落ち延びる途中で後醍醐が「さして行く 笠置の山をいでしより あめが下には 隠れ家もなし」と歌い、藤房が「いかにせん たのむ陰とて 立ちよれば なお袖濡らす 松の下露」と返歌をしたという印象的な場面が描かれる。ただしこの場面では後醍醐に同行しているのが藤房と弟の季房だけで、しかも季房はこのとき笠置山に入っていなかったので、ほぼフィクションとみられる。翌9月29日に後醍醐・藤房らは幕府の手に囚われた。
藤房はただちに中納言の官職を解かれ、翌元弘2年(正慶元、1332)5月に常陸国に遠流となり、小田高知(のちの治久)に預けられた。京を離れる時、藤房は事件直前に一夜の関係を結んでいた左衛門佐局(さえもんのすけのつぼね)という中宮・禧子つきの女官に最後に一目会おうとしたがすれ違いで果たせず、別れの和歌を残して旅立ったところ、その歌を見た局は悲しみのあまり川に身を投げて死んでしまったという哀話が「太平記」にある。
一年後に後醍醐側が勝利して幕府が滅亡すると、藤房は小田高知に伴われて京に凱旋、複官を果たした。
―諫言の末に失踪―
藤房は当然のように建武政権で重職に就くことになったが、早くも多難に直面する。
建武政権は元弘の乱の恩賞問題を処理するため8月に「恩賞方」を設けたが、混乱をきわめて当初長官だった洞院実世は辞職し、その後釜に藤房が入った。藤房は公平な処理を進めようと心掛けたが、恩賞は実際には内奏、すなわち有力者への贈賄とコネによって「恩賞方」とは別のところで決まってしまう実態があった。このため藤房も嫌気がさして病気と称して辞職してしまったという(「太平記」)。藤房は土地訴訟問題を扱う雑訴決断所にも名を連ねたが、これが新政を象徴する大混乱状態であったことは言うまでもない。
年号が「建武」となった1334年には藤房はすっかり絶望してしまっていたようだ。「太平記」にはこんな逸話が載る。出雲の塩冶高貞から駿馬が献上され、洞院公賢がこれを「吉兆」とことほいで後醍醐を喜ばせたが、藤房は「むしろ凶兆」と古典を引用して論じ、巨費を投じた大内裏造営や赤松円心に代表される恩賞の不公平など新政の問題点を痛烈に批判し、後醍醐を激怒させてしまうのだ。「太平記」は「連続」と書いているので、硬骨漢の藤房は何度となく後醍醐に諫言を繰り返したらしい。だが後醍醐はついに聞く耳を持たなかった。
もはやこれまでと観念した藤房は9月21日に行われた石清水八幡宮行幸に供奉し、ここで人の目を大いに驚かせる派手ないでたちで行進してみせた。そして10月5日に辞職(「公卿補任」)、京郊外の岩倉というところに行って出家し、そのまま行方をくらましてしまう。これを聞いてさすがに慌てた後醍醐は藤房の父・宣房に連れ戻しを命じたが、藤房は「住み捨つる 山を浮世の 人とはば 嵐や庭の 松にこたへん」という和歌一首を残していずこかへ姿を消していた(「太平記」)。以後の行方は全く分からない。「公卿補任」によればこのとき「三十九歳」とあるので彼の生年が推定できる。
なお、藤房が出奔を覚悟して臨んだという9月21日の石清水行幸には足利尊氏も供奉しており、護良親王らがこの機会に尊氏の暗殺を図ろうとしたがチャンスがなく未遂に終わったと言われている。護良が捕縛されるのは10月22日のことで、日時が接近していることから藤房の出奔には護良親王失脚とのかかわりがあるのではないかとみる推理もある。
参考文献
森茂暁「太平記の群像・軍記物語の虚像と真実」(角川選書)
佐藤進一「南北朝の動乱」ほか |
大河ドラマ「太平記」 | 後醍醐天皇が笠置山に挙兵する展開を描く10〜12回まで登場(演:大和田獏)。笠置山に同行して例の「南の木」の夢を聞かされ、藤房自らが河内の楠木館まで赴いて正成を呼び出す。正成がかなり迷惑がる描写は吉川英治の原作をそのまま映像化したもの。古典どおりに笠置山に来た正成の言葉を後醍醐に取り次ごうとするが後醍醐は直接の会話を許した。笠置を脱出して山の中で捕えられる場面まで登場するが、建武政権の部分では全く登場しなかった。 |
その他の映像作品 | 1940年の日活映画「大楠公」で月形龍之介が演じている。
1959年のTVドラマ「大楠公」では藤木錦之助が演じた。
1978年のアニメ「まんが日本絵巻」の楠木正成の回では小山武宏が声を演じている。 |
歴史小説では | 「太平記」のために藤房が正成を直接呼び出したと思われているので(筆者は否定的だが)、正成が登場する作品ではほぼ確実に登場している。山岡荘八「新太平記」吉川英治「私本太平記」今東光「東光太平記」いずれも藤房が勅使として楠木館に赴く展開となっている。珍しい例外は実は戦前の直木三十五「楠木正成」で、これでは藤房は呼び出しの綸旨を出すだけで楠木館にそれを届けるのは別人である。 |
漫画作品では | 学習漫画系では考証がちゃんとついたせいか、正成登場部分で藤房は確かに出てくるが、直接楠木館に呼び出しに行く例は今のところ見当たらない。小学館版「少年少女日本の歴史」では新政に絶望した藤房が失踪したことが足利尊氏の家臣たちの会話で触れられている。
さいとう・たかを「太平記」(コミック日本の古典シリーズ)でも藤房は正成を呼び出すだけで勅使は別に行ったように描かれる。藤房が建武新政の混乱に絶望、諫言の末に失踪する展開は古典に忠実に劇画化されている。 |