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まかべまごしろう〜までのこうじふじふさ

真壁孫四郎まかべ・まごしろう
生没年不詳
生 涯
―細川清氏に引きずりおろされる―

 備中の武士。同国窪屋郡真壁に名字の地をもつ備中真壁氏は『太平記』でも時折名前が登場する。
 貞治元年(正平17、1362)7月、前年に南朝に走った細川清氏と、その従兄弟で中国管領の細川頼之とが讃岐で対決した。頼之は備後・備中・備前など山陽道の武士たちを動員して讃岐に渡っており、真壁孫四郎もそうした備中武士の一人であった。
 7月24日、頼之と清氏の決戦が行われ、真壁孫四郎は備前武士・伊賀高光と共に参戦していた。このとき清氏は猛将ぶりを発揮して敵を追いかけては斬って回っていたが、真壁たちが田のあぜ道を引き上げていくのを見てその後を追ううちに陶山(備中武士)の郎党に乗馬を傷つけられた。清氏は代わりの馬を奪おうとわざと傷ついたふりをして刀を杖に立ち、それを見た真壁が清氏に斬りかかると清氏は逆に真壁を馬から引きずりおろした。清氏は真壁の首をねじ切ろうか敵に向けて投げ飛ばそうかと思案して抱えたまま馬に乗ろうとしたが、そこを伊賀高光に斬りかかられる。清氏は真壁を放り投げて立ち向かったが結局高光に討ち取られた(『太平記』巻38)。真壁孫太郎の生死は本文を読む限りでは不明である。

ましらの石ましらのいし
 NHK大河ドラマ「太平記」に登場する架空人物。ドラマの主人公・足利尊氏に対して庶民側の主人公として配置されたキャラクターで、柳葉敏郎が演じた(少年時代は高山良。脚本設定では第2回の登場時(元亨4=1324)に「17歳」となっているので、尊氏より2歳ほど若い。
 美濃国の農家の息子で、第1回で村が悪党に襲われて家を焼かれ両親も殺されてしまう。現場を目撃していた花夜叉たちの田楽一座に拾われ、その足の速さから「ましら(猿)」のあだ名がつく。成長するとその「矢よりも早い足」を見世物にしていた。
 親を殺した悪党が「三河国富永保」の武士であり、そこが足利氏の所領と知って「足利」を親の仇と敵視する。さらに妹同然に一緒に育ち、石もひそかに愛している一座の白拍子・藤夜叉足利高氏と一夜の関係をもってその子・不知哉丸(のちの直冬)を産んでしまうため、高氏をさらに敵視するようになる。
 「良い世の中をつくる」という日野俊基の言葉に感動して倒幕運動に加わるようになり、楠木正成の弟・正季の配下となって赤坂・千早城の戦い後醍醐天皇の隠岐脱出作戦にも参加する。倒幕は成功し期待した建武の新政が始まるが、俊基から約束してもらった土地はもらえず、新政の混乱に次第に怒りを覚えてゆく。ひそかに手をまわした尊氏のおかげで美濃の荘園の代官となり藤夜叉・不知哉丸と平和に暮らそうとしたが、その直後に領主の強引な税の取り立てに抵抗するうち藤夜叉を失ってしまう。再び花夜叉一座に戻り、上杉清子の頼みもあって不知哉丸を寺に入れると、以後登場しなくなる(第34回まで)
 最後の登場回で服部元成(観阿弥の父)と会い、能面を彫っていることから能楽の関係者として再び登場する予定があったことがうかがえ(観阿弥は第48回に花夜叉と共に登場する)、実際に脚本家もその趣旨の発言をしたことがあるが、対談したプロデューサーが柳葉敏郎のスケジュールの問題があって無理、と答えている。親の仇の問題など未解決な伏線も残る形になってしまったのが悔やまれる。
PCエンジンCD版 「ましらの石」ならぬ「ましらの岩」なるパロディキャラが登場する。このゲームは「吉川英治原作」とうたいつつビジュアル面は横山まさみちの「コミック太平記」に依拠しており、本来大河ドラマとは無関係に作られているためきわどいギャグであったと言える。
 このゲームの「ましらの岩」はもと幕府の御家人の盗賊という設定で、ランダムに出現しては「ちょろいもんだぜ」と言いながら資金をかすめとっていく。

又太郎またたろう
 大河ドラマ「太平記」における足利尊氏(高氏)の幼名。厳密には「通り名」で、当時の武士にはわりとありふれた名前でもある。
 →足利尊氏(あしかが・たかうじ)を見よ。

全仁親王
またひと・しんのう1321(元亨元)-1367(貞和6/正平22)
親族父:恒明親王
子:満仁親王
官職太宰帥・中務卿
位階三品
生 涯
―常盤井宮家二代目―

 亀山上皇晩年の皇子・恒明親王の子で「常盤井宮家」の二代目。父の恒明は誕生時には皇位を約束されていたが亀山の死後は反故にされている。
 暦応4年(興国2、1341)11月19日に元服。この時点ですでに親王宣下を受けていることが確認できる。康永元年(興国3、1342)3月30日に太宰帥、のちに中務卿となった。
 貞治6年(正平22、1367)6月に重病となり出家、7月19日に48歳で死去した。天皇の孫の死ということで幕府は五日間服喪している(「師守記」)。死に際して全仁は後光厳天皇に必死に泣きついて息子の満仁王を後光厳の猶子(養子)扱いとすることを認めさせている。本来は皇室の本流との意識もあった常盤井宮家の将来が大いに不安だったのだろう。

参考文献
松薗斉「中世の宮家―南北朝・室町期を中心に―」(愛知学院大学人間文化研究所紀要「人間文化」第25号所収)

万里小路(までのこうじ)家
 藤原北家勧修寺流。藤原資経の四男・資通を始祖とする。「名家」の家格で、後醍醐天皇の倒幕運動に参加した藤房が名高い。家は明治まで存続し、伯爵家となった。

万里小路資通宣房藤房


季房─仲房
─嗣房

├経持



└経円



万里小路季房
までのこうじ・すえひさ?-1333(正慶2/元弘3)
親族父:万里小路宣房 兄弟:万里小路藤房 妻:藤原顕相の娘 子:万里小路仲房
官職東宮権少進、蔵人、弁官、蔵人頭、伊勢守、備前守、参議、右大弁、中宮亮
生 涯
―あと二日生きていれば…―

 後醍醐天皇の側近として「後の三房」と呼ばれた一人の万里小路宣房の次男。兄はやはり後醍醐天皇の側近であった藤房。公家の中でも一家で大覚寺統(南朝)・持明院統(北朝)に分かれるケースが少なくないが、この父子三人はそろって後醍醐の腹心として活動した。
 正安3年に叙爵され、延慶3年(1308)に尊治親王(のちの後醍醐)の立太子の折には東宮権少進を務めた。蔵人・弁官を経て嘉暦3年(1328)に蔵人頭、元徳3年(1330)に参議、右大弁・中宮亮を兼任した。

 翌元弘元年(1331)8月24日、後醍醐天皇は京を脱出して奈良に向かい、そこから笠置山に入って倒幕の挙兵を行う。兄の藤房は後醍醐に同行していたが、季房のほうはこのとき中宮・西園寺禧子に同行して 懽子内親王(後醍醐と禧子の皇女)が伊勢神宮の斎宮に向かう準備で入っていた嵯峨野の野宮(ののみや。伊勢斎宮に赴く前にここで潔斎を行う)を訪れていた。これが後醍醐の急な挙兵を彼が全く知らされていなかったのか、それとも計画的に別行動をとったのかは定かではない。
 9月28日に笠置山は幕府軍の攻撃により陥落し、後醍醐も兄の藤房も捕えられて京に送られてきた。10月6日に季房は出家した上で六波羅探題に捕えられ、後醍醐以下多くの関係者が処分されるなかで、彼自身も翌年五月に下野(下総とも常陸ともいう)に流刑となった。「太平記」は「長沼駿河守」に預けられたとするが確かなことは分からない。

 元弘3年(正慶2、1333)5月20日に配流先で死去している。「太平記」ではただ配流先で死んだことだけ伝えているが、ひそかに処刑された可能性もあるとされる。すでにこの時点で鎌倉攻防戦が始まっており、あと二日で鎌倉幕府は滅亡するので、この時点で預かり人が処刑を行うとはやや考えにくいのだが、むしろ幕府の命運を悟って誰かが「報復」のつもりで殺害したかもしれない。
 「太平記」では父・宣房が、兄の藤房が京に帰還して弟の季房が生きて帰らなかったことに悲喜こもごもになっていた様子が記述されている。こののち藤房は建武新政を批判して行方をくらまし、結局季房の子・仲房が藤房の養子として万里小路家を継ぐことになる。
大河ドラマ「太平記」第4回の正中の変直後の朝議のシーンで初登場(演:渕野俊太)、その後は俳優が変更され後醍醐が挙兵して笠置山にたてこもる10〜12回まで連続登場している(演:滝沢英行)。ただし上記のように史実では季房は笠置山には入っていない。

万里小路宣房
までのこうじ・すえひさ1258(正嘉2)-1348(貞和3/正平3)?
親族父:万里小路資通 母:八幡検校宗清の娘 子:万里小路藤房・万里小路季房・土御門親賢室
官職兵部少輔、兵部権少輔、越後介、飛騨守、東宮権大進、東宮大進、右少弁、蔵人、権右中弁、大蔵卿、蔵人頭、修理左宮城使、参議、出雲権守、弾正大弼、左大弁、造東大寺長官、権中納言、大宰権帥、権大納言、大納言
位階従五位下→従五位上→従四位下→従四位上→正四位下→従三位→正三位→従二位→従一位
生 涯
―「後の三房」の一人―

 後醍醐天皇の側近・懐刀として北畠親房吉田定房と並んで「後の三房」と呼ばれた重臣(白河天皇時代の藤原伊房・大江匡房・藤原為房が「三房」と呼ばれるのにちなむ)。初名は通俊(みちとし)といった。万里小路家は藤原氏勧修寺流・吉田一門に属し、宣房と定房は同門ということにもなる。南北朝時代に活動した公家としてはとびぬけてキャリアが長く、文永年間の亀山天皇以来七代の天皇に仕えた最長老だった。
 参議となり公卿の仲間入りをしたのは嘉元3年(1305)で、このときすでに数えで48歳。大覚寺統の後宇多上皇の院政時代のことで、徳治3年(1308)に持明院統に院政が移ると参議を辞任、文保2年(1318)に後醍醐が即位して後宇多の院政が再開されると61歳で権中納言となっている。一貫して大覚寺統派の公家という位置を貫いていたようである。
 二人の息子・藤房と季房がそろって後醍醐の側近となったのも自然な成り行きだったのだろう。ただ年老いた宣房から見ると、後醍醐とその腹心たちが進める「天皇親政」への志向はかなりあぶなっかしいものに見えたのではないだろうか。

 元亨4年(1322)9月、後醍醐天皇らによる倒幕計画が密告により発覚し、首謀者として日野資朝日野俊基が逮捕された。この事件については天皇は日野資朝に責任をかぶせて自身は無関係と弁明し、幕府側もことを荒立てまいと後醍醐までは捜査の手をのばさなかった。かつて正33年(1290)に大覚寺統派と思われる武士が宮中に乱入した事件で亀山上皇が幕府に「事件とは無関係」という誓詞を出した先例にならって65歳の老臣・宣房が弁明のために9月23日に鎌倉へとおもむいた。『増鏡』によれば宣房は古い時代から朝廷に仕えている上に、『天の下にいさぎよくむべむべしき人』(この世の中で高潔で篤実な人物)であるとみられていたからこその人選であったという。
 実際にこの宣房の鎌倉での弁明は功を奏した。もともと幕府側もことを大きくする気はなかったのだろうが、宣房の誠実な人柄も好感をもたれたようだ。結局日野資朝が佐渡に流されるだけで後醍醐への追及は行われず、宣房はこの弁明の功績により権大納言に昇進する。敵対する立場にある持明院統の花園上皇も日記の中で宣房の働きを「忠臣というべし」とほめあげている。

―寂しい晩年―

 元弘元年(1331)8月24日、幕府に退位を迫られることを悟った後醍醐は京を脱出し、やがて笠置山に挙兵する。翌25日に後醍醐に関係した大覚寺統の公家たちが一斉に逮捕され、その中に万里小路宣房もいた。この日をもって大納言も辞している。長男の藤房は笠置山に後醍醐と一緒にたてこもって笠置陥落後に捕えられ、次男の季房も連座で捕縛され、それぞれ常陸と下野へ流刑となった。宣房は後醍醐の計画に深入りはしてなかったのか、老齢ということを理由に翌元弘2年(正慶元、1332)4月に許され、持明院統の光厳天皇のもとに出仕することになる。
 しかしその一年後、事態は急転して鎌倉幕府は滅亡してしまう。六波羅滅亡後の5月17日に後醍醐は宣房を大納言に復帰させた。幕府滅亡後に長男の藤房は無事に常陸から京に帰還したが、次男の季房は5月20日に配流先で死去し生きて帰ることはなかった。「太平記」では父親として悲喜こもごも複雑な心境の宣房が描かれている。

 建武政権では宣房はいっそう重用され、天皇に報告を行う伝奏の役をつとめたほか、土地問題の処理に当たる雑訴決断所の頭人も務めた。だが老齢にはこの重任はこたえたのか、建武元年(1334)7月に大納言をいったん辞任、翌年復帰と辞任を繰り返している。
 宣房に決定的な打撃を与えたのは、息子・藤房の失踪だった。建武元年(1334)10月、新政の状況に絶望した藤房は後醍醐に諫言がいれられないと見て出家・出奔してしまう。慌てた後醍醐が宣房に後を追わせ、宣房は泣きながら車を飛ばして藤房が隠れたという岩倉(京郊外)に向かったが、藤房はすでに立ち去った後で、その行方は知れなかった(「太平記」)
 この翌年に足利尊氏の反乱により建武政権は事実上崩壊。世の移ろいをはかなんだか、京都攻防戦が続く建武3年(延元元、1336)正月に宣房は出家してしまう。このとき宣房は数えで79歳である。
 その後足利軍が九州から再挙して京を占領、後醍醐は比叡山に逃れて抵抗したが、これに宣房も同行している。後醍醐が尊氏と一時和解して比叡山を降りた時にも供奉の公家の中に宣房の名がみえる(「太平記」)
 出家以後の消息は判然としないが、高齢のためか後醍醐に着き従って吉野に行くこともなく(「三房」の残り二人は吉野へ行ったが)、京に残って孫の仲房(季房の実子)と共に北朝に仕えて余生を送ったと思われる。疑問も持たれているが貞和4年(正平3、1348)10月18日に亡くなったとする史料があり、これが事実とすると90歳という長寿を保って動乱の世を見つめ続けたことになる。

参考文献
森茂暁「太平記の群像・軍記物語の虚像と真実」(角川選書)ほか
大河ドラマ「太平記」第4回・第5回に登場(演:新井量大)。第4回では正中の変発覚で慌てふためく公家たちの中に混じり、第5回では後醍醐の「わび状」を鎌倉に運ぶ勅使として幕府内を歩いているシーンに登場している。

万里小路藤房
までのこうじ・ふじふさ1295(永仁3)?-?
親族父:万里小路宣房 兄弟:万里小路季房・土御門親賢室 養子:万里小路仲房
官職造東大寺長官、左大弁、参議、左兵衛督、検非違使別、左衛門督、中納言
位階正二位
生 涯
―笠置挙兵に同行―

 「後の三房」と呼ばれた後醍醐天皇の側近・万里小路宣房の長男。初名は惟房
 後醍醐天皇が親政を開始した直後の元亨2年(1324)4月に三十歳で参議となり、父同様に後醍醐の腹心となった。「正中の変」がその直後に起こるが、藤房はこれに関わりをもっていない。その後も後醍醐親政のもとで順調に出世し、嘉暦2年(1327)7月から京の市政をあずかる検非違使別当を三年間という当時としては異例の長期間務めた。
 
 元弘元年(1331)2月、中納言となる。この年、後醍醐の二度目の討幕計画が密告によって漏れ、日野俊基文観らが逮捕される。8月24日に後醍醐は京を脱出して奈良に向かい、結局笠置山にたてこもって挙兵した。藤房は後醍醐に同行した公家の中の一人だった。
 「太平記」では笠置山で強い味方を求めていた後醍醐が霊夢を見て「楠木正成」の存在を知り、その正成を呼び出すよう藤房に命じるくだりがある。ここで藤房自身が勅使にたって河内に向かったと読み、正成と藤房を結びつける伝説が後世いろいろと作られたが(藤房の妹が正成の妻になるとか、藤房が後年吉野に現れるとか)、「太平記」本文は「藤房が天皇の命令を受けて急いで正成を呼び出した。勅使が勅命をたずさえて楠木の館に行った」と書いているのであって、これでは藤房自身が勅使にたったわけではなさそうに読める。正成の身分を考えると藤房のような高位の公家がこの非常事態に直接河内まで呼び出しに行くとは思えない。このあと笠置にやってきた正成は後醍醐とのやりとりを藤房を仲介して行っている描写になっていて、やはり藤房は別の人間を勅使に向かわせたと読むのが妥当だろう。そもそもこの話じたいが「太平記」の創作で、『増鏡』などでは挙兵以前から後醍醐は正成を頼りにしていたとある。「太平記」のこの部分で藤房の名前が出てくるのは単純にもっとも身近な側近であり取次ぎ役だったからととるべきだろう。

 9月28日に笠置山は幕府軍の奇襲を受けて陥落、後醍醐と藤房、北畠具行千種忠顕らは正成のいる赤坂城を目指して笠置を脱出した。「太平記」では山野を落ち延びる途中で後醍醐が「さして行く 笠置の山をいでしより あめが下には 隠れ家もなし」と歌い、藤房が「いかにせん たのむ陰とて 立ちよれば なお袖濡らす 松の下露」と返歌をしたという印象的な場面が描かれる。ただしこの場面では後醍醐に同行しているのが藤房と弟の季房だけで、しかも季房はこのとき笠置山に入っていなかったので、ほぼフィクションとみられる。翌9月29日に後醍醐・藤房らは幕府の手に囚われた。
 藤房はただちに中納言の官職を解かれ、翌元弘2年(正慶元、1332)5月に常陸国に遠流となり、小田高知(のちの治久)に預けられた。京を離れる時、藤房は事件直前に一夜の関係を結んでいた左衛門佐局(さえもんのすけのつぼね)という中宮・禧子つきの女官に最後に一目会おうとしたがすれ違いで果たせず、別れの和歌を残して旅立ったところ、その歌を見た局は悲しみのあまり川に身を投げて死んでしまったという哀話が「太平記」にある。
 一年後に後醍醐側が勝利して幕府が滅亡すると、藤房は小田高知に伴われて京に凱旋、複官を果たした。

―諫言の末に失踪―

 藤房は当然のように建武政権で重職に就くことになったが、早くも多難に直面する。
 建武政権は元弘の乱の恩賞問題を処理するため8月に「恩賞方」を設けたが、混乱をきわめて当初長官だった洞院実世は辞職し、その後釜に藤房が入った。藤房は公平な処理を進めようと心掛けたが、恩賞は実際には内奏、すなわち有力者への贈賄とコネによって「恩賞方」とは別のところで決まってしまう実態があった。このため藤房も嫌気がさして病気と称して辞職してしまったという(「太平記」)。藤房は土地訴訟問題を扱う雑訴決断所にも名を連ねたが、これが新政を象徴する大混乱状態であったことは言うまでもない。

 年号が「建武」となった1334年には藤房はすっかり絶望してしまっていたようだ。「太平記」にはこんな逸話が載る。出雲の塩冶高貞から駿馬が献上され、洞院公賢がこれを「吉兆」とことほいで後醍醐を喜ばせたが、藤房は「むしろ凶兆」と古典を引用して論じ、巨費を投じた大内裏造営や赤松円心に代表される恩賞の不公平など新政の問題点を痛烈に批判し、後醍醐を激怒させてしまうのだ。「太平記」は「連続」と書いているので、硬骨漢の藤房は何度となく後醍醐に諫言を繰り返したらしい。だが後醍醐はついに聞く耳を持たなかった。

 もはやこれまでと観念した藤房は9月21日に行われた石清水八幡宮行幸に供奉し、ここで人の目を大いに驚かせる派手ないでたちで行進してみせた。そして10月5日に辞職(「公卿補任」)、京郊外の岩倉というところに行って出家し、そのまま行方をくらましてしまう。これを聞いてさすがに慌てた後醍醐は藤房の父・宣房に連れ戻しを命じたが、藤房は「住み捨つる 山を浮世の 人とはば 嵐や庭の 松にこたへん」という和歌一首を残していずこかへ姿を消していた(「太平記」)。以後の行方は全く分からない。「公卿補任」によればこのとき「三十九歳」とあるので彼の生年が推定できる。
 なお、藤房が出奔を覚悟して臨んだという9月21日の石清水行幸には足利尊氏も供奉しており、護良親王らがこの機会に尊氏の暗殺を図ろうとしたがチャンスがなく未遂に終わったと言われている。護良が捕縛されるのは10月22日のことで、日時が接近していることから藤房の出奔には護良親王失脚とのかかわりがあるのではないかとみる推理もある。

参考文献
森茂暁「太平記の群像・軍記物語の虚像と真実」(角川選書)
佐藤進一「南北朝の動乱」ほか
大河ドラマ「太平記」後醍醐天皇が笠置山に挙兵する展開を描く10〜12回まで登場(演:大和田獏)。笠置山に同行して例の「南の木」の夢を聞かされ、藤房自らが河内の楠木館まで赴いて正成を呼び出す。正成がかなり迷惑がる描写は吉川英治の原作をそのまま映像化したもの。古典どおりに笠置山に来た正成の言葉を後醍醐に取り次ごうとするが後醍醐は直接の会話を許した。笠置を脱出して山の中で捕えられる場面まで登場するが、建武政権の部分では全く登場しなかった。
その他の映像作品1940年の日活映画「大楠公」で月形龍之介が演じている。
1959年のTVドラマ「大楠公」では藤木錦之助が演じた。
1978年のアニメ「まんが日本絵巻」の楠木正成の回では小山武宏が声を演じている。
歴史小説では「太平記」のために藤房が正成を直接呼び出したと思われているので(筆者は否定的だが)、正成が登場する作品ではほぼ確実に登場している。山岡荘八「新太平記」吉川英治「私本太平記」今東光「東光太平記」いずれも藤房が勅使として楠木館に赴く展開となっている。珍しい例外は実は戦前の直木三十五「楠木正成」で、これでは藤房は呼び出しの綸旨を出すだけで楠木館にそれを届けるのは別人である。
漫画作品では 学習漫画系では考証がちゃんとついたせいか、正成登場部分で藤房は確かに出てくるが、直接楠木館に呼び出しに行く例は今のところ見当たらない。小学館版「少年少女日本の歴史」では新政に絶望した藤房が失踪したことが足利尊氏の家臣たちの会話で触れられている。
 さいとう・たかを「太平記」(コミック日本の古典シリーズ)でも藤房は正成を呼び出すだけで勅使は別に行ったように描かれる。藤房が建武新政の混乱に絶望、諫言の末に失踪する展開は古典に忠実に劇画化されている。

真野三郎まの・さぶろう
?-1331(元徳3/元弘元)
生 涯
―比叡山僧兵と戦って戦死した尾張武士―

 尾張国津島の武士。元徳3年(元弘元、1331)8月28日に六波羅探題の軍勢に加わって東坂本に出陣、地形に不案内であったために退却できず、僧兵に討ち取られてしまった。『太平記』流布本では「真野入道父子二人」が戦死したとあるが、『太平記』古態である西源院本では「真野三郎」とあり、父子についての医術はない。


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