名和長年 | なわ・ながとし | ?-1336(建武3/延元元)
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親族 | 父:名和行高? 兄弟:名和長義?・名和長義?名和長生?・名和泰長?源盛?
子:名和義高・名和長秋?・名和修理介? |
官職 | 伯耆守・因幡守 |
位階 | 従四位下→贈正三位(明治19)→贈従一位(昭和10) |
建武の新政 | 記録所・武者所・雑訴決断所・東市正 |
生 涯 |
伯耆国(現・鳥取県西部)の土豪で、隠岐から脱出した後醍醐天皇を助けて建武政権で名を挙げ、それに殉じた武将。楠木正成と並んで謎だらけの人物である。
―山陰の「いわし売り」?―
名和氏はその出自がほとんど謎である。また後年南朝に仕えて自然消滅していったためその系譜はますます解明困難となっている。当時「村上源氏」を称していたことは確認できるが(南北朝の有名人では北畠・千種・赤松が村上源氏)、ほとんど信用できないとみられる。
「太平記」では長年について「さして名のある武士ではないが、家が富み、一族も多く、度量が広い」と記し、「梅松論」は「裕福な人物である。ともに討ち死にしようという親類が一、二百人もいる」、「増鏡」は「低い身分の者だが、親類が多く、しっかりとして頼りになる人物」と記す。いずれも長年が知名度も身分も低く、財産家で結束力のある多数の一族がおり、人間的にも信用できる人物と語る点で共通している。名和一族の笠印も「帆かけ舟」のマークで(後醍醐から与えられたとの説もあるが、それ以前からそうだったという見方が強い)、海運業で財産を築いた豪族だったのではないかとの推測がある。また、150年も後の記述なので信用度は高くないのだが、季弘大淑の日記「蔗軒日録」のなかに「名和伯耆(長年)は鰯(いわし)売りである」との記述がある。「商業に深くかかわる悪党的武士」ということで楠木正成との共通点も指摘されている。
父親は「行高」とされるが、断定はできない。ただ長年がはじめ「又太郎長高」と名乗っていたのは確からしい。この「高」が得宗・北条高時の一字を与えられたものとすれば、すでに北条氏と主従関係を結ぶ勢力であったことになるのだが、父親の名の一字だとすればその疑問は解消する。だが、わざわざ後醍醐が「長高」の名を「長年」に改めさせたとみられるので、やはり「高時の高」だったのではないかと思える(「足利高氏→尊氏」や「小田高知→治久」の例もある)。確定した説ではないが、名和氏は霜月騒動により所領を失い北条に恨みを持つ御家人との見方もあり、後醍醐側で挙兵した地方豪族に同様の例が多いことからその可能性も高いと考えられる(楠木氏についても同様の指摘がある)。
―船上山の挙兵―
元弘の変の挙兵に敗れて隠岐に流された後醍醐は、元弘3年(正慶2、1333)閏2月24日に隠岐を脱出した。後醍醐一行は海を渡って出雲にゆき、そこから伯耆へ向かったとされる。伯耆での後醍醐の上陸地点は「太平記」は「名和湊」、「増鏡」は「稲津浦」、「梅松論」は「奈和(名和)荘野津」ととする。「名和湊」は現在の鳥取県大山町の御来屋(みくりや)港とされ、明治以後に「後醍醐上陸地」として整備されているが、実は「太平記」に拠っただけで確たる証拠があるわけではない。
「太平記」「梅松論」ともに後醍醐が何の計画性もなく脱出して伯耆にいたり、「ここらに頼みになる有力な武士はいないか」と人に聞いたところ、「名和長年(又太郎長高)」の存在を聞きつけて千種忠顕を勅使に送り(あるいは彼が勅使を立てて)、協力を求めたと語っている。立場の異なる軍記二つがほぼ同じ話を書いているのでおおむね事実と思われるが、脱出にあたってすでに名和長年を頼る予定だったとみるのが自然だろう。あるいは事前の連絡はなかったが、天皇の隠岐脱出を知った名和氏の方から接触してきた、というあたりかも知れない。
「太平記」の語るところでは、後醍醐の勅使がきたとき名和一族は集まって酒宴を楽しんでいた。後醍醐からの協力を求められた長年は考え込んで即答を避けたが、弟の長重が挙兵をうながし、一同それに決したとされている。「梅松論」では長年は迷うことなくただちに忠顕を馬に乗せて一族ともども後醍醐を迎えに馳せ参じたことになっている。
後醍醐を奉じての挙兵を決断した長年の動きは素早く、船上山の要害に立てこもる用意のために近隣の人々を集め、「我が家の倉の中にある米を一袋運んでくれた者には銭500を与えよう」と呼びかけ、たちまち五、六千人の人夫が集まり、一日のうちに五千余石の兵糧を船上山に運び上げてしまったという。「太平記」に載るこの逸話もまた名和一族の「商業的武士」の性格をよくあらわしたものであるとされる。少ない軍勢を多く見せかけるために白布500を旗に仕立てて山になびかせた、という話も出来過ぎではあるが「太平記」における正成と同様の武士と描かれていることは注目される。
伯耆・船上山に後醍醐を擁して立てこもった名和一族は追って来た隠岐守護・佐々木清高の軍を巧みなゲリラ戦で翻弄し、打ち破る。この勢いに山陰・山陽の武士たちが船上山に馳せ参じ、倒幕の流れは一気に加速する。長年の功績をたたえて後醍醐は「忘れめや 寄るベもなみの 荒磯を 御船の上に とめし心は」(立ち寄るところもなく波間に漂っていた私をお前は船の上=船上山に迎え入れ助けてくれた)という歌を詠んでいる(「新葉和歌集」)。
5月22日に鎌倉幕府が滅亡、その翌日に後醍醐は船上山を出発して京に凱旋し、名和長年はその輿の右で帯剣の大役をつとめ、名和一族がそろってその周囲の警護にあたったという。
―「三木一草」の一角―
京にのぼった長年は恩賞として伯耆守・因幡守に任じられた(伯耆守については船上山で授かったらしい)。また建武政権において復活した「記録所」、恩賞問題を扱う「恩賞方」、京の治安にあたる親衛隊「武者所」、そして多発した土地問題に対応する「雑訴決断所」といった部署に名を連ねることになる。
これら建武政権を象徴する一連の部署のメンバーに武士から選ばれているのは楠木正成・結城親光と名和長年だけで、これに中級公家出身の千種忠顕を加えて人々は「三木一草(さんぼくいっそう)」ともてはやした。名和伯耆(ほうき)・結城(ゆうき)・楠木(くすのき)・千種(ちぐさ)のセットというわけである。彼らはそれまで身分も低く目立たなかった者が突然後醍醐の大抜擢を受けてのし上がったという点が共通していたからこう呼ばれたのだが、「成り上がり者」とさげすむニュアンスも含まれている。
名和長年個人の人事で注目されるのは、京の市場の管理を行う「東市正(ひがしのいちのかみ)」の職を任されているという点だ。この役職は官僚下級貴族・中原家が代々世襲していたもので、このとき中原章香がつとめていたが後醍醐はわざわざ彼を辞めさせて長年にこの職を与えている。後醍醐は貴族たちが官僚職を世襲する平安以来のシステムを破壊し、家格を無視した天皇中心の独裁体制を志向していたとされ、この長年の人事はその典型例とみなされている。また市場の管理職を長年に任せたのは、彼がまさに「商業的武士」だったからに違いない。
伊予の「歯長寺縁起」には、都の人々が名和長年の風変りな烏帽子(具体的にどういうものだったのかは分からない)を見て「伯耆様(ほうきよう)」とはやしたてたという話が載る。これも京童(きょうわらんべ)が田舎者をバカにしていた空気を感じるのだが、ファッションからしてかなり独特の人物だったのではないかと思わせる話だ。
また長年がその書状に残した花押(サイン)も丸を三つ書いてその真ん中から上にピンと一本線を伸ばす、日本の花押史上でも極めて独特のデザインだ。これは家紋の「帆かけ舟」と同じく船を意識した花押なのではないかとの説もある。
―建武政権に殉じて―
建武元年(1334)10月21日、足利尊氏と対立していた護良親王は宮中の催しに呼び出されたところを後醍醐の命により捕縛された。この指揮にあたったのは名和長年と結城親光、すなわち後醍醐親衛隊たちであった(正成はこのとき紀伊の反乱討伐で不在)。
さらに翌建武2年(1335)6月の西園寺公宗による後醍醐暗殺未遂事件では、当初出雲へ流刑となっていた公宗を処刑したのが長年だった。あくまで「太平記」の伝える話だが、公宗を連行する途中で中院定平が「早(はや)!」とせかす指示を「早く殺せ」の意味に勘違いした長年が即座に首をはねたという。これは恐らく、公卿以上の上級貴族は死刑にしないという通例を破ることになるので「事故」ということにして処刑してしまったものだと思われる。
間もなく足利尊氏が建武政権から離反して京を攻撃、名和長年も「三木一草」の諸将達と共に京の防衛にあたった。建武3年(1336)正月10日に後醍醐側の防衛戦は突破されて後醍醐らは比叡山へ逃れる。これを聞いた長年は比叡山へ向かう前にいったん内裏に戻っておかねばと考えて、敵兵をかきわけて空っぽになった内裏に到着、建武政権の崩壊を実感したのか庭にひざまずきながら涙を流したという(「太平記」)。足利軍の入京の直後に「三木一草」の一角であった結城親光もこれまでと観念したのか、尊氏の暗殺を謀って失敗、斬り死にしている。
いったんは足利軍を破って九州に追い落とし、京を奪い返した後醍醐側だったが、それも長くは続かなかった。5月には九州を平定して勢いを回復した足利軍が大挙東上、湊川の戦いで楠木正成を戦死させ、さらに京を再占領した。後醍醐側は再び比叡山にこもって足利軍と戦うが、6月5日には千種忠顕が戦死した。
6月30日、新田義貞・名和長年を主力とする軍勢は、後醍醐に拝謁した上で決死の覚悟で比叡山を出陣して京を目指した。軍勢が白鳥付近を通過した時、見物する女子供たち(京都人の戦見物は実は源平合戦のころからの風物詩だった)が「このごろ天下に結城・伯耆・楠木・千種の『三木一草』と言われて栄華を誇った人々のうち、三人は戦死してしまって、伯耆守一人だけが残ってしまったなぁ」と口にしているのを、長年は聞いた。(さては長年がこれまで討ち死にしないのを、人々は情けなく思っているのだな。だからこそ女子供までがそう言うのだろう。京の戦いでもし味方が敗れるようなことになったら、たった一人であろうと踏みとどまって討ち死にしてやろう)と、長年は独り言をつぶやいて戦死の覚悟を決めたという(「太平記」。ただし太平記は日時がなぜか7月13日になっている)。
その覚悟の通り、この日の戦闘で少弐頼尚の軍と激突した長年は、三条猪熊において松浦党の草野秀永に討ち取られた(「梅松論」。太平記では一条大宮とする)。ここに建武政権の象徴とも言えた「成り上がり者」たち、「三木一草」は全て散ってしまったのである。
その後長年の息子たちや一族は畿内や九州で一貫して南朝党として活動した。このことは名和一族が海上活動に従事する商業的な武士であったことが背景にあるのではないかと言われている。
後世、「太平記」人気と南朝びいきが高まると名和長年とその一族は「忠臣」として祭り上げられ、江戸時代前期にはすでに鳥取藩によって名和長年を祭る小さな神社が造られたという。そして明治11年に「名和神社」として別格官幣社に昇格した。ここには長年以下その一族と家臣たち42名もが合祀されている(何の資料をもとにしたものやらさっぱりの名が並んでいる)。明治19年に正三位の贈位がなされたが、物足りないと思ったか「建武中興600年」ムードで南朝賛美が高まった昭和10年には従一位に贈位された。
なお、「名和長年肖像」なるものがしばしば南北朝本に掲載されることがあるが、まったく別人の画像に家紋を描きくわえて「長年像」に偽作したものであることが確実視されている。
参考文献
森茂晃「太平記の群像・軍記物語の虚構と真実」(角川選書)
佐藤進一「南北朝の動乱」(中公文庫)
池永二郎「名和長年」(歴史と旅・臨時増刊「太平記の100人」所収)ほか
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大河ドラマ「太平記」 | 第20回「足利決起」の回から登場、ドラマ中盤のレギュラーキャラクターの一人となった。演じたのは小松方正で、日頃は裕福な商人風、宮中では公家風のスタイルで個性的な存在感を見せた。隠岐脱出から後醍醐を助けたので阿野廉子グループ「隠岐派」に位置づけられ、護良親王捕縛シーンなど、どちらかというと悪役風味。脚本でも初登場時に「54歳」という設定にされ、「禿頭で人の好さそうな細い目。しかし野心も俗物根性もそのエネルギッシュな表情全体に見て取れる」と表現され、小松方正の当て書きかと思える。「伯耆様」の烏帽子もあくまで想像だが商人風の独特のものにデザインされた。第37回の京都攻防戦で草野秀永に討たれるシーンもしっかり描かれた。 |
その他の映像・舞台 | 昭和9年(1934)に舞台「名和長年」の上演があり、市川左団次(二代目)と松本幸四郎(七代目)が長年を演じたという。下記に書いておいた幸田露伴の戯曲の上演だろうか。
昭和39年(1964)の歌舞伎「私本太平記」では中村福助(七代目)が演じた。
1983年のアニメ「まんが日本史」では八奈見乗児が声を演じている。 |
歴史小説では | 南北朝時代の小説ではほぼ確実に登場。ただあくまで群像の一人という扱いで、長年その人を主人公にしたのは今のところ自費出版しかない模様。
小説ではないが幸田露伴の戯曲「名和長年」がある。隠岐脱出した後醍醐を迎えて船上山で戦うまでを描いたもので、吉川英治随筆によると長年が神格化された戦前の作ということであまり人間的な面白さはないとのこと。報道によると2009年11月に米子市で44年ぶりに歌舞伎で上演されるという。
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漫画作品では | 南北朝時代を扱う学習漫画ではチラリとだけだがだいたい登場している。上記の「長年肖像」をもとにデザインされていることも多い。小学館版「少年少女日本の歴史」では後醍醐と忠顕の会話の中に顔つきで言及されるだけだが、ここでは脱出以前から迎え入れる密約ができていたことになっている。
沢田ひろふみ「山賊王」は少年漫画の王道スタイルで鎌倉幕府打倒を描く異色作だが、名和長年はちゃんと「名和長高」の名前で登場し、準重要キャラクター扱い。
河部真道『バンデット』では後醍醐の隠岐脱出直後に1シーンのみ登場、児島高徳と会話を交わしている。
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PCエンジンCD版 | 南朝側独立勢力の君主として出雲伯耆に登場。初登場時の能力は統率77・戦闘87・忠誠68・婆沙羅33。 息子の義高がいるのは当然として、なぜか家臣に塩冶高貞がいたりする。
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PCエンジンHu版 | シナリオ1「鎌倉幕府の滅亡」で伯耆国・船上山砦に登場。軍略は「弓6」でかなり強力。なおシナリオ2「南北朝動乱」では息子の義高が代わりに登場する。 |
メガドライブ版 | 京都攻防戦のシナリオなどごく少ないシナリオで南朝側武将として登場(足利帖で敵として登場する機会が多い)。能力は体力62・武力126・智力128・人徳94・攻撃力102。 |
SSボードゲーム版 | 公家方の「武将」クラスで勢力地域は「山陰」。合戦能力2・采配能力4。ユニット裏は子の名和義高。 |