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ちぎょう〜ちんそうじゅ

知教ちぎょう
『太平記』で正中の変・元弘の変において討幕計画に参加した容疑で逮捕されたとされる僧。「智暁」「智教」とする史料もある。実名は「智篋房尊鏡」という。→尊鏡(そんぎょう)を見よ。

千種(ちぐさ)家
 村上源氏・六条家の支流で、後醍醐天皇の側近となった千種忠顕から始まる。その子孫は南朝に仕えたが南北朝合体後は養子をとりつつ続いたが室町中期に断絶した。戦国時代に伊勢で活動した千種氏がその分家と称しているが信用は置かれていない。江戸時代以降にも村上源氏で千種家を称する公家の系統があるが、直接的には無関係。

六条有房─有忠┬有光──→六条



├有顕
┌具顕



千種忠顕┼長忠




├忠方




顕経雅光─光清

千種顕経
ちぐさ・あきつね生没年不詳
親族父:千種忠顕 
兄弟:千種具顕・千種長忠・千種忠方
養子:千種雅光
官職少納言・丹波守・蔵人頭・近衛少将・参議・弾正大弼・左中将・権大納言(全て南朝)
位階正二位(南朝)
生 涯
―南朝軍を率いて京都突入―

 後醍醐天皇の側近であった千種忠顕の子。南朝関係者の常で生没年も詳細な不明で残る資料も断片的だが、有力な南朝廷臣の一人ではあった。父の忠顕は延元元年(1336)の建武政権崩壊時に戦死しており、その時点での顕経の年齢は不明だがまだ幼かったものと推定される。後醍醐が吉野へ入って南朝を開くと、忠顕の子として早くからそれに合流したと見られる。

 足利幕府の内戦「観応の擾乱」のさなか、正平6年(観応2、1351)11月に足利尊氏は北朝を放り出して南朝と和睦、南朝が北朝を接収する「正平の一統」が実現した。このとき千種顕経は少納言および丹波守に任じられて丹波に入っている。丹波守は父の忠顕もつとめた役職で、六波羅探題を攻撃する際に丹波方面から攻撃するなど丹波と縁があったためとみられる。さらにこの後の天界から推測すれば、南朝側は最初から京都を攻撃・占領する戦略で顕経を丹波に配置したのだと考えられる。

 翌正平7年(文和元、1352)閏2月15日、顕経は丹波守護・荻野朝忠を追い出して丹波を制圧する(「園太暦」)。これに呼応して翌16日には北畠顕能率いる南朝軍が入京して威嚇、足利義詮ら幕府側が慌てているところへ、20日に顕経は五百の兵を率いて丹波路から京へ押し寄せ、西七条に火を放った(「太平記」)。これと同時に北畠顕能・楠木正儀が別方面から京へ突入し、義詮を追って南朝軍が京を占領する。だが3月には義詮に京を奪い返され、南朝軍は男山八幡にたてこもったのち敗走した。
 2年後の正平9年(文和3、1354)9月に新田義興・脇屋義治らと共に越後宇加地城を攻撃した南朝方の中に「千種相掌家」という名がみえ、これが顕経のことではないかとする説もある(「相掌」=「少将」?)

 正平13年(延文3、1358)から正平16年(康安元、1361)にかけては後村上天皇の綸旨に奏者として署名が見られる。また南朝の歌合にも顕経と思われる名前が何度か見られ、正平20年(貞治、1365)の『内裏三百六十首歌』では「弼宰相中将」、長慶天皇時代の天授元年(永和元、1375)ごろの『住吉社三百六十番歌合』には「権大納言」として登場している。南朝の和歌集『新葉和歌集』にも四首が納められている。
 没年は不明。『南朝公卿補任』に天授3年(永和3、1377)9月4日死去とあるが、これは江戸時代に作成された偽書なのでそのまま信じるわけにはいかないが、おおむねそのころに没したかとは思える。『尊卑分脈』によると子の雅光は中院家からの養子であるという。

参考文献
林屋辰三郎「内乱のなかの貴族・南北朝と「園太略」の世界」(角川選書)ほか
SSボードゲーム版父・千種忠顕のユニット裏。公家方の「武将」クラス、勢力範囲は「北畿」。合戦能力1・采配能力1の最弱ユニット。

千種忠顕
ちぐさ・ただあき?-1336(建武3/延元元)
親族父:六条有忠 兄:六条有光 
子:千種顕経・千種具顕・千種長忠・千種忠方
官職左近衛少将・左中将・丹波守
位階五位→従三位→贈従二位(大正8年)
生 涯
―勘当された道楽息子?―

 後醍醐天皇の腹心の一人。村上源氏・六条家の出で父は権中納言を務めた六条有忠。生年は不明だが祖父・父の生年を見る限りでは1300年前後に生まれたのではないか。佐藤進一は典拠不明だが元弘元年(1331)段階で二十歳前後であったとしている。父から伊勢国三重郡千種(千草)の地を与えられたのでそれを名字として「千種」と称した。「六条少将」など六条の名字で呼ばれていることもある。

 『太平記』によれば代々学問の家柄であったのに忠顕は学問を嫌い、犬追物・笠懸けといった武士の遊びやバクチ・女遊びを好んだため、このため父・有忠から勘当されたという。父・有忠は後醍醐の兄・後二条の子である邦良親王を早く皇位につけるよう幕府に運動していた人物で、有忠にとって後醍醐はいわば政敵であった。その後醍醐の寵臣になってしまった息子を許せるはずもなく、遊び呆けたからというよりそれが親子の縁を切った最大の理由であったようだ。同様のケースは日野資朝にも見られ、強烈な個性とカリスマをもつ後醍醐のもとにはこうした変わり種の個性派の公家たちが集まって来ていたようだ。

 元弘元年(1331)8月に後醍醐が挙兵を決意し京を脱出、笠置山にたてこもったが、千種忠顕はこれに常に付き従った。笠置陥落後に後醍醐ともども捕えられ、佐々木道誉に身柄を預けられている。翌年3月に後醍醐が隠岐へ配流となると一条行房阿野廉子と共に隠岐まで同行している。『新葉和歌集』に載る「都思ふ夢路や今の寝覚めまで いく暁の隔て来ぬらむ」という忠顕の歌は隠岐配流中に詠まれたと言われている。
 元弘3年(正慶2、1333)閏2月24日に後醍醐が隠岐を脱出するにあたっても忠顕は同行し、渡海と名和長年への合流、船上山の戦いに至るまで危険を天皇と共にしている。船上山に入った後醍醐は各地に綸旨(天皇の命令書)を発したが、それらは「千種左中将」が奉じる形をとっている。ただし千種忠顕の名前で書かれながら実際には後醍醐自身が全て書く異例のものであったと言われる。

 3月末に後醍醐は山陰・山陽の兵を集めて京へ進発させ、その総大将に忠顕が任じられた。忠顕は勇んで京へ攻めのぼったが、赤松軍との連絡が悪かったらしく、敵の夜襲を恐れて軍旗もそのままに勝手に撤退してしまったと『太平記』は伝える。『太平記』の作者はよくよく千種忠顕が嫌いだったようで、このとき忠顕が釈迦の誕生を祝う仏生日(4月8日)を攻撃日時としたことも非難するし、夜襲を恐れての撤退のくだりでは児島高徳(「太平記」にしか登場せず「太平記」作者との関係が噂される、あるいは作者を投影した架空の人物)をわざわざ登場させ、空っぽになった本陣に入った高徳が「こんな馬鹿大将など、どこぞの堀でも崖でも落ちて死んでしまえばよい!」と罵倒する場面まで作っている。
 結局足利高氏の寝返りにより情勢が一変し、5月8日に忠顕は高氏・赤松円心らと共に六波羅を総攻撃した。『太平記』もこのときだけは「この城(六波羅探題)を普通の城と思ってのんびりと攻めてはならん。時間をかけては千早を攻めている幕府軍が戻ってくるぞ。全兵士が心を一つにして一気に攻め落とすのだ!」と忠顕が勇ましく兵士たちを叱咤する様子を描いている。六波羅が攻め落とされ鎌倉も陥落して、6月初めに後醍醐が京に凱旋したときに千種忠顕は千余騎を率いてこれに付き従った。

―三木一草―

 建武政権が成立すると忠顕は隠岐以来の功績を認められ、恩賞として丹波国ほか大国三か国の知行および北条氏などの領地数十か所を与えられたという(『太平記』)。雑訴決断所のメンバーともなり大いに権勢をふるったというが、人々を驚かせたのは以前よりも増した豪快な遊びっぷりだった。毎日のように宴会をして何百人もの家来たちに酒食をふるまい、一度で一万銭以上を費やす、数十間もの長さの厩を建てて肥えた馬を5、60匹もそこにつなぐ、宴が終わって興が乗ると家来たちと共に馬で繰り出し、内野・北山辺りで犬追物・小鷹狩りを楽しむ、その時の忠顕の衣装は豹・虎の毛皮の行縢(むかばき・乗馬の時に下半身にはく)に金襴纐纈(きんらんこうけつ)つまり金色に輝く派手な直垂をつけるというまさに「婆沙羅(バサラ)」そのものの格好だったという。
 これも『太平記』のみに書かれたことだが、当時流行の婆沙羅風流を毛嫌いしている『太平記』作者としては忠顕のふるまいに筆誅を加えざるを得なかったのだろう。これ以前の場面でも忠顕に批判的なのもそのせいかもしれない。しかし見方を変えれば忠顕は明らかに時代の最先端を過激に進んだ、武士における佐々木道誉あたりと似たタイプだったのだろう。そこが後醍醐に気に入られた理由でもあると思われる。

 建武新政で栄華をきわめた者たちをまとめて「三木一草」と呼ぶ声が京童の間に広まった。「くすのき(楠木正成)」「ほうき(伯耆守名和長年)」「ゆうき(結城親光)」および「ちぐさ(千種忠顕)」のことで、共通してそれまで京の者のほとんどが知らないような「成り上がり者」たちである。家格にとらわれず天皇自ら能力のある者を抜擢するという後醍醐の政治姿勢のあらわれと言える人々であったが、家格を重視する保守的な上級貴族たちには非常に不評であり、特にこのうち唯一の公家である忠顕への批判はかなり多かったと思われる。また共に隠岐で苦労した阿野廉子との結び付きも強かったと想像され、それが彼への過分な恩賞につながったことも事実だろう。

―はかなく消える―

 栄華の日々は長くは続かなかった。建武政権は混乱続きのうちに各地で反乱がおこるようになり、建武2年(1335)秋に足利尊氏が関東で背き、京へ攻めのぼった。建武3年(1336)正月、京をめぐって攻防が繰り広げられるなか、千種忠顕は突然出家した。原因は全く不明だが、やはり後醍醐の腹心であった万里小路宣房が同時期に出家しており、建武政権が崩壊しかかるなかで批判派の声が高まり「詰め腹を切らされた」のではないかという推理がある(佐藤進一「南北朝の動乱」)

 いったんは敗れて九州へ落ちた尊氏だったが間もなく巻き返し、5月に湊川の戦いに勝利して京へと攻め込んできた。後醍醐は比叡山へ難を逃れ、これに忠顕も同行した。6月5日に足利軍による比叡山への総攻撃が開始され、忠顕は尊良親王(『歯長寺縁起』は式部卿宮・恒明親王であったとする)の副将として坊門正忠らと共に比叡山の西側中腹で防戦に当たった。『太平記』によると忠顕・正忠(近衛雅忠?)らの部隊は300騎ていどで、松尾から攻め上がった足利兵たちに退路を断たれ、そのまま包囲されてあえなく全滅したという。一時の栄華の夢を見た忠顕のあまりにあっけない最期に、ここまで筆誅を加え続けた『太平記』作者は何の修飾も感想も付け加えず、淡々と「一人も残らず討たれてけり」と記すだけである。

 明治以降「南朝忠臣」の顕彰が相次ぐなか、忠顕に従二位の贈位が行われたのが大正8年(1919)とやや遅いのは『太平記』の筆誅も影響したかもしれない。大正10年(1921)に京都市左京区修学院音羽谷の地に「千種忠顕公戦死之地」の碑が建てられている。

参考文献
森茂暁「太平記の群像・軍記物語の虚構と真実」(角川選書)ほか
大河ドラマ「太平記」後醍醐側近の公家の一人として登場、アイドル脱皮を目指しつつあった本木雅弘が演じた。第10回「帝の挙兵」で初登場し、後醍醐が京からの脱出を決定する場面から赤い目立つ衣装で出てくる。笠置山にももちろん同行し、笠置陥落後にさまよったあげく捕えられる場面でも一緒にいた(古典「太平記」では忠顕はいなかった)。六波羅に監禁された後醍醐の面倒を見、隠岐への配流・脱出、船上山と後醍醐ともども出ずっぱりである。千種忠顕・赤松円心の前を高氏軍が素通りするシーンがあるが忠顕は甲冑を着た後姿のため本木雅弘が演じてない可能性がある。建武新政では阿野廉子派に属して坊門清忠らと密談、尊氏に対してはしばしば敵意を見せていた。第31回で尊氏が中先代の乱平定のために無断で出陣するのを誰かに討たせようと主張する場面が出番の最後。その戦死は全く描かれず、第37回の佐々木道誉のセリフで「千種殿も露と消えた」と言及されるだけの退場となった。
その他の映像・舞台1924年(大正13)に制作された日活の無声映画「桜」は劇中劇に児島高徳の「桜の木」の伝説をとりこんでおり、この中で「六条忠顕」が中村仙之助に演じられて登場している。
歴史小説では高橋直樹『異形武夫』収録の一篇が千種忠顕を主役とした異色作。忠顕を伝説の英雄ヤマトタケルに憧れる武士的性格の公家として描き、その若き日の遊び人時代から戦死までをダイジェストでまとめている。
山岡荘八『新太平記』では新田義貞と勾当内侍をとりもとうとして自ら恋の歌を代作したりする。
PCエンジンCD版丹波の南朝方独立君主として登場、初登場時のデータは統率82・戦闘71・忠誠78・婆沙羅48で、南朝方武将にしては婆沙羅が高めなのはやっぱりというところ。
PCエンジンHu版シナリオ1で登場し、なぜか延暦寺に拠点を置いている。能力は「長刀2」とかなり弱い。
メガドライブ版宮方武将として京都の攻防で登場。能力は体力90・武力75・智力110・人徳88・攻撃力73。  
SSボードゲーム版公家方の「武将」クラスで、勢力地域は「北畿」。合戦能力1・采配能力3とかなり低評価。ユニット裏は息子の顕経。

千種雅光
ちぐさ・まさみつ?-1420(応永27)
親族父:中院光興 養父・中院光顕・千種雅光 
養子:千種光清
官職参議・権中納言
位階正四位→従三位
生 涯
―南北朝合一後の千種家―

 南朝の権大納言・千種顕経の子として千種家を継いでいるが、親戚筋の中院家からの養子である。『尊卑分脈』によれば中院光興の実子で、中院光顕の猶子にもなっているという。彼がいつ、いかなる事情で南朝の廷臣の養子になったのかは不明。末期の南朝の事情はほとんど分からないため、雅光が南北朝合一の際に何をしていたのかも分からない。記録が残るのは南北朝合一以後の応永年間のみである。

 応永21(1414)年11月28日に参議に任じられた。翌応永22年(1415)4月に従三位に叙せられ、権利大納言まで昇って、応永27(1420)年正月29日に死去した。

千葉(ちば)氏
 桓武平氏で平将門の叔父・良文を先祖に持つ。下総・千葉に拠点を置き、代々「千葉介」を称したことから「千葉氏」と呼ばれる。鎌倉幕府創設期に千葉常胤が活躍し、下総国守護の地位を確立して房総半島の有力御家人となった。だが鎌倉幕府滅亡にあたっては倒幕戦に参加、続く南北朝時代には一族内で北朝・南朝に分かれての争いも起こった。室町時代には様々な関東の戦乱の中で次第に勢力を弱めてゆき、戦国時代には北条氏傘下に入り、北条氏滅亡と共に鎌倉以来の名族も終焉を迎えた。

平良文─忠頼─忠常─(中略)─常胤┬胤正─成胤─胤綱─頼胤┬宗胤─胤貞






└師常→相馬

└胤宗貞胤一胤










氏胤満胤










├氏光清胤→粟飯原










└胤重


千葉氏胤
ちば・うじたね1337(建武4/延元2)-1365(貞治4/正平20)
親族父:千葉貞胤 母:曽谷教信入道日礼の姪(法頂尼)
兄弟:千葉一胤・千葉胤永・千葉胤春・千葉胤矩
妻:新田義貞の娘?
子:千葉満胤・聖聡
官職下総権介(千葉介)
位階従五位下
幕府下総・上総・伊賀守護
生 涯
―少年当主があっちへこっちへ―

 千葉貞胤の次男。父の貞胤は建武の乱では後醍醐天皇方で転戦したが、建武3年(延元元、1336)10月に北陸方面へ向かう途中で足利軍に投降した。その後はしばらく京にいたと思われ、氏胤も建武4年(延元2、1337)5月11日に京都で生まれたとされている。
 貞和元年(興国6、1345)8月の天竜寺落慶供養の行列に9歳という年齢ながら「千葉新介」として参加している。これは貞胤の代理であったとみられ、従兄弟で幕府中枢にあった粟飯原清胤が後見を務めていたという。観応2年(正平6、1351)正月に貞胤が死去して15歳で家督を継いだ。

 この時期、足利幕府は足利尊氏高師直派と足利直義派に別れて争う「観応の擾乱」に突入していた。父・貞胤は師直派に属していたとみられるが、この同じ月の15日に南朝と結んだ足利直義派の軍が京へ突入すると、氏胤は直義軍に走ってしまい、その後数日の京攻防戦の末に吉良満貞・斯波高経ら直義派の武将たちと並んで入京して北陸方面への出陣もしている(「園太暦」)
 このあと高師直一族が抹殺されて直義派が勝利を得たかに見えたが、今度は尊氏が南朝と結んで反撃に出る。慌てた直義たちは京から逃げ出したが、氏胤は尊氏から声でもかかっていたのか直義らに同行せず、尊氏のもとに帰参した。間もなく関東へ逃れた直義を尊氏が追い、駿河で薩埵山の戦いを行うが、氏胤はこのとき尊氏に同行して参戦している。この戦いは尊氏側の勝利に終わり、直義派の上杉憲顕が信濃へ逃亡しようとするところを氏胤がわずかな手勢を率いて追撃、早川尻で討ち取ろうとしたが数に勝る敵にかえって包囲されてしまい、全滅の憂き目を見てしまっている(「太平記」。「一人も残さず討たれけり」とあるが、少なくとも氏胤は無事だったはず)
 その直後に南朝の宗良親王新田義宗・上杉憲顕らを率いて攻勢をかけ、尊氏と笛吹峠の戦いを行うが、氏胤はこの戦いにも尊氏側で参戦して勝利に貢献している。

 かくして着実に地位を確立していった氏胤だったが、文和4年(正平10、1355)に上総守護職を佐々木道誉に奪われると激しく抵抗、下総・上総の道誉所領の代官を追い払う実力行使を行った。道誉はこれを「押領」と訴え、尊氏は道誉を支持して氏胤を従わせようとしたが、氏胤だけでなく上総国内の地頭たちも道誉の支配に抵抗した。
 そのせいか貞治元年(正平17、1362)に氏胤は上総守護職を取り戻すのだが、わずか2年後の貞治3年(正平19、1364)に上総守護は世良田義政に移った。そして鎌倉・浄光明寺の上総にある領地を氏胤が押領しているとして鎌倉公方の足利基氏から返還を命じられている。

 翌貞治4年(正平20、1365)に氏胤は京都滞在中に病を得て、関東に帰る途中の美濃国で重態となり、9月13日に死去した。まだ29歳の若さであった。歌人としては優秀で、『新千載和歌集』にも多くの歌が入選している。

参考文献
webサイト「千葉一族」内の「千葉氏胤」のページ→リンク
千葉氏全体について詳細に解説したサイトで、他の千葉一族についても参考にしてますが、特に氏胤については他ではなかなか見られない原資料つきの情報量で大いに参考にさせていただきました。
SSボードゲーム版父・千葉貞胤のユニット裏。中立の「武将」クラスで、勢力地域は南関東。合戦能力1・采配能力2

千葉一胤
ちば・かずたね?-1336(建武3/延元元)
親族父:千葉貞胤 
兄弟:千葉氏胤・千葉胤永・千葉胤春・千葉胤矩
官職下総権介(千葉新介)
生 涯
―あっけなく戦死した貞胤嫡男―

 千葉貞胤の長男。「高胤」とも名乗ったとされるが、これは北条高時の一字を与えられたもので、鎌倉幕府滅亡後に改名したのだろう。『太平記』で「千葉新介」と書かれているので建武政権期には次期当主の座は確定していた。一胤は父に従って鎌倉攻めや新田義貞軍に参加しての足利尊氏討伐軍に加わっていたと見られる。
 建武3年(延元元、1336)正月、建武政権に反乱を起こした足利尊氏の軍が京を占領し、それを討つべく北畠顕家の軍勢が奥州から京へと迫った。千葉貞胤・一胤父子はこの顕家軍に合流し、正月16日に足利軍が拠点とする園城寺(三井寺)へ一番手に突入した。しかし多勢に無勢で、半時(一時間)ばかり戦った後に足利方の細川定禅が率いる四国勢に包囲されて一胤はあえなく討ち取られてしまった(「太平記」)
 一胤の戦死により、千葉氏の家督は彼の戦死後に生まれた弟の氏胤に引き継がれる。

千葉貞胤
ちば・さだたね1291(正応4)-1351(観応2/正平6)
親族父:千葉胤宗 母:金沢顕時の娘
妻:曽谷教信入道日礼の姪(法頂尼)
子:千葉一胤・千葉氏胤・千葉胤永・千葉胤春・千葉胤矩
官職下総権介(千葉介)
位階従四位下
幕府下総・伊賀・遠江守護
生 涯
―動乱に翻弄された千葉家当主―

 平安以来、代々「千葉介」称号を継承した下総国の有力豪族・千葉氏の第11代当主。南北朝動乱の前半期に巡り合わせ、変転常なき動乱にまさに翻弄されたような人生を送った人物である。正和元年(1312)に父・千葉胤宗の死を受けて家督を継いだ。
 元弘元年(元徳3、1331)に後醍醐天皇が倒幕の挙兵をし、楠木正成がこれに呼応して赤坂城に兵を挙げると、幕府は大軍を畿内に派遣した。このとき千葉貞胤もその一員として大仏貞直らに率いられて畿内へ出陣した。後醍醐がこもる笠置山が陥落すると同年10月15日に幕府軍は四軍に分かれて赤坂城攻撃にかかり、貞胤は男山八幡から北河内の佐良良(さらら)を通るルートの第二軍に属し、伊賀国守護の立場で伊賀勢も率いて進軍している(光明寺残篇)
 翌年(1332)3月に後醍醐天皇が隠岐に配流されることとなり、そのまま京都に在留していた貞胤は佐々木道誉らと共に後醍醐を隠岐へと護送する役目を任された。またその直後の5月に後醍醐側近で流刑とされた花山院師賢を千葉の地に預かっている。この年の10月に師賢は急死しており、時期的にも幕府の密命で貞胤が暗殺した可能性も考えられている。
 しかし世の移ろいは激しかった。翌元弘3年(正慶2、1333)5月に足利高氏が幕府に反旗を翻して六波羅探題を攻め落とし、それと呼応するように上野で新田義貞が挙兵、たちまち大軍となって一路鎌倉を目指した。恐らく千葉一族にも倒幕派から呼びかけがあったものとみられ、貞胤は鎌倉に迫る義貞に呼応して挙兵し、鶴見付近で金沢貞将率いる幕府軍を撃ち破った。

 鎌倉幕府が滅びると、貞胤は京に上った。建武元年(1334)12月に宮中で安鎮法を修したとき、貞胤は南庭左方の警備を任されていたが、同じ南庭に配置された三浦高継と同等とされたことに不満でお互いに張りあって出仕しなかったとの逸話が『太平記』にある。
 建武2年(1335)に足利尊氏が鎌倉で建武政権からの離脱の姿勢を明らかにすると、後醍醐は新田義貞を主力とする足利討伐軍を派遣、貞胤もこれに加わった。この討伐軍は連戦連勝で東海道を下ったが、12月に箱根・竹之下の戦いで完敗、今度は足利軍に追われるようにして京へと舞い戻ることになる。
 この戦乱は貞胤の本国・下総でも大きな余波をもたらした。もともと千葉一族内では本家の貞胤と、その従兄弟で庶系の千田胤貞(香取郡千田荘に本拠を置く)との主導権争いがあり、胤貞は一貫して足利尊氏軍に加わっていたため、建武2年(1335)には貞胤の拠点・千葉館と胤貞の拠点・千田荘がそれぞれ相手方の攻撃を受ける、いわば「代理戦争」が起こっている。貞胤・胤貞は従兄弟同士で足利・新田軍についてこの一年ほど列島各地で戦うことになる。

 建武3年(延元元、1336)正月、足利軍は京に入り、後醍醐方と激闘を繰り広げた。正月16日の合戦では貞胤の息子の千葉新介・一胤(高胤とも)細川定禅の軍との戦いで戦死している。激戦の末に2月に足利軍は敗北して九州まで逃れるが(千田胤貞はこれにも同行している)、間もなく九州を平定して再び京目指して東上、5月に湊川の戦いに勝利して再び京に入った。千葉貞胤は後醍醐につき従って比叡山にたてこもり抵抗を続けたが、10月に後醍醐が尊氏との和議に応じて下山、この際に新田義貞に恒良親王を奉じさせて北陸に向かわせることになり、貞胤もこれに同行することになった。
 しかし一行は木目峠越えで大雪に見舞われ、しかも足利方の斯波高経軍の襲撃もあって過酷な状況に陥った。千葉貞胤一行も雪に阻まれて道に迷い、味方にはぐれたあげく斯波軍の目の前に飛びこんでしまう。もはやこれまでと自害を決意した貞胤らだったが、高経から「弓矢の道は今はこれまで(武士どうし十分戦ったではないか)」と丁重に投降を呼びかけられ、ついに降伏した。なお、ライバルであった千田胤貞はこの年11月に三河で病死し、千葉一族の内戦は自然消滅する形となった。

 その後しばらく動静がみられないが、貞和4年(正平3、1348)正月の四条畷の戦い高師直率いる幕府軍で参加、楠正行率いる南朝軍と激闘し、これを撃ち破っている(「太平記」)
 翌貞和5年(正平4、1349)8月の高師直一派による足利直義失脚を狙ったクーデター騒ぎに際して、師直陣営に駆けつけた武将のなかに貞胤の名がある(「太平記」)。一族の粟飯原清胤も直義の近くにありながら師直に通じており、千葉一族としては情勢をうかがいながら両派の間を巧みに遊泳していたのではないかとみられる。
 その後、足利幕府は「観応の擾乱」と呼ばれる深刻な内戦に突入するが、その混乱のさなかの観応2年(正平6、1351)正月元旦に千葉貞胤は京都において61歳で死去した(「常楽記」)

参考文献
「千葉県の歴史」(山川出版社)ほか
大河ドラマ「太平記」ドラマ本編への登場はないが、第44回「下剋上」の回で高師直邸に集まった武将の中に「千葉介」として言及されている。
歴史小説では登場はごくわずかだが、後醍醐天皇の隠岐配流の護送をしたことで名前が出ることがある。
PCエンジンCD版房総の南朝方独立君主として登場、初登場時のデータは統率63・戦闘52・忠誠24・婆沙羅72で、説得工作で鞍替えを起こしやすい君主の一人。
PCエンジンHu版シナリオ2で登場、下総の小御門城に拠点を置いている。能力は「弓2」
メガドライブ版宮方武将として、「足利帖」では京都攻防戦で、「楠木・新田帖」では鎌倉攻略、矢作川、手越河原合戦で登場する。能力は体力55・武力61・智力64・人徳56・攻撃力39。  
SSボードゲーム版中立の「武将」クラスで、勢力地域は「南関東」。合戦能力1・采配能力3とかなり低評価。裏は息子の氏胤。

千葉満胤
ちば・みつたね1359(延文4/正平14)-1426(応永33)
親族父:千葉氏胤 母:新田義貞の娘?
子:千葉兼胤・馬加康胤
官職下総権介(千葉介)
位階従五位下
幕府下総守護
生 涯
―上杉禅秀の乱に加担―

 千葉氏胤の嫡男で、幼名は竹寿丸。貞治4年(正平20、1365)9月に父の急死を受けて7歳で家督を継いだが、将軍・足利義詮は幼い竹寿丸をよく補佐して下総統治を行うよう、千葉家臣たちに命じる御教書を出している。しかしこのころから下総では千葉一族の庶流「千葉六党」や、家臣クラス中小武士が一揆を汲むなどして、千葉宗家に対抗する事態が多発し、千葉氏ゆかりの香取神社の所領をめぐっても紛争が続いた(「貞治・応安の相論」)
 こうした紛争には鎌倉公方・足利氏満が裁定に入ることもあった。永徳元年(弘和元、1381)に小山義政の乱が起こると、氏満の命令で満胤は小山討伐に出陣している。

 応永6年(1399)、氏満の次の鎌倉公方・足利満兼は関東の態勢固めを狙ってか、関東の有力氏族・千葉・佐竹・小山・結城・宇都宮・小田・那須・長沼の8家を「関東八屋形」を定めた。中でも千葉氏は高い格を与えられ、鎌倉公方の侍所頭人をつとめるなど、関東の政治において重要な位置を占めるようになった。その一方で一族の庶流や家臣筋との結びつきは次第に弱まり、下総に対する支配力は失われていった。

 応永23年(1416)8月、いわゆる「上杉禅秀の乱」が起こると、満胤は息子の兼胤が禅秀の娘を妻に迎えていた関係から禅秀に味方して鎌倉公方・足利持氏の追放に加担した。しかし間もなく将軍・足利義持が持氏支援の大軍を関東へさし向け、満胤は善戦するも敗北し、禅秀ら首謀者は自害して果てたが満胤は降伏。満胤は命は助けられたが千葉氏当主の地位は追われ、引退に追い込まれた。引退以後は「千葉大介」と呼ばれたという。
 およそ10年後の応永33年(1426)6月8日に68歳で死去した。

参考文献
「千葉県の歴史」(山川出版社)ほか

忠円
ちゅうえん
生没年不詳
親族父:広橋兼仲?
生 涯
―元弘の変で捕縛―

 比叡山、および浄土寺にあった高僧。「仲円」と表記されることもある。『内証仏法血脈譜』に「平中納言兼仲息」とあり、権中納言広橋兼仲の子の可能性がある。『太平記』では天台座主にもなった浄土寺の慈勝大僧正の門弟としているが、実際には遍照光院僧正・隆禅の弟子で慈勝とは兄弟弟子関係であったらしい。忠円自身も遍照光院僧正と呼ばれている。
 『太平記』の記述によれば比叡山でも第一とされるほどの碩学で、比叡山で行われる供養では指揮役をつとめていたという。二条道平花園上皇の日記では「正中の変」前後に宮廷の仏事によく顔を出していたことが知られる。嘉暦元年(1326)に行われた、中宮の安産祈願にかこつけた幕府呪詛の祈祷にも参加していことが史料的に確認できる。
 元徳3=元弘元年(1331)5月に後醍醐天皇による討幕計画が再び発覚した際、円観文観ら幕府呪詛を行ったとされる僧たちと共に六波羅探題に逮捕された。『太平記』では忠円自身は呪詛には参加していなかったが、後醍醐に近い立場にあって仏教界に顔が広く、陰謀について知らないはずがないというのが逮捕の理由であったとされる(前述のように実際には呪詛に関与した可能性が高い)
 忠円は円観・文観と共に鎌倉に送られ、足利貞氏(尊氏の父)の屋敷に預けられた。『太平記』によると忠円は元来臆病な性格であったため拷問されそうになるとたちまち後醍醐の陰謀についてすべて白状してしまったという。幕府は忠円を越後国へ流刑にしたというが、その後の消息は不明である。

 『太平記』巻25では、「観応の擾乱」の前触れとして仁和寺に護良親王ら南朝方の怨霊が集まり世を乱す陰謀を語る逸話があり、ここで忠円は峰僧正春雅智教上人(尊鏡)と共に天狗の姿になって登場、怨霊たちがそれぞれに幕府の有力者にとりついて世を乱そうと提案している。忠円自身は高師直高師泰兄弟の心にとりついて足利直義と争わせたことになっている。こうした描写からすると、忠円は配流先の越後で死去したということだろうか。
歴史小説では
吉川英治『私本太平記』では、忠円が足利屋敷に預けられているため主人公の高氏(尊氏)と話しこむなど若干の出番がある。越後に流される際も足利家の者が護送に加わったことになっている。

仲猷祖闡ちゅうゆう・そせん生没年不詳
生 涯
―明から派遣された使僧―

 明から日本への使者に立てられた禅僧。浙江省・鄞の出身で、陳姓の人であったという。若い頃に慈谿の永楽児で出家、径山の元叟行端の法を嗣いで、永楽寺や嘉興府・天寧禅寺の住持をつとめた。
 1371年(洪武4、、応安4/建徳2)10月、懐良親王と思われる「良懐」が使僧・祖来を明へと派遣し、貢物を納め倭寇による被虜者を送還した。洪武帝(朱元璋)はこれを喜んで「良懐」を「日本国王」に冊封し、天下に高僧を求める詔に応じて上京した天寧禅寺の住持・仲猷祖闡と、金陵(南京)の瓦官教寺の住持・無逸克勤を「良懐」への冊封使として派遣することにした。彼らは明の大統暦と文綺・紗羅等の物品をたずさえ、日本の留学僧・椿庭海寿と杭州天竺寺の蔵主・権中中巽の二人を通事(通訳)および案内役として、翌1372年(洪武5、応安5/文中元)5月21日に寧波から出航した。5月25日に五島に到着、5月30日には博多に入った。

 しかし博多に着いてみると、その地は「良懐」こと懐良親王の支配下にはなく、幕府から九州平定に派遣された探題・今川了俊が制圧した直後だった。明使一行は了俊によって拘束され、博多の聖福寺におよそ一年とどめられた。当時幕政を仕切っていた管領の細川頼之は、彼らが正式な国書を持たず、また一介の僧侶が大国の正使になれるのかと疑いを抱いていたという。
 この一年のうちに日本の南北朝動乱の複雑な事情を知った彼らは、日本禅宗界の大物である春屋妙葩や、天台座主の尊道入道親王に書状を送って北朝および幕府への仲介を求め、その甲斐あって翌1373年(洪武6、応安6/文中2)6月29日に京都・嵯峨の向陽庵に入った。そしてその二カ月後の8月29日に将軍・足利義満と対面する。
 義満は仲猷祖闡が気に入ったらしく、日本に残って天竜寺の住持にならないかと誘ったという(一説に、細川頼之に政敵の春屋妙葩一派の天竜寺入りを阻止する狙いがあったともいう)。しかし仲猷祖闡は使者として派遣された立場でもあったのでこの誘いを断り、帰国の道を選んだ。義満は帰国する彼らに、返礼使として聞渓円宣子建浄業喜春らを同行させた。

 仲猷祖闡らはこの年10月までに九州にくだり、彼らより先に来日していた明使・趙秩と博多で合流した。春屋妙葩とのやりとりから翌年の4月11日までは日本にいたことが分かる。1374年(洪武7、応安7/文中3)5月28日に仲猷祖闡らは南京に入って洪武帝に謁見し帰国を報告、洪武帝はその労をねぎらって白金百両に文綺などを下賜した。
 仲猷祖闡はすでに高齢であったため、洪武帝は故郷に帰って隠居することを認めた。彼は故郷の永楽寺に庵を構えて隠居し、音楽や詩作で文人たちと交わりながら悠々自適の晩年を送ったという。

参考文献
宋希m著・村井章介校注『老松堂日本行録・朝鮮使節の見た中世日本』(岩波文庫)
蔭木原洋「(研究ノート)洪武帝期・日中関係研究の動向と課題」
漫画作品では石ノ森章太郎の『萬画日本の歴史』の義満を扱った一冊の冒頭部分、日明交渉の始まりを描く部分で登場している(ただし明使二人まとめての登場でどちらがどちらなのか分からない)。博多に上陸して「日本国王・懐良さまに会いに来た」と話したとたんに拘束されている。

長慶天皇ちょうけい・てんのう1343(康永2/興国4)-1394(応永元)
親族父:後村上天皇 母:嘉喜門院(勝子?)
兄弟:後亀山天皇・惟成親王・護聖院宮(説成親王)・良成親王
后妃:西園寺公重の娘ほか
子:玉川宮・尊聖・承朝・行悟・世泰親王
立太子不明
在位(南朝第3代)1368年(応安元/正平23)3月〜1383(永徳3/弘和3)
生 涯
―謎に満ちた南朝第三代天皇―

 名は「寛成(ゆたなり)」といい、南朝二代目の後村上天皇二条師基の養女とされる嘉喜門院(勝子?)の間に生まれた第一皇子とされる。南朝は劣勢に追い込まれてから後世に残った史料がすこぶる乏しいため、長慶の生まれ育った経緯やいつ太子になったか、さらにはいつ即位したかもはっきりしない。そもそも彼が南朝で天皇に即位した事実があったかどうかすら近世以来論争になっていたほどで、その即位が確認され歴代天皇に正式に加えられたのは大正時代のことであった。

 南朝自身が記録を残していないため、南北朝時代後半の南朝事情は京都や奈良に伝わって来て記録された間接的な情報でしかない。長慶の生年も死去時の享年から逆算されるものである。後村上の皇子については洞院公賢の日記『園太暦』観応3年(正平7、1352)5月25日条に、後村上が「三歳の皇子」に譲位して自ら出陣するらしいとの噂を記しているが、この「三歳の皇子」は長慶ではありえない(すでに長慶は10歳になっている)。その弟、のちの後亀山であった可能性が高いが、なぜ長子の長慶ではなくその弟に譲位しようとしたかが問題になる。あるいは長慶と後亀山は実際は生母が異なり、長慶の母は身分が低かったのだろうか。
 後村上天皇が正平23年(応安元、1368)3月11日に住吉の行宮で死去したことも北朝公家の日記や室町幕府の記録で知られる。だがそれらの記録も後村上のあとを誰が継いだか記していないため長慶がいつ即位したかは判然とせず、便宜的に後村上死去の直後もしくは直前と考えるのが一般的。もっと早く正平20年ごろではなかったかという推測もあるという。

 長慶の即位と共に、それまで不成功に終わりつつも断続的にあった南朝と北朝の講和交渉(実質は南朝と室町幕府の和睦)が途絶え、南朝における最大の軍事力であると同時に最大の講和派であった楠木正儀が幕府に投降して逆に南朝を攻めてくるという事態が起こる。このため長慶はすこぶる強硬な主戦派であったとみられている。
 楠木正儀の離反により長慶は南朝の拠点を住吉から天野、さらに吉野に移した。軍事的にはいっそう劣勢となった南朝だが、南畿山間部を中心になおあなどれない支持基盤を持っており、幕府もこれを完全に根絶することはできなかった。唯一南朝方が勢いを持っていた九州の懐良親王との連絡はよくとれていたようだが、その懐良も文中元年(応安5、1372)に幕府の攻勢の前に大宰府を失陥し勢いを失ってゆく。

 朝廷には政治権力機能とは別に「文化の主導者」としての機能も大きい。弱小地方政権となった南朝だが定期的に歌会が開かれていたし、文中3年(応安7、1374)には信濃から歌人である宗良親王が帰って来て南朝歌壇を盛り上げ、宗良により南朝ゆかりの人々の和歌を集めた「新葉和歌集」の編纂が始められている。この新葉和歌集は弘和元年(永徳元、1381)に完成して長慶により勅撰に准じることが決まるが、勅撰和歌集自体が政権の正統性を訴えるアイテムでもあるのがこの時代だった。なお長慶在位中に編纂されたことから「新葉和歌集」にある「御製」の歌は全て長慶自身の作ということになるのだが、長慶非即位説や長慶の在位期間を短く取る説ではこれらは後亀山の作ということにされている。
 天授2年(永和2、1376)には宗良親王や花山院長親らと千首の和歌を詠み、これは『長慶院御千首』としてまとめられた。また和歌だけでなく古典研究に熱心で、『源氏物語』の注釈書「仙源抄」を著している。これは「源氏物語」に出てくる難解な言葉を「いろは」別に分類して過去の注釈書を参照して解説したもので、「日本最古のかな引き国語辞書」との評価まである。このほか朱熹『孟子集註』藤原明衡『雲州往来』藤原頼長『台記』の研究を行ったことが知られる。

 長慶がいつ退位したかについても諸説ある。長慶の在位が確認されて以来、弘和3年(永徳3、1383)に弟の熙成親王(後亀山天皇)に譲位したとするのが通説だが、室町幕府の記録『花営三代記』の文中2年(応安6、1373)8月2日条に「南朝の天皇が弟宮に譲位し、三種の神器を持って吉野に没落した」との情報が入ったことが記されており、十年さかのぼったこの時点で譲位したとの説も存在する。
 退位の事情についても様々な憶測がある。強硬派の長慶に対し、後亀山は講和姿勢であったとされ、両者の間に確執があった可能性も指摘される。長慶の退位の直前に楠木正儀が南朝に復帰(彼の後援者だった細川頼之が康暦の政変で失脚したためでもある)しており、南朝内で後亀山を擁する講和派が強硬派より優勢になったとの見方もある。元中2年(至徳2、1385)9月10日付で高野山丹生社に奉納された長慶直筆の願文(彼の直筆で唯一現存する文書)「発願の事、今度の雌雄思ひのごとくんば、ことに報賽の誠をいたすべき(今度の対決が思い通りにいったら重く恩返しをいたします)」との文言があり、これを北朝・幕府との対決ととる説と、後亀山ら講和派との対決ととる説とがある。

 退位後も上皇として院宣を出すなど一定の影響力を持っていた時期もあるが、元中3年(至徳3、1386)4月5日付の院宣を最後に長慶の消息は途絶えてしまう。吉野からも離れていたのか、元中8年(明徳2、1391)には後征西将軍宮(長慶の弟・良成親王とみられる)ですら長慶がどこにいるのか分からないという内容の書状を残している。
 その翌年、明徳3年(1392)10月28日に後亀山天皇は廷臣達と共に吉野を出発し、11月に京都に入って三種の神器を北朝側に引き渡した。この「南北朝合体」により南朝の歴史は終わった。だが後亀山の一行の中に長慶の姿はなかった。
 長慶が死去したのは南北朝合体から二年近く後の応永元年(1394)8月1日とされる。『大乗院日記目録』のこの日付に「大覚寺法皇、崩ず。五十二、長慶院と号す」とあり、これが長慶の死去とその追号、そしてその享年から生まれた年を知ることができる史料となっているのだが、その逝去の場所については不明である。結局京に入って死去したとする説と、紀伊もしくは和泉で死去したとする説とがある。

 江戸時代になってから「南朝正統論」が高まって来ると、この「長慶天皇」が即位したのかどうかが重大な問題となった(長慶が即位するしないで歴代天皇数も変わってしまう)。南朝正統を掲げた「大日本史」では長慶即位説をとったが、「群書類聚」を編纂した塙保己一のように非即位説をとる意見も強かった。しかし決定打となる史料を欠き、論争は明治以後までもつれこんでいる。
 大正に入って八代国治が長慶即位を裏付ける新史料を発見して研究を進め、大正5年(1916)に長慶即位を断定する論文を発表、これが広く受け入れられたことから大正15年(1926)10月21日に「長慶天皇即位確認」の詔書が出されて公式に確定した。あと2ヶ月で昭和に突入するという段階でようやく歴代天皇数が確定したわけだが、そもそも現在の天皇家は北朝系の子孫であり、明治になるまでは南朝天皇など歴代天皇に入れていなかったのだ。
 長慶即位が確定したことでその陵墓の治定作業が始まった。しかし長慶がどこで死んだかは全く分からず、全国にさまざまな候補が挙がったが、結局は京に入った可能性が高いこと、息子の承朝が天竜寺慶寿院に入っていること、長慶の別称が「慶寿院」であったことなどが決め手とされ、慶寿院の跡地に「嵯峨東陵」が作られたのは昭和19年(1944)になってからであった。
 このように謎に満ちた長慶天皇という存在はオカルト的にも魅力があったようで、昭和に入って古史古伝「竹内文書」で有名になる天津教の教祖・竹内巨麿は「長慶太神宮御由来」とか「長慶天皇御真筆」などというものまで所有していた(「御真筆」の方は、やはり彼が所有していた「後醍醐天皇御親筆」と同一人のものと筆跡鑑定されている)

参考文献
森茂暁『南朝全史・大覚寺統から後南朝へ』(講談社選書メチエ)
杉田幸三「長慶天皇」(「歴史と旅」臨時増刊「太平記の100人」所収)
河内祥輔・新田一郎「天皇と中世の武家」(講談社「天皇の歴史」04)
『南北朝史話100話』(立風書店)ほか
その他の映像・舞台1983年のテレビアニメ「まんが日本史」の第26回「南北朝の統一」で登場しており、矢田耕司が声を演じている。

澄俊
ちょうしゅん
生没年不詳
親族安居院憲実
生 涯
―宗良親王の執事―

 比叡山の僧。祖先は平治の乱で殺された信西で、その子で唱導の名人と言われ「安居院(あぐい)法印」と号した澄憲の四代の孫にあたる。この安居院法印の地位は実子による世襲になっていて、澄憲の子が聖覚、聖覚の子が隆承、隆承の子が憲実で、澄俊はこの憲実の子である。彼自身も「安居院中納言法印」と呼ばれており、大僧都を務めている。元亨3年(1323)に鎌倉円覚寺で催された北条貞時十三回忌供養にも参列、第三座の講師を務めてその語りに満座が感激、「世にまれな才というべし」と湛えられている。
 『太平記』には彼が大塔宮尊雲(護良親王)の執事をしていたと記されているが、大塔宮の執事は実際には殿法印良忠で、澄俊自身は護良の兄弟で同じく天台座主となった妙法院宮尊澄(のちの宗良親王)の執事を務めていたと思われる。
 元弘元年(元徳3、1331)8月末に後醍醐天皇が挙兵し、後醍醐になりすました花山院師賢が比叡山に入ったため比叡山の僧兵たちはこれに味方して六波羅軍と戦った。ところが師賢の正体が暴露されたため比叡山全体が心変わりし、以前から六波羅に通じていた悪僧の豪誉が澄俊を捕まえて六波羅に送り届けてしまった
「太平記」)
 『太平記』流布本では笠置山陥落の際に捕らえられた者の中にも澄俊の名を挙げているが(ここで「妙法院の執事」と書かれる)、すでに比叡山で捕縛されていたとする記述に矛盾する。いずれにしても六波羅探題に捕らえられ、流刑処分にでもされたと思われるが、それを示す史料はなく、その後の動向は不明である。

趙秩ちょう・ちつ生没年不詳
生 涯
―「良懐」を説得した明の使者―

 字(あざな)は「可庸」。杭州銭塘の出身で、元代の有名な文人・趙孟頫の子孫だと言われている。前歴はほとんど不明で、洪武帝(朱元璋)により明が建国されるとその官僚となり、山東省・莱州の同知(副知事のようなもの)となった。この山東の地も元末明初の倭寇の襲撃を受けており、倭寇対策を目的とした日本への使者派遣に彼が任命されたのもそれと関係があるのかもしれない。

 洪武帝は即位するとすぐに日本に使節を派遣しており、1369年(洪武2、応安2/正平24)に派遣された楊載は九州に到達してこの地の支配者である「良懐」に会ったが、一行の多くを殺されたあげく追い返されていた。この「良懐」は当時九州を支配していた南朝の懐良親王のこととみられ、倭寇の出発地である九州を支配していることから明側では彼を日本の支配者であり、交渉相手とみなすことになる。

 翌1370年(洪武3、応安3/建徳元)3月に、洪武帝はさらに趙秩を使者に選び、懐良のもとへ派遣した。懐良は趙秩が、元寇のうち「弘安の役」の直前に使者として来日し処刑された趙良弼と同姓であったため、その一族かと疑ってすぐに殺そうとした。しかし趙秩は懐良の意図を察し、元はすでに追われて明が成立したことを説明、明は強力な国家で怒らせると大変なことになるぞと脅しもした。これを聞いた懐良は態度を改め、自ら堂をおりて趙秩を丁重に遇した(「明太祖実録」)
 趙秩の説得を受けて懐良は明と交渉をする気になり、1371年(洪武4、建徳2、応安4)10月に僧・祖来を使者とし、貢物や倭寇の被虜者70名などを明へと届けさせた。趙秩がこれに同行したかどうかは史料的には不明だが、使者として皇帝に報告する義務があったであろうし、翌年に「良懐」を「日本国王」に冊封するため派遣された仲猷祖闡らの使節に案内役として参加した可能性はある。いずれにしても1373年以後にも趙秩が日本に滞在していたことは確実である。

 1373年(洪武6、応安6/文中2)8月1日、趙秩は周防の山口から、丹後・雲門寺の春屋妙葩のもとへ書状を送っている。もともと日本の臨済宗で絶大な権勢を持っていた春屋だが、このころ管領の細川頼之と対立して雲門寺に隠れ住んでいたのだった。春屋の文人としての名声は明でも知られていたようで、趙秩は幕府との交渉の仲介も念頭にこれ以前から春屋と文通を始めたと見られる。この時の書状のなかで趙秩は自分が周防の守護・大内弘世のもとに身を寄せて使命を果たそうと努力していることを伝え、、春屋から金銭を送ってもらったことへの感謝も述べている。これらのやりとりから趙秩には周本という同行者がいたこともわかる。
 趙秩と春屋の文
、通は彼の帰国まで続き、その時に交わした詩文は春屋の『雲門一曲』に収録され、その序も春屋の弟子・梅岩昌霖が直接山口を訪ねて趙秩に書いてもらっている。また一年ほどの山口滞在中、趙秩は大内弘世の依頼で山口の名所を詠み込んだ『山口十境詩』も作った。この詩は現在でも山口で親しまれている。

 春屋とのやりとりによると、この年の11月には趙秩は帰国のために博多に行き、京から戻って来た仲猷祖闡らと合流して風待ちをした。1374年(洪武7、応安7/文中3)4月11日付で趙秩から春屋への最後の返信が送られているので、それから間もなく出航したと思われる。仲猷祖闡らは5月に洪武帝に謁見しているが、趙秩については記録がなく、その後の彼の人生については何も分からない。

参考文献
鄭樑生『明・日関係史の研究』(雄山閣出版)ほか
漫画作品では石ノ森章太郎の『萬画日本の歴史』の義満を扱った一冊の冒頭部分、日明交渉の始まりを描く部分で登場、懐良親王に対して「大きな後ろ盾が得られる」と明との「安全保障条約」締結を勧めたように描かれている。

陳宗敬ちん・そうけい生没年不詳
親族子:陳宗寿
生 涯
―元祖・陳外郎―

 元から日本へ帰化し、その子孫が名乗る「陳外郎(ちん・ういろう)」の祖とされる人物。「宗敬」は法名、もしくは字(あざな)であり、その本名については「順祖」とするものと「延祐」とするものとがある。ここでは便宜的に「宗敬」で統一する。
 浙江・台州の出身で、元末の群雄・陳友諒の一族であったという。宗敬は元で「員外郎」という官職にあったとされ、これが子孫たちの「外郎(ういろう)」という中国風の呼び名の由来となる。子孫たちにより宗敬は「大医院の礼部員外郎」とかなり高い地位にあったように喧伝されたが、「員外郎」は本来「定員外」の役人のことで富裕な者がなることが多く「旦那様」「お大尽」くらいの意味でしかなく(「水滸伝」でも用例がある)、実際にはそれほど高い地位にいなかった可能性が高い。ただその後の経緯からすると医術に優れていたのは事実かもしれない。

 陳友諒は元末群雄の中の有力者だったが1363年にライバルの朱元璋に滅ぼされた。やがて朱元璋が明を建国することになるが、陳一族である宗敬は日本への亡命の道を選び、博多に在住した。この時すでにその名声を聞きつけて足利義満が京に招いたが断ったとする話もあるが定かではない。博多では出家して崇福寺に入り、禅僧・無方宗応に弟子入りした(「宗敬」が法名だとすると師から一字を授けられたと推測される)
 日本に来てから妻をめとり、息子の陳宗寿をもうけている。この宗寿が本格的に名医・陳外郎になるのだが、陳外郎家ではあくまで宗敬を第一世としている。

参考文献
藤原重雄「陳外郎関係史料集(稿)・解題-京都陳外郎を中心に-」(東京大学日本史学研究室紀要)

陳宗寿ちん・そうじゅ生没年不詳
親族父:陳宗敬 子:平方吉久・月海常祐
生 涯
―名医・陳外郎の登場―

 元からの帰化人・陳宗敬(順祖もしくは延祐)の子。「宗寿」は法名で、無方宗応に弟子入りして「大年宗寿」と号していたとされる。公家の吉田兼熙の日記に「日本で生まれた」と書かれているので、父が亡命した時期から推測して1370年代の生まれと考えられる。
 父の宗敬は足利義満に上京を誘われたが断り、息子の宗寿が京に上って義満の外交・貿易のブレーンになったようである。名医としても評判だったようで、史料上の初見である『吉田家日次記』応永9年(1404)2月26日の条でも「医道が抜群だと人々が噂しているので招いた」という吉田兼熙の記述がある。その条では「陳外郎(ういろう)」こと宗寿についてやや詳しい記述があり、「唐人の子である。日本で生まれながら父の名をとって外郎(異朝の官なり)と号している」とあるのでもっぱら「外郎」と呼ばれていたことが分かる。山科教言も日記『教言卿記』でも「外郎は字(あざな)である。外の発音は唐音(中国語)なのだろうか」と記されていて、当時から「ういろう」と発音していたことが分かる。

 吉田兼熙の診察で、宗寿は脈を診た上で、「秘薬」を献じている。宗寿の孫でやはり「陳外郎」を称し15世紀末に活躍した陳祖田が人に語ったところでは、宗寿は遣明船に乗って明に渡り秘薬を持ち帰ったとされている(「蔭凉軒日録」延徳2年閏8月14日条)。祖田はその年を「永楽2年・応永7年」と語ったが、永楽2年は応永11年(1404)にあたり記憶違いである。「応永7年」に遣明船は送られておらず、応永8年(1401)に祖阿肥富を送って義満を「日本国王」に冊封するきっかけとなった遣明船に便乗していた可能性がある。「永楽2年=応永11年」の遣明船とも考えられるが、応永9年の段階で「秘薬」を所持していることとの矛盾がある。もっとも彼はそれ以前から個人的に交易をして入手していたのかもしれない。

 やや時間が経って、応永27年(1420)に、いわゆる「応永の外寇」の処理のために朝鮮から宋希mが来日した。彼の日本紀行『老松堂日本行録』によると、京都で帰化中国人の魏天の屋敷に行ったところ「陳外郎」、すなわち宗寿もやって来ていて酒を酌み交わして大いに歓待している。魏天も義満の貿易・外交のブレーンであったとみられ、宗寿とは同業者として深い親交があったとみられる。
 宗寿の子が博多にいた平方吉久で、宋希mが京都での仕事を終えて帰国の途についた際には博多で彼と合流して朝鮮への使者にあっている。このことからも陳外郎家が医術のみならず貿易・外交に深く関わっていたことがうかがえる。孫の陳祖田の父については「某」と不明にする史料と「月海常祐」とする史料が併存し、吉久が月海と同一人物なのかも分からない。

 孫の祖田が活躍した時代に希世霊彦が記した『村庵藁』によると、希世は幼い時に陳宗寿を何度かその目で見たと回想している。宗寿は管領にもなった細川頼元(細川頼之の弟で養子)の屋敷に常日頃出入りしており、魁偉な容貌で、中国語をよく解する者であったという。頼元は宗寿が医術に精通していると知って、兄にして養父の細川頼之が所蔵していた『聖済総録』(宋代に作られた医学百科)全二百巻を宗寿に与えたとの逸話も紹介されている。

参考文献
藤原重雄「陳外郎関係史料集(稿)・解題-京都陳外郎を中心に-」(東京大学日本史学研究室紀要)


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