千種忠顕
| ちぐさ・ただあき | ?-1336(建武3/延元元) |
親族 | 父:六条有忠 兄:六条有光
子:千種顕経・千種具顕・千種長忠・千種忠方 |
官職 | 左近衛少将・左中将・丹波守 |
位階 | 五位→従三位→贈従二位(大正8年) |
生 涯 |
―勘当された道楽息子?―
後醍醐天皇の腹心の一人。村上源氏・六条家の出で父は権中納言を務めた六条有忠。生年は不明だが祖父・父の生年を見る限りでは1300年前後に生まれたのではないか。佐藤進一は典拠不明だが元弘元年(1331)段階で二十歳前後であったとしている。父から伊勢国三重郡千種(千草)の地を与えられたのでそれを名字として「千種」と称した。「六条少将」など六条の名字で呼ばれていることもある。
『太平記』によれば代々学問の家柄であったのに忠顕は学問を嫌い、犬追物・笠懸けといった武士の遊びやバクチ・女遊びを好んだため、このため父・有忠から勘当されたという。父・有忠は後醍醐の兄・後二条の子である邦良親王を早く皇位につけるよう幕府に運動していた人物で、有忠にとって後醍醐はいわば政敵であった。その後醍醐の寵臣になってしまった息子を許せるはずもなく、遊び呆けたからというよりそれが親子の縁を切った最大の理由であったようだ。同様のケースは日野資朝にも見られ、強烈な個性とカリスマをもつ後醍醐のもとにはこうした変わり種の個性派の公家たちが集まって来ていたようだ。
元弘元年(1331)8月に後醍醐が挙兵を決意し京を脱出、笠置山にたてこもったが、千種忠顕はこれに常に付き従った。笠置陥落後に後醍醐ともども捕えられ、佐々木道誉に身柄を預けられている。翌年3月に後醍醐が隠岐へ配流となると一条行房・阿野廉子と共に隠岐まで同行している。『新葉和歌集』に載る「都思ふ夢路や今の寝覚めまで いく暁の隔て来ぬらむ」という忠顕の歌は隠岐配流中に詠まれたと言われている。
元弘3年(正慶2、1333)閏2月24日に後醍醐が隠岐を脱出するにあたっても忠顕は同行し、渡海と名和長年への合流、船上山の戦いに至るまで危険を天皇と共にしている。船上山に入った後醍醐は各地に綸旨(天皇の命令書)を発したが、それらは「千種左中将」が奉じる形をとっている。ただし千種忠顕の名前で書かれながら実際には後醍醐自身が全て書く異例のものであったと言われる。
3月末に後醍醐は山陰・山陽の兵を集めて京へ進発させ、その総大将に忠顕が任じられた。忠顕は勇んで京へ攻めのぼったが、赤松軍との連絡が悪かったらしく、敵の夜襲を恐れて軍旗もそのままに勝手に撤退してしまったと『太平記』は伝える。『太平記』の作者はよくよく千種忠顕が嫌いだったようで、このとき忠顕が釈迦の誕生を祝う仏生日(4月8日)を攻撃日時としたことも非難するし、夜襲を恐れての撤退のくだりでは児島高徳(「太平記」にしか登場せず「太平記」作者との関係が噂される、あるいは作者を投影した架空の人物)をわざわざ登場させ、空っぽになった本陣に入った高徳が「こんな馬鹿大将など、どこぞの堀でも崖でも落ちて死んでしまえばよい!」と罵倒する場面まで作っている。
結局足利高氏の寝返りにより情勢が一変し、5月8日に忠顕は高氏・赤松円心らと共に六波羅を総攻撃した。『太平記』もこのときだけは「この城(六波羅探題)を普通の城と思ってのんびりと攻めてはならん。時間をかけては千早を攻めている幕府軍が戻ってくるぞ。全兵士が心を一つにして一気に攻め落とすのだ!」と忠顕が勇ましく兵士たちを叱咤する様子を描いている。六波羅が攻め落とされ鎌倉も陥落して、6月初めに後醍醐が京に凱旋したときに千種忠顕は千余騎を率いてこれに付き従った。
―三木一草―
建武政権が成立すると忠顕は隠岐以来の功績を認められ、恩賞として丹波国ほか大国三か国の知行および北条氏などの領地数十か所を与えられたという(『太平記』)。雑訴決断所のメンバーともなり大いに権勢をふるったというが、人々を驚かせたのは以前よりも増した豪快な遊びっぷりだった。毎日のように宴会をして何百人もの家来たちに酒食をふるまい、一度で一万銭以上を費やす、数十間もの長さの厩を建てて肥えた馬を5、60匹もそこにつなぐ、宴が終わって興が乗ると家来たちと共に馬で繰り出し、内野・北山辺りで犬追物・小鷹狩りを楽しむ、その時の忠顕の衣装は豹・虎の毛皮の行縢(むかばき・乗馬の時に下半身にはく)に金襴纐纈(きんらんこうけつ)つまり金色に輝く派手な直垂をつけるというまさに「婆沙羅(バサラ)」そのものの格好だったという。
これも『太平記』のみに書かれたことだが、当時流行の婆沙羅風流を毛嫌いしている『太平記』作者としては忠顕のふるまいに筆誅を加えざるを得なかったのだろう。これ以前の場面でも忠顕に批判的なのもそのせいかもしれない。しかし見方を変えれば忠顕は明らかに時代の最先端を過激に進んだ、武士における佐々木道誉あたりと似たタイプだったのだろう。そこが後醍醐に気に入られた理由でもあると思われる。
建武新政で栄華をきわめた者たちをまとめて「三木一草」と呼ぶ声が京童の間に広まった。「くすのき(楠木正成)」「ほうき(伯耆守名和長年)」「ゆうき(結城親光)」および「ちぐさ(千種忠顕)」のことで、共通してそれまで京の者のほとんどが知らないような「成り上がり者」たちである。家格にとらわれず天皇自ら能力のある者を抜擢するという後醍醐の政治姿勢のあらわれと言える人々であったが、家格を重視する保守的な上級貴族たちには非常に不評であり、特にこのうち唯一の公家である忠顕への批判はかなり多かったと思われる。また共に隠岐で苦労した阿野廉子との結び付きも強かったと想像され、それが彼への過分な恩賞につながったことも事実だろう。
―はかなく消える―
栄華の日々は長くは続かなかった。建武政権は混乱続きのうちに各地で反乱がおこるようになり、建武2年(1335)秋に足利尊氏が関東で背き、京へ攻めのぼった。建武3年(1336)正月、京をめぐって攻防が繰り広げられるなか、千種忠顕は突然出家した。原因は全く不明だが、やはり後醍醐の腹心であった万里小路宣房が同時期に出家しており、建武政権が崩壊しかかるなかで批判派の声が高まり「詰め腹を切らされた」のではないかという推理がある(佐藤進一「南北朝の動乱」)。
いったんは敗れて九州へ落ちた尊氏だったが間もなく巻き返し、5月に湊川の戦いに勝利して京へと攻め込んできた。後醍醐は比叡山へ難を逃れ、これに忠顕も同行した。6月5日に足利軍による比叡山への総攻撃が開始され、忠顕は尊良親王(『歯長寺縁起』は式部卿宮・恒明親王であったとする)の副将として坊門正忠らと共に比叡山の西側中腹で防戦に当たった。『太平記』によると忠顕・正忠(近衛雅忠?)らの部隊は300騎ていどで、松尾から攻め上がった足利兵たちに退路を断たれ、そのまま包囲されてあえなく全滅したという。一時の栄華の夢を見た忠顕のあまりにあっけない最期に、ここまで筆誅を加え続けた『太平記』作者は何の修飾も感想も付け加えず、淡々と「一人も残らず討たれてけり」と記すだけである。
明治以降「南朝忠臣」の顕彰が相次ぐなか、忠顕に従二位の贈位が行われたのが大正8年(1919)とやや遅いのは『太平記』の筆誅も影響したかもしれない。大正10年(1921)に京都市左京区修学院音羽谷の地に「千種忠顕公戦死之地」の碑が建てられている。
参考文献
森茂暁「太平記の群像・軍記物語の虚構と真実」(角川選書)ほか
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大河ドラマ「太平記」 | 後醍醐側近の公家の一人として登場、アイドル脱皮を目指しつつあった本木雅弘が演じた。第10回「帝の挙兵」で初登場し、後醍醐が京からの脱出を決定する場面から赤い目立つ衣装で出てくる。笠置山にももちろん同行し、笠置陥落後にさまよったあげく捕えられる場面でも一緒にいた(古典「太平記」では忠顕はいなかった)。六波羅に監禁された後醍醐の面倒を見、隠岐への配流・脱出、船上山と後醍醐ともども出ずっぱりである。千種忠顕・赤松円心の前を高氏軍が素通りするシーンがあるが忠顕は甲冑を着た後姿のため本木雅弘が演じてない可能性がある。建武新政では阿野廉子派に属して坊門清忠らと密談、尊氏に対してはしばしば敵意を見せていた。第31回で尊氏が中先代の乱平定のために無断で出陣するのを誰かに討たせようと主張する場面が出番の最後。その戦死は全く描かれず、第37回の佐々木道誉のセリフで「千種殿も露と消えた」と言及されるだけの退場となった。
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その他の映像・舞台 | 1924年(大正13)に制作された日活の無声映画「桜」は劇中劇に児島高徳の「桜の木」の伝説をとりこんでおり、この中で「六条忠顕」が中村仙之助に演じられて登場している。 |
歴史小説では | 高橋直樹『異形武夫』収録の一篇が千種忠顕を主役とした異色作。忠顕を伝説の英雄ヤマトタケルに憧れる武士的性格の公家として描き、その若き日の遊び人時代から戦死までをダイジェストでまとめている。
山岡荘八『新太平記』では新田義貞と勾当内侍をとりもとうとして自ら恋の歌を代作したりする。
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PCエンジンCD版 | 丹波の南朝方独立君主として登場、初登場時のデータは統率82・戦闘71・忠誠78・婆沙羅48で、南朝方武将にしては婆沙羅が高めなのはやっぱりというところ。 |
PCエンジンHu版 | シナリオ1で登場し、なぜか延暦寺に拠点を置いている。能力は「長刀2」とかなり弱い。 |
メガドライブ版 | 宮方武将として京都の攻防で登場。能力は体力90・武力75・智力110・人徳88・攻撃力73。 |
SSボードゲーム版 | 公家方の「武将」クラスで、勢力地域は「北畿」。合戦能力1・采配能力3とかなり低評価。ユニット裏は息子の顕経。 |