恒良親王
| つねよし・しんのう | 1325(正中2)?-1338(暦応元/延元3) |
親族 | 父:後醍醐天皇 母:阿野廉子 同母弟:成良親王・義良親王 |
立太子 | 建武元年(1334)正月24日(一説に25日) |
在位 | 建武3年(延元元、1336)10月〜? |
生 涯 |
―利発な幼皇子―
後醍醐天皇と寵妃・阿野廉子の間に生まれた最初の皇子。後醍醐の皇子たちの中で何番目なのかについては諸説あり、『太平記』は「第九の宮」とする。生年についても諸説あり、『元弘日記裏書』は元亨2年(1322)とするが、元弘2年(1332)段階で10歳未満だったことが確実であり、『増鏡』『太平記』は元弘2年に「八歳」としているため正中2年(1325)生まれが有力。
生母の阿野廉子は後醍醐の寵愛をとりわけ集めた女性であり、その長子である恒良も早くから後醍醐の期待を受けていたと思われる。元弘の乱の結果、元弘2年(正慶元、1332)3月に後醍醐は隠岐へ配流され廉子もこれに同行することになり、二人の間に生まれた恒良・成良・義良の三皇子は両親から引き離されて京・北山にある西園寺公宗の屋敷に預けられた(十歳以上の皇子は都から追われた)。
このとき「八歳の宮」である恒良が遠く隠岐にいる両親をしのんで「つくづくとながめくらして入相(いりあい)の鐘の音にも君ぞ恋しき」と和歌を詠んだ(当人の作かどうかは不明)という逸話が『増鏡』にある。一方『太平記』では同じく「八歳の宮」が中御門宣明のもとに預けられたとして、恒良が「帝が遠く隠岐へ流されるのなら、私も一緒に流してくれ」とせがんだとする。さらに隠岐へ旅立つ前の後醍醐が京・白河にいると聞いて「私を白河に連れていけ」と言う恒良に宣明が「白河は京から何百里もあるところなのですよ(東北の白河のこと)」と能因法師の歌を引いて幼い皇子をごまかそうとすると、賢い恒良はたちまち嘘を見破り、悲しみをこらえて「つくづくと思い暮らして入逢の鐘を聞くにも君ぞ恋しき」と歌った。この歌は京の人々の間で評判となり畳紙や扇に書かれ「これが八歳の宮の歌だよ」ともてはやしたと伝える。二つの逸話は歌も含めて微妙な差異があるが、当時「八歳の宮の歌」が評判になったことは事実と思われる。恒良は幼いながら賢い皇子だという評判はあったのだろう。
鎌倉幕府が倒され後醍醐が隠岐から帰還すると、苦労を共にした廉子の発言力はいっそう深まり、建武元年(1334)正月24日(一説に25日)に恒良は皇太子に立てられた。ここに大覚寺統・持明院統の両統迭立の原則も、後宇多が指示した後二条系の皇位継承も破られ、後醍醐が自身の子孫に皇位を継承させる意図が明確に示されることになった。
―幻の「天皇」―
しかし建武政権は足利尊氏の反乱により短期で崩壊、後醍醐側は比叡山に立てこもって足利軍とたたかったが、建武3年(延元元、1336)10月に和睦が成立し後醍醐は比叡山を降りた。このとき全く蚊帳の外に置かれていた新田義貞が和睦に抗議して後醍醐に詰め寄ったため、後醍醐は12歳の皇太子・恒良に皇位を譲って異母兄・尊良や義貞と共に北陸へ向かうよう指示する。これが後醍醐の深謀遠慮だったのか、義貞に詰め寄られての一時の急場しのぎだったのか、あるいは義貞が事実上のクーデターを起こして恒良を奪い取ったのか(そう記す史料もある)明確ではない。またこのとき後醍醐が三種の神器を恒良に渡して皇位を継承させたことが事実なのかどうかについても議論があるが、少なくとも義貞たちは恒良が「天皇」になったと認識し、「白鹿」という独自年号を使った「北陸王朝」を一時的に樹立したことは間違いない。恒良自身が天皇として「綸旨」を発行していることも確認されている。
ところがその年の暮に父・後醍醐は京を脱出して吉野に入り、恒良に渡した神器は偽物であり自身が本物を所持している、自身が正統な天皇であると主張し始める。これは北朝の否定と同時に「北陸王朝」の否定でもあった。それに対して恒良や義貞たちがどう思ったかは定かではない。
思う余裕もなかったかもしれない。恒良らが立てこもった越前・金ヶ崎城に高師泰・斯波高経率いる足利軍の猛攻と兵糧攻めが始まり、金ヶ崎城は悲惨な籠城戦の末に建武4年(延元2、1337)3月6日に落城した。尊良親王は新田義顕らと共に自害して果て、恒良はいったん脱出したが足利軍に捕らえられた。このとき義貞・脇屋義助兄弟は杣山城に移っており、その行方を斯波高経が尋ねたところ、恒良は「二人とも昨日の暮に自害して家臣たちが火葬にした」と答えてごまかしたという(『太平記』)。
その後恒良は京に送られ、花山院に幽閉された。『太平記』は同母弟で和睦成立時に北朝・光明天皇の皇太子に立てられた成良親王もここに幽閉されたといい、義貞の生存を知って怒った尊氏・直義が粟飯原氏光に命じて二人の皇子を鴆毒(ちんどく)を薬と称して飲ませ毒殺したと伝える。毒だと悟った成良はこれを飲むまいとしたが恒良は「尊氏らがそう考えたからにはもう逃れようもない。これは私の望むところである。この毒を飲んでさっさとこの世を去ろうと思う」と毒をあおり、それを見た成良も従い、恒良は4月13日に、成良は20日間あまり後に亡くなったとされる。
ただし『太平記』は恒良と成良の兄弟関係を逆転させており(恒良をことさらに幼少としその賢さを強調するためか)、成良は他資料から1344年まで生存していることが判明しており、この毒殺話はまったくのフィクションと考えられている(のちに直義が「毒殺」される伏線らしい)。そのため恒良の毒殺も事実かどうか分からないのだが、消息がその後まったく確認できないのでこの直後に亡くなったことは間違いないだろう。恒良は一時「天皇」となっており、恐らく本物の三種の神器も彼から北朝に引き渡されたと思われるので、他の例から考えると悪い待遇を受けなかった可能性が高いと思われるが、北朝にとっても南朝にとっても都合の悪い存在となった彼が存在自体を「抹殺」されたとも考えられる。
南朝正統が公式見解となったのは明治も末のことだが、この恒良についてはいまだに歴代天皇にはカウントされていない。
参考文献
森茂暁『皇子たちの南北朝』中公文庫ほか
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大河ドラマ「太平記」 | 第26回と第29回に登場する(演:大河原梓)。第26回では父・後醍醐の前で後醍醐の政治思想を成良と一緒に暗唱する場面がある。第29回は母・阿野廉子が護良親王を陥れる相談をしているそばで学問にはげんでおり、廉子が護良を警戒する理由を暗示させていた。第38回で後醍醐が義貞に詰め寄られる場面で恒良の名前だけは出てくるが当人は登場しなかった。
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歴史小説では | 後醍醐の皇太子、しかも一時は天皇になっていたことから各種小説で扱われることは多い。ただそれほど個性を描くことはなく、むしろ尊氏を非難する立場からその悲劇的最期を強調して描かれる傾向はある。新田次郎『新田義貞』では恒良を明確に「新天皇」と位置づけ、それを見殺しにした後醍醐側を非難する姿勢をとっている。
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漫画作品では | かみやそのこ『阿野廉子』(ロマンコミックス人物日本の女性史、1985)では、なんと恒良は廉子と護良の間に生まれた不義の子である。後醍醐はそれと知りつつ皇太子にしていた設定となっている。 |