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つうようもんいん〜つもりくにみち

通陽門院つうようもんいん
後円融天皇の妃で、後小松天皇の生母である三条厳子の女院号。→三条厳子(さんじょう・げんし)を見よ。

恒明親王
つねあき・しんのう1303(嘉元元)-1351(観応2/正平6)
親族父:亀山天皇 母:西園寺瑛子(昭訓門院)
子:全仁親王・尊守法親王・深勝・聖珍・尊信法親王・慈明・恒鎮法親王・恒助法親王・乗朝法親王・恒守法親王・仁誉法親王・桑朝法親王
官職
中務卿・式部卿
位階
二品→一品
生 涯
―天皇になれるはずが反故にされる―

 亀山上皇の末子。母親は西園寺実兼の娘・瑛子(昭訓門院)で、亀山が55歳の時に生まれた孫のような皇子であった。亀山はこの恒明を溺愛し、死の間際まで奔走して息子の後宇多上皇、および持明院統の伏見上皇に恒明をいずれ天皇にするとの確約をさせ、多くの所領を恒明と瑛子に譲ってから嘉元3年(1305)9月15に死去した。なお、亀山は恒明が生まれるまでは孫の尊治親王(のちの後醍醐天皇)を溺愛していたとされ、後醍醐の恒明に対する視線はいささか複雑であったかもしれない。

 亀山が死んでしまうと後宇多はあっさりと約束を反故にした。恒明の後見人となっていた西園寺公衡(恒明の母の兄)は鎌倉幕府や持明院統にまではたらきかけて恒明擁立の工作をしたが、結局幕府は恒明擁立に同意しなかった。延慶元年(1308)に後宇多の子・後二条天皇が急死して持明院統の花園天皇が即位したが、その太子には恒明ではなく後宇多の子である尊治が立てられ、この時点で恒明が天皇になれる可能性は消滅した。

 後醍醐が践祚した文保2年(1318)に元服し、翌年に中務卿、やがて式部卿となった。嘉暦2年(1327)に二品に叙せられる。皇位レースから脱落していたこともあってか後醍醐との関係は悪くなかったらしく、建武の新政でも中務卿・式部卿となり、建武元年(1334)正月に一品に昇っている。また持明院統の皇族とも良好な関係で会ったらしく、建武政権崩壊、後醍醐による南朝創設といった推移の中でも京にとどまった。亀山の邸宅・常盤井殿に住んだことから彼の系統を「常盤井宮」という。
 足利幕府が「観応の擾乱」の混乱に陥り、一時的に南朝が北朝を接収する「正平の一統」が間近に迫った観応2年(正平6、1351)9月6日に死去した。
 
参考文献
森茂暁『皇子たちの南北朝』中公文庫ほか

恒良親王
つねよし・しんのう1325(正中2)?-1338(暦応元/延元3)
親族父:後醍醐天皇 母:阿野廉子 同母弟:成良親王・義良親王
立太子建武元年(1334)正月24日(一説に25日)
在位建武3年(延元元、1336)10月〜?
生 涯
―利発な幼皇子―

 後醍醐天皇と寵妃・阿野廉子の間に生まれた最初の皇子。後醍醐の皇子たちの中で何番目なのかについては諸説あり、『太平記』は「第九の宮」とする。生年についても諸説あり、『元弘日記裏書』は元亨2年(1322)とするが、元弘2年(1332)段階で10歳未満だったことが確実であり、『増鏡』『太平記』は元弘2年に「八歳」としているため正中2年(1325)生まれが有力。

 生母の阿野廉子は後醍醐の寵愛をとりわけ集めた女性であり、その長子である恒良も早くから後醍醐の期待を受けていたと思われる。元弘の乱の結果、元弘2年(正慶元、1332)3月に後醍醐は隠岐へ配流され廉子もこれに同行することになり、二人の間に生まれた恒良・成良義良の三皇子は両親から引き離されて京・北山にある西園寺公宗の屋敷に預けられた(十歳以上の皇子は都から追われた)

 このとき「八歳の宮」である恒良が遠く隠岐にいる両親をしのんで「つくづくとながめくらして入相(いりあい)の鐘の音にも君ぞ恋しき」と和歌を詠んだ(当人の作かどうかは不明)という逸話が『増鏡』にある。一方『太平記』では同じく「八歳の宮」が中御門宣明のもとに預けられたとして、恒良が「帝が遠く隠岐へ流されるのなら、私も一緒に流してくれ」とせがんだとする。さらに隠岐へ旅立つ前の後醍醐が京・白河にいると聞いて「私を白河に連れていけ」と言う恒良に宣明が「白河は京から何百里もあるところなのですよ(東北の白河のこと)」と能因法師の歌を引いて幼い皇子をごまかそうとすると、賢い恒良はたちまち嘘を見破り、悲しみをこらえて「つくづくと思い暮らして入逢の鐘を聞くにも君ぞ恋しき」と歌った。この歌は京の人々の間で評判となり畳紙や扇に書かれ「これが八歳の宮の歌だよ」ともてはやしたと伝える。二つの逸話は歌も含めて微妙な差異があるが、当時「八歳の宮の歌」が評判になったことは事実と思われる。恒良は幼いながら賢い皇子だという評判はあったのだろう。

 鎌倉幕府が倒され後醍醐が隠岐から帰還すると、苦労を共にした廉子の発言力はいっそう深まり、建武元年(1334)正月24日(一説に25日)に恒良は皇太子に立てられた。ここに大覚寺統・持明院統の両統迭立の原則も、後宇多が指示した後二条系の皇位継承も破られ、後醍醐が自身の子孫に皇位を継承させる意図が明確に示されることになった。

―幻の「天皇」―

 しかし建武政権は足利尊氏の反乱により短期で崩壊、後醍醐側は比叡山に立てこもって足利軍とたたかったが、建武3年(延元元、1336)10月に和睦が成立し後醍醐は比叡山を降りた。このとき全く蚊帳の外に置かれていた新田義貞が和睦に抗議して後醍醐に詰め寄ったため、後醍醐は12歳の皇太子・恒良に皇位を譲って異母兄・尊良や義貞と共に北陸へ向かうよう指示する。これが後醍醐の深謀遠慮だったのか、義貞に詰め寄られての一時の急場しのぎだったのか、あるいは義貞が事実上のクーデターを起こして恒良を奪い取ったのか(そう記す史料もある)明確ではない。またこのとき後醍醐が三種の神器を恒良に渡して皇位を継承させたことが事実なのかどうかについても議論があるが、少なくとも義貞たちは恒良が「天皇」になったと認識し、「白鹿」という独自年号を使った「北陸王朝」を一時的に樹立したことは間違いない。恒良自身が天皇として「綸旨」を発行していることも確認されている。
 ところがその年の暮に父・後醍醐は京を脱出して吉野に入り、恒良に渡した神器は偽物であり自身が本物を所持している、自身が正統な天皇であると主張し始める。これは北朝の否定と同時に「北陸王朝」の否定でもあった。それに対して恒良や義貞たちがどう思ったかは定かではない。

 思う余裕もなかったかもしれない。恒良らが立てこもった越前・金ヶ崎城高師泰斯波高経率いる足利軍の猛攻と兵糧攻めが始まり、金ヶ崎城は悲惨な籠城戦の末に建武4年(延元2、1337)3月6日に落城した。尊良親王は新田義顕らと共に自害して果て、恒良はいったん脱出したが足利軍に捕らえられた。このとき義貞・脇屋義助兄弟は杣山城に移っており、その行方を斯波高経が尋ねたところ、恒良は「二人とも昨日の暮に自害して家臣たちが火葬にした」と答えてごまかしたという(『太平記』)
 その後恒良は京に送られ、花山院に幽閉された。『太平記』は同母弟で和睦成立時に北朝・光明天皇の皇太子に立てられた成良親王もここに幽閉されたといい、義貞の生存を知って怒った尊氏・直義粟飯原氏光に命じて二人の皇子を鴆毒(ちんどく)を薬と称して飲ませ毒殺したと伝える。毒だと悟った成良はこれを飲むまいとしたが恒良は「尊氏らがそう考えたからにはもう逃れようもない。これは私の望むところである。この毒を飲んでさっさとこの世を去ろうと思う」と毒をあおり、それを見た成良も従い、恒良は4月13日に、成良は20日間あまり後に亡くなったとされる。
 ただし『太平記』は恒良と成良の兄弟関係を逆転させており(恒良をことさらに幼少としその賢さを強調するためか)、成良は他資料から1344年まで生存していることが判明しており、この毒殺話はまったくのフィクションと考えられている(のちに直義が「毒殺」される伏線らしい)。そのため恒良の毒殺も事実かどうか分からないのだが、消息がその後まったく確認できないのでこの直後に亡くなったことは間違いないだろう。恒良は一時「天皇」となっており、恐らく本物の三種の神器も彼から北朝に引き渡されたと思われるので、他の例から考えると悪い待遇を受けなかった可能性が高いと思われるが、北朝にとっても南朝にとっても都合の悪い存在となった彼が存在自体を「抹殺」されたとも考えられる。
 南朝正統が公式見解となったのは明治も末のことだが、この恒良についてはいまだに歴代天皇にはカウントされていない。

参考文献
森茂暁『皇子たちの南北朝』中公文庫ほか
大河ドラマ「太平記」第26回と第29回に登場する(演:大河原梓)。第26回では父・後醍醐の前で後醍醐の政治思想を成良と一緒に暗唱する場面がある。第29回は母・阿野廉子が護良親王を陥れる相談をしているそばで学問にはげんでおり、廉子が護良を警戒する理由を暗示させていた。第38回で後醍醐が義貞に詰め寄られる場面で恒良の名前だけは出てくるが当人は登場しなかった。
歴史小説では 後醍醐の皇太子、しかも一時は天皇になっていたことから各種小説で扱われることは多い。ただそれほど個性を描くことはなく、むしろ尊氏を非難する立場からその悲劇的最期を強調して描かれる傾向はある。新田次郎『新田義貞』では恒良を明確に「新天皇」と位置づけ、それを見殺しにした後醍醐側を非難する姿勢をとっている。
漫画作品ではかみやそのこ『阿野廉子』(ロマンコミックス人物日本の女性史、1985)では、なんと恒良は廉子と護良の間に生まれた不義の子である。後醍醐はそれと知りつつ皇太子にしていた設定となっている。

津守(つもり)氏
 摂津・住吉大社の神主をつとめた家系で、「日本書紀」によると神功皇后から住吉の神主を任され、住吉の港の守りにあたることから「津守」の姓を与えられたことになっている。古代以来連綿と神主を世襲し、鎌倉時代には和歌、雅楽の笛や太鼓を相伝の家業にするようになっている。南北朝時代には主に南朝に属し、住吉神社に南朝行宮が置かれたこともある。その後も連綿と神主職を世襲し、明治になって男爵家となった。

天火明命
………
田裳見宿禰─豊吾団
………
………
─経国
─国平
─国助
国冬
国夏
国量
┬如国









国道

├国貴
├国久









├国顕

└国実
└国康









└国兼




津守国量
つもり・くにかず1338(暦応元/延元3)-1402(応永9)
親族父:津守国夏 兄弟:津守国貴・津守国実
子:津守国久・津守如国・津守国廉
官職
摂津守・修理権大夫・左京大夫
位階
従四位下→従三位
生 涯
―南北朝後半戦を生き抜いた住吉神主―

 住吉神社の第51代神主・津守国夏の子。正平7年(文和元、1352)に父・国夏が死去すると11月に権神主、翌正平8年(文和2、1353)5月に住吉神社第52代神主となった。正平10年(文和4、1355)には南朝から従四位下に叙され、内昇殿も許された。正平14年(延文4、1359)に北朝で勅撰和歌集『新千載和歌集』が編纂された際、古来の慣習では和歌集を納める手筥を住吉神主が提出することになっていたが、住吉神社が南朝に属していたためこの慣習が幕府の執事・細川清氏の意向で取りやめになっている。

 『太平記』巻34に、正平15年(延文5、1360)に将軍・足利義詮が河内の南朝拠点への攻勢をかけた際、住吉の神主・津守国久から南朝に「住吉の境内にある楠が倒れた」と凶兆の報告があったという話が出てくる。国久は国量の子で、時期的には国量が神主だったはずである(太平記・神田本には「国量」とある)。
 このあと攻勢に出た南朝の後村上天皇が住吉神社に進出してここに行宮を定め、しばらくの間住吉神社は南朝の拠点とされた。国量は南朝から世襲職の摂津守に任じられ、以後、修理権大夫・左京大夫なども歴任したとされる。後村上が死去して南朝宮廷が住吉を離れた時点で南朝との縁は切れたらしく、北朝が勅撰和歌集『新後拾遺和歌集』を編纂するにあたって永和年間(1375〜1379)に集めた「永徳百首」の中に詠進者として名を連ねている。
 南北朝合体を間近に控えた明徳3年(1392)8月の相国寺供養では息子で権神主の津守国久が家業である雅楽「獅子」の太鼓の役をつとめたが、このとき笛を担当した戸部政千は「国量の相伝」を受けて演奏をしたとされている。
 応永5年(1398)に従三位に叙せられ、応永9年(1402)正月27日に65歳で死去した。

津守国夏
つもり・くになつ1288(正応元)-1352(文和元/正平7)
親族父:津守国冬 母:帥房有盛の娘
子:津守国量・津守国貴・津守国実
官職
摂津守
位階
従五位下→正四位下→正三位(南朝)
生 涯
―靴を投げて太鼓を叩いた?住吉神主―

 住吉神社の第49代神主であり歌人として知られた津守国冬の子。延慶元年(1308)に従五位下に叙せられる。元応2年(1320)に父・国冬が死去すると権神主となり、第50代神主となった叔父の津守国道を間に挟んで、嘉暦3年(1328)9月に住吉神社第51代神主となった。
 元徳2年(1330)3月27日に後醍醐天皇が比叡山延暦寺に行幸した際、大講堂供養での雅楽の太鼓役で同行、その宿坊の柱に「契りあれば 此山もみつ 阿耨多羅 三藐三菩提の 種や植ゑけん」と、比叡山を仏教の聖地として称える和歌を書きつけている(「太平記」)。供養における「獅子」の曲の太鼓を務めた功により同日に正四位下に叙された。
 なお、このとき肝心の楽の演奏に入るときに国夏は遅刻してしまい、慌てて到着したが太鼓を叩くバチを手に取る暇もなく、大急ぎで靴を脱いで太鼓に投げつけたが、見事に演奏と合っていた…とする逸話が江戸時代末期に編纂された『前賢故実』という著名人逸話集に載るが、出典不明である。

 のちに足利幕府の内戦「観応の擾乱」の結果、一時的に南北朝が統一した「正平の一統」が成り、正平7年(文和元、1352)2月に南朝の後村上天皇は京を目指して賀名生を発ち、2月28日に住吉神社に入った。このとき国夏は社殿を後村上の行宮とした功により正三位に叙せられたという。しかしこの年のうちに65歳で死去した。
 父同様に歌人としても広く知られ、『続千載和歌集』ほか勅撰集に三十首が入選している。

津守国冬
つもり・くにふゆ1270(文永7)-1320(元応元)
親族父:津守国助
兄弟:津守国道・津守国顕ほか
妻:帥房有盛の娘 子:津守国夏
官職
摂津守・左近将監
位階
従五位下→従五位上→正五位下→従四位下→従四位上→従三位
生 涯
―笛・太鼓・歌も得意とした住吉神主―

 住吉神社の第48代神主・津守国助の子。弘安8年(1285)に16歳で住吉の権神主となり、永仁7年(1299)に父・国助が死去すると摂津守を継ぎ、第49代神主となった。同年に大覚寺統の亀山上皇の「上北面」となり、側近といってよい立場となった。亀山の子・後宇多上皇にも上北面として仕えており、以後、住吉神社は大覚寺統・南朝寄りの姿勢を続けることになる。
 笛と太鼓の名手であったとされ、正安2年(1300)12月に奈良・興福寺で行われた供養の雅楽で「獅子」の曲の太鼓を担当、その功績により左近将監に任じられた。徳治2年(1307)9月14日に住吉神社で初めて舞楽をともなう「法華会」を執り行い、徳治4年(1309)から3月9日を式日とする恒例行事とした。
 正和元年(1312)に代々務める摂津守に任じられる。このころ大覚寺統の後宇多の院宣により兵庫・一洲・渡辺の三つの関で商船からの徴税権の半分を得ることを期限付きで認められているが、期限切れ後もその権利を行使したため東大寺と紛争となった。東大寺側は国冬が「悪党」たちに資金を出して東大寺に入る税を奪わせていると主張していた。国冬は大覚寺統や新興勢力と結びつくことで住吉神社の地位上昇をはかった野心家でもあったようだ。
 その一方で和歌をはじめ文化人としての活動も目立ち、『新後撰和歌集』『新千載和歌集』など勅撰和歌集の選に連署として参加、自身の和歌も勅撰和歌集に合計56首選ばれているほか、『国冬百首』など彼の和歌を集めたものが後世まで伝えられた。国冬が書写した『源氏物語』も今日に伝えられている。
 元応2年(1320)6月17日に京都において51歳で死去した。

津守国道
つもり・くにみち
1277(建治3)-1328(嘉暦3)
親族父:津守国助 養父:津守国道
兄弟:津守国冬・津守国顕ほか
妻:帥房有盛の娘 子:津守国夏
官職
摂津守
生 涯
-第50代住吉神主―

 住吉神社の第48代神主・津守国助の子。兄である第49代神主・津守国冬の養子となり、永仁7年(1299)正月、国助が死去する直前に住吉の権神主となる。元応2年(1320)6月に兄で養父の国冬が死去すると住吉神主の職を引き継ぎ、8月に歴代神主が任じられた摂津守に任じられた。
 嘉暦3年(1328)8月25日に52歳で死去。住吉神主職は甥の国夏(国冬の子)に引き継がれた。代々の神主と同じく歌人としても優れており、『新後撰和歌集』などに入選している。


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