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りたくに〜りゅうさい

里沢尼りたく・に
?-1377(永和3/天授3)
親族夫:細川頼春
子:細川頼之
位階
二品
生 涯
―細川頼之の生母―

 細川頼春の妻の一人で、細川頼之の生母。「里沢禅尼」とも呼ばれるが、実名は不明である。『武家年代記』では武田小嶋某の娘とされるが、『細川三将略伝』では秋田氏の出身とされているなど、その出自は判然としない。
 文和元年(正平7、1352)閏2月に夫の頼春が京に突入した南朝軍との戦いで戦死、彼女は直後に落飾して「里沢」と号し夫の菩提を弔うこととなった。恐らく頼之の拠点である阿波の地に在住し続けたと思われる。

 康安元年(正平16、1361)に頼之の従兄弟で幕府の執事(管領)をつとめていた細川清氏が失脚して南朝に走った。清氏は貞治元年(正平17、1362)に讃岐に入り、その討伐を命じられた頼之と宇多津と白峰の間で3か月にわたって対峙した。『太平記』によれば準備不足であった頼之は時間を稼ぐために生母の里沢尼を清氏のもとへ送り込んで和睦をもちかけたとされている。頼之にすれば母親を人質にとられかねない行動であるが、それだけ頼之が追いつめられていたのとも、あるいは里沢尼自身が息子と清氏の和睦を本気で図ろうとしていたとも、いろいろ解釈できそうである。結局この対決は清氏の敗死という形で決着した。

 貞治6年(正平22、1367)に頼之が上京して幕府の管領となり幕政を担うようになると、母の里沢尼も京に移った。そして頼之が管領として奮闘している最中の永和3年(天授3、1377)3月9日に里沢尼は死去した。母を失った頼之の悲嘆は激しく、管領の仕事を投げ出して嵯峨の寺(景徳寺?)にこもってしまい、数日後に将軍足利義満がじきじきに出向いて説得されようやく出仕したという(「後愚昧記」)。その後母の菩提を弔うため僧侶を集めて四十九日までの仏事を行ったが、この間頼之は僧たちに粥のみを出して点心(間食)を出さないという厳格な態度で臨み、僧たちは大変苦労させられたという(「後愚昧記」)
 
参考文献
小川信『細川頼之』(吉川弘文館・人物叢書)

柳斎りゅうさい
 吉川英治「私本太平記」およびそれを原作とするNHK大河ドラマ「太平記」の登場人物・一色右馬介が、具足師に変装した時につかう変名。
 →一色右馬介(いっしき・うまのすけ)を見よ。


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