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「続 813」(長編)
813:LES TROIS CRIMES D'ARSÈNE LUPIN


<ネタばれ雑談その2>

☆『813』にいたる仏独近代史

 「怪盗ルパン」シリーズの魅力の一つにフランスの歴史物語がしばしば背景に織り込まれることがある、とこのコーナーの各所で指摘してきたが、ルブランの 意図は別として、一世紀がたった現在からするとルパン物語そのものが一つの「歴史物語」として楽しめるようになっている。当時において物語にリアリティを 与えるために現実の事件と架空のルパン物語をリンクさせる作戦をとっていたことがこうした結果を生んでおり、とくに第一次世界大戦の直前から戦後にかけて の時期の作品にこの傾向が顕著だ。

 『813』の解説でバラングレー総 理が同時期に総理をつとめたレイモン=ポアンカレをモデ ルとしていることに触れたが、『続813』ではモデルどころか実在の歴史人物当人が物語中に登場してしまう。そう、ドイツ帝国第3代皇帝ヴィルヘルム2世(右がその当人の写真。ピンと上を向いた「カイゼルひげ」がトレードマーク)。 もっとも本文中に彼の名前を直接書いている箇所はなく全て「皇帝」と書いているのみなのだが、本文中に出てくる固有名詞を読めばどう見たってヴィルヘルム 2世本人。1910年という発表時期を思うとずいぶん思い切ったことをしたもんだと思うが、現在の日本においても仮想戦争小説・スパイ小説のたぐいで近隣 国の指導者(特に敵視される傾向が強い国の)が小説 中に実際に登場するケースは少なくない。それにしても皇帝本人がパリの刑務所の中までお忍びで登場しちゃうというのは…大胆な展開で読者をアッといわせ、 ついでに敵対関係の国の君主を相手に泥棒ルパンが渡り合う展開に溜飲を下げさせるという、実に大衆向け、サービス精神旺盛なアイデアだったといえる。

 さて『813』新聞連載時の読者であるフランス人たちにとってはいたって常識、説明ぬきでもわかる「現代史」だが、およそ百年たった21世紀初頭の日本 人にはピンと来ないところも多いと思うので、簡単なドイツ・フランス関係史講座を。
 そもそもヨーロッパに「ドイツ」という国が出現したのは19世紀後半のこと。ドイツ語を話す「ドイツ人」は昔からいたわけだが、イギリスやフランスのよ うな「国民国家」「民族国家」の形成は遅れ、19世紀の段階でも30個ぐらいの王国・封建諸侯領(日本の「藩」みたいなもの。現在のルクセンブルクやリヒテンシュタインがそ の生き残り)・自由都市などに分かれていた。それがドイツの北東部(現在ではほとんどポーランド領になっている)に興ったプロイセン王国により次第に統一への道をたどっていく。その立役者 となったのがプロイセン王国の「鉄血宰相」ことビスマルク(左下写真)
 ドイツ統一の大きな障害はナポレオン3 世による第二帝政時代のフランスだった。ビスマルクはフランスの対独感情を激昂させる「エムス電報事件」という謀略を成功させ(これについて詳しく書くと長くなるのでご自分でお調べくださいな)、 ナポレオン3世を対プロイセン戦争に引きずり込んだ。これが「普仏 戦争」(1870〜1871)で、ナポレオン3世はセダンの会戦で捕虜となり退位して第二帝政は崩壊、逆にプロイセン国王がヴェルサイユ宮 殿で即位式を行い、統一された「ドイツ帝国」の樹立を宣言してその初代皇帝ヴィルヘルム1世となった。
 この普仏戦争の結果、フランスはドイツに接し資源の豊富な東部地域ア ルザス・ロレーヌ地方(ドイツ名エルザス・ロートリンゲン)をドイツ帝国に割譲させられた。この領土割譲の屈辱とドイツへの怨念はフランス 国民全体が長く持ち続けることになり、ルパンも『続813』の中でこの地方の名を何度となく口にする。大戦中に書かれた『オルヌカン城の謎』ではさらに濃厚にこの問題が描かれ、また またヴィルヘルム2世が登場することになる。ただしアルザス・ロレーヌ地方がルパンたちが当然視するように「フランス」なのかというとまた実情は…という 話はそっちの解説で書くことにしよう。

 さて普仏戦争の敗戦後、1875年にフランスでは新憲法のもと「第三共和国」が成立して、やがて「ルパンの時代」を迎えることになる。1874年生まれ のルパンはいわば「戦後生まれの戦後育ち」であり、「ベル・エポック」の雰囲気は敗戦後に高度経済成長した日本と重なったりするかもしれない(そういえば日本でやたらにルパン訳本が出たのもその時期だな)
 一方のドイツ帝国は鉄血宰相ビスマルクが内政外交で辣腕をふるい、英仏のあとを追いかける一大強国として急速に成長していく。明治初期の日本の指導者の 多くがビスマルクファンになり(それでヒゲを生やす(笑))、 憲法や軍事など多くをドイツに学んだのはよく知られる。普仏戦争に勝利してドイツ統一を達成したビスマルクはその後はむやみに他国と衝突しない融和外交を 続け(フランスに関しては警戒を続けたようだが)、 ヨーロッパ内および世界の植民地分割についても各国との平和共存を基本方針とした。
 しかし皇帝ヴィルヘルム1世が1888年に死去する。帝位を継いだのは子のフリードリヒ3世だったが、即位後わずか三ヶ月で病死してしまい(そのため「百日皇帝」などとあだ名される)、さらにその子の ヴィルヘルム2世が即位することになった。若く野心家の皇帝ヴィルヘルム2世は老宰相ビスマルクと政策がことごとく対立し、ビスマルクは1890年に辞任 を余儀なくされた。その後ビスマルクは1898年に隠遁先で亡くなり、うるさい老人がいなくなったヴィルヘルム2世は積極的な帝国主義政策を展開、イギリ ス・フランス・ロシアとの対立を深めて1914年の第一次世界大戦を招くことになる。

 ところで、『続813』でドイツ皇帝が登場する章のタイトルが「シャ ルルマーニュ大帝」で、「カエサルやシャルルマー ニュの後継者ともいうべき人物」であるドイツ皇帝と向き合ってルパンが緊張する描写がある。これはどういうことかというと、そもそもヨー ロッパにおける「皇帝」のルーツはローマ帝国の皇帝(インペラトール)に求められ、その元祖はカエサル(前100〜前44)ということになっている。カエサルは 皇帝のような専制君主になる前に暗殺されたが、その養子アウグストゥスがローマの初代皇帝となり、以後の皇帝たちはカエサルの後継者として「カエサル」と 実際に呼ばれていた。その名残がドイツ語の「カイザー」、ロシア語の「ツァーリ」で、やはりいずれも「ローマの後継者」という建前になっていた。
 フランス語の「シャルルマーニュ」とはカール大帝(742〜814)の ことで、フランク王国国王として西ヨーロッパ全体を征服し、800年にローマ教皇から「西ローマ帝国皇帝」として戴冠を受けた。その領土がやがてフラン ス・ドイツ・イタリアの母体となり、その後ドイツから出てきたオットー 一世(912〜973)が「神聖ローマ帝国皇帝」の戴冠を受けてこれを引き継ぐ形となっている。この「神聖ローマ帝国」は名前こそ凄いが実 際は統一国家とはいいがたいドイツ地域の連合国家として延々と続き、ナポレオンの征服により1807年に正式に消滅したが、ハプスブルグ家のオーストリア 帝国、ホーエンツォレルン家のプロイセン王国はその流れを汲む。そのプロイセンが「ドイツ帝国」となったわけだから、「カエサル・シャルルマーニュの後継 者」という言い方もできるわけだ。はじめ緊張しているルパンではあるが、彼だって『奇岩城』の主としてはカエサルやシャルルマーニュ、英仏国王の後継者で あるわけで(笑)、対等にわたりあえると言える。


☆「ドゥ・ポン・ベルデンツ大公」とは?

 こうした仏独関係史を頭に入れた上で、『813』における事件背景の核心部分、ヨーロッパの地図をぬりかえかねない秘密文書とは何なのか、検証していこ う。もちろん全部フィクションなのは言うまでもないが、当時の人が読んで「ありそうな話」と思えるところがポイントなのだ。

 『続813』になってようやくシュタインウェークの口からピエール= ルドゥックの正体、そして『813』『APOON』の秘密が明かされる。ピエール=ルドゥックは「ドゥ=ポン=ベルデンツ大公・ベルンカステル公爵・フィスティンゲン伯爵・ ウィースバーデンその他の領主」である<ヘルマン4世>が その正体。全部架空の地名かなと思うとさにあらず、全部ドイツ西部に実在する地名なのだ。特に注目は「ドゥ=ポン」「ベルデンツ」。仏独国境付近を示した下の地図を見ていただき たい(この当時はアルザス・ロレーヌはドイツ領となっており、現在 の国境とは異なるので注意)

 「ドゥ・ポン(Deux- Ponts)」というのは現在ドイツの都市「ツヴァイブ リュッケン」のことで、『続813』のシュタインウェークの説明にもあるように、1801年にナポレオンがオーストリアと結んだ「リュネビル条約」においてフランスのモン・トネール県に併合 されていたこともある。その後ナポレオンが一度目の流刑となった1814年に当時のバイエルン王国に返還されている。小説中ではそのときに領地を返しても らったのがヘルマン1世、すなわちピエール=ルドゥックの曽祖父に当たる人物ということになっている。
 「ベルデンツ(Veldenz)」は本文中にト リーア(トーリア、トリールとも。モーゼルワインの産地として有 名)から35kmとあり、調べてみたら実際に地図中の位置に実在する村だ。おまけにあちらでは結構有名らしい古城まで実在する(その城跡の公式サイトはこちら。独・英・仏語対応)。そのサイトの歴史や写真を見ると『続 813』に出てくるそれとは歴史もイメージも微妙に異なりつつも重なりあってはおり、とくにルイ14世の時代に将軍テュレンヌ率いる軍隊に破壊されたという話は完全に重なるようだ。 少なくともルブランはこの城をモデルとして小説を書いた可能性は高い。

 「ドゥ・ポン・ベルデンツ大公領」そのものはいくらなんでも創作だ。しかしこの地方がドイツの多くの地域と同じく帝国を構成する独立性の高い政治単位の 一つであり、なおかつ当時ドイツ領になっていた「アルザス・ロレーヌ地方」に接する地域であることを理解しないとその重要性が実感できない。また地図 中にそこに割り込むように見える「ザール(ザールラント)」と いうのはドイツを構成する州のひとつで、やはりアルザス・ロレーヌ同様に石炭の産地でフランス領だった歴史ももつ独自性の強い地域だ。このドイツ・フラン ス国境地域には近代国民国家の感覚では本来単純には割り切れない独特の事情があったということは理解しておいたほうがいい。だからこそルドルフ=ケッセル バッハ、そしてルパンがこの地域の「大公領」の問題に目の色を変えるのだ。
 この地方を治めた「ドゥ・ポン・ベルデンツ大公」、ヘルマン大公4代の(あくまで小説中の)歴史は以下の年表のようにまとめられる。

1801年 ヘルマン1世、リュネビル条約により領 地をフランスに奪われる。
1803年 ヘルマン1世、ロンドンで料理人として 生活。家臣マルレーシュ(マルライヒ)からの送金に頼る。
1809年 フランス皇帝ナポレオン1世、ヴァグラ ムの会戦に向かう途上、ベルデンツに宿泊。
1814年 ナポレオン没落後のウィーン議定書によ りヘルマン1世が旧領を回復、領地に帰還する。
時期不明 ヘルマン2世、乱費により破産し公金横 領。領民が城を焼き払いヘルマンを追放。
       以後、三人の摂政が大公領を統治。
1870年 普仏戦争勃発。ヘルマン2世、ビスマル クの側近としてパリ包囲戦に参加、戦死する。
       ヘルマン3世は以後ビスマルクの側近として活躍。
1888年 ヴィルヘルム1世、フリードリヒ3世あ ついで死去、ヴィルヘルム2世即位。
時期不明 このころ、ヘルマン3世は身分の低い女性 との間に子(=ピエール・ルドゥック)をなす。
1890年 ビスマルク失脚。ヘルマン3世、ドレス デンに移住。
1898年 ビスマルク死去。ヘルマン3世、その直 後にベルデンツの古城に秘密文書を隠す。
1900年 ヘルマン3世死去。死に際に「813」 「Apo on」の言葉を残す。
1912年 ヘルマン4世ことピエール=ルドゥッ ク、パリで死去。

 この年表中でチョロッと出てくるナポレオンが実は謎を 解く鍵だったりする。瀕死のヘルマン3世が震える手で書き残した文字は「Apo on」しか読めなかった。『813』の最初から読者 に提示されるこの謎の解答は『続813』中盤においてようやく解かれるが、その前にちょっとしたヒッカケがある。狂った少女イジルダが「Apo」と「on」の間に「l(エル)」を二つ書いた ため、ホームズ(ショルメス)もルパンも「アポロン (Apollon)」の部屋を捜索して空振りするハメになるのだが、これは恐らく読者の多くが同じ推理をするはずと最初から狙った構想なの だろう。
 しかし正解は前に「N」をくっつけて「ナポレオン (Napoléon)」である。このくだりを読んで「はて?」と納得いかなかった日本人読者も多いはず。なまじ全訳の文章だとフランス人に とっては説明不要のことが分からないのだ。これについては南洋一郎文 の児童向けポプラ社版全集が親切な説明をしてくれており、僕もこれが中学時代の初読だったため一発で理解できた。
 中学校で習った英語の筆記体を思い出そう(最も最近は中学では習 わない人も多いそうだが)。小文字の「l(エル)」と「e」ってクルッとまわして書くだけの形は全く同じで、大きさの違い(縦方向の長さ) だけで区別されるものだったはず。イジルダは幼い時の記憶で形だけ覚えていたため、「l」「e」の区別をせずにどちらも大きく書いてしまった、ということ なのだ。
 ただ子供心にも「それくらいの謎ならホームズは解いちゃうんじゃな い?」と思ったものだ(笑)。ま、あくまであれは「エルロック=ショルメス」氏なのでホームズほどの実力は発揮できなかったのであろうが… 登場すらしない『続813』の扱いはあんまりだという気もしたなぁ(笑)。


実在する「ベルデンツの古城」。
(独語版Wikipediaから拝借)



☆ドイツ皇帝が必死になる秘密文書とは?

 さていよいよ、ベルデンツの古城に隠され、ドイツ皇帝がその入手に必死になっている秘密文書とは何か、の話に入ろう。その入手のために外国の刑務所まで 自ら足を運び、さらにはその囚人の自由と植民地問題の譲歩まで取引材料にさせてしまう秘密とは何なのか?
 繰り返すが『813』はあくまでフィクションである。しかし「もしかして…」と思わせるだけの説得力が当時も、そして前後の歴史を知る現在の我々に対し てもあるだけのリアルな設定なのだ。

 実際に本物を入手するまで(それはこの長い物語の最終コーナーで ようやく実現する)ルパンはその文書を直接は見ておらず、あくまでシュタインウェークから間接的かつ断片的に得た情報から内容を推測してい るだけだ。しかしそれだけでルパンはだいたいの内容を推理し、それを新聞でちらつかせただけでドイツ皇帝が慌てて飛んできたし、しかもその本人の前で述べ たホラ推測に本人が否定もしないのだから、ルパンが考えた推測はおおむね正確だったということになる。

 秘密文書のうち重要な二点は<ドイツの皇太子からビスマルクへの 手紙><フリードリヒ3世およびビクトリア皇后か らイギリスのビクトリア女王への手紙の写し>とされる。前者の手紙の「ドイツ皇太子」とはヴィルヘルム2世のことで、日付から父フリードリ ヒ3世のわずか三ヶ月の在位期間の間に書かれたものと断定されている。シュタインウェークは「フリードリヒ3世の病気の件と、皇帝と皇太子が不和であったこと」を 思い出せば内容の察しはつくと言っており、ヴィルヘルム皇太子が病気に倒れた(史実では喉頭がんだったという)父フリードリヒ3世の政策へ の不満を宰相ビスマルクに訴えた内容と思われる。
 では、ヴィルヘルムが不満を訴えた政策とは何か。それが二つ目の手紙がイギリスのビクトリア(ヴィクトリア)女王にあてたものであること、そしてビ スマルクの側近だったヘルマン3世が「英仏条約の原文」「アルザ ス・ロレーヌ地方…植民地…海軍力の軍縮」といった書き込みをしていたことからルパンがその内容を推測している。つまりフリードリヒ3世は皇后ビクトリアのすすめを受けて、イギリスそしてフランスと同盟関 係といっていい三国間の重大な条約を結ぼうとしていた。その条約で英仏はドイツに対し広大な植民地(恐らくアフリカ)を提供、その代わりドイツは海軍の軍縮とア ルザス・ロレーヌ地方のフランスへの割譲を行うという内容だ。

 まさか、と思うかもしれないが1890年の段階ではある程度のリアリティがある。ビスマルクはフランスを警戒しつつもヨーロッパの中でドイツが孤立しな いように融和的外交政策を進めていたし、フリードリヒ3世は皇太子時代から開明的な自由主義者・平和主義者として知られていた。ルパンもヴィルヘルムに対 して「フリードリヒ3世―普仏戦争のヒーローのひとりであり、純粋 な血をひくドイツ人であり、国民からも敵国の人びとからさえも尊敬されていた人物」と評しているように、軍人としても政治家としても外国人 からさえ期待される人物だったのは確かだ。とどめに付け加えれば、フリードリヒ3世の皇后ビクトリアとは、ずばりイギリス女王ビクトリアの娘であり、嫁さ んの実家であるイギリスと平和的関係を結ぼうとする可能性は十分にあったのだ。
 またドイツ帝国は統一が遅かったこともあって植民地獲得競争に完全に遅れ、のどから手が出るほど植民地を欲していた。1884年にビスマルクが主催して「ベルリン会議」が開かれ、列強によるアフリカ分割のルールが 決まっているが、これだってドイツのアフリカ植民地獲得の野心があってのことだった。しかし実際にはアフリカは英仏が我先にと植民地化を進めており、ドイ ツの割り込む余地はすでにあまり無かった。それなら英仏と協定を結んで平和裏に植民地を得てもいいんじゃないかという発想も出なかったとは言い切れない。 もっとも資源豊富・工業地域のアルザス・ロレーヌを手放すということはなさそうな気がするがなぁ…この辺はフランス人の「願望」が入っちゃってると言って だろう。

 ともあれこの英仏との一大協定はフリードリヒ3世の早すぎる死により夢と消えた、というわけだ。前述のように跡を継いだヴィルヘルム2世は英仏に対して 強硬な姿勢で臨むわけで、こんな条約草案が実際にあったら確かに激怒するだろう。ビスマルクの側近という設定のヘルマン3世は当然ヴィルヘルム2世に批判 的であり、条約文書や手紙類をビスマルクの死後ただちに秘密の場所に隠し、ヴィルヘルムはその回収に躍起になった…というわけである。もしそんな文書が公 になったらアルザス・ロレーヌを支配する根拠すら失うかもしれない。少なくともヨーロッパの政治・外交が大揺れするのは間違いない。そりゃあ超法規的措置 で泥棒を解放したくもなるって。


☆ルパン釈放の取引材料となった「モロッコ問題」とは?

 ただし、いくらドイツ皇帝とはいえ理由も明かさずに囚人の解放を命じられるわけがない。だいいち外国の刑務所に入っている囚人であり、その解放は主権侵 犯問題にすらなりかねない。ヴィルヘルム2世もはじめはさすがに躊躇する。そこへルパンが提案するのが「ドイツがフランスにモロッコを譲る」という取引だ。これも当時 の国際情勢を知っておかないといけない。

 モロッコとは、もちろんアフリカ北西部に位置し、 大西洋と地中海とに面したあの国。地中海の出口にあたる戦略上重要な位置にあるため、19世紀から20世紀初頭にかけての帝国主義時代には列強による争奪 戦が展開された。その過程で北西アフリカの大半を植民地化したフランスがこの国に関しても優位を獲得するようになるのだが、そこへヴィルヘルム2世率いる ドイツが介入してきて独仏間に緊張が走るようになる。
 まず1905年、地中海でクルージング休暇を楽しんでいたヴィルヘルム2世が突然モロッコの都市タンジールを訪問して、モロッコの領土保全・門戸開放を 主張する演説を行い、フランスの侵略に苦しむモロッコのスルタン(イ スラム圏の世俗君主。王様と思ってもかまわない)を味方につけてフランスにモロッコ問題の国際会議を開くよう求めた。これは「第一次モロッコ事件」と呼ばれ、独仏間にあわや戦争かという 緊張が走った。結局は翌年開かれたアルヘシラス会議でフランスの優位が他の諸国によって認められたためドイツの野心は実現せずに終わる。
 『奇岩城』の年代である1908年には、モロッコに いたフランス外人部隊(あとでルパン自身も参加することになる)の 兵士らがドイツ船で脱走するという事件が起こり、またしても独仏間に緊張が走った。このときも翌年に両国間で協定が結ばれドイツが譲歩したので危機は回避 される。

 そして1911年7月、もっと決定的な危機がおとずれる。モロッコでベルベル人の蜂起がありフランス軍が鎮圧に出動したのだが、ドイツは自国民の保護を 口実に軍艦をモロッコのアガディールに派遣し、露骨な野心を見せたのだ。フランスはイギリスを味方にして二国でドイツに猛抗議し、戦争も辞さぬ姿勢を見せ たため、あわや開戦かという極度の緊張状態になった。この事件は「第 二次モロッコ事件」と呼ばれ、結局は交渉の結果、フランスのモロッコに対する優位をドイツは最終的に認め、その代わりフランス領コンゴの一 部を譲られるという協定が結ばれ危機は回避された。
 もっとも「危機回避」とはヨーロッパ列強の立場のことで、当のモロッコは翌1912年に正式にフランスの保護国(独立は一応維持しているが外交権は握られ植民地とほとんど変わらない)と されてしまう。この事件は来たる第一次世界大戦の予兆ともいえ、よその国を列強が勝手に奪い合い譲り合う、帝国主義時代の象徴ともいえる。

 だからルパンが自分の身柄の自由のためにモロッコ一つを取引材料にしちゃう、なんてのは現代の感覚からすれば言語道断だ。が、これもまた今となってはそ の「時代」を語る事例としてあえて注目してみるのも有意義だろう。
 ところで『813』は1912年の事件である。このドイツ皇帝とのやりとりは8月末のことと明記があり、実際にそのときにドイツがフランスにモロッコを 譲歩した事実があるか…というと、上述のとおりでそんな事実はない。一年ほど年代が狂っていると考えればいいわけだが、『813』の新聞連載は作中の年代 より前の1910年のこと。むしろ「予言」となっていて驚いちゃう…とお思いだろうが、『813』は1917年に二分冊化された際、その第二部である『ア ルセーヌ=ルパンの三つの犯罪』の部分が大幅に加筆されているという。どの部分が加筆されているのか僕はオリジナル原稿は見てないから知らないが、恐らく このモロッコ問題のようにドイツ帝国と直接的にからむ部分で加筆がなされたものと思っている。1917年といえば第一次世界大戦の末期で、ドイツに対する 敵意はもちろん濃厚だが、戦争の行方がほぼドイツの敗北と見えてきたころでもあるので余裕もあり、そうした加筆が求められたのではないかと思われる。

 モロッコを取引材料にすると聞いたヴィルヘルム2世が「なぜアル ザス・ロレーヌを返せと言わないのかね?」と聞くと、ルパンは「そのことも考えたがそれは引っ込めた」と答え、「いつの日か、わたしがアルザス・ロレーヌ地方の返還を要求し、これをかちと る権利を手に入れるような、いろいろの事情がでてくるかもしれません。その日がきたら、わたしはきっとチャンスをのがしませんよ」と見得を きる。これは1917年の段階ではアルザス・ロレーヌ「奪還」がぼちぼち実現しそうではあるがまだ実現はしていないという状況だったからこその台詞だろ う。

 この『813』のエピローグで、ヨーロッパの地図を支配する野望に敗れたルパンはこのモロッコの地に現れる。それもまたこの時代を象徴する展開につな がっていくのだが、これについては『虎の牙』で大いに 語りたい。
 そしてルパンと対決(?)したドイツ皇帝ヴィルヘルム2世も第一次大戦さなかを描く小説『オルヌカン城の謎』で再登場する。これについてもその解説で。

その3へ続く


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