新田父子関連・武蔵野小旅行
2017年4月6日 南北朝マニアの埼玉・東京小さな旅



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 関東地方在住者としては、手近に行けるコースとして数年前から企画していた旅なんですが、ようやく実行の運びとなりました。南北朝関連旅行も前回の「足利・新田の旅」から実に5年も間をあけての実行です。
 今回はすべてかつての「武蔵国」、現在の埼玉県と東京都にまたがる地域に残る南北朝ゆかりの地めぐりですが、それは結局新田義貞とその息子・新田義興のゆかりの地をめぐる旅となります。5年前に訪ねた新田荘(現・群馬県太田市)での新田一族旗揚げの「その後」をめぐる旅となります。新田一族の栄光と悲劇を一日コースでまわるわけですね。

まずは新田義貞鎌倉攻めの古戦場、小手指ヶ原(小手差ヶ原)をめざします。
先に説明しておきますと、「小手指ヶ原の戦い」とは元弘3年(正慶2、1333)5月11に起こったもの。
上野国で挙兵して鎌倉目指して南下してきた新田義貞軍に対して鎌倉幕府が金沢貞将・桜田貞国らを派遣、
新田軍にとっては最初の幕府軍との全面衝突となった戦いです。
なお、鎌倉幕府滅亡後に北条残党が起こした「中先代の乱」でも同じ地域が戦場となってます。
 小手指ヶ原は現在の埼玉県所沢市内。西武池袋線に乗って所沢の2つ先にずばり「小手指」という駅があります。
 池袋から所沢まで一気にすっ飛ばし、そこから飯能まで各駅停車の「快速急行」が便利です。上の写真が僕の乗ったやつ。
ちと見づらいアングルになりましたが、これが小手指駅の南口。特にこれといった特徴もない典型的な郊外ベッドタウン型橋上駅者です。なお漫画「がんばれ!タブチくん」でしばしば出てきたというのは帰宅後に知ったこと。
 駅から地図を頼りに「小手指ヶ原古戦場跡」を目指して歩きます。まぁ徒歩30分程度は覚悟しましょう。
途中の交差点にもちゃんと「小手指ヶ原」とあるのを発見。
てくてく歩いているうちにうっかり目の前を通り過ぎて1キロほど歩いてしまいました(汗)。そのくらいめだたずポツンと建ってるんです。
最寄りバス停が「誓詞橋」、すぐそばに「埋蔵文化財センター」があります。

 戦場も広いだろうにどうしてここに石碑を立てたんだろ、と思っておりましたら、説明版の向こうにこんもりとした小さな丘が見えました。
 道先案内によるとこれが「白旗塚」。何やら源氏の白旗と関係してきそうなので行ってみます。
「白旗塚」の登り口。せいぜい4〜5mくらいの「標高」でしょうか。現地の説明版によると古代の古墳らしいとのこと。「白旗塚」という名前になったのは新田軍が戦場を見渡せるこの古墳の上に本陣を構えたかららしい、ということのようで。だから古戦場石碑も近くに立てられたんでしょうね。

 「太平記」によれば、この「小手指ヶ原の戦い」は勝負のつかぬまま日が暮れ、「日没順延」となりました。
 そして翌日に「久米川の戦い」が行われ、ここで新田軍が鎌倉勢を撃破します。
「久米川古戦場跡」はそう遠くない東京都東村山市内にあるのですが、今回は日程の都合でパス。

続いて新田軍と幕府軍の激戦が行われた「分倍河原」の古戦場を目指します。
5月12日の「粂川の戦い」の後、鎌倉から北条泰家(高時の弟)ら率いる大軍が北上、
5月15日に多摩川に面した分倍河原で両軍が激突、ここでようやく幕府軍が勝利して新田軍はいったん撤退。
しかし翌16日に幕府方から寝返りが出るなどして結局新田軍が勝利、その後は破竹の勢いで鎌倉へと押し寄せます。

小手指駅から西武池袋線で「秋津」まで戻り、そこから徒歩でJR「新秋津」駅へ移動。
JR武蔵野線に乗って終点の府中本町で南武線に乗り換え、ひと駅で「分倍河原」駅に到着します。




分倍河原駅の駅前ロータリー中央には「新田義貞騎馬武者像」がカッコよく飾られています。一番カッコイイ義貞銅像がここにあるというのは案外知られてないかもしれません。
義貞最大の戦功といえば鎌倉攻略ですが鎌倉市としては恨みもあるのか銅像なんか建てませんし、劇的な勝利を収めたこの地に建てるのが順当、ということなのかな。


「分倍河原古戦場跡」の石碑を探して駅周辺をウロウロ…事前に地図で調べていても現地に来るとなかなか…僕はどうも道に迷うクセがあるようでして。
そうこうしてるうちに上の写真のように「鎌倉街道」と電柱にあるのを発見。当然新田軍も鎌倉街道を通ったわけで、あとは簡単でした。

分倍河原駅から徒歩10分弱くらい、中央自動車道とクロスしたそばの公園に上の写真の「分倍河原古戦場碑」があります。見れば平成10年と割と最近の建立で、なぜこの地点に建てたのかもよくわかりません。

分倍河原も済んだので、次は東京都大田区にある「新田神社」を目指します。
「新田神社」といっても祭られているのは義貞ではなく、その次男・新田義興です。
義興は義貞の息子たちの中でも猛将として知られ、南北朝動乱のなか南朝新田党の主力となった人物。
「太平記」によれば、義興を目障りに思った関東執事の畠山国らがさまざまな計略をめぐらし、
正平13年(延文3、1358)10月10日(実際には翌年との説あり)に多摩川の矢口の渡しで義興を謀殺します。
しかしその後、義興の怨霊が祟りをなし、人々は義興を「新田大明神」として祀った、という逸話が伝えられています。
江戸時代に平賀源内がこの逸話を下敷きに戯曲「神霊矢口渡」をヒットさせたことでいっそう有名になっています。

分倍河原駅から南武線で南下、武蔵小杉で東急に乗り換えて多摩川を渡ります。
そしてその名も「多摩川」駅で東急多摩川線に乗り換えて新田神社最寄りの「武蔵新田」駅へと向かいます。
東急各線には僕はこれまでとんと乗ったことなく、路線図も頭に入ってませんでした。
多摩川線の「都会の中のローカル線」ぶりには逆に驚かされもしますね。



これが「武蔵新田」駅。「武蔵」がつくのは宮城県に先に「新田(にった)」駅があったためと思われます。
いかにも門前町風の商店街を抜けるとあっさり「新田神社」に到達。今度は迷いませんでした(笑)。「新田大明神」の旗には家紋の「大中黒」があります。


これが境内。神社自体はこじんまりとしてますが説明版やらアイテムはいろいろと。都会の神社らしく「若者向け」「女の子向け」に媚びた感じも目についたような。ま、神社も大変なんでしょう。本堂裏手に義興が葬られたという塚があります。
境内に立つ巨大「破魔弓」。説明によるとゆかりの人物である平賀源内のアイデアで神社で魔よけの弓矢を売り出したのが「破魔弓」の始まりということでこのモニュメントがあるんだとか。この手の有名人の「始まり話」は話半分に聞いておいた方がよさそう。

東急多摩川線の次の駅がまさに「矢口渡」で、周辺にゆかりの地がいくらかあるようですが疲れたのでパス(笑)。
このあと多摩川線で蒲田まで出て、あとはまっすぐ帰りました。
予想はしてたけど蒲田駅の発車メロディーはやっぱり「蒲田行進曲」なのですなぁ(笑)。
次回の南北朝旅行はいつになるやら…そろそろ近畿まで足を延ばさなきゃいけないかな。


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