母の手伝い・・

小さな町へ引越ししてきて学校での生活も始まり、
父も仕事に・・母もパートの仕事に・・
何処にでもある家族の生活が暫く続いた。

ある時、母が 私に言った。
「母ちゃんねパートから正社員として働こうかと
 思うとるよ、それにはあんたの協力が必要なんよ
 正社員になると夕方帰るのが遅くなるんで
 夕食の支度を毎日手伝ってくれると、社員として
 働けるとやけど、どうね?あんたがいやなら仕事は
 やめんといかんけど・・・」

母の言葉にわたしは、そくざに
「うんいいよ、手伝う!」
母は安心したような顔をし「ありがとう」・・と
その時私は小学校五年生になっていた。
それから私の学校と家の手伝いの毎日の始まり。

母は朝五時三十分頃に起きて、まず掃除。
その間私は朝食の準備とみんなのお弁当作り、
学校へ行く前に、父からその日の夕食の材料費を
貰って・・・材料費は決まっていた。
なんと六人家族分で三百円。
父は足りなかった分なんてくれなかったから・・
なんとかやりくり、お醤油が無くなった、
お味噌が無くなった、お米が無くなった、と言うと
決まって言う言葉があった
「もう無くなったのか?早すぎる」・・と言って
材料費はくれようとはしなかった。

そんな父に、小言を言われるのがいやで、
仕方なくこんな日は、味付けを工夫したり、
米が無い時はだんご汁や、うどんにして
お腹を満たしていた。

・・・こんな懐かしい思い出も、
おかずがな~んにも無かった時、
子供たちはお腹が空いていたので、暖かいご飯に
お砂糖をたっぷり入れて「砂糖ご飯」に
これがお菓子みたいに美味しくて、私たち子供は
味占めて時々母に内緒でお砂糖をかけたご飯を
おやつにしていた。この頃のお砂糖はなぜか
沢山我が家にあった。

母の給料は全部、父が管理していたので、
母の自由になるお金は無かった。
学校のノートや鉛筆、消しゴム等を買う時も
父から同じ言葉が返ってきて怒られている気分だった
そしてノートのチェックや持ち物のチェックが始り、

父は黙って・・それでもくれなかったので
私はノートの書くところが無い時
余白の所や裏表紙に書いていた事がある。

父の言葉はいつもなぜか怖く感じていたので、
催促する時は自然と・・夜のうちに
紙に書いてテーブルの上に置いていて、その分の代金を
置いてくれてあるのを期待して待った事も・・。

でも・・置いて無いことが多かった。
そんな時母に言うときまって
「かあちゃんはお金を持っていないから
 とうちゃんに言いなさい」・・と

やっと消しゴムや鉛筆が買えたとき、
兄弟三人で一つの消しゴムを切って分け、鉛筆も一本を
三等分に切って使った。

おかずの材料は新鮮なものは買えず、
お店のおじちゃんに「この魚、炊いたら食べられる?」
聞いて捨てられる存在の物を安く分けてもらい
野菜は虫食いでこれもまた売り物に
ならないものを貰って来ていた。

大抵の野菜は自宅裏の畑で作っていたけれど。

我が家の自家栽培


         手伝いその二・・