昭和の初め 父と母その二

生活・・そして出産

成績がよくて正義感が強く、曲がったことが
大嫌いな父は、生来の一本気な性格が災いしたのか
職場で上司との折り合いを悪くしてしまい、
せっかくの国鉄を辞め、無職になっていた。そんな時
母のお腹には(わたし)が宿っていた。

そんな頃、父の実家で新生活を始めていた母への、
お姑さんの冷たい仕打ちが続いていて、
母はじっと耐えていたんだそう。
例えば、朝食の準備をしようと朝起きると、
すでにお姑さんが食事を作り朝食も、後片付けも
済ませ、火鉢のそばでキセルでタバコを、
プカリ・プカリと噴かせ、そ知らぬ顔・・
母にもお腹の子にも食事のない日が続く事が
あったんだとか。

父はと言うと・・
当時の人気歌手神戸一郎似の持ち前の美貌?
(周りの人達からもてはやされていた・と聞いた)
に身を任せ、家にも帰ったり・・
帰らなかったりだったそうだ。

そして・・七ヶ月目の頃、母の容態が急変。
このままでは母体も子供も危ない・という事で
わたしは早々とこの世に出されることになった。
当時は保育器も無く、まして自宅での出産・・・
母のお腹から出てきた私は、体重八十匁?ぐらいで
両手の中に頭から足まですっぽり入る大きさで、
仮死状態であったらしい。

産声をあげない赤ん坊に、
産婆さんから「この子は諦めてください」との
言葉があったとき、父は号泣した・・と聞いていた。
その時、産婆さんが、赤ん坊の足を持ち、いきなり
逆さに吊るして、背中を平手で叩き始めた所、暫くして
赤ん坊はか細い泣き声を出し始めたのだそうだ。

こうして・・私は、なんとか
地球上に生を受ける事が出来た。

しかし、この時の私には当然のことながら、
その後、成長していくにつれ、身の上に
さまざまな苦難降りかかることなど
知る由がなかったのです。
自宅が火事に・・・


         生まれてきたけれど・・