戦後の昭和(生まれてきたけれど その二)
  
火の手が・・・
肺炎が治ったばかりの私を、母は、こんな寒い日に
外には出せない、と家に残して出かけた。
この頃はストーブも、暖房器具もない家庭、
あるのは 掘りコタツだけ、
この私を掘りコタツに 寒くならないように・・
風邪を引かないように・・と
沢山洋服を着せ、コタツの中へ寝かせておいた。

しばらくして、
母は歩きながら消防自動車のサイレンを聞いた。
けれど、ちょうど消防出初式の日で、最初は
そのサイレンだろうと思っていたそうだ。

ところが・・次第に胸騒ぎが大きくなって、
急ぎ足になった母の目に飛び込んできたのは何と、
赤い車に取り囲まれた我が家だったのです。
消防自動車が駆けつけたときは、すでに
近所の方々の、バケツリレーで、火は消されていた・
との事。私としては、
消防の放水を浴びなくてよかった。?
私の異常な泣き声と、煙の臭いに、いち早く
火事に気が付いた近所の人は、
消防に電話をするとともに、
バケツリレーをして、火に水をかけながら
誰かがドアを開けて中に入り、洋服がくすぶり
泣き叫んでいる私を抱え上げ、病院へ運んだのだと
後年に聞いた。
母は誰から自宅の火事を聞くでもなく、
我が家に転がるようにして帰ってみたら、家の中は、
未だ煙が充満していたらしい。

火元は・私。掘りごたつのコタツがけを
寝ている足で火元へ押しやったのが
燃え移り、私の衣服にも火がついたらしい。

幸いにも、今とは違い、この頃は
ナイロン製品やアクリル製品が少なく
身に着けたものが、シャツは綿、
セーターも、綿入れも純毛だったおかげで、
くすぶった状態が長くて助かったのだろう
その時の母は、気が動転して
覚えていないとの事で気が付いたら
病院にいたらしい。

私は身体に火傷を負い、
ずっと泣き叫んでいたそうだ
それもそうだろう・火傷の深度は「三」ということ。
皮膚が再生する事はない程の火傷を負っていたのだ。
さいわい顔には傷は無く、火傷の範囲は
綿入れを着ていた部分以外の
腕と頭をやられたらしい
顔が大丈夫だったのはおそらく、
うつ伏せで泣き叫んでいたせいだろう

背中が燃えていた・と
近所の人が言っていたそうである。

そんな中、父が病院に駆けつけてきた。
いきなり母を殴ったり、蹴ったりしたそうだ、
お医者さんや看護婦さんが慌てて止めに入った。
と・・これは父から聞いた。

父は娘の哀れな姿を見て、母が憎くなったに違いない

けれどもその時の母の心中は
いかほどのものだったろうか・・・
精神的に大きなダメージを受けたことだろう。

母から聞いた事

「発見があと1分遅れていたら助からなかった。」
「火傷の範囲が身体の半分以上だったら助かっていなかった」
母は心労の極地であったことだろう。

母の苦悩



         母の苦悩・・