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1月21日
突然、無性にクリストファー・プリーストが読みたくなったので、いまさら『逆転世界』(創元SF文庫)を購入。もちろん新刊……、といいたいところだが近所の新刊書店には売っていなかったので、残念ながら古本だ。新刊で買える買うべき本を古本屋で買うのはひどく抵抗感があるが、見当たらなかった物は仕方が無い。

こちらもいまさらながら、プラット『バーチャライズド・マン』(ハヤカワ文庫SF)を読了。『フリーゾーン大混戦』を読んでいた時にはガジェットの山に翻弄されて気づかなかったが、どうやらプラットは小説が上手いようだ。
60年代の亡霊のような爺が人格を電子化してアナーキズムのユートピアを作るというどうしようもなくSFな設定であるにもかかわらず、少なくとも序盤はテクノスリラーかなんかのように読めるのだから驚きだ。明らかにSFになってしまう中盤以降も、序盤に丹念に書込まれたキャラクターのおかげで、転調の違和感をほとんど感じることなく読み進むことが出来る。電子人格ものでは屈指の完成度といえそうだ。この完成度がSF性を犠牲にしてのものなら、完成度なんざ犬に食われちまえ、ということになるが、これまた驚いたことにSF性は微塵も揺らいでいない。若干、壮大さにかけるという憾みを除けば、ほぼ完璧なSF小説になっている。これで、表紙とタイトルさえ、もう少し一般的する物だったらねえ。惜しい作品を亡くしたものだよ。

無性にノンフィクションが読みたくなったので、帰りがけに近所の書店でブルーバックスと中公新書をあわせて3冊購入。ついでに『宇宙家族カールビンソン』の7、8巻を買う。帰宅後眺めたところ、『カールビンソン』の8巻には未見と思われる回が収録されていた。徳間版との比較による確認はしていない。

森下一仁『思考する物語』(東京創元社)読了。読者の度肝を抜く派手さも、反論を封殺する鋭さも、半可通を圧倒する博識も無いが、簡潔にして要を得たSF論はさすが森下。あくまで「センス・オブ・ワンダー」に拘りぬいた定義論の第一部、若干NWを過大視するきらいのあった歴史記述の第二部の後は、SFの可能性を探るテーマ論の第三部。NWの作家らしく、「従来のSFは終わった」派の人なので、80年代のもう一つの極、科学者系ハードSFや、90年代を席巻した(という人もいる)ラディカル、ハードSFなんぞには目もくれないし、フェミニズムSFの可能性を賞揚する一方で、サイバーパンクには既に終わったという烙印を押したりする(まあ、終わったんだろうが)。このあたりの確固とした態度は実に好感が持てる。その論旨に納得できるかどうかはまた別の話だが。

1月22日
ふと思い立って、一部の本を実家に送り付ける準備をする。結果的に、ハードカバー30冊、マンガ60冊ほどを送り付ける計画となったのだが、かかった作業時間は明らかにそれに見合うものではなかった。「畳の下から出てきた新聞」は魔物であることを今更ながらに痛感。

足立恒雄『無限のパラドックス』(講談社ブルーバックス)読了。久しぶりに数学の本でも読もうかと思ったら、数学史の本だった。序盤、ギリシア哲学における無限とはという話をしていたあたりは突っ込みが浅いながらも面白かったが、中世神学を越えて、近代数学に入りはじめるとだんだん難しくなってくる。最後の現代数学における無限の話までくると、イデアルだの体だのがろくな説明も無しに出てくることもあり、イメージをつかむのがやっとのありさま。ワイエルシュトラウスだのデテキントだのワイルだのといった名前が出てきたのは懐かしかったが、懐かしいだけで終わってしまったような気もする。こちらの基礎教養が足りないんだと言われればそれまでだが、現代のパートはこのページ数(70頁弱)に収めるには内容が多すぎたのではないだろうか。

1月23日
本を読んだり、部屋を片づけたり、ファンジン用の原稿を書いたり。四百字きっちりのレビュー5本というのは、思ったより大変だった。いつもは、字数制限なんて気にせずに書き飛ばしているからなあ。この原稿はSFセミナー合わせで発行予定の、名大SF研OB-ML初の紙ファンジンに掲載予定なんで乞御期待。いや、期待してもらうほどでもないけど。

今回、レビュー用の本をひっくり返していて気づいたのは、自分にとっての翻訳SFの黄金期が、80年代末から90年代前半であるということだ。この時期は、人によっては「SF冬の時代」そのものとして認識されている時期なんだけど、ラファティの『どろぼう熊の惑星』を筆頭に、名作が数多く出ている。ラッカーの諸作、ラファティの『トマス・モアの大冒険』、スラデックの『遊星よりの昆虫軍X』、プラットの『フリーゾーン大混戦』、カンデルの『キャプテン・ジャック・ゾディアック』、ベイリーの『時間衝突』<ジャスペロダス二部作>。いずれをとっても、『キリンヤガ』だの『星ぼしの荒野から』だのといったせいぜい名作であるにすぎない代物を遥かに越える傑作ぞろいだ。僕のSF観はこの時期に形作られたと言っても言い過ぎではないだろう(←言い過ぎです)。
今の秀作、名作SFの洪水を喜びながらも、あの頃の再来を心の片隅で願い続ける今日このごろである。

1月24日
自身の責任感溢れる発言から、書くべきレビューが2本増えてしまう。自分で言い出したことながらやや呆然。今度は読まないといけないらしい。 < だから、読まずにレビューを書くんじゃない

そういえば、昨日の傑作リストでは<奇才>ワトスンのことをすっかり忘れていた。『スロー・バード』<黒き流れ>もこの頃に出た傑作ですね。そうか、94年ってのはプラットとカンデルとワトスン3冊が出た年なのか。他にも『器官切除』だの、『パラダイス・モーテル』だの傑作が並んでいるし、本当に充実した年であったことであるのだなあ。

1月25日
昼休みに近所の書店で、SFマガジン3月号を買うついでに、『仮想空間計画』『終わりなき平和』『いさましいちびのトースター火星へ行く』『太陽の王と月の妖獣』を購入。買う前に、「SFまで10000光年」を読んでいたら、隣で立ち読みしていた青年も、その隣で立ち読みしていた紳士も同じページを見ていることに気づいてしまったのは内緒だ。
# おそるべし、中野ブロードウェイ

夕方休みに近所の書店で「ハヤカワ文庫解説目録」の95年1月分を見つけてしまう。僕は、92年7月以降の早川の文庫目録をおそらく全部持っているのだが、これだけは欠けていたのだ。しかたがないので、ひょっとしたら読まんでもない程度の文庫を2冊ほど購入し、ついでのふりをして貰って帰る。ああ、良い買い物をした。

昨年まで東洋大SF研の編集長として、美しい誌面のファンジンを提供し続けてくれた齋藤さんが、自身のWebサイトにハヤカワ文庫SF 年鑑98年度版を掲載している。オフライン版を持っている方も、持っていない方も要チェック、かも。

ディッシュ『いさましいちびのトースター火星へ行く』を読了、というかなんというか。カバー折り返しの登場電気器具表には初めて気づいたのだが、前からあったっけか、これ。
トースター………ぴかぴかボディのサンビーム製
とか、
電気毛布…………明るい黄色
とか、良すぎ。

1月26日
ふと、「帰るため会社を出ること」を表現する言葉は何か、ということが気になった。退社で良いような気もするが、この不況の折、「退社後、しばらく早稲田通りをぶらついてから帰宅」などと書いてしまうと、「会社を辞めた」の意味に取られないかという心配がある。そこで、困った時には先輩諸氏の叡智に縋るべきだ、と名大OB-MLで聞いてみる事にした。幾人かの先輩が調べて下さったところによると、やはり退社で良いらしい。しかし、「退社」には前述の「会社を辞める」の意味がある事も間違いはないので、意味が紛れないように文章に気を配る必要があるようだ。奥が深い。

というわけで、退社後、しばらく早稲田通りをぶらついてから帰宅。今後、このような文章表現で悩まないように、中村明『文章工房』とか買ってしまった事である。

1月27日
ほんのちょっとしたミスで、いつもの電車に乗り遅れ4分遅刻。たかだか、4分で午前半休を取った事になってしまうのはやや納得が行かない。もちろん、フレックスタイムを限界まで使えば、10時30分到着でも間に合うってのに、4分も遅刻するんじゃないという声もあるかもしれないが、それはそれ、これはこれだ。

そんなこんなであまりに気落ちしていたので、つい油断して昼休みにまんだらけに入ってしまう。しかたがないので、島本和彦『燃えるV』1巻(少年サンデーコミックス)、坂田靖子『くされ縁』(JUNEコミックス)、同『ゾウの肩かけ』(プリンセスコミックス)、『バジル氏の優雅な生活』1、2巻(花とゆめコミックス)を購入……したつもりだったのだが、後に見てみると『バジル氏』は2、3巻だった。まあ、そういうこともある。

そんなわけで1巻を手に入れそこなった『バジル氏』以外を一通り読む。
『燃えるV』は、2〜4巻は持っており、5巻も読んだ事があったので、持ってないだけだと思い込んでいたが、驚いた事に初読だった。内容は清く正しいスポコンマンガの第1巻。やはり、ヒーローは登場時に既にヒーローでなくては。挫折は2巻以降で十分だ。
『くされ縁』は「JUNE」の連載をまとめた短篇集。一応、掲載誌のカラーはあるが、しょせん坂田靖子なのであまり気にならない。白泉社のB5版コミックスを持っていると、重複が多いのが難点か。
『ゾウの肩かけ』は、坂田靖子の一方の得意技、街中のファンタジーを中心とした短篇集。どれも穏やかな良い話だが、中でも少年物の2作が良かった。

さらにクリストファー・プリースト『逆転世界』(創元SF文庫)も読了。
荒野に敷かれたレール上を進み続ける「都市」という大ネタが、まずすばらしい。後方のレールを必死で前方に持ってきて、レールが完成したら「ちょっと」進むことを繰り返す都市の姿は愛らしくさえある。これだけでSFとしての使命は果たしたと言っても良いだろう。
また、都市が進む理由を与える世界設定も秀逸だ。若干、論理が破綻するところはあるが、その辺は描写のリアリティと、イメージの異常さで十分に乗り切っている。視点人物の成長とともに、読者に世界の真の姿を開示するというオーソドックスな手法が完璧に機能しているようだ。笑いを誘わんばかりに異常な世界を読者に論理的に受け入れさせる、これをSFの醍醐味と言わずして何と言おう。南/過去に進むにつれ、あるいは北/未来に進むにつれ歪んでいく世界のグロテスクな美しさは、そしてそれを論理的に受け入れてしまう自分に気づいた時の衝撃は、他では得難いものだ。この時点で、傑作である事を保証されたと言って良い。
このように中盤までは非常に優れた作品であったが故に、終盤の展開は惜しまれる。(以下、ネタバレにつき同色フォント)終盤で、あたかも真実であるかのように示される世界観では、作品中盤までに示された事実を十分に説明できないのだ。落ちを大雑把にまとめれば、「すべては気の所為でした」となる。確かに、サイズの歪み程度であれば、これでも説明可能かもしれないが、主人公や主人公の父に現れた老化の加速現象がこれで説明できるとは思えない。一応、これも「プラシーボ効果はかくも偉大だ」という話だと考えれば説明でき無いことはないが、説得力にかける事は否めない。やはり、「知覚の異常」で説明するには、前半の世界が異常にすぎるのだ。プリースト自身はさすがにその辺は用意周到で、実は主人公正しかった可能性は残されているのだが、さっと読んでしまうと、主人公が頑固なだけであるように読めてしまう。真実に説得力が無いのに、主人公が頑固だといわれても違和感を感じるだけだ。不用意な読者にはギャフン落ちを、注意深い読者にはどちらが真実かを決め兼ねる認識の揺らぎを与えるという形式は悪くないと思うのだが、「真実」にここまで説得力が無くては、認識の揺らぎは発生し得ない。前半の世界を複雑にし過ぎた結果、作者にも説明できなくなったのではないかという疑いが濃厚だ。ラストの余韻もまた傑作である事を再確認させてくれるだけに、終盤で評価を下げてしまったのは残念。もちろん、作品の価値は落ちではなく作品中での最高到達点にあるのだという立場に立てば、文句無しの傑作ではある。少なくとも、読まずに批判する事を許すような作品ではない。

あまつさえ中村明『文章工房』まで読了。全体に押し付けがましいところが無く、文章に対する評価も納得できるものであり、著者が信頼できるということは良くわかった。ただ、いかんせん、新書であるのでリファレンス的な使い方をするには情報量が圧倒的に足らない。 < 当然である。
単純に読み物として割り切るなら、同じ著者の『悪文』の方が良かったかも。

1月29日
Webサーフィン中に見かけたページに刺激され、Wizardry #1を、二人パーティでクリアするというミッションに挑戦する(一人でクリアをやろうとしてみたが、4人立て続けに死んでしまったところで諦めた)。メンバーは戦士一人と僧侶一人。ACに限界のある僧侶はやはり弱く、ふと油断すると死んでしまう。戦士がLV8まで成長する間に、僧侶は4人も死んでしまった。しかし、それでも戦士LV8、僧侶LV7となんとか戦えるレベルまで成長したので、目処は立った気がする。あとは、どこまでこの幸運が続くかだ。

夕方から、名大SF研OB-ML東京組の飲み会。7時から10時過ぎまで飲み、11時半から翌朝まで歌って帰宅。久しぶりに歌う「突撃ラヴハート」は実に無残な出来だった。

1月30日
つい油断してWizardryの続きを始める。始めて15分ほどたったところで、6 ZOMBIESと遭遇。僧侶のMANIFOが間に合わず、二人とも麻痺し、全滅となった。呆然。
飽きたからもういいや。

細井さんのSF-MLへの投稿によりヴァン・ヴォクトが死去したことを知る。享年88歳くらい。昨年の光瀬龍に比べればまだしも読んだ作品は多いが、同時代感覚が全く無いだけに感慨はやはり無い。

1月31日
先日来、ちはら掲示板で、時ならぬアナグラム・ブームが巻き起こっている。このような、古典的遊びが次代に伝承されていくのは、すばらしいことである。しかし、二十歳前後の若者達の書込みを見る限りでは、アナグラムの解法という基本的技術がうまく伝わっていないようだ。これはいけない。アナグラムも満足に解けないようでは、立派なSFゴロとは言えないではないか。ここに、掲示板に記載された問題(『うらぁフリーのドラゴンめぇーーい』)を例に取り、解答に至る過程をまとめておくので参考にされたい。なお、今回の方法は、正解に当たる題名の作品を知らない場合のものである。知っているタイトルの場合、一部過程は省略される。

 アナグラムを解く際に最も重要なのは、キーとなる文字を見つけることである。かなの各文字は均等に使われるわけではなく、一部の文字はごく限られた文字との組み合わせでしか使用されない。そのような文字を見つけることが解答への早道となる。
 例に挙げた「うらぁふりーのどらごんめぇーーい」の場合、「ぁ」「ぇ」がそのようなキーキャラクタとなる。「ぁ」は「ヴァ」「ファ」「ツァ」以外の形で使用されることは非常に稀であり、また「ぇ」も「ウェ」「ヴェ」「フェ」「ツェ」以外の形で使用されることは多くない。よって、与題は「ファ」「ウェ」を含むと推定できる。
# 例外は常に存在するが、それはより可能性の高いルートが頓挫してから検討すれば良い。
 また、「ウェ」を含む文字列もそう多くはない。今回のケースでは「ウェン」「ウェイ」「ウェー」などが考えられる程度である。仮に、最も可能性の高そうな「ウェイ」であるとしてみる。そうすると残りの文字は、「らりーのどらごんめーー」となる。
 次に、残りの文字列が何であるかを検討する。この時点で音引き(「ー」)が3個も残っていることに着目しよう。音引きは、通常カタカナ語で使用されるので、残りの文字列は外来語を一つ以上含んでいるものと推測できる。それを念頭において上記文字列を眺めていると……、○○○○○○○○という単語を思いついた。これを除くと、残りは「らのー」。「の」は助詞と考えて、「ラ」「ー」「ファ」「ウェイ」を組み合わせると、「×××××××」という単語が出来る。タイトルは「○○○○○○○○の×××××××」あるいは「×××××××の○○○○○○○○」だろう。
 最後に、検索エンジンで「×××××××の○○○○○○○○」を引いてみる。直接は引っかからなかったが、「×××××××」&「○○○○○○○○」という条件でとあるサイトに到達。『△△△△(×××××××)の○○○○○○○○』が正解であることが確定した。

このように、(1)特徴的文字の使い道を考え、(2)残りから長めの単語を割り出し、(3)断片同士を繋ぎあわせてタイトルらしくし、(4)資料で存在することを確認する、という過程を辿れば、知らないタイトルですら解くことは可能である。重要なのは(1)の段階なのだ。

最後に、1/31日朝までの出題の正解を挙げておく(矢印の先に同色フォントで記載)。できれば、解答を見る前に再度挑戦してみて欲しい。


今日の名言。中野駅にて、「5番線の黄色い線の外側を歩いているお客様。何があろうと、線路にだけは降りないで下さい」。そりゃ、そうだ。

ジョン・ヴァーリイ『スチール・ビーチ』を上巻まで。今のところ、目も眩まんばかりのガジェットの嵐のおかげで楽しく読めている。感動はしていないが、感心はしている。

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