AIR Short Story


  翼人伝・邪説



  第2話 〜祈願〜(前)


 母上が、余の耳元で何かを呟いている。

 余は、赤く染まる母上の衣を見ているだけで、何をして良いのか判らなかった。

 しかし、母上は胸に矢を受け震える体で、余の耳元になお顔を近づけようとしながら、何かを言おうとしている。

 どんな言葉を呟いているのかは判らなかったが、その紡がれる言葉の一つ一つと共に、余の身に見えない何かが

入ってくるのが感じられた。

 それは、いままで見たことがない光景だったり、言葉だったり、知識だったり、そして、人間の顔だった。

 つい先程まで全く知らなかった事を、今は当たり前のようにそれらについて知っている・・・

 いままで何の疑問もなく使っていた”余”というものがいかに似合わない言葉遣いであったのかとか、母上が

いかにしてこの様な場所に閉じこめられてしまったのかも、全てが判ってしまった。

 母上は一部の愚かな人間の為に、大切な人と引き離され、このような場所に閉じこめられた事。

 その人間達によって、意のままに母上を従わせようと幾つもの呪いをかけられていた事。

 さらに、自分の存在が有るが為に、それらを破ることも可能であったのにもかかわらず、ずっと耐え続けていた事。

 どうして、自分が”神奈”と名付けられたか。さらに、その奥にあった母上の本当の気持ち。

 そして・・・・・いま、自分が柳也に抱いている気持ちを何と呼ぶのか。

 ”怖い・・・”

 いきなり、自分が知らない物が数多く流れ込み、今までの自分では無くなってしまうのではないか、

という不安が襲ってくる。

 (柳也、柳也、助けてほしい・・・)

 そう言葉に出そうとした。

 柳也ならば、きっと助けてくれるに違いない。

 無愛想で、無礼な物言いながらも、どこか優しさを感じるような眼差しで。

 あの嵐の中、命懸けで余と裏葉を山中に連れ出してくれたように、そしてこの旅の中、余との「不殺の誓い」

を守りながら、支えてくれたように。

 自分の身に深い傷を負いながらも、その誓いを守ろうとしたように。

 けれども、それは、母上の言葉で遮られた。

 (神奈、怖がることはありません)

 いや、言葉ではなく、心に直接呼びかけられたように感じた。

 現に、目の前の母上は、すでに声もひどく細くなっているが、ずっと何か呪文の様な言葉を呟き続けている。

 (大丈夫ですよ、神奈。

  これは・・・私たち翼持つ者に伝わる、儀式なのです)

 (儀式・・・)

 心の中で呟いたとき、その”儀式”の知識までも、余は持っていることに気付いた。

 次々に入ってくるもの。

 そのなかに、母上の言う”儀式”もあった。

 一族が、遙か昔から執り行ってきたもの。

 母から子へと、脈々と受け継がれてきたもの。

 翼をはためかせて空を翔る術や、自ら風を起こす術、そして、火を起こす術など、今までまったく考えも

つかなかった事・・・

 そしてそれと同時に、血をずっと繋げてきた、今までの一族達の”記憶”を受け継ぎ、この星に生まれた

人間達を未来へと導く事が、務めだと言う事・・・

 その為に、母上達一族が、忘れることを許されずに、生きてきた事。

 この星に生まれて間もない、まだひとりで歩いて行くにはまだ未熟な人間達。

 一瞬、母上を射た兵の暗くゆがんだ不気味な笑みが頭に浮かぶ。

 人を殺すことに何の躊躇いも無く、欲に目を眩ませて突き進む愚かな生き物。

 (母上や、父上をこのような目にまで遭わせてもなお、この務めを果たさなければいけないのか・・・)

 悔しさで唇を噛みしめたが、その時、母上の声が心の奥で響く。

 (神奈・・・そうあまり悲しいことばかりではないのですよ。

  そういう者達がいる一方で、いい人達ともたくさん巡り会えたのですから・・・)

 母上の記憶が深く染み込んでくる。

 私はどうして生まれたのか。父上はどんな方だったのか。

 それらの記憶が、母上の視線を通して伝えられてきた。

 ”神など無し”と、あえてわたしの名前を付けた時。

 それでも、母上や父上と一緒に暮らしていた人間達は、一緒に自分の誕生を祝い、喜んでくれた事。

 普通の人間のこと何も変わることなく、祝い、ひと目見たさに次々と庵を訪ねて来た事。

 その時まだ生まれたばかりのこの身に与えられた、人々の温かい眼差しがあった事。

 その後母上が、わたしの為に苦しい生き方を強いられ、また、自らそれを耐え抜こうとしていた事。

 翼人の務めと、余の存在の狭間で、ずっと苦しんでいた事。

 しかし、いかに母上が、父上が苦しもうとも、わたしにだけは幸せになって貰いたかった、と本当に

心から願っていた事。

 そして、体の弱っていて足の遅い自分が足手まといになって逃げられなくなるのを避けるため、

わざと矢に体を向け、その命を絶とうとした事。

 ・・・今ならわかる。母上の願いは、もう永遠に叶わなくなってしまうという事が。

 翼人も、当然ながら不老不死などではない。当然傷つき倒れれば、そこには「死」が訪れる。

 (訪れる「死」の前に、翼人は託すべき我が子に全てを受け継がせる・・・)

 その知識も、その引き継ぎの言葉も、もはや自分には判っていた。

 (母上は・・・全てをこの身に委ねたのだ。呪いも、務めも・・・

  余や裏葉、そして、柳也を信じて・・・乗り越えられると信じて・・・)

 どの様にしてここまで旅をしてきたのか。

 裏葉や、柳也がどんな活躍をしてきたのか。

 その話を、母上は嬉しそうに聞いてくれた。

 そして、何とかお手玉を綺麗に宙に舞わせてみようと、夢中で手を動かした。

 せめて、一度でいいから母上の前で見事に舞わせてみたい。

 (頼む、頼むから・・・)

 だが、自分の手もお手玉も、思うようには動いてくれなかった。

 そして・・・・・すぐ横にたった今まであった母上の気配が、途切れた。

 母上の声が聞こえなくなって、暖かだった気配が消えてしまっても、それを信じたくはなかった。

 閉じた目を、再び開けてくれるのではないか。

 目の前で微笑んでいる母上は、すこし休んでいるだけなのではないか。

 また声をかければ、目を開けてこちらを見て微笑んでくれるのではないか。

 このお手玉を見事に舞わすことができれば、もしかしたらまた声をかけてくれるのではないか。

 ・・・そう考えようとしたが、その母上から受け継いだ知識が否定する。

 心のどこかでは、もう判っていた。

 母上が目を開けることは、もう無いんだということが。

 もう、話を聞いてくれることも、無いんだ。

 でも、それでも、誰かに「そんなことはない」と言って否定して欲しかった。

 辛そうに頬を叩いた裏葉は、それを否定した。

 ・・・・・そっと肩に手を置く柳也も、何も言ってはくれなかった。

 ただ、柳也の手が、体が震えていたのが、全てをありのままに示しているかのようだった。

 逢ってからの時間が、あまりにも短かった。

 ”儀式”で、母上からの記憶は受け継いだけれども、自分から母上に伝えたい事がたくさんあったのに。

 母上は・・・判ったのだろうか?

 自分が、母上に産んでもらったことを、この世に生を与えてくれたこと、感謝していたということを。

 それは、伝わったのだろうか?



 母上の静かな微笑みは、もう何も語ってはくれない。



 (神奈、次はあなたが頑張る番ですよ。・・・がんばりなさい)

 その時、そうどこかから聞こえてきたのが、最後に心に届いた母上の声だった。



 第2話 終わり



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