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近況メモ(二〇〇二年)

 

平成一四(二〇〇二)年〜「初詣で」から「新学期」へ

一月六日(冬晴れ)

 謹んで新春のお慶びを申し上げます。お正月はいかがお過ごしでしたか? 小生は、娘が高校受験ということもあって、国立(くにたち)の谷保天満宮へ家族で初詣に行った以外は、のんびりと過ごしました。谷保天満宮は、平安時代、この地に菅原道真の息子が流されたのが縁で建立され、ゆえに、学問の神様が祭られているのです。

 

一月一二日(冬晴れ)

 きょうはとても暖かく穏やかな一日でした。さて、我が家もようやくフレッツISDNに切り替えました。世の中はADSLが多いようですが、今の小生のパソコンの使い方(動画や音楽などをパソコンを使って取り込むニーズはなく、ワード、エクセル、住所録、文章中心のホームページ運営、電子メール、インターネット程度)なら、とりあえず今のISDNをフレッツにするくらいで充分だと判断し、切り替えが簡単なフレッツISDNにしました。もし、動画を本格的にパソコンで取り扱う必要が出てきたら、パソコン自体を買い替えて(何しろ今の小生のパソコンときたら、ウィンドウズ九五搭載のNEC・LavieNXという古典的な代物です)、かつ、通信には光ファイバーを利用したいと思います。何となくADSLは中途半端な気がしますが、皆さんのご意見はいかがでしょうか。

 

一月一九日(曇り) 

 旧暦カレンダーがじわじわ人気を集めている、という正月の朝日新聞の記事に触発されて、「月と季節の暦」(月と太陽の暦制作室=電話〇三−三六一七−〇四〇四=が作成)を神保町の東方書店で手に入れました。月の満ち欠けを基準に太陽の運行との整合も考慮した旧暦(太陰太陽歴)は、古代中国で生まれ、東アジアで広く使われてきました。日本でも、明治以前、人々の暮らしは旧暦で律せられてきました。今でも中国系の国々では、新年は旧暦で祝います(いわゆる旧正月)。旧暦の面白いところは、暦が自然の運行とぴったり合っていることです。例えば、ことしは、新暦の二月一二日が旧暦の元旦に当たり、旧暦だとお正月はまさに梅がほころぶ「新春」にふさわしい季節になります。また、新暦の四月一五日が旧暦では「桃の節句」=三月三日に当たり、実際に桃の咲く季節が「桃の節句」になる、といった具合です。近代人はあまりに月の運行を無視してきました。しかし、月の満ち欠けは、実は人間の体や暮らしに大きな影響を与えているのです。人工物に囲まれた小生の生活に、少しでも自然の移り変わりや季節感を呼び戻すべく、ことしは、旧暦カレンダーも見ながら暮らしてみようと思います。ちなみにきょうは旧暦では師走(一二月)七日です。

 

一月二六日(曇りのちみぞれ雨) 

 今週の水曜、木曜と大阪へ出張しましたが、当地で見聞きしたことから大阪経済の衰微を強く感じました。御堂筋の心斎橋そごうが閉店し幽霊屋敷のような様相を呈していること、難波では都市銀行の支店の玄関前が浮浪者の溜まり場になっており、シャッターを開ける前によく掃除して消臭剤を噴霧せざるを得ないような状態になっていること、地場銀行の金融仲介機能が低下して中小企業が資金繰りに苦しんでいること等々。ただ、街行く人の顔は東京に比べて特に暗いという印象はありませんでした。また、小生が行った懐石料理屋は、値段が安く、かつ、回転を早める為に2時間という時間制限を設けるなど、大阪らしい合理主義が奏効して随分賑わっていました(懐石=高級=値段が高くてゆったりしている、というイメージを払拭する新しいタイプの懐石料理屋でした)。大阪人のたくましさは健在です。がんばれ、大阪!

 

二月二三日(晴れのち曇り) 

 昨年末に受験した初級産業カウンセラーの試験、合格通知が来ました。半年間いっしょに学んだクラス仲間の人たちも合格しているといいのですが…。

 

三月九日(春晴れ) 

 きょうの東京は平年の四月中旬並みのぽかぽか陽気でした。お茶の水駅下の神田川の土手には桜が咲いていましたし、神保町の街角ではモクレンがあざやかに白い花を咲かせていました。いやな花粉症の季節ですが、ことしは医者の薦めでいつもと違う点鼻薬を使ってみたところ、非常に調子がいいです。朝夜のくしゃみ、鼻水がほとんど無く、外出時にマスクも要りません。久々に春を楽しむことができそうです。ちなみにその点鼻薬はフルナーゼという名前です。

 

三月一七日(春日好天) 

 期末でたださえ慌ただしいのに、新人事制度の導入や新卒の採用活動やらが重なり、我が人事部はまさに猫の手も借りたい忙しさです。皆さんはいかがお過ごしですか? さて、このウェブページ「古典派からのメッセージ」もおかげさまで四〇〇〇アクセスを越えました。これまで訪れていただいた皆さんに心からお礼申し上げます。今後も、流行りものに流されず、生活者として自身考え感じたところを誠実に記してまいりますので、時間のある時にお立ち寄りください。

 

三月三〇日(花晴れ) 

 小生の家の近くの国立(くにたち)大通りの桜は、盛りこそ過ぎたもののまだ充分鑑賞に耐えるほど咲いています。特に枝垂桜は今が満開です。さて、今週は期末の慌ただしい一週間でした。きのうは金曜日の期末日でもあり、業務が終わってから打ち上げをやっている部署も多いようでした。

 三月経済危機を煽っていたマスコミの矛先が政治スキャンダルに向かってくれたおかげで、どうにか平成13年度を乗り越えることができた日本。それにしても、マスコミの恥も外聞も無い「生け贄探し」が近年ますます狂暴になってきたように思われます。このハイエナのような「第四の権力」のせいで、日本の政治も経済も実体よりずっと悪く国民に印象づけられていると思います。私たちは、政治や経済の負の面こそが最も売り物になるという、国民の福利と利益相反するマスコミの宿業をよく認識して日々新聞やテレビに接しなければなりません。

 

四月一四日(晴れ) 

 娘の高校の新学期が始まり、会社では期初の部店長会議も行われ、希望と多難とが交錯した新年度が始まっています。みずほ銀行のシステムトラブルはひょっとしてとんでもないことになる恐れがあります。一時的な障害では済まないかも知れません。これまで日本の銀行の良さは事務と決済の正確さだったのに、この事態は情けない限りです。同業者として他山の石としたいと思います。

 さて、昨日は、勤め先の九段下から東京ドーム、本郷の古い町並み、東大校内、不忍池、上野山、寛永寺と散策してまわりました。好天に恵まれ大変気持ちの良い町歩きができました。こうして歩いてみると、東京はけっこう緑豊かであること、また、起伏に富んでいることを実感しました。上野山や寛永寺を歩いていると、将軍慶喜の大政奉還に飽き足らない幕臣たちが彰義隊を作ってここで薩長軍と戦った意気地が何故かしきりにしのばれました。

 

四月二八日(快晴) 

 四月二六日で満四六歳になりました(星座は牡牛です)。会社の同期や学校の同窓生たちは、次第に頭が薄くなったり白くなったり、或いは老眼が出始めたりしていますが、幸い小生は今のところそういう現象に見舞われていません。でも一年経つのが年々速まっているように感じられるのはやはり年齢の所為でしょう。信長が合戦前に好んで舞った幸若舞「敦盛」の一節にあるように、昔は「人間五十年」でした。確かに、事を為し遂げるための時間はもうそんなに長くはないかも知れない、という思いが微かに胸をよぎる時もあります。しかし今はむしろ、「四〇代後半は社会的生き物としての生命の充実期だ」という実感の方が強いのです。

 

平成一四(二〇〇二)年〜「初鰹」から「蛍」へ

五月五日(晴れ) 

 「目には青葉、山ほととぎす、初がつを」(山口素堂)の季節になりました。きょうは端午の節句です。この日は別名菖蒲の節句とも言い、もともとは厄除け魔除けの行事が行われる日でした。本来の端午の節句(旧暦の五月五日)は、今の暦では六月中旬であり、天候不順な梅雨の季節に邪を取り除く行事が行われたわけです。確かにその季節の方が邪除けが必要だという実感に合います。しかしきょうは何と例年の七月初旬並という異常な暑さなので、邪除けにはちょうどいいかもしれません。

 菖蒲の効能は、傷口の保護、疲労回復、冷え性や神経痛や風邪の予防などで、鎮静作用によって傷口の保護、疲労回復の効果があります。端午の節句に邪気を払うとして重宝されたのが菖蒲湯です。風呂に菖蒲の茎や葉を浮かべれば、抗菌作用をはじめとする薬効があり、しかも香りが爽やか。日本古来からのアロマテラピーです。厄除けの菖蒲の節句が現在のように男の子の節句になったのは、「菖蒲」の音が「勝負」や「尚武」に通じるためだそうです。

 

五月一二日(曇りのち晴れ) 

 きょうから旧暦では卯月(四月)、季節は夏になります。きょうは、娘のリクエストにより、国立(くにたち)の「甚吾郎」という蕎麦屋に出かけブランチをとりました。国立駅南口の大通り沿いの並木で、ホオの白い、黒と白の体のすばしこい鳥を見つけ、後で「日本野鳥の会」のHPで調べたらハクセキレイという鳥でした。また、クチバシと足の黄色いムクドリの群れがしきりに餌を捜して草むらをついばんでいました。ムクドリは時々我が家の庭にも来るのですぐわかりました。

 さて、小生は愛知県出身なので、もともと中日ドラゴンズのファンなのですが、今年ばかりは阪神タイガースを応援しています。ドラゴンズが今一つ冴えないこともありますが、今年の阪神の躍進振りには心惹かれるものがあります。監督が替ると選手がこうも活き活きするのかと、あらためて組織の中のリーダーの重要さを思い知らされると共に、勝つ経験、成功体験がいかに大切かということも阪神の選手たちを見ているとよくわかります。阪神が優勝した方が日本の景気にもいいと思います。頑張れ、星野監督!

 

五月一九日(晴れ間の見える薄曇り) 

 先週、東京は、まるで梅雨入りしたようなじめじめした日が続き、紫陽花(あじさい)が今にも咲きそうなほど鮮やかな薄緑色に膨らんできました。しかしきょうは久しぶりに青空が見えていい気候です。さて、五月一四日でこのサイトも開設二周年を迎えました。最初は、書き溜めたものが尽きたところでおしまいかな、くらいのつもりで始めたのですが、毎週末に「心にうつり行くよしなしごとを、そこはかとなく」(徒然草・序段)書き付けているうちに二年過ぎていました。この間訪れていただいた皆さんに心からお礼申し上げます。

 

五月二五日(快晴) 

 きょうから普段着を半袖にし、夏用サンダルを買い、冬物背広はクリーニングに出しました。夏の到来です。さて、今月一四日の新聞に「仏教西へ」という記事が載っていました。イランで古い仏像群が見つかったのです。インドのはるか西方での仏像群の発見は、仏教が古代に西方世界まで伝播した可能性を示すものではないか、との興味深い記事でした。仏教は「東漸」しただけでなく「西漸」もしたらしいのです。古代ペルシアやローマでも仏教が広まっていた可能性は高いと僕も思います。その痕跡や影響はどんな形で西方の文化に残ったのでしょうか。仏教は土着の文明と混交しやすい寛容な性格ですので、ペルシア文明やローマ文明の中でどのような役割を果したのか、見えにくいのかもしれませんが、大変興味深い世界史のテーマだと思います。

 

六月九日(快晴風強し) 

 「父の日」ということで、娘から「なまけたろうの癒しグッズ」をもらいました。二種類の入浴剤とひのきボールが入っていました。ひのきボールはひのきを単に丸く削ったものですが、独特の芳香が、鎮守の森深くに入り込んだような気分にさせてくれます。

 さて、先週は体調を崩してしまいました。熱と下痢、吐き気がひどく、とても立ち上がれない状態になって一日欠勤してしまいました。何となく先々週あたりから顔の肌荒れや肩凝りが来ていたので体調が悪いのはわかっていましたが…。会社を休んで近所の内科で診てもらったところ、ウィルスだとのことでした。このY内科クリニックのベテランドクターは大変丁寧に患者を診てくれる良医です。クリニックが、お年寄りやそのお孫さんなど地域社会の人たちの社交場にもなっていました。ふだん地域社会と接点の少ない小生にとっては新鮮な風景でした。おかげさまでもらった薬も効いて今はだいたい体調回復しました。それにしてもこんな不調になったのは久しぶりです。蒸し暑くなり、過ごしにくい日が続く季節ですので皆さんも体には気をつけてください。

 

六月一六日(曇り) 

 祝・サッカーワールドカップでの日本の決勝トーナメント進出! 一次リーグを見ていて、中田英や稲本の落ち着き振りが印象的でした。欧州などで他流試合をしている選手はやはり精神的に強い。日本国内だけの内弁慶名選手では駄目だ、と、つくづく感じました(ゴルフでも、丸山茂樹には世界での存在感を感じますが、尾崎将司には感じません)。この国際化戦略はトルシエ監督が主導したと報道されていますが、彼の選手育成方針は大当たりでした。また、今回の日本チームの連中を見ていて、「指示に従って動く」だけでなく、「自ら自発的にゲームを創造してゆく」姿が印象的です。こうした知性と自律性は今までの日本のスポーツ選手には無かった素養ではないでしょうか。世代の交代と共に、日本における集団と個との関係が少しづつ進化し成熟しつつあるように感じました。

 

六月二二日(曇り) 

 きょうの東京は最高気温二〇℃と四月の気候に逆戻りです。電車の中で老夫婦が交わしていた「梅雨寒」という言葉が印象的でした。さて、サッカーワールドカップでの韓国選手の強さは並大抵ではないですね。精神的なハングリーさが日本選手と比べて相当違います(他の外国選手と比べても異質のものを感じます)。彼らの意欲の高さは何に由来するのでしょうか。兵役免除の特権や金銭だけとは思えません。小生は彼らに「国を背負っている」という強烈な自負心と誇りを感じます。経済的な成長の影で国際情勢に翻弄され続け、北朝鮮に対して愛憎半ばする複雑な心情を抱きつつ困難な対応をせねばならない韓国国民。恵まれた戦後史を過ごした日本人とは比べものにならない、強烈な「国」への思いが、選手から噴出しているように小生には見えます。

 

七月七日(晴れ時々曇り) 

 先週のある日、朝、家の玄関で「やもり」を見つけました。どこから迷い込んだのか、コンクリートの上を慌てて逃げ出そうと不器用に走っていました。「やもり」は偶に小生の部屋の窓にもピタッとくっついていたりします。漢字では「守宮」と書き、家の周囲の害虫を食べてくれるので家の守り神と言われる、とかげに似た爬虫類です。さて、きょうは久しぶりに青空の一日でした。それも空の色が梅雨前とは全然違う紺青です。すっかり夏の空になっていました。久々の好天ゆえ、床屋へ行き(QBハウスという最近急速に店舗展開している千円ポッキリ、時間十分、カットのみという床屋です)、金魚の水槽を掃除し(金魚たちがとても生き生きと喜んでいるように見えました)、春物衣類をクリーニングに出したりしました。いよいよ夏の到来です。

 

七月一三日(曇り時々雨) 

 今日の東京は、蒸し暑く、小生も午前中少し外出しましたが、それだけでぐったりと疲れてしまうような日でした。午後は本を読もうとクーラーを「ネオドライ」にして寝転がっていると、知らぬ間に二時間も昼寝してしまいました。さて、最近、本格的な懐石料理を楽しむ機会がありました。肉類をほとんど使わず、海山の自然の幸、とりわけ季節のものをふんだんに織り交ぜたメニューでした。日頃レトルト食品や化学品添加食品や肉魚類をたっぷり摂っている体が、この食事によって浄化されてゆくように感じました。お店の中庭には蛍が放たれており、命の健気さとはかなさを感じさせる、蛍の緑色の舞いを久々に鑑賞しました。

 

七月二一日(夏晴れ) 

 日曜日の朝はNHK・FM放送が楽しみです。まず七時一五分からは「能楽鑑賞」があります。以前から能には惹かれるものがあり、いつかは本格的に勉強、鑑賞したいものだと念じていますが、気軽に能の音楽を聞ける機会としてこの番組は貴重です。ミニディスクに録音して楽しんでいます。ちなみに今朝の演目は世阿弥の作である「山姥」。人間の妄執の象徴ともとれる山姥の舞いがクライマックスを形成しています。解説書によれば、「凄愴な鬼気が満ちる中に一種の温和優美な感じもある」とのことですが、小生にはそこまでの鑑賞力はありません。ただ何となく部分部分の古語がわかるのを頼りに、全体の雰囲気を味わっている程度です。能を聴いていると、レンガでも石でもない、まぎれもない日本の木の感触と匂いを感じ、郷愁と安らぎと回帰感に身を委ねることができるのが好きです。

 さて、「能楽鑑賞」の後、八時からは「名曲の楽しみ」があります。これは小生の愛する音楽評論家、吉田秀和氏の訥々(とつとつ)とした語りを楽しみにしているものです。最近半年はドヴォルザークの生涯に沿ってその音楽を紹介しています。「朝は夜より賢い」という言葉がありますが、日曜日の朝に早起きすると、確かにすがすがしく頭が冴えたまま一日を過ごせるような気がします。

 

八月四日(晴れのち曇り) 

 先週初から、勤務先の九段下ではミンミンゼミのたくましい鳴き声が聞こえ、自宅付近の木々ではアブラゼミの鳴き声も聞こえてきました。夏真っ盛りですね。学生が夏休みでいなくなり朝夕の通勤電車が空いてきましたし、会社でもそろそろ夏期休暇に入る人もいて、何となくこの季節、のんびりした気分になります。

 

平成一四(二〇〇二)年〜「空の深い青」から「転勤」へ

八月一〇日(夏晴れ) 

 旧暦では水無月(六月)が終わり、立秋が過ぎて季節は秋(文月=七月)に入っています。そう言えば空の青が深い色に変わりつつありますね。でも東京は連日猛暑が続いています。街を歩く人たちはペットボトルのお茶を持ち歩いていることが多いですね。確かに脱水症状を起しかねない暑さです。

 さて、この週末は、家族で奥多摩へ避暑に行ってきました。ちょうど奥多摩町はお祭りで、お神輿も出て花火大会もやっていました。久々に夜空に咲く華のような打ち上げ花火を鑑賞しました。浴衣姿の若い女性たちの姿が祭りに映えて美しかったです。温泉に浸かり、多摩川の源流の渓谷を散策し、束の間の「命の洗濯」をして帰ってきました。

 

八月一八日(雨) 

 台風が近づいて、東京は久々にまとまった雨が降っています。先週水曜日から夏休みをいただき、きのうまで小生と家内の実家に家族で里帰りしていました。向こうでは特に何をするということもなく、もくもくの入道雲を見ながら本を読んだりしていました。お陰で本を三冊読み終えました。二冊は新刊で、福田和也氏の「日本及び日本人の復活」(三笠書房)、小室直樹氏と大越俊夫氏の共著「人をつくる教育、国をつくる教育」(日新報道)、あと一冊は古典で、浅野裕一氏訳解「孫子」(講談社学術文庫)です。

 前二者は、最近の小生の関心―日本人の規範、特に指導者層のための規範をどう構築すべきか―から読んだものです。日本におけるノブリス・オブリージュと生活の日本的合理主義を確立するために、「武士道」という古来の規範が有効であることが最近気づかれつつあるようです。小生自身、武士道の、死を意識した透徹した合理主義こそ日本の指導層のエートスたるべきである、との信念を深めつつあるところです。

 「孫子」の兵法も合理主義で貫かれています。精神主義や神秘主義を捨て、戦争の不確実性を排除して「勝つべくして勝つ」にはどうすべきか、を徹底的に追求した古典が「孫子」なのです。「孫子」は単なる軍事技術書ではなく、最も良質な政治学の教科書です。

 

八月三一日(残暑晴れ) 

 夜は秋の虫の音が賑やかになってきましたが、今年は夏の終わりを告げるツクツクボウシの鳴き声をあまり聞きません。まだしばらくは暑い夏日が続くということなのでしょうか。それとも我が家周辺の環境悪化のためにツクツクボウシがいなくなりつつあるのでしょうか。近所の大きな病院が新しい医療施設に生まれ変わる予定なのですが、今までの豊かな森の多くをを切り倒してしまっているのです。我が家の周辺は、創建当時は日本一の規模を誇ったと言われる武蔵国分寺の遺構の周辺に武蔵野の面影を残す森も多く、「はけ」と呼ばれる断崖や湧き水もあり、自然の豊かな地域です。この病院の周辺も近隣の住民にとっては良き散歩道なのですが、森が削られてゆくのは大変残念です。

 

九月二二日(雨) 

 お彼岸には自家製おはぎを家族で食べましたが、残念ながら仲秋の名月は雨で見られませんでした。しかし、先週残業で夜遅くなり暗い夜道をとぼとぼ歩いていた時、ふと見上げるときらきら輝くほぼまん丸の月を見つけ、ちょっと幸せな気分になりました。本当に明るい月でした。さて、先週末に、七年来愛用してきたメガネが壊れてしまいました。お気に入りの縁無しメガネだったのですが、もう寿命だったのでしょう、もともと弱かったレンズとの接合部分の金属柄がぽっきり折れてしまいました。さっそく馴染みのメガネ屋さんへ行き、検眼してもらったところ、乱視が進み老眼の徴候もあることが判明しました。これらの身体の変化にも対応した、次の十年間(?)小生の目を託すメガネを作ってもらいました。

 

一〇月六日(曇り) 

 人事異動で金沢に勤務することになりました。今月一五日には向こうに着任します。金沢は、小生、特に地縁はありませんが、歴史のある街なので、好きになりそうです。単身赴任の侘しさはありますが、かの地での生活を楽しみたいと思っています。このウェブページは続けてゆきますので、引き続きよろしくお願いします。

 

平成一四(二〇〇二)年〜「氷雨」から「白銀世界」へ

一一月三日(雨時々氷雨) 

 金沢へ転勤して半月、ようやく仕事も軌道に乗りつつあり、住む所も決まって落ち着いてきたところです。小生が住んでいるのは、単身赴任者向けの賄い付きマンションで、食事や身の回りのことは至って快適、しかも通勤は自転車かバスで職場まで二十五分程度という近さです。

 きょうは雨天にもめげず、内灘という海岸まで行ってみました。風が強かったため、目の前に見る日本海の荒波はすごい迫力でしたが、気温が低いため雨がヒョウのような粒粒に変わって傘を激しく打ちつけ、しかも雷まで鳴り出したので、ほうほうの体で帰ってきました。太平洋側育ちの小生にとっては、日本海側の気候に慣れるのが大変です。おいおいこの素晴らしい文化都市金沢について語って行きたいと思います。

 

一一月一〇日(曇りのち晴れ) 

 きょうは北陸地方も久々に良い天気になりました。自転車を飛ばして金沢港まで行き、虹のかかった海やタンカーや漁船を見ながら潮風に吹かれていました。さて、先週の連休には、妻と娘がこちらへ初めて観光に来ました。小生もまだほとんど観光地には行ってなかったので、案内するというよりは、一緒に観光案内を見ながら、東の茶屋街や兼六園といった最も一般的な金沢の名所を見て回りました。娘は小さい時から麩(ふ)が好きで、当地の名物の一つ、麩料理や麩のお菓子を喜んでくれました。ちょうど解禁になったもう一つの北陸の名物である蟹と比べると大変安上がりです(笑)。

 

一一月一七日(晴れ) 

 先週、金沢から西へ二十キロほどの加賀市の橋立という所へ行く機会がありました。橋立は古くからの漁港で、そこで獲れた蟹をたらふくいただきました。茹でた蟹の一匹まるごとや蟹の刺し身などという東京ではまず食べる機会のないものばかりでした。この小さな漁港も、江戸時代は、上方(かみがた)と北海道とを日本海を往来する北前船貿易で大変栄えた所で、当時の北前船の船主の立派な館も残っているそうです。現代の金沢も、海に向かって開けつつあります。石川県庁が現在の金沢城・兼六園周辺から、金沢港近くに移転する予定であり、再開発された金沢駅の西側では、郊外型のレンタルCD店やスポーツ用品店やファミリーレストランなどが若者や家族連れで賑わっており、「シーサイド金沢」とでもいうべき繁盛を見せ始めています。「利家とまつ」の居城金沢城や兼六園や先の北前船に象徴される歴史と伝統ある金沢ですが、こうした「現代都市」としての一面も持ちあわせているのです。

 

一一月三〇日(雨) 

 この季節になると、ここ金沢は雨あられとともに、雷が鳴ります。それも深夜、早朝にです。「雷は夏の夕方の風物詩」というのは、太平洋側の人間の偏見だということを教えられた次第です。さて、金沢は、太平洋戦争の戦災に遭っておらず、古い町並みがここかしこに残っています。小生は、この街を歩くと、小さい頃里帰りで訪ねた両親の故郷、愛知県の豊橋の町並みを思い出します。その頃(昭和三〇年代後半)の豊橋は、まだ汽車が走っており、木造の風格ある家屋がそこかしこに見られました。そうした窓に格子の嵌まった木の家々がここにはまだかなり残っています。そして、金沢では、東の茶屋街もそうですが、そうした家々が現に人に住まわれ、使われているのです。つまり、古い建物たちは、明治村に展示されているような博物資料ではなくて、現に生きているわけです。その自然なたたずまいが小生は大変気に入っています(住んでおられる方々の維持管理は大変だとは思いますが…)。

 

一二月八日(雨) 

 高校時代の友からこんなメールをいただきました。

【……金沢は、僕も何度か訪れたことがあります。観光客としてのわずかな間にも非常に色濃く「文化」というものを感じさせてくれる町でした。特に、町を歩いていると「謡」の声がどこからともなく聴こえてきたり、香林坊の大きな本屋さんの一角の壁一面が謡の稽古本で占められていたことが強く印象に残っています。

 また、赤字を承知で極めて質の高い「オーケストラ・アンサンブル金沢」を維持し続けているところにも金沢の心意気を感じます。アンサンブル金沢の名古屋公演には何度か出かけましたが、そのたびに、小編成にもかかわらず馥郁たる弦の豊かな響きと格調の高い音楽性を感じています。……】

 文化都市金沢かくの如しです。さて、小生、先週は、勤務先銀行の中間決算の説明で取引先を回ったり、支店の組織改革をやったり、地元のロータリークラブに初めて顔を出したりと、なかなか忙しかったのですが、私生活では、さる人のお誘いで、謡を習い始めました。金沢は、前田家が宝生流の能を保護し、まさに友の手紙にあるように、今でもその伝統が引き継がれており、若い女性も含め、謡や仕舞を習う人が結構いるようです。

 また、きのうは、さる方のお招きで、石川県立音楽堂へ「オーケストラ・アンサンブル金沢」のチャリティコンサートを聞きに行きました。もとウィーンフィルのコンサートマスター、エーリヒ・ビンダーさんを指揮者に招き、ベートーヴェンの田園交響曲とレハールやヨハン・シュトラウス一族らのオペレッタからの何曲かを聞かせてくれました。アンサンブル金沢についても、友の手紙のとおりです。弦の艶やかさ、きびきびした音楽運びはなかなか見事でした。何より印象的だったのは、演奏者と聴衆が一体となって心から音楽を楽しんでいることでした。金沢市民に溶け込んだこの素晴らしいオケを、小生もこれから何度か聞きに行くことになるでしょう。

 

一二月二六日(雪) 

 金沢はきょう最高気温四度、雪やみぞれの混じる一日でした。いよいよ雪用長靴を欠かせない季節になってきました。

 さて、先々週、この冬初めての本格的な降雪がありましたが、ちょうど小生は東京へ出張に行っていました。その帰り、上越新幹線・越後湯沢から特急「はくたか」に乗って金沢に戻りましたが、新幹線が谷川岳を貫通する長大な清水トンネルを抜けて越後湯沢駅に到着すると、それまでの太平洋側の穏やかな冬の風景が一転して一面の雪景色に変わりました。まさに「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」のです。そこから直江津、糸魚川、魚津、富山と、日本海に沿ってずっと白銀世界が続きます。雪はしんしんと降り積もり、外を歩く人の姿は殆ど無く、車も雪に埋もれながらそろそろと走っている世界です。太平洋側で生まれ育った小生は、この静謐な世界を眺めながら、「幸いなるかな、太平洋側の人々!」とつくづく思いました。冬の間、北陸地方の人々のあらゆる活動は鈍くならざるを得ません。小生の勤務先銀行金沢支店も、雪の日は来店客数がガタッと減ります。戦国時代、上杉謙信も冬の間は行軍できなかったのです(尤もこうした仕事上の気象条件のハンディも、転勤族で半ば観光客気分の小生にとっては、太平洋側では味わえない美味しい海の幸や酒で充分埋め合わせされているのですが…)。

 では皆さん良い新年をお迎え下さい。

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