近況メモ(二〇〇三年一月〜六月)
平成一五(二〇〇三)年〜「小寒」から「白山詣で」へ
一月五日(吹雪)
新年おめでとうございます。「新春」という言葉は、本来の暦(旧暦)でこそ実感が湧きます。というのも、旧暦の元旦は今の暦の二月一日ですので、まさにようやく春の気配が漂い始める頃なのです。今の暦の正月は寒さがこれからで、とても「新春」の実感はありません。きょうは旧暦では師走(十二月)三日で「小寒」と称し、この日からまさに「寒の入り」をするのです。金沢はきょう吹雪の一日で、まさに寒の入りにふさわしい日でした。小生は旧暦カレンダーを金沢の我が部屋に掲げています。月の満ち欠けを基準にした旧暦の方が、はるかに季節の移り変わりと暦とが一致していて好きです。
さて、この正月、小生は、金沢から米原経由で愛知県の実家に帰りましたが、途中、滋賀県の彦根城へ寄り道しました。彦根城は戦国期に建造された原型が残っている数少ない城のひとつで、天守閣の中も当時のまま太い木を組んだ空間が残っていて見事でした。実家では、落ち合った妻と娘を連れて、九十七歳と九十四歳になる二人の祖母(娘にとっては曾祖母)を訪ねたり、近所の神社へ参詣に行ったり、のんびり過ごしました。
一月一九日(曇り)
明日は「大寒」、一年で最も寒い季節になりました。小生にとって初めて経験する北陸の冬ですので、体調に万全を期したいと思います。
さて、金沢ゆかりの大河ドラマ「利家とまつ」も終了しましたが、小生、この地について、こんなことを考えました。まつの方が十六年間江戸で人質となり、前田家は徳川に臣従することになったのですが、もしこの時、利家の長男、前田利長が家康に戦いを挑んでいたら、歴史はどう展開したでしょうか。恐らく前田家は滅亡したでしょうが、前田家の気迫に励まされて秀吉子飼いの武将たちが団結して家康に対抗するようになったかも知れず、家康の天下取りは定かならなかったかも知れません。戦いを避けることで前田家は天下の帰趨よりも自家の保身を図ったわけです。加賀の領主は、良くも悪しくも中央への関与を捨て、堅固で強大な地方領主として生きる選択をし、その繁栄は江戸期を通じて続き、繁栄の中で領民の気質が形成されました。現在では、石川県人は、「石橋を叩いて渡る」タイプで冒険心には富んでいないが、「身の丈」を大事にし、「人に優しい」のが身上、と言われます。僕のささやかな経験でも、確かに金沢の人は、名古屋人や京都人と比較して、よそ者にオープンで人見知りをあまりしないと感じます。
しかし手堅くて優しいだけの加賀の人たちでしょうか。前田家が入ってくる以前、この地は、一向一揆が守護大名富樫氏を滅ぼし、一向一揆共和国が一〇〇年も維持されたのです。宗教共同体、自治共和国を一〇〇年も維持した加賀の人たちは、堅実というより激しい情熱にあふれた人たちであったはずです。一向宗自治政府の栄光と悲劇的な最期の歴史を読むと、前田家治下の金沢だけが金沢ではない、と感じる次第です。
一月二九日(吹雪)
きょうの金沢は激しく雪嵐の舞う吹雪の一日でした。約三十センチ雪が積もり、日中の気温も氷点下三℃という世界でした。列車や飛行機も運行休止が相次ぎ、高速道路も一部通行止めになったりしました。そんな日でしたが、小生は、雪をかいくぐって、業績急回復中の地場名門企業を二社訪問し、様々な切り口での当行との取引拡大を勧奨して回りました。
さて、今回は、前回を受けて、加賀人の気質と金沢の課題について考えてみたいと思います。江戸期、前田家は、その生き残り術により、中央へのコミットメントを捨て、それが習いとなった結果、現代でも、金沢という街は、独自の魅力を持った北陸の中核都市でありながら、中央からの情報や状況を受信し、それによって自らのあり様を決定する、受動的で環境適応型の生き方をしているように思われます。
確かに加賀の人々の特徴は、江戸期に育まれた保守性と優しさにあります。しかしその下層には、戦国期に一向一揆共和国を一世紀も維持した反骨精神や激しい情熱が潜んでおり、それが、「芯の強さ」となって現れていると小生は感じます。その秘めたる強さを発揮して、今こそ金沢の独自性を中央へ、全国へと発信すべき時ではないでしょうか。
この街には古き良き物がたくさん残っています。昨年の大河ドラマを見て、金沢の人々が自らの出自(アイデンティティ)に自信を深めつつあるのは、大変良いことだと思います。行政が、古い町並みを保存したり、経済成長期に機能優先で無くしてしまった由緒ある江戸期の町名を復活させたりしていますし、小生も加わらせて頂いている金沢経済同友会が「金沢学」を打ち出すなど、財界も自らの独自性を意識しつつあります。もともとこの地域の企業経営者には、文化や環境に意を用いる方が大勢いらっしゃるのです。こうした文化と環境を大切にする金沢の良さこそ日本の良さであり、世界に向かって日本固有の価値を発信することこそが今の日本に必要なことなのです。その意味で、金沢の良さを全国へ、全世界へと発信すべきだと考えます。小生も「身軽な全国銀行」の金沢支店の責任者として、金沢と中央との取り結びに少しでもお役に立てれば、と思っています。
さて、最近、このウェッブページを見ていただいたある方から、興味深いメールをいただきました。「古代、中世においては、北陸では越前や能登の方が先進国であり、加賀はそもそも越前の一部だった。室町時代に開拓が行われるまで、加賀は沼沢地の多い未開の地であった」という内容でした。確かに北陸地方の古代、中世のことはあまり知られていませんし、それだけに、興味津々な世界です。ぜひ古代・中世に栄えた能登や越前の町々も探訪してみたいと思います。
二月一一日(雨)
ここ数日は北陸地方も暖かな日が続いています。先日は暖かさに誘われて、古代から北陸地方の人々の崇拝を受けてきた、白山連峰の麓に鎮座まします白山比刀iしらやまひめ)神社へ参拝に出かけました。白山比盗_社の起源は西暦紀元前の崇神天皇の頃といいます。石川県の新県庁の最上階から白山連峰を見渡したことがありますが、本当に拝みたくなるような秀麗な山々です。白山はまさに歴史時代以前から、縄文人や弥生人の崇拝の対象だったのでしょう。
さて天気予報によれば、また明日からは寒さがぶり返してくるとのこと。季節の変わり目の体調には充分ご留意してお過ごしください。
平成一五(二〇〇三)年〜「咲き初めの白梅」から「木蓮の花」へ
二月一六日(雨のち曇り)
石川県の北半分は、日本海に突き出した能登半島です。能登は、今でこそ、和倉温泉に象徴されるような風光明媚な観光地のイメージが強いのですが、古代においては加賀などよりはるかに先進国であり、平安時代には、大陸の渤海国との交流の中心地でもありました。能登・門前町の総持寺は、曹洞宗の最も権威ある寺院です。小生も、総持寺の住職、板橋興宗師の卓話を金沢でお聞きする機会がありました。板橋師は「自然に触れることの大切さ、節制を宗として生きるべきこと」を切々と説かれ、小生にとっては、都市生活に漬かりきった自分を自省させる貴重なお話でした。
門前町の総持寺と言えば、たまたまこの寺に題材を採ったドイツ映画「MON―ZEN」が、金沢のミニシアター「シネモンド」で上映されており、小生も最終日に見に行きました。物語は、子だくさんのセールスマンである兄ウーヴェと、ちょっと現世離れした風水カウンセラーである弟グスタフの中年兄弟が、ウーヴェが妻子に逃げられたのをきっかけに、現世の苦悩と慌ただしさから脱出すべく、日本の禅の聖地、能登の総持寺で修行に入り、人生を問う心の旅をさ迷い、ついにそれなりの安らぎを得るに至る、というもの。中年兄弟の珍道中がコメディ風に描かれている前半と、総持寺での修行シーンのドキュメンタリー仕立ての後半とが好対照で面白く、小生もウーヴェやグスタフと一緒に心の旅をさ迷い、最後に総持寺の禅師が主人公たちに投げかけた包容力ある言葉によって心を癒されて映画館を出ました。
地味な映画なので、観客も少なかろうと思ったのが大間違い、二百人そこそこしか入らないミニシアターは超満員で、立ち見、座り見も大勢出るほどなのには驚きました。ご当地ものということもあるのでしょう、夜八時過ぎからの上映というのに、高校生たちも結構居ました。
この映画「MON―ZEN」はお勧めです。配給元のキネマ旬報社によれば、もう首都圏では上映期間を過ぎているそうですが、何と五月下旬にビデオ化することが決まっているそうです。見ていない方は、ぜひビデオを借りて見てください。仕掛けは派手だが心の栄養にならないアメリカのハリウッド映画などより数等優れた映画です。監督はドーリス・デリエというドイツの女流監督です。
二月二三日(曇り)
きょうは、小松市の小松公会堂での「新春・舞と囃子の会」へ出かけました。小生の謡の師匠、藪俊彦先生のお弟子さんたちの発表会のようなものですが、小生は、観賞能として藪先生ご自身がシテを演ずる「胡蝶」を目当てに行った次第です。この素晴らしい演能については別途感想を記しましたのでご覧ください。
さて、小松市は、金沢から南西へ二〇キロほどの街で、航空自衛隊の基地に併設されている小松空港が北陸への空の玄関となっています。ここには、昔、安宅の関があり、源義経が兄頼朝に追われ、山伏に姿を変えて奥州へ落ち延びる途中、この関で、弁慶が、偽の勧進帳を読み上げたり、主君義経を杖で打ち据えるなど、苦心惨澹してこの関を通り抜けた、との話が「義経記」にあります。後に、能の「安宅」や、能を原拠にした歌舞伎の「勧進帳」で有名になった説話です。
今、この街を歩くと、「細工町」「飴屋町」「本鍛冶町」「寺町」といった歴史を感じさせる町名とともに、格子の入った古い家屋がそこかしこに残っており、人通りの少ない休日であることもあり、時間がゆっくり流れているのを感じました。公会堂に隣接した芦城公園の白梅は咲き始めたばかりでした。
三月四日(雪)
ここしばらくは北陸地方も暖かく穏やかな日が続いていましたが、きょうの金沢は久しぶりに雪の舞う一日になりました。道路にもうっすらと雪が積もり、最高気温は三度と、真冬のような寒さでした。季節はもう旧暦で如月(二月)二日、明後日は啓蟄(穴に隠れていた虫たちが戸を啓(ひら)いて出て来ると言われる、二十四節気のひとつ)です。きょうの雪は冬の名残の「名残雪」でしょうか。
三月二三日(晴)
梅や沈丁花が香って、ようやく北陸地方にも春が訪れて来ました。けさNHK・FMの「能楽鑑賞」で、さる二月に逝去された人間国宝、松本恵雄(しげお)さんが生前に演じた「自然居士(じねんこじ)」が放送されました。「正義の味方」自然居士が、稚い少女を人買い商人から救うために、七日の説法が満願になるのを打ち捨てて駆け付け、少女を返す条件である舞を舞います。シテの松本恵雄さんの颯爽たる様をはじめ、出演の人たちのきびきびした動きが、音だけからも手に取るように伝わって来る素晴らしい演能で、小生は一変に目が覚めてしまいました。
三月三〇日(晴)
きょうは、大阪から思わぬ二人組が金沢を訪れてくれたので、小生の職場の同僚ひとりと一緒に四人で白山方面へドライブに行きました。四人の共通項は単身赴任者であること。つまり暇な単身四人組の優雅な日曜日というわけです。
金沢の南、全国的に有名な加賀の地酒「菊姫」の蔵元があり、また、二月一一日の「近況メモ」に記した白山比刀iしらやまひめ)神社がある鶴来町を抜けて、白山街道を車で小一時間も走ると、雪の残る白山山麓にたどり着きます。合掌造りの集落で有名な飛騨の白川郷へ抜ける白山スーパー林道は四月中旬まで雪に閉ざされていますので、その手前の一里野温泉で昼食をとり、ゆったり温泉に浸かりました。白山の山麓はここかしこに温泉が湧いているのです。この一里野はまたスキー場もあり、きょうも家族連れや若者でけっこう賑わっていました。帰りに立ち寄った手取川の渓谷にある「綿が滝」は、「綿」の名に似ず、思いのほか迫力のある滝でした。
きょうは本当にうららかな春の一日で、山里のあちこちの満開の白梅が、我々四人の無聊を慰めてくれたのでした。
四月一三日(晴)
北陸地方は今が桜の盛りです。さて、我が金沢支店の担当地域は、富山、石川、福井の三県です。昔の国名でいうと、東から、越中、能登、加賀、越前、若狭の五カ国です。先週の某日、担当地域中最も西の若狭は小浜にある取引先を訪問しましたが、その折小生は、若狭の隠れた名所を訪れてみました。それは明通寺(みょうつうじ)という真言宗のお寺で、鎌倉時代に建てられた本堂と三重の塔は国宝に指定されています。本堂は、桧皮葺(ひわだぶき)の柔らかな屋根や格子の入った蔀(しとみ)戸が特徴的な風雅な建物ですが、それにも増して、三重の塔は息を呑むような美しさです。このような山里に、こんな優美な三重の塔が静かにたたずんでいるとは驚きでした。本堂にある薬師如来座像は平安後期の作と伝えられ、密教仏らしい、ふっくらとした体つきに穏やかな表情の仏さまです。帰りの若狭路の列車からは、山里の新緑の田や木々に映えた満開の桜の景色を楽しみました。明通寺については、小浜市のホームページからアクセスできます。
四月二〇日(雨)
白やピンクの木蓮の花があちこちで咲いています。四月は別れと出会いの季節です。さて、今後の日本や世界の動静を考える上で、日下公人氏の近著「五年後こうなる」(PHP)は、大変有意義です。この本は、経済論と人間学の架け橋の役割を担っています。経済学だけで現実の人間社会の問題を解決することはできません。この本のような経済論を踏まえた人間学を私たちは学ぶべきです。
平成一五(二〇〇三)年〜「しゃがの群生」から「緑の水田」へ
五月六日(晴のち曇り)
連休はいかがお過ごしでしたか?
小生は、東京から妻と娘が金沢へ遊びに来たので、ゆっくりと家族で行楽して過ごしました。まず連休初日の五月三日は、金沢の北西海岸部、大野、金石(かないわ)の町を巡りました。「金沢港いきいき魚市」では、並べられた魚介類の豊富さに、この地域の海の恵みを感じ、後で実際に寿司屋でそれを味わいました。大野という町は、幕末のからくり師ないしは技術者である大野弁吉の住んだ所であり、また、醤油の産地でもあります。その独特の甘口醤油は、刺し身に相性が良く、土産に最適でした。古い醤油蔵や旧家の建ち並んだ大野の静謐な町並みは、あまり観光客にも知られておらず、自然なたたずまいが旅人の心を慰めてくれます。好天に恵まれ、私たち家族三人は海岸へ出て、波静かなコバルト色の日本海をゆっくりと眺めました。それから、海と港の安全を守護する大野湊神社に参詣し、北前船交易で一代の豪商となった幕末の伝説的人物、銭屋五兵衛の記念館も見て回りました。北陸の海岸地域には、北前船で富をなした商人が数多く出現したのです(北海道人の三分の一は、そのルーツが北陸三県にあるという話も聞いたことがあります)。さて、翌五月四日は、近江町市場にある「井の弥」でブランチを済ませたあと、能楽堂で金沢定例能を楽しみました。狂言「口真似」などをはさんで、「祇王」と「来殿」が演じられました。娘は能舞台を見るのも初めてでしたが、狂言の楽しさや能の独特の張りつめた雰囲気の素晴らしさを感じてくれたようです。妻と娘はこの日の夕方東京へ戻りました。
そして、連休最終日の五月五日は、いい日和に誘われて、金沢城の周囲を自転車で散策しました。「いもり坂」というお堀通りから城跡に上る坂道は、もみじ葉の薄い新緑が目にまばゆく、地面には白と紫の花をつけた「しゃが」が群生していました。城跡に上ると、櫓(やぐら)が点在しているだけの、広々として時の流れが止まった、下界とは全く違う空間がありました。午後は、小松へ、藪先生が後シテを演じる能「八島」を見に行きました。これら、連休中に鑑賞した能や狂言の感想を別途記したいと思います。
五月一一日(曇り時々雨)
週末は久々に東京に会議で出かけました。電車から見える、直江津と越後湯沢の間の、日本でも最も雪深い一帯も、田植えが始まっており、すっかり春から初夏に景色が変わりつつありました。山々には藤の花が咲き、新緑に薄紫が映えた美しい景色を見せてくれました。いよいよ夏背広に替えよう、と、きょうは冬物をすべてクリーニングに出しました。
五月一七日(薄曇り時々晴れ)
さる五月一四日で、このウェブページ「生方史郎の古典派からのメッセージ」も開設満三年になりました。これまで訪れていただいた方々に厚くお礼申し上げます。さて、兼六園の杜若(かきつばた)がそろそろ見頃を迎えています。濃い紫の花が新鮮な葉や茎の緑に映えて、何とも見事です。杜若といえば、伊勢物語の八橋の段で有名な三河八橋の無量寿寺は、我が生まれ故郷からさほど遠くないところにあります。一度杜若の花盛りの時に訪れたことがありましたが、目の届く限りに紫の湿原が広がって、まばゆいばかりの景色だったことを思い出します。兼六園の杜若はそれほどの花の数はありませんが、花見橋のかかった小川の両側に上品に並んでいます。その杜若の群れに程近い梅園では、緑の実をつけた梅の木々が、力一杯太陽に向って葉を伸ばしていました。季節はもうすっかり夏です。
五月二五日(薄曇り時々晴れ)
北陸の初夏はいい気候です。冬が厳しいだけに、この穏やかな晴天はありがたみがひとしおです。先週など、東京のほうが雨の日が多かったようですね。さる土曜日は、能登半島の東の付け根にある氷見(氷見牛と称する牛肉や氷見うどんが有名です)の円照寺で催された燭火能を見物に行きました。浄土真宗の寺である円照寺の、蓮如上人没後五百年の行事の一環として奉納されたものです。
六月八日(晴れ)
紫陽花(あじさい)がまさに花を咲させんとする季節になりました。兼六園沿いのお堀通りには、白、薄い桃色、紅色と、目にも鮮やかな躑躅(つつじ)の花が咲き競っていました。
六月二二日(薄曇り)
蒸し暑い日が続きますが、お変わり無くお過ごしでしょうか。稲がどんどん伸びて一面に広がる緑の水田の美しさは、この季節特に素晴らしく、金沢郊外にも眩い緑の絨毯(じゅうたん)が見られます。