近況メモ(平成一七[二〇〇五]年七月〜八月)
平成一七(二〇〇五)年〜「雨の小暑」から「残暑の中の転勤」へ
七月一〇日(日)雨
旧暦では水無月(6月)に入り、水無月2日(今の暦では7月7日)は「小暑」でした。旧暦カレンダーによると、「小暑」とは、「暑気に入り暑中見舞いが出される季節。梅雨末期の集中豪雨に注意」とありましたが、そのとおり、先日も取引先へ行く途中の高速道路で、ワイパーも間に合わないくらいの豪雨に遭いました。ここ金沢の最高気温はまだ30℃に届かず、最低気温も22℃前後で、さほど暑苦しい、寝苦しいというほどではありませんが、雨降りが続いて湿度の高いむしむしした気候です。皆さんも体調には気をつけてください。
七月一六日(土)雨のち曇り
今週は雨続きで、梅雨がなかなか明けませんね。でも雨間のわずかな時間に今年初めての蝉(セミ)の声を聞きました。まだとても弱々しい鳴き声でしたが・・・。さて、娘の誕生祝に浴衣をプレゼントしたところ、さっそく彼女のブログにこんな感想が書かれていました。
「だいたいサイズは165センチまでで、172センチの私が着れるようなサイズは無かったのですが、浴衣には大まかなサイズはあっても、おはしょりで調節できるということで・・VIVA和服! 下駄(げた)は左右関係ないということや、浴衣の名称なども今日はじめて知りました! 腰骨に合わせるとか、体型をカバーできていいですよね。着付けできるか心配でしたが、家で一回やったら結構簡単でした。歩く時とかちょっと不便だけど、着心地が良くって病みつきになりそうです。着方を忘れないためにも、これから一日一回は着ようと思ってまーす。携帯で撮ったら何故か紫地になってしまったけど、本物は黒地にピンクの帯です。」
なんだか嬉しそうでいいですね。プレゼントしたこちらまで嬉しくなってしまいます。
七月二三日(土)晴れ
北陸地方も梅雨明けして、毎日蒸し暑い夏の日が続きますが、最高気温は30℃を超える程度で、太平洋側で時々見かける35〜6℃というような異常な気温ではありません。金沢郊外に出ると、いつの間にか水田の瑞穂が青々と伸び、深々とした緑の絨毯(じゅうたん)のようです。さて、さる日曜日に、小生の師匠・藪先生のお知り合いで、九谷焼の陶芸家でいらっしゃる谷敷(やしき)正人さんから、一度お話したいとのメールをいただいたので、ちょうど金沢市内で催されている谷敷さんの個展に出かけました。谷敷さんは小生と同世代の方で、もともとは画家を目指したのですが、いろいろな経緯があって絵付け技術を活かせる陶芸の道に入られ、文化勲章受勲者の浅蔵五十吉氏に師事した後、昭和61(1986)年に独立開窯、現在、日展会友、日本現代工芸本会員でいらっしゃいます。普段は石川県寺井町の九谷陶芸村で制作活動をされています。
谷敷さんは源氏物語を題材にした作品を数々作っていらっしゃいます。小生も今遅ればせながら源氏物語をぼつぼつ読み進めていますが、個展で拝見した品々の中では、「夕顔」に題材をとった香炉が、夕顔の君を表象するように可憐で印象的でした(写真参照)。また、水辺を渡る鴨を題材にした長皿は、一瞬の水鳥の羽ばたきを動的に描きながら周囲の景色など全体としては静謐さをも感じさせる品で、小生が「これ好きです。」と申し上げたところ、谷敷さんご自身もお好きな作品だとのことでした。実用品でもあり、芸術作品でもある焼き物を、作家の方がどういう意識で制作しておられるのか、興味深い話をお聞きしました。商業的な注文品ではもちろん作家個人の思い入れを入れる余地は大きくないのですが、商業的な実用品から遠い品だからといって、例えばあまりにダイナミックな動きのある絵柄を書いてしまうと、一見は奇抜で個性的でも、何度も見るうちに飽きられる、というより見たくなくなるものだ、とのことでした。このお話を聞いて、小生は、実用品であることによって、陶芸には作家の勝手な恣意を許さない「抑制の美学」が働いているのではないか、と思いました。
谷敷さんは、藪先生が舞う「羽衣」を見て、舞台で本当に天女が宙に浮かび虚空を飛行(ひぎょう)する姿を見た経験をされ、それをきっかけに能が好きになられたそうです。この日は、能のことやら音楽のことやら陶芸のお仕事のことやらを、同世代の親近感もあって、一時間以上楽しく話し込んでしまいました。谷敷さんは、独立した最初の頃は備前焼のような土の地の感覚を活かした作品を作っておられ九谷焼としてはやや異色だったそうですが、最近は彩色の豊かな典型的九谷焼風との融合も図っておられるとのこと。今後のますますのご活躍をお祈りします。
七月三〇日(土)曇り
今週は、週半ばに台風がやって来ましたが、大した被害もなく通り過ぎてゆきました。台風一過の北陸地方は清清しく深い青空が広がっていました。でも関東や関西は35℃を超える猛暑だったようですね。今年の北陸地方の夏は昨年と比べて過ごしやすい気がします。昨年は最高気温が36℃などという日もけっこうあって、とても外をサイクリングする気にはなりませんでしたが、今年は程よい暑さで、風を切って自転車を飛ばすと心地よく汗をかけます。今週の日曜日もそんな日で、小生、自転車で金沢城の周りを三周ほど走りました。広坂交差点から丸の内、県立体育館前、尾山神社裏手のあたりは、車や人の通りも少なく、清閑な雰囲気がお気に入りです。セミやヒグラシの鳴き声もひときわ大きく響いています。さらに大谷廟所、尾崎神社前、大手掘を走ります。このあたりも落ち着いたいい雰囲気です。ちょっとした森林浴を味わいながら白鳥路を抜けた後は、石川門を見上げながら兼六園との間の上り坂を息を切らして登り、スタート地点の広坂交差点にたどり着きます。この金沢城一周コース、自転車で10分くらいでしょうか。気持ちよいサイクリングコースとして愛用しています。街中が心地よいサイクリングコースになるのは金沢のいいところですね。もっとも、小生の職場の若手には、金沢城どころか、能登半島を自転車で一周する「ツール・ド・のと」に参加する元気者もいます。
さて、左の写真です。脊椎ハウス? セキスイハウスなら聞いたことありますが、セキツイハウスとは一体・・・? これは小生が時々行く金沢市立玉川図書館の近くにあるお家です。この家主がパロディでこんな看板を掲げているとばかり信じていましたが、先日、ふとそのお家の玄関を見てみると「○○整骨医」とありました。そうか、整骨医さんだから脊椎ハウスか、と納得した次第ですが、どう考えてもジョークとしか思えないような看板です。(^_^;)
以前、こういう街中で見かける可笑しな看板や広告を写真集にした本が何冊も出ていたのを覚えています。ちなみに小生、高校生時代に「月極駐車場」という看板を見て、月の北極や南極を社名にしているロマンティックな不動産屋さんの掲げる広告だと信じきっていました。
八月六日(土)晴れのち夕立
旧暦では明日は立秋、夏も終わりです。前回「今年の夏は比較的過ごしやすい」などと書きましたが、今週は、金沢にも遅ればせの猛暑が到来しました。朝夕は連日の熱帯夜、昼間はフェーン現象も手伝って最高気温が34〜35℃です。とてもサイクリングどころではありません。
さて、地元紙「北國新聞」に、浄土真宗西別院で虫干しと調査を兼ねた宝物の一般公開が行われるとの記事が載っていましたので、さっそく出かけてみました。加賀国は戦国時代に浄土真宗の自治政府が一世紀に亘って続いた「真宗王国」です。長享2(1488)年、真宗門徒からなる二十万人を超える一向一揆勢は、室町幕府の守護、富樫政親の軍を破り、富樫は高尾城で自刃します。これ以降、天正8(1580)年に織田信長が派遣した佐久間盛久の軍勢によって滅ぼされるまで「百姓ノ持チタル国」が続くわけです。自治政府の本拠地は現在の金沢城跡公園にありました。「金沢御堂」とか「尾山御坊」とか「御山」とか呼ばれたこの真宗の本拠地は、大阪本願寺の別院(=支庁)としての位置づけを持ち、本願寺から派遣された人々が常住して、日常の仏事、教化や軍事、財政を担っていました。これに地元の一向一揆組織が協調して加賀国が統治されていたのです。天正11(1583)年に前田利家が加賀に入り金沢城を造ったのを機に、本願寺の別院は金沢城の西北に再構築されて現在に至っています。
今回訪ねた西別院は、真宗のうち本願寺派の立派なお寺で、三百メートルほど離れた大谷派の東別院と並び立っています。閑静な住宅地に土塀を巡らせ松を並べ植えた落ち着いた風情のお寺です。虫干し公開されていたのは、蓮如上人をはじめとする歴代真宗教祖たちの肖像画や、江戸期の豪商・銭屋五兵衛が清国から持ち帰ったとされる龍文様の敷物、少年時代の聖徳太子の木製立像、それに掛け軸の数々、本願寺本山からの書状の数々など数十点でした。特に「南無不可思議如来光」と大書された掛け軸の文字は、一寸の迷いもない力強さで、しかもしなやかな調子で書かれており、書いた人の信仰のゆるぎなさを感じました。
昨日は、東京出張の帰りに東海道新幹線で愛知県の実家に立ち寄り、今日は、名古屋で高校時代の友人と昼食をともにしました。彼の両親は既に介護を必要としているのですが、我が両親はおかげさまで何とか独り立ちして暮らしています。今朝は母が小生の好物のスイカを切って出してくれました。色合いはさほどでもありませんでしたが、程よい甘さで、久しぶりにおいしいスイカをいただきました。何歳になっても親はありがたいものですね。
八月七日(日)晴れ
今日の午後、謡と仕舞の稽古で藪先生のご自宅に伺いました。帰りに、ひときわにぎやかなセミの声が聞こえたので、そちらへ歩いて行ってみると、「薮田神社」という神社でした。この神社の境内に無数のアブラセミが生息していたのです。驚いたことに、多数のセミの抜け殻が木の葉の端に鈴のように連なっています(写真参照)。こんな風景は初めて見ました。この抜け殻群といい、耳もつんざける様な猛烈な大合唱といい、セミが短い命を燃やし尽くそうとするエネルギーの旺溢(おういつ)にしばし呆然としてしまいました。
八月一四日(日)曇り時々雨
この週末は妻と娘が金沢に来ましたので、昨日市内を一緒に見て回りました。はじめに娘の靴を買いに竪町商店街に出かけましたが、あまりに暑く買い物疲れもしたので、商店街の端にあるお茶の店「野田屋」に飛び込んで宇治のかき氷を食べました。元気が出たところで、小立野台地の天徳院を参拝しました。この曹洞宗の寺は、前田家の三代藩主利常に徳川家から嫁した珠姫の菩提寺として建てられ、創建当時は四万坪と兼六園より広い巨刹だったそうです。珠姫は、二代将軍秀忠と正室お江の方との間に生まれました。お江の方は織田信長の妹お市の方の娘ですから、珠姫には徳川と織田の血が流れていることになります。前田家が幕府に謀反の疑いを架けられたため、おまつの方が江戸に人質に出されたのと引き換えに、珠姫は三歳で金沢に輿入れし、十四歳で前田利常と結婚します。利常との間に三男五女を成し、難しい間柄であった前田家と徳川家の橋渡し役として貢献し、良妻賢母と前田家の人々からも尊崇を集めますが、二十四歳の若さで亡くなりました。悲しんだ利常が建立したのがこの天徳院です。その山門は創建当時の風格ある建物で、庭園も見事なものでした。
天徳院を後にして、近くにある酒造メーカーの福光屋のおしゃれな店頭で純米酒化粧品などの買い物につきあった後、香林坊に出て、高岡の御車山(みくるまやま)が四百年ぶりに金沢で曳かれるのを見学しました。御車山と呼ばれるこの山車は、豊臣秀吉が後陽成天皇と正親町上皇を聚楽第に迎える際に使った御所車が原形で、前田利家が秀吉から下賜され、二代藩主利長が高岡に築城する際に町衆に与えられたと言われています。その後祇園の山鉾に習った形に改造され現在に至っていますが、高岡で育まれた金工、漆芸、染色の技術がふんだんに使われた美しい山車です。毎年五月一日の高岡御車山祭に五台の山車が高岡の町をねりますが、同じ前田家統治の金沢に初めて里帰りしたものです。この日は「石川の夏祭り・歩行者天国道路祭り」が市の目抜き通りで開かれ、哀調を帯びた越中おわら、賑やかな太鼓の競演、ソーラン踊りの大会などに混じって、御車山が香林坊を曳き回されていました。
御車山を拝見した後、柿木畠の「酒と人情料理」をキャッチフレーズにする「いたる」というお店に開店と同時に入り、季節の料理などを楽しみました。能登で夏に採れる岩牡蠣(イワガキ)を焼いたものや、富山湾の夏の名物である白海老を素で揚げたものや、加賀野菜のひとつの金時草(きんじそう)の酢の物などです。「いたる」はリーズナブルな価格でお料理はおいしいとあって、開店30分で満席になってしまいました。おいしいお酒とお料理に妻と娘も大満足のようでした。夕食の後、「観能の夕べ」を三人で見に行きました。この日は狂言「成り上がり」と能「船弁慶」が演じられました。狂言は妻も娘も楽しんでいたようですが、能になると、暑さ疲れからか、かなりの時間眠っているようでした。「船弁慶」を拝見するのは二度目ですが、なかなか変化に富んだ面白い曲だと改めて感じました。明けた今日は、帰りの電車までの時間に、橋場町の「金沢蓄音器館」に立ち寄ってみました。ここでは、市内で長年レコード店を営んでいた八日市屋浩氏が30年に亘って収集した蓄音器五四〇台、SPレコード二万枚という国内屈指のコレクションを公開しています。実際に何種類かの蓄音器で音を聞かせてくれるデモンストレーションもあり、電気すら使わない初期の蓄音器や豪華な調度品でもあった最盛期の蓄音器などから流れる暖かい音色の音楽をしばし楽しみました。
八月二〇日(土)晴れ
残暑厳しい日が続きますが、空の色はだいぶ深くなり、郊外に出ると栗の木にたわわに緑色の毬(イガ)が実っているのが目につきます。また昨日山間の道を車で通っていると、既に薄(ススキ)の穂群が黄金色に伸びているのを見つけました。昨夜は旧暦文月(7月)の朧月夜の満月も見え、季節は着実に秋に向かっています。さて、小生、人事異動で9月から東京に戻ることになりました。2年11か月を過ごした金沢ともお別れの時が来ました。家族や友人との何回かの旅行をはじめ、生活や文化を楽しむことができたのは本当に幸せでした。金沢や北陸の風土と人々に心から感謝します。
八月二七日(土)晴れ
まだ昼間の残暑は厳しい中、転任のご挨拶回りに奔走しています。楽しい思い出を有させていただいた方々、厳しい交渉をさせていただいた方々等々、お会いしてお話していると、三年間のビジネスの現場での思い出が甦ってきます。何人かの方に送別会を催していただき、今週の昼と夜は楽しい会食が続きました。こうしてご挨拶回りをしていると、純粋な仕事の場面を離れたお付き合いの大切さを改めて感じました。一緒に食事をしたりお酒を飲んだりした、いわば仕事以外の「遊び」でのおつきあいが多いほど、お互いにこれからも良い関係を保ちたいですね、といった具合の紐帯が作られているのを感じました。ビジネスも結局は人間関係が一番大事だということを身に染みて感じた次第です。引継ぎの時間は決して充分とは言えませんが、最後までできるだけ丁寧に回ろうと思っています。
さて、小生に与えられた東京での仕事は新機軸ビジネスの開発と新規顧客の開拓です。東京でのビジネスは、社内外とも競争が激しいですが、なんと言っても可能性の大きさは魅力です。金沢での経験からやってみたいテーマもいくつかありますので、面白い仕事をしたいものだと思っています。このウェブサイトも続けてまいりますので、今後ともよろしくおつきあいください。