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近況メモ(平成19[2007]年3月〜4月)

 

平成19(2007)年〜「寒の戻り」から「淡墨桜」まで

 

3月4日(日)快晴

  名古屋の特徴的な食べ物といえば、きしめん、味噌煮込みうどん、櫃まぶし、天むすといったところでしょうか。味噌煮込みうどんは三河地方にもあり、小生も大好物です。東海地方の味噌は岡崎の八丁味噌に代表されるように、ほとんどが大豆をベースに製造されています。これは、他地域の「米味噌」や「麦味噌」とは一味も二味も違います。確かに見た目には赤茶色で濃そうですが、口にしてみればさほど濃くはなく、コクがあってなかなか味わい深いものです。その味噌を使った名古屋名物に味噌カツがあります。味噌カツの元祖は、昭和22年創業の「矢場とん」さんです。最近は東京の銀座にも進出しているようです。きょう、矢場町の矢場とん本店でランチをとりましたが、店の前は行列でした。柔らかな食感のカツに味噌だれがマッチしていました。お店の対応も混雑していてもとても親切でした。右は矢場とんの登録商標、相撲取りのブタくん。創業時から使われているほのぼのとした味わいのキャラクターです。



  さて、今日の午後は、名古屋能楽堂(下の写真参照)で催された当地の宝生流能楽師・衣斐正宣師の社中の会「恵比寿会」に出かけました。小生と同じ金沢の藪俊彦師に習って居おられるT女史から、この会に舞囃子「江口」で出演されるとのご案内をいただいたからです。

  能「江口」は次のような筋です。天王寺詣りの旅の僧が、人の賑わう遊女の里、江口にやってくる。僧は里人に江口の君の宿跡を尋ねる。その昔、江口の君と呼ばれる遊女がおり、西行法師が雨宿りを請うと、泊めるのを断った。そのとき、西行が詠んだ歌
  “世の中を 厭ふまでこそ かたからめ 仮の宿りを 惜しむ君かな”
を、僧は思い出し、口ずさむと、里の女(江口の亡霊)が現れて、江口の君の次の返歌を引いて泊めなかった理由を語る。
  “世を厭ふ 人とし聞けば 仮の宿に 心とむなと 思ふばかりぞ”
江口の君が宿を断ったのは、西行の僧侶という身を思って断っただけなのに、宿を惜しんだなどと言われては残念と言う。僧は驚いて名を尋ねると里の女は私こそ江口の君の亡霊ですと言い、消えていく(ここまでが前半)。僧は驚き、夜もすがら読経すると舟が現れ江口の君と遊女たちが舟遊びをしている。江口の君は、浮き世への執心を捨てれば、菩薩への道はひらけると語り、やがて普賢菩薩となって白象にまたがり消えていく。

  江口とは難波江(現在の大阪湾)の入口の意味で、瀬戸内海を渡って来た人はこの江口で船を乗り換え、川舟で淀川を遡って目的地に行く水上交通の要地として賑わっていました。能「江口」は、西行と遊女との和歌贈答説話と性空上人が室の遊女を生身の普賢菩薩と拝したという二つの説話から構想され、もともとの観阿弥作を世阿弥が改作したものと言われています。中世の遊女とは、近世のそれとやや趣を異にしており、一種の巫女として芸能をする者でもあり、歌舞音曲を業としながら集団生活をしていた人たちのようです。菩薩は仏陀になる前の悟りを求める者です。普賢菩薩は釈迦如来の脇侍で、智恵を司る文殊菩薩とともに、慈悲を司るものとして配されています。文殊菩薩が獅子に乗っているのに対して、普賢菩薩は白象に乗っています(下の写真のようなイメージです)。

  舞囃子は、神秘的な序の舞を中心に、曲の後半部分のエッセンスを演じます。舞われるTさんの後ろでは、大鼓・河村総一郎、小鼓・福井四郎兵衛、笛・藤田六郎兵衛といった当世一流の囃子方が演奏され、また地謡には近藤乾之助、寺井良雄、佐野登と、これまた宝生流の名手方がしっかりと謡ってTさんの舞をサポートされます。Tさんは緊張もなく、実に堂々と舞われました。白い着物に淡い小豆色の袴姿で舞台に登場されたTさんは、はじめは可憐な少女のような江口の君に見えましたが、神秘的な序の舞を舞ううちに次第に神々しくなり、最後は普賢菩薩となって白象に乗じて去って行くかのようでした。こうしたゆっくりした静的な舞で何事かを表現するのは大変難しいと思いますが、Tさんは女人が菩薩に変じてゆく様を、実に見事に表現されていたように思いました。

    
三の丸交差点の陸橋から。左が能楽堂、右に名古屋城           能楽堂の建物               能楽堂と白壁。ゆったりした空間です。


普賢菩薩像(長田晴山作)

 

3月11日(日)雨のち晴れ

  写真は、昨日所用で出かけた横浜で撮影した桜です。ちょうど咲き始めでした。しかしこのところまた寒い日が続いていますね。ここ名古屋も最高気温が10℃未満の日もあり、あわてて冬のコートを再びタンスから引っ張り出しました。風邪を引いている人も多いようですので、お気をつけ下さい。さて、先週末お会いした比較的若い人たちが日本の伝統芸能に縁があることがわかって面白かったです。まず、金曜日にお目にかかったNさんは、某生保会社にお勤めの三十歳代後半の方です。彼は、以前、金融専門雑誌の編集をしていたことがあり、そのご縁で知り合ったのですが、先日話をしていたら、実は歌舞伎が大好きとのこと。今までそんな話をしたことがなかったので驚きでした。「歌舞伎のルーツなので能狂言も見に行くのですが、能はどうも眠くなってしまいます(笑)」、とのことだったので、能は眠っていても精神が癒される効果があるから、また能楽堂や薪能に出向いて下さい、と宣伝しておきました。また、昨日お目にかかったHさんは、三十歳代半ばで、コンサルティング会社を経営しておられますが、彼の小学校四年生の娘さんが小さい頃から能の仕舞を習っているとのこと。最初は嫌がっていたが最近はすっかり仕舞にはまっていて、近々東中野の梅若能楽堂で何度目かの発表会に出られるそうです。Hさんのアメリカナイズしたように見える生活スタイルからは想像しにくかったので、これまた嬉しい驚きでした。

  ところで、前から気になっていたのですが、町中に音楽が多すぎると思いませんか?喫茶店に入っても、レストランに行っても、買い物をしていても、地下街を歩いていても、どこでもバック・グラウンド・ミュージックが流れています。小生にはとても耳障りで、過剰な音楽環境だと感じられます。一番腹立たしいのは、自分の好きな音楽をウォークマンで聞きながら読書しようと思って入った喫茶店で、ガチャガチャした音楽が結構大きな音量で鳴り出すことです。電車やバスの中では静謐が保たれているのに、それ以外の場所ではなぜこんなに音楽があふれているのでしょうか?タワーレコードのキャッチフレーズ "No Music,No Life" をもじって、"Less Music,Better Life" と言いたいところです。


 

3月17日(土)晴れ

  先日、名古屋城の南の外堀通りに面した名古屋銀行協会での会合に出席した帰り、天気が良かったので、名古屋駅近くの我がオフィスまで歩いて帰りました。途中、堀川を渡るあたりで、ふと神社らしき建物が垣間見え、何となく呼び寄せられているような気がしてそちらに向かうと、そこは浅間(せんげん)神社という神社でした。その浅間神社を起点として、北の方へ続く道沿いには、白壁作りの蔵が建ち並び、郷愁を呼び覚ますような古い町屋があちこちに散在しています。名古屋でも、戦災に遭わずにこうして生き残っている古い街並みがあるのだ、と、偶然の出会いにちょっと感動しました。堀川に架かる五条橋も昔からある橋で、白壁の蔵などと共に江戸時代の尾張名所図絵に描かれています。家に帰って調べてみると、浅間神社から北へ延びる道を「四間道(しけみち)」といい、この一帯は名古屋の町の祖型であることがわかりました。

  愛知県教育委員会の「愛知ネット」という学習サイトを参考にして解説してみましょう。「戦国時代までは尾張の中心地は清洲(きよす)であった。江戸幕府が開かれると尾張は徳川家に帰属し、徳川家康の命で名古屋城築城とともに名古屋の街が作られた。このとき清洲から武士・町人・寺社などがそろって移動した。これを「清洲越し」という。城下町は計画的に作られ、身分により居住地が決められた。熱田の湊(みなと)と名古屋城を結ぶ堀川には水運を利用する商家が立ち並んだ。商家の玄関は、物資の集散を行うため堀川に向かい、土蔵が家の裏手に作られた。これが、堀川に沿って土蔵が立ち並ぶ四間道(しけみち)のゆえんである。四間道の語源には以下の説がある。元禄13(1700)年に元禄の大火といわれる火事により、1649軒の町屋と15の寺社が焼失した。尾張藩4代藩主の徳川吉通(よしみち)は防火方法を研究させ、類焼を防ぐため堀川沿いにある商家の裏道幅を4間(約7m)に拡張した。4間もある広い道ということで四間道と呼ばれたのである。」

  名古屋市は、有松、白壁町、中小田井(なかおたい)と共に四間道を街並み保存地域に指定しているとのことですが、電線を地中化したり、家々の作りをもっと統一したりするなど、もう少し手を入れて昔日の面影を整えれば、素晴らしい街並みになるのに、という気がします。それと堀川です。江戸時代の名古屋の大動脈として賑わったこの運河、今ではどぶ川のように放置されています。東京の隅田川もそうですが、名古屋の堀川も、往時の運河の面影を復元し、川縁もきれいにして、船遊びでもできるようにしたら市民の憩いと観光の場になると思います。市民のアイデンティティの拠り所となる歴史的遺構にはもっともっと投資していいのではないでしょうか。


    
江戸時代に描かれた四間道沿いの白壁の蔵群            今も残る白壁の蔵群(一部は洒落た喫茶店やレストランとして使われています)       

    
江戸時代に描かれた五条橋                   現在の五条橋                 五条橋から堀川を臨む

 

3月31日(土)曇り

  コートが要らない季節になりました。左の写真は先週東京に帰省していたときに自宅近くで撮ったコブシです。右の写真は今週始めに名古屋は鶴舞公園で撮った五分咲きの桜です。昨日通りかかった名古屋城のお堀端の桜もまだ五分咲きくらいでしたが、木によっては満開のものもあり、熱心に写真撮影している人を見かけました。名古屋の桜はもうすぐ満開です。

  さて、旧知の本居宣長記念館の吉田悦之さんから、近年書かれた論文を二編お送りいただきました。ひとつは、宣長が自身の近辺の習俗の記録を丹念に記していたことも含めて、民俗と宣長との関わりを論じたもの。もうひとつは、その延長として、宣長の信仰の確立の過程をたどり、彼にとって神とは何だったのかを考究したものです。宣長が日本各地の田舎に残っている古い習俗を慈しみ、それを古典研究に活かしつつも、物事は変遷するという達観も持って身辺の習俗の変容には寛容な態度をとったこと、宣長の信仰とは、神を抽象的に捉えるのではなく、古事記などに現れた「現身(うつしみ)」の具象的な存在として感受し、神々がもたらす恵みへの感謝を捧げる祈りだったことなど、習俗や信仰の切り口から宣長の宣長らしさを感じさせてくれて、かつ、宣長を好きにさせてくれる論文でした。そういえば宣長も桜が大好きな人で、よくお花見にもでかけたようです。


 

4月7日(土)曇り時々雨

  4月に入り、各地で入学式や入社式が行われています。ちょうど桜も見頃になって、四季の移り変わりを感じさせてくれる季節ですね。東海地方の桜も満開です。名古屋市内にもいろいろ桜の名所はあります。名古屋城周辺のお堀端や官庁街の桜も見事なものです。中と右の写真は、名古屋城にほど近い那古野(なごの)神社と愛知県図書館で撮りました。

  左写真は、期初のご挨拶まわりで岐阜県西部の大垣市に出かけた際、市内中心部にある大垣城で撮ったものです。ネット上のフリー百科事典「ウィキペディア」によれば、大垣城は、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦の際に石田三成が入城して合戦に備えた城です。関ヶ原は大垣から西へ約10キロです。関ヶ原戦の後に東軍により落城し、寛永12(1635)年に戸田氏鉄が城主となって以降、明治に至るまで戸田氏の居城となりました。明治に入っても破却を免れ、昭和11(1936)年に天守等が国宝に指定されましたが、昭和20(1945)年、米軍による空襲で天守が焼失しました。現在の天守は昭和34(1959)年に再建されたものだそうですが、残念ながらコンクリート作りの張りぼてです。ちょう大垣日大高校が春の甲子園大会で準優勝しました。この日お会いした地元有力者のお話によれば、大垣日大高校の阪口監督は、ひとりひとりの資質を見極めながら選手を育成する優れた指導者で、親御さんの中には、野球もさることながら、阪口監督に指導してもらうことを目的に子息を大垣日大高校に入れる方々もいらっしゃるとのことでした。大垣から北へ20キロほど揖斐川の支流、根尾川をさかのぼった所には、根尾谷(ねおだに)の淡墨桜(うすずみざくら)があります。 樹齢1500余年、樹高16.3m、幹囲9.9mの世界一の名桜と言われています。満開時はつややかな白、散り際には淡墨色になることから淡墨桜と名付けられました。ちょうど今が見頃のようですが、何せ山奥のことゆえ、土日はクルマは超渋滞、列車も都心のラッシュアワー並みになるとのこと。ちょっと行くのは躊躇してしまいますね。地元自治体のホームページにライブ映像が載っていますので、それで雰囲気を味わうことにしましょう。(^^;


          
大垣城の桜                    那古野(なごの)神社の桜                    愛知県図書館の桜

 

4月20日(金)晴れのち曇り

  先回の「近況メモ」でご紹介した根尾谷の淡墨桜がどうにも気になって、4月8日(日)に思い切って朝早く出かけてみました(^^;。 淡墨桜は大垣から樽見鉄道というローカル鉄道で一時間弱の終点から歩いて15分ほどの所にあります。朝8時台の列車に乗ったのですが、一両だけの列車はもう既に満員でした。途中のどかな田園風景を楽しんでいると、線路脇を番(つがい)の雉(きじ)が走り去ったり、根尾川の清流が左右の車窓に見えたり、遙か北方には雪を頂いた白山山系の山々が見えてきます。車内で景色を見てはしゃいでいたおばさまたちの団体は、やがて景色にも飽きたらしく、押し売りを撃退した武勇伝を賑やかに話し合っています。立派なカメラと三脚を抱えた人も何人かいて、車内は花見の浮き立つような気分が充満していました。さて、淡墨桜は想像を絶する太い幹の巨大な老木でした(上段の写真)。桜というより縄文杉のような風情です。この淡墨桜も、昭和の初めに枯れかけたことがあり、根を浸食していた白蟻を駆除し若根を継ぎ足してようやく蘇生させた経緯があるそうです。四方に伸びた巨枝を何本もの支柱で支えられて生き続ける巨大な有機体…。それを眺めていて、小生は、つい、「この桜は天寿を全うすることもできずに生き延びて本当に幸せなのだろうか。」と問いかけていました。しかしすぐに、淡墨桜の精に「生きたくない生き物、生きているけど不幸、などという発想はお前たち青白い人間だけのものだ。毎年淡墨色の花を咲かせることが出来る幸せを人間たちにも分け与えているのに、何という虚弱な考えなのだ!」と怒られているのを感じました。こんな想像をしたのも、淡墨桜を見ていて、世阿弥作の能「西行桜」を思い出したからです。

  「西行桜」はこんなお話です。
「京の春、大勢の人が花見にやって来ます。西行は桜のために閑居の邪魔をされることを嘆き、
    花見んと 群れつつ人の 来るのみぞ あたら桜の 咎(とが)にはありける(花を見ようとたくさんの人が群れ来るのは桜の罪であろうか)
と歌を詠みます。西行が桜の古木の木陰で寝ていると、古木の内より老体の桜の精が現れ「無心に咲く花に何の咎があろうか」と西行の歌に反論します。やがて桜の精は、次々と桜の名所を並べて京の春の有様を讃えつつ、楽しげに舞い、夜が白むとともに姿を消すのでした。」
「西行桜」は世阿弥の「衆人愛敬(しゅうにんあいぎょう)」の思想がよく現れた作品だと思います。「衆人愛敬」とは、広く一般大衆の人気を得ることが芸能の役割だという世阿弥の考えです。閑居を邪魔されるのを嘆く「孤高のインテリ」西行の度量の狭さを桜の精が咎めるというストーリーに世阿弥の気持ちが込められているように思えるのです。小生の虚弱インテリ的発想も、淡墨桜の精から咎められたのでした。

  さて、期初のご挨拶回りで、東海地方を飛び回る日々が続いていますが、ちょうどあちこちで桜を見かけながらの楽しい道中でした。そのうち、我が郷里に近い岡崎市と刃物の町・関市で撮った写真を載せました。また、先週末、東京に帰省して、妻と国立(くにたち)市内を散策していると、町のあちこちで新緑や花々が我々を歓迎してくれました。それらも載せてみましたので、ご覧下さい。

      
根尾谷の淡墨桜 人の大きさと比べるとその巨大さがわかります 違う角度から2枚ご覧下さい(4月8日撮影)           岡崎市内にて 菜の花と桜の取り合わせ(4月9日撮影)

      
関市内にて 川面に流れる桜花(4月10日撮影)            国立(くにたち)市内にて(4月15日撮影 以下同じ) 既に散りかけですが、葉桜も美しいものですね

        
黄色の花と濃い緑の葉のコントラスト(花の名は未詳)             花の女王、牡丹も咲いていました               もみじの新緑も清々しい季節です

      
八重桜のピンクと赤の取り合わせがきれいです            濃いピンクが強烈に咲き誇っています             民家の庭先では藤の花を見つけました
名前は「べにばなときわまんさく (紅花常盤万作)」?

 

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