近況メモ(平成22[2010]年1月〜2月)
平成22(2010)年〜「九谷焼で春を待つ」から「みぞれ降る梅の頃」へ
1月11日(月・祝)曇り
お正月はいかがお過ごしでしたか? 我が家では年末に娘が怪我をしたので、この正月は恒例の一家揃っての帰省はできませんでした。そんなことでどうも正月らしさの足りない年の始まりでしたが、4日(月)の仕事始めの日に、仕事のパートナーであるH氏に自由が丘のなじみの店に連れて行ってもらって仲間内の楽しいひとときに加わらせてもらい、8日(金)に多摩地区在住の親しい仲間たち5人で吉祥寺で新年会をし、また9日(土)には、一家三人で横浜へ出かけ、中華街の上海料理店「状元樓」で食事をし、その後、みなとみらいホールで日本フィルの演奏会を楽しみました。これでようやく新年らしい気分になりました。昨日は、小生が放送大学で修士論文を書くのをご指導頂いた御厨貴東大教授所縁の方々から成る「政権交代研究会」の会合があり、小生も発表の機会を与えられました。若手の優秀な政治学者や政権中枢を担う現役の官僚諸氏らによる活発な議論は尽きるところを知らず、知的刺激に満ちたものでした。
さて、右写真は、先日東京で会った九谷焼の陶芸家、谷敷正人さんの作です。この春の景色を窓辺に置いて眺めては、厳しい寒さの中で春の訪れを心待ちにしています。
1月31日(日)晴れ
日に日に日差しが強くなり、街を歩いていると梅の花が咲いているのを見かけるようになりました。今週は、2月3日(水)が節分、4日(木)が立春です。それから間もなく旧暦の師走(12月)が終わり、新年の睦月(1月)になる季節の変わり目です。やはり旧暦の正月(旧正月)の方が「新春」という季節感にふさわしいものです。日本以外のアジア各国では旧正月を新年として祝います。日本もそろそろ明治以来の「近代主義」を取捨選択して、「新春」という季節感に合わない(寒さがそれ以降最も厳しくなる)「近代正月」よりも旧正月で新年を言祝ぎたいものです。
さて、下写真は、左が神田明神、中が湯島聖堂の本殿、右が湯島聖堂の孔子像です。今月半ば、好天に誘われて用務地の日本橋からお茶の水まで小一時間ほど歩き、お茶の水で神田明神と湯島聖堂に参詣したものです。神田明神は何と言っても江戸中心部の守り神ですから、この地で働いている小生も感謝を込めてお参りしました。また、湯島聖堂も「世界の学問の祖」と言うべき孔子をお祭りしていますので、多少たりとも学問に縁を持ち精進を志す小生としては「がんばります」と孔子に誓いを立てに出向いた次第です。
今月後半は、16日(土)に、府中宝生会の新年会があり、仲間といっしょに「鶴亀」を無本で(つまり謡本を持たず暗譜で)謡ったり(時間にすれば10分ほどの短い曲なのですが覚えるのはなかなか大変でした)、先輩方がお役を分担して謡う「芦刈」「須磨源氏」「百萬」の三曲の地謡に参加したりして楽しみました。習ったことのないこれらの曲も、見よう見まねで謡っていると、実に節付の豊かな曲だということが何となくわかりました。
翌17日(日)は、東京文化会館で催された東京都交響楽団の管楽器奏者たちによる演奏会に行きました。小生の大好きなシャルル・グノー作曲の「木管楽器のための小交響曲」やモーツァルト作曲の「十三管楽器のためのセレナード」といった音色豊かな名曲を楽しみました。引き締まったいい演奏だったと思います。しかし通常のオーケストラ曲では休止時間も多いオーボエやクラリネットといった管楽器奏者たちが、二時間ずっと吹きっぱなしというのは、唇や呼吸器に過酷な負担がかかるはずで、演奏会終了後の奏者たちの表情はさすがに疲労困憊といった感じでした。
29日(金)には、神楽坂の矢来能楽堂へ「新春立合」と銘打った、能の異流派合同の舞を拝見しました。これは、観世流の観世喜正さんを中心とする40歳前半の中堅能楽師の企画能集団である「神遊(かみあそび)」と、金春流の中堅若手のシテ方四名の集団「座・SQUARE(ザ・スクエア)」が合同で催した異流派交流の企画です。はじめに、通常はめったに出ない、二流派の舞い手と地謡が同時に舞台に登場して舞い謡う「弓矢立合」という舞囃子が演じられました。この曲は、江戸期に新年に将軍の御前で演じられた「翁」の特殊演出だそうです。舞いの型も謡も観世流と金春流とではかなり違うのですが、三人の舞い手(観世一人、金春二人)が鉢合わせしたりすることなく、実にうまくコラボします。謡もところどころ音の合わない「不協和音」が入りますが、それが却って変化に富んだ印象を与え、実に見ていて楽しいものでした。「弓矢立合」の後は、新春らしく、老松(金春)、羽衣(観世)、高砂(金春)の三曲の舞囃子が舞われました。
2月14日(日)晴れのち曇り
旧暦では今日が新春。我が家の近所でも白梅、紅梅が咲き誇り、近づくと梅の香がほんのり漂ってきます(左右写真)。でもこのところの東京多摩地方は寒い日が続きます。特に昨日はみぞれも降る冷たい日でした。
さて、「文藝春秋」三月号で、福田和也氏が「小沢一郎のちいさな器量」と題して、原敬、岸信介、田中角栄といった過去の大器量の政治家と比べ、小沢一郎氏の器量の小ささを顔相が悪いことをも引き合いに出して指摘しています。「この人について行けば大丈夫だ、というカリスマに満ちた福々しい顔を作らなければ一流の政治家たり得ない」との福田氏の言葉には重みがあります。小生は、この小沢評はかなり真理を突いていると感じました。確かに、小沢氏には、特に官僚たちへの何か歪んだ劣等意識とその裏返しの頑なな虚勢とが感じられ、官僚を自在に使いこなした原、岸、田中のような人物の大きさは感じられません。