今の人、明日なむ渡さむとすれば、この男に知らすべくもあらず、車なども誰にか借らむ。 「『送れ』とこそは言はめ」 と(A)思ふもをこがましけれど、言ひやる。 「今宵なむ、物へ渡らむと思ふに、車しばし」となむ言ひやりたれば、男「あはれ、いづちとか思ふらむ。 @行かむさまをだに見む」と思ひて、今、ここへ忍びて来ぬ。 女、待つとて端に居たり。月の明きに、泣くこと限りなし。
わが身かくかけ離れむと思ひきや月だに宿をすみはつる世に
と言ひて、泣くほどに、来れば、さりげなくて、うちそばむきて居たり。
「車は、牛たがひて。馬なむ侍る」と言へば、「Aただ近きところなれば、車はところせし。
さらば、その馬にても。夜の更けぬさきに」と急げば、いとあはれと思へど、
Bかしこには、皆、朝にと思ひためれば、逃るべうもなければ、心苦しう思ひ思ひ、馬引き出させて、
(a)簀子に寄せたれば、乗らむとて立ち出でたるを見れば、月のいと明きかげに、
ありさまいとささやかにて、髪はつややかにて、いとうつくしげにて、たけばかりなり。
男、手づから乗せて、ここ、かしこひきつくろふに、いみじう心憂けれど、念じてものも言はず。
馬に乗りたる姿、頭つき、いみじくをかしげなるを、あはれと思ひて、「送りにわれも参らむ」と言ふ。
「ただここもとなるところなれば、あへなむ。馬はただ今かへしてたてまつらむ。
そのほどはここにおはせ。見苦しきところなれば、人に見すべきところにも侍らず」と言へば、
さもあらむと思ひて、とまりて、尻うちかけて居たり。
この女は、供に人多くはなどて。昔より見なれたる(b)小舎人童ひとりを具して往ぬ。
C男の見つるほどこそ隠して念じつれ、門引き出づるより、いみじく泣きて行くに、
この童いみじくあはれに思ひて、この使ふ女をしるべにて、はるばるとさして行けば、
「『ただ、ここもと』と仰せられて、人も具せさせたまはで、かく遠くは、いかに」と言ふ。
山里にて、人もありかねば、いと心細く思ひて泣き行くを、男もあばれたる家に、ただひとりながめて、
いとをかしげなりつる女ざまの、いと恋しくおぼゆれば、人やりならず、「いかに思ひ行くらむ」
と思ひ居たるに、やや久しくなりゆけば、簀子に足しもに、さ
しおろしながら、寄り臥したり。
この女は、いまだ夜中ならぬさきに行きつきぬ。見れば、いと小さき家なり。
この童、「いかに、かかるところにはおはしまさむずる」と言ひて、いと心苦しと見居たり。
女は、「はや、馬ゐて参りね。(B)待ちたまふらむ」と言へば、
「『いづこにかとまらせたまひぬ』など、(c)仰せ (d)候はば、いかが申さむずる」
と言へば、泣く泣く、「かやうに申せ」とて、
いづこにか送りはせしと人問はば心はゆかぬ涙川まで
と言ふを聞きて、童も泣く泣く馬にうち乗りて、ほどもなく来つきぬ。
問一 二重傍線部(a)「簀子」・(b)「小舎人」の読みを記せ。
問二 傍線部@・A・Cを現代語訳せよ。
問三 傍線部Bについて、主語を明らかにしながら現代語訳せよ。
問四 傍線部(A)について、(1)誰の、(2)どのような心情をいったものかを記せ。
問五 「わが身かく」の和歌から、掛詞を二つ抜き出して答えよ。
問六 傍線部(B)について、(1)「らむ」の用法を記し、傍線部(B)を現代語訳せよ。
また、(2)(1)で答えた用法と誤りやすい用法を挙げ、なぜ誤りやすいのか、その理由を記せ。
問七 傍線部(c)「仰せ」・(d)「候は」の敬語について、(1)敬語の種類、
(2)誰に対する敬意を示しているものかを次から選び、それぞれ記号で答えよ。
(1) ア 尊敬 イ 謙譲 ウ 丁寧
(2) ア 作者 イ 男 ウ もとの女 エ 今の女
問八 「男」が「もとの女」と「今の女」に対して気遣いをしている箇所を、それぞれ二十五字程度で抜き出して答えよ。