土方歳三の生涯 稽古 竹刀

歳三の出生

  土方歳三は、天保六年(1835)五月に、武州多摩郡石田村(現在日野市石田)で生まれました。
  石田村は、多摩川と浅川の合流する近くにあり、歳三の生まれたころの石田村は、水田の広がる十 五、六軒の小さな村でした。村の全部の家が土方の苗字で、それぞれの家は、家号や呼名で呼ばれて いました。
  歳三の生まれた土方家は、村では「大尽」と呼ばれ、当主は
隼人と名乗っていました。  
  歳三は、この大尽の何代目かの隼人
義諄の末っ子に生まれ兄が三人、姉が二人おりました。
お父さ ん義諄は、歳三の生まれる数ヶ月前に病気で亡くなり、お母さんも歳三が六歳のときにくなってしま ったため、お兄さんの
喜六夫婦に育てられました。  
  歳三が十三歳の年(1846)六月、大雨が続き家が、多摩川の洪水のため流されそうになりました。
近所の人や近くの村の人まで来て大急ぎで家を解体して、今の処へ建て直しました。
(現在は改築されています)。
  その後、歳三は江戸へ丁稚奉公に出されましたが、番頭と喧嘩をして帰ってきてしまいました。

石田散薬

  歳三は、十八歳のとき、また上野広小路にあった伊藤松坂屋へ奉公に出ましたが長続きしませんでした。歳三には、商人の性格が合わなかったのでしょう。
  生家の土方家は、農業の傍ら「打ち身や挫き」に効く「石田散薬」という薬を作って売っていました。
この薬は、土用の丑の日に近くの多摩川や浅川に生えている「牛革草」という野草を採って日影に干し、黒焼きにして粉にしたものでした。
  この牛革草の採集には、村中の人が手伝いに来ました。この大勢の人を指揮するのは歳三が一番上手だったと伝えられています。
 この頃の歳三は家で作った「石田散薬」を売り歩いたり、遠縁にあたる谷保村(現在国立市)の本田家へ「米庵流」という書道を習いに行ったりしていました。
暇なときには、姉
のぶの嫁入り先である甲州街道の宿場だった日野宿の名主・佐藤彦五郎の家へ遊びに行ったりしていました。
  彦五郎は、歳三より九歳年上の従兄弟で、歳三を弟のように可愛がっていました。

剣術修行

  嘉永二年(1849)、この佐藤家の近所から火事が起こり、佐藤家も焼けてしまいました。
この火事の最中におこった事件で、佐藤彦五郎はあやうく斬られそうになりました。このことがあってから彦五郎は、自分の身を守りまた黒船渡来後、騒がしい世の中から宿場の治安を守るため、「天然理心」の剣術師範・
近藤周助を招いて、剣術を習い始めました。
  彦五郎はしだいに剣術に熱中し、自宅の長屋門の一部を改造して道場を造り、宿の若い者を集めて剣術の稽古に励みました。
  安政五年(1858)秋には、鎮守(現在の八坂神社)に剣術上達を祈願する額を奉納するまでになりました。
  歳三も佐藤家に遊びに行くうち次第に剣術を習うようになり、非常に熱心に稽古したためみるみる上達しました。
  この頃剣術修行で知り合ったのが、近藤周助の養子
近藤勇沖田総司井上源三郎山南敬助たちでした。
  井上源三郎は、日野宿北原に住み八王子千人同心・
井上松五郎の弟で、温厚で物静かな人だったと伝えられています。

浪士組上洛

  歳三や源三郎が剣術に熱中して数年過ぎた文久二年(1863)の暮、江戸牛込柳町の近藤勇の道場「試衛館」に、「将軍徳川家茂が、翌年二月に上洛(皇居のある京都に上ること)することになり、将軍を警護する志のある浪士を募集することになった」との話が伝えられました。
  これは出羽の浪士、
清河八郎が幕府に働きかけたものです。
  これを聞いた近藤勇は、土方歳三や佐藤彦五郎に相談して、参加することになりました。
  近藤道場の試衛館からは、近藤勇、山南敬助、沖田総司、
永倉新八藤堂平助原田左之助、日野からは土方歳三、井上源三郎、馬場兵助中村太吉郎沖田林太郎等が参加しました。
  文久三年二月八日、伝通院に集まった浪士(浪士組)は二百三十数名で、中山道を通って京都へ向けて出発しました。
  この頃の近藤や土方は、あまり名も知られておらず、近藤が宿割りの係りをしていたくらいです。
  道中でいろいろ事件もありましたが、ともかく一同無事、京都に着きました。

だんだら染の隊服

  京都についた一行は、壬生村郷士の家に分宿しました。
  ところが、清河八郎は、この浪士組を尊王(皇室を尊ぶこと)の義軍にすると言い出し、朝廷へ上申書を提出してしまいました。驚いた幕府は、浪士組を急ぎ江戸へ帰しました。
  この清河の考えに反対した近藤、土方らと
芹沢ら十三名は京都に残りました。
  その頃の京都の町は、長州をはじめ諸国から集まった
尊王攘夷(攘夷:外敵(黒船)を追い払って、入国、交際を拒むこと。幕末には、この両者を合せた尊王攘夷は倒幕派の合言葉でもあった。)を唱える浪士達が、意見の合わない人や、邪魔になる人を片っ端から暗殺し、三条河原には毎日のようにその首が晒されているという、とても物騒な町になっていました。
  かねてから「日本は、朝廷と幕府が一体になって、外国に当たることがよい」と考えていた近藤、土方はこの有様を見て驚き、一緒に京都に残った十三人と共に、守護職
松平容保公に「是非我々を、町の治安を護るため使っていただきたい」と願い出ました。
  守護職になってから京都の治安に心を痛めていた容保公は、喜んでこの願いを許し、近藤、土方達は市中の見廻りをすることになりました。
  早速隊士を募集し、浅黄色の地に、袖口を白のだんだらに染め抜いた揃いの隊服を作り、同時に自分勝手な行動をしてはいけないという厳しい隊の規律を決め市中の見廻りを始めました。
  その頃隊は「
壬生浪士組」と呼ばれていました。

新選組の誕生

  壬生浪士組の始め頃の編成は、局長に芹沢鴨新見錦、近藤勇、副長に土方歳三、山南敬助、副長助勤に沖田総司、永倉新八、井上源三郎ら十四名でした。
  八月十八日、京都から長州を追い出すため禁門の政変(京都御所堺町御門の警備に当たっていた長州藩を、薩摩藩、会津藩等が協力して京都から追放した事件で、同時に過激派といわれた、
三条実美等七人の公卿も長州へ落ちていった)が起りました。
  浪士組約八十名は、赤地に白く「
」の字を染め抜いた旗を先頭に隊列を組んで、会津藩の軍勢と一緒に行動しました。
  この時「浪士組」は「新選組」と名付けられ、京都守護職松平肥後守御預り新選組となりました。
  しかしこの頃の近藤や土方、井上達は、手当てが少なくお金に困っていたようです。
この人達にお金や品物を送り続けて働きやすいように援助したのは、日野の佐藤彦五郎や多摩の人達です。
  一方芹沢や新見は、次第に我侭になり、大きな商人から無理に金を借りたり、乱暴したりすることが多く、悪い噂が多くなりました。
  見かねた会津公は、近藤や土方に命じて芹沢や新見を粛清させました。
  その後の新選組は、局長近藤勇、副長土方歳三となりました。近藤や土方は、真面目に役職を守り京都の市中の警備にあたりました。
  そのため、京都の町は静かになりました。

池田屋事件

  しかし浪士達も、ただ黙っているだけではありませんでした。密かに連絡をとり、計画を進めていました。
  「何か不穏な計画がある」と知った新選組は
古高俊太郎を捕らえて、その計画を自白させました。
  その計画とは「風の強い日を選んで御所の風上から放火し、そのどさくさに紛れて、天皇を長州へ連れ去って、幕府を倒そう」というものです。
  驚いた近藤や土方は、浪士の集まる場所を探しました。
  元治元年(1864)六月六日、祇園祭の宵山の夜、浪士達が集まることを知った新選組は、近藤勇、沖田総司、永倉新八の一隊が、三条の旅館池田屋を、土方歳三の一隊が四国屋を襲いました。
  浪士約三十名は池田屋に集まっていて、烈しい戦となりました。
  四国屋に行った土方隊は浪士がいなかったので、直ちに池田屋に引返し近藤達に合流しました。
  近藤は愛刀虎徹をふるい、新選組第一の剣士沖田総司は、刀の切先が折れるほど敵と渡り合っていました。
  暗く狭い池田屋での烈しいは約二時間続き、肥後の
宮部鼎蔵、長州の吉田稔麿ら九名を斬り、その他大勢を捕えこの計画を鎮圧しました。
  世に言う池田屋事件です。
  この事件で明治維新が一年遅くなったともいわれていて、新選組が起した最大の事件です。

蛤御門の戦

  池田屋事件の報せを聞いた長州藩は、前年の政変で京都を追れ、今度は多くの長州人が捕えられたので京都から会津藩を追い払おうと、元治元年七月十九日、大軍で三方から京都へ攻め入り、その一隊は蛤御門から御所に向けて大砲を撃ち込みました。
  会津藩も薩摩藩と応戦し、烈しい戦となりました。
  新選組は九条河原に陣を構えていましたが、御所方面の砲声を聞いて急いで御所へ向かいました。
しかし新選組が駆けつけた頃には、長州勢は多くの戦死者を残して逃げ去った後でした。
  二十一日、新選組は逃げ残った敵の立てこもる山崎の天王山を攻撃し、
真木和泉ら十数人は、自害してこの戦いは終わりました。
  この戦いを「蛤御門の戦」といいます。
  この戦いで、幕府は長州藩を「
朝敵」として征伐することになりました。
  この戦いの後新選組は、京都市中の取締りに一層精を出しました。
  後の宮内大臣
田中光顕が「あの土方歳三が、役者のような顔で馬に乗って隊士を従え、鋭い眼で市中の見廻りをしているのが一番恐ろしかった。土方来ると浪士は、露地から露地へ、夢中で逃げたものだ」と語ったといいます。

屯所の移転

 「池田屋事件」「蛤御門の戦」に活躍した新選組は、隊士も増加して今までの壬生村の屯所では狭くなってしまいました。
  そこで西本願寺の集会所を借りて屯所を移転しました。
  新選組の仕事も多くなり、局長の近藤勇は、毎日のように守護職や各藩の役人との会合で外に出ることが多くなりました。
  土方は、留守をあづかって新選組がますます強くなるように、隊士に剣だけでなく大砲や鉄砲など西洋式の訓練を厳しくしました。
  新選組は、男だけ百五十人から二百人の世帯です。生活も自然と不衛生になり病人等が多く出て困りました。
  そこで、幕府の御殿医
松本良順に来てもらいました。
  良順は、病室を作ることや、風呂場を多くすることなど衛生に関するとを歳三に指示しました。
  歳三は、良順の指示を直ちに実行しました。この歳三の行動力に良順もびっくりしたそうです。
  しかし若い隊士達が、肉を煮る匂いを出したり、時には切腹する人もあり、困った西本願寺では、近くの不動堂村に新しい建物を建て、そこに移ってもらいました。

三条高札事件

  「蛤御門の戦」で朝敵となった長州藩は、幕府の第一回の長州征伐で恭順(謹んで命令に従うこと)しましたが、藩内では新しい兵器を買い入れたりして、また戦う準備を始めていました。
  幕府は、二回目の長州征伐を各大名達に命じましたが、大名達の足並が揃わず、各地で苦戦を重ねました。
  京都、三条大橋の袂には、「長州藩は朝敵である」との「高札」が建てられていました。ところが誰のいたずらか、この高札が、二回も抜かれて川に投げ捨てられていました。
  困った町奉行所は、新選組に依頼して、の高札を守ってもらうことにしました。
  新選組は、
原田左之助ら約三十人が、三ヶ所に分れて警戒に当たりました。
  慶応二年(1867)九月十二日、月の明るい夜、土佐藩の若い侍八人が来て、高札を引き抜こうとしたので、警戒していた新選組隊士が、直に駆けつけ、双方三十人程が入り乱れての大乱闘となりました。
  新選組は、このうち
宮川助五郎捕え一人を倒し、他の土佐藩士は、大小の傷を受けながら逃げ去りました。
  それからはこの高札に、誰も手を触れる者はなくなりました。

大政奉還

  徳川十四代将軍家茂は、かねてから病弱の身で国の政治をおこなってきましたが、慶応二年(1867)七月二十一日、病気と心労が重なって、大阪で死去しました。
  また家茂を最も信頼されていた
孝明天皇も、十二月二十五日に崩御されました。
 
一橋慶喜が十五代将軍になり、明治天皇が即位されました。
  この間、長州藩、薩摩藩、土佐藩などは、
坂本竜馬の働きで手を結び、幕府を倒す計画を進めていました。そのため幕府の勢いは日に日に衰えました。
  「大廈の顛れんとするや一木の支うるところに非ず」という言葉があるように、幕府を助けるための、会津藩や、新選組の人達の懸命な努力も、大きな時代の流れには勝てませんでした。
  慶応三年十月、徳川慶喜は、大政を朝廷へ返上しました。
  十二月九日王政復古(武家政治を廃止して、平安時代の昔のように、君主政治にかえすこと)が号令され、小御所会議で、徳川慶喜の内大臣の位を奪いその上領地を全部朝廷へ返上するように決ってしまいました。
  新選組は、京都を去って伏見奉行所の警備につきました。
  この年は、
伊東甲子太郎らが、隊を脱退したりして隊士も少なくなっていたので、新しく隊士を募集して、近く始まると予想される戦いに備えました。

墨染の難

  伏見奉行所の警備についてからも局長の近藤勇は、二条城に残る幕軍の人達との会合や、打合せに行く用事が沢山ありました。
  この近藤に、十一月十八日油小路で暗殺された伊東甲子太郎の残党一味が付け狙っていました。
  十二月十八日、二条城での打合せを終った近藤は、馬に乗り、十五人程の供を連れて竹田街道墨染にさしかかった時、待ち伏していた
阿部十郎たちが物陰から鉄砲を撃ちかけました。
  弾丸は近藤の右肩に当たりましたが、気丈な近藤は、馬の上に身を伏せ伏見奉行所へ帰り直ぐに医者の手当てを受けました。
  しかし、肩の骨を砕いていてとても重く伏見では治療できないので、兼ねてから胸の病気で休んでいた沖田総司と共に大阪城内で療養することになりました。
  伏見の新選組は、土方歳三が指揮することになり、井上源三郎も土方に協力して明日にも始まるかわからない戦いの準備を進めました。
  一方、朝敵だった長州勢は、大砲を曳いてぞくぞく京都に入り、薩摩勢と共に京都に入る道に陣を構えました。
  会津藩や新選組は今までとまったく反対の立場に立たされてしまいました。

関連写真は、ここ

鳥羽伏見の戦

  このような情勢に怒った幕府は、京都から長州藩や薩摩藩を追い払うため大軍を上京させました。
  この幕府軍が、正月三日、鳥羽街道小枝橋にさしかかったとき、薩摩軍が大砲を打ち込んだため戦争が始まりました。
  伏見方面でも戦争が開始され、新選組は、近くの御香宮に陣を構えた薩摩軍と砲撃戦になりました。
  この砲撃で奉行所が燃え出し、新選組の苦戦となりました。
  土方は、会津軍と相談し四日明方、淀堤千本松へ陣を移して戦うことになりました。
  ここでも土方をはじめ、井上源三郎達も烈しい戦いを繰返しました。
  戦いの最中「幕府軍は、全員大阪へ引上げよ」という命令が伝えられました。
  その時、一発の銃弾が、井上源三郎の胸を貫き、源三郎はどっと倒れました。
  井上源三郎の甥
泰助は、近藤勇の小姓となり、十二歳でこの戦いに参加していました。この時の様子を「おじさんは、弾丸に当ると手当てをする暇もなく戦死してしまった。
  おじさんの首と刀を持って大阪へ向って歩き出したが、首がとても重くて、一緒にいた隊士に「泰助、その首を持っていて遅れると、敵に捕ってしまうから、残念だが捨ろ」といわれて、ある寺の前の田圃を掘って、首と刀を埋め大阪へ引揚げた」と、語り残しています。

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甲陽鎮撫隊

 鳥羽伏見の戦いで敗れたは、新選組は慶応四年(1868)一月十六日、大阪から富士山丸で江戸に帰ってきました。江戸で佐藤彦五郎に会った土方は、戦争の話の中で「もう刀や槍の戦争ではなくなった」と新しい大砲や鉄砲の話をしました。これを聞いた彦五郎は、直ぐに農兵の有山重蔵を横浜に向わせ、新式の元込銃二十丁を買い、二月一日から新し鉄砲で農兵の訓練を始めました。
 墨染で負った肩の傷が治った近藤は、甲府の城をおさえ、官軍(朝廷方の軍隊)が、江戸へ入るのを食い止めようと「甲陽鎮撫隊」を作り、約二百人の兵隊を集め三月一日、江戸を出発し翌日、日野の佐藤彦五郎の家で休憩しました。この頃の土方は、戦いに便利な仏蘭西式の軍服を着ていました。
佐藤彦五郎や、農兵隊約三十人は、元込銃を持て「
春日隊」を作り同行することになりました。
 急いで勝沼まで行ったとき甲府城にはすでに官軍が入城していました。やむなく勝沼に陣を構え、土方歳三は、援軍を求めに江戸へ急ぎました。
 この間に戦闘は開始され、春日隊の
谷己之助和田勘兵衛らもよく戦いました。しかし敵は大軍でついに敗れ、鎮撫隊は江戸へ引揚げ、春日隊も日野へ帰りましたが、隊士は散りじりに隠れました

近藤勇の最期

  勝沼の戦いに敗れた近藤、土方は、生残りの隊士を五兵衛新田(現在足立区綾瀬)に移し、更に新しく兵を集めたうえ流山に移動しここで戦うつもりでした。
  しかし戦いの準備ができないうちに、薩摩の
有馬藤太の率いる軍に取り囲まれてしまいました。
  甲州へ行く頃から、大久保大和と名前を変えていた近藤は、「官軍へ出向いて何とか言い訳をし兵隊達を助けよう」と言い出しました。
  土方は、泣いて行くのを止めましたが、近藤は板橋の官軍陣所へ出向き、近藤勇と判って捕えらてしまいました。
  土方は、近藤を助けるため
勝海舟らに頼んでまわりました。
  有馬藤太も近藤を助けたかったのですが、
谷干城らが四月二十五日、板橋で近藤を処刑してしまいました。
  「近藤は、刑場へ行ってからゆっくりとひげをそり、顔色も変えずに首を落された」と伝えられています。
  近藤勇の首は、塩漬け
<注>にされて京都に送られ三条大橋に、晒されました。
  首は、その夜のうち誰かに持ち去られてしまいました。首を持っていったのは誰か、どこへ埋めたのか、未だに判っていまん。

  <注>当初の資料では、「塩漬け」と記載されていましたが、
   「火酒(焼酎)漬け」が真実のようです。

会津戦争

  近藤と別れて流山を脱出した土方は、大鳥圭介ら幕府脱走軍に合流して、宇都宮城に入っていた官軍と戦いました。
  城は落しましたが土方は、足の指に負傷して、会津に治療に行くことになりました。
  途中、今市で、日光勤番に来ていた幼な馴染で新井村(現在日野市新井)の
八王子千人隊隊士・土方勇太郎と会い、形見の品を、生家へ届けてくれるように頼み、「今度は無事で帰れそうもないから」といって北へ去ていきました。
  会津についた歳三は、東山温泉で治療し、傷も治ったので、会津藩の前線部隊と母成峠に出陣しました。
  官軍の強大な兵力と武器を前に、会津軍は良く戦いましたが、母成峠での土方達の奮戦も空しく、各地で敗れて鶴ヶ城へ籠城することになってしまいました。
  会津では、少年達や女の人まで良く戦いました。
  飯盛山で自刃した十六、七歳の少年達「
白虎隊」の悲しい話は、今も語り伝えられています。
  会津鶴ヶ城は、九月十二日落城しました。それより前に土方歳三は、
奥州列藩同盟と力を合せて、会津を救うため仙台へ向っていました。

奥羽列藩同盟

  仙台へ着いた土方が会ったのは、幕府の海軍奉行榎本武揚でした。
  榎本は、幕府の軍艦六隻で江戸を脱走して、仙台に来たのです。
  その頃、仙台藩では官軍と戦うか、恭順するかで迷っていました。
  この仙台で開かれた奥羽列藩同盟の会議の席上、列藩同盟には、全軍を指揮する大将がいないので困っていました。
  すると榎本が「私が推薦しよう」といって、土方歳三を推薦しました。
  呼ばれた土方はすくっと立って、ぐっと一座を見廻し「お受けしましょう、しかしお受けするからには、もし軍令に背く者がいたら御大身の人といえどもその時は、私の剣にかけて斬らねばならぬ、それでよろしいか」と言い切ったそうです。
  しかし、奥羽列藩同盟も、仙台藩が恭順に決定したため、足並が揃わなくなりました。
 土方達は、この有様に仙台を捨てて榎本の軍艦に幕軍二千人と一緒に乗り、寒風沢を出帆して、新しい天地を求めて北へ向いました。

箱館戦争

  明治元年(1868)十月十一日、寒風沢を出帆した土方達は、二十二日、北海道鷲ノ木に上陸しました。
  途中、少数の敵を追い散らしながら、二十六日、箱館
五稜郭に入城しました。土方は、敵を松前、江差と追い松前藩を降伏させて、五稜郭に凱旋しました。
  五稜郭は、星の型をした新しい城です。ここで幕軍は、新しい政府を作るため総裁以下の役職を選挙で決めました。
  総裁には榎本武揚、副総裁
松平太郎、海軍奉行荒井郁之助、陸軍奉行大鳥圭介、土方歳三は、陸軍奉行並という役に選ばれました。
  寒い冬の間、官軍も北海道を攻撃できず、四月、江差方面に上陸して、箱館への攻撃を開始しました。
  土方は、江差方面から来る敵に備え、江差山道、二俣、台場山に陣を築いて、敵を迎え撃ちました。
  前に深い大野川の谷、その小高い山に築いた陣地からの銃撃に、官軍は一歩も進むことができず、十三、四日間土方軍の為釘ずけにされてしまいました。
  しかし、松前方面で戦った大鳥圭介の軍は、敗戦に続く敗戦です。その為土方軍は、このまま戦い続けると後方からの敵の攻撃をうける危険も出てきたので、残念なことに、二俣の陣地を捨てて五稜郭へ帰りました。

歳三の戦死

  五稜郭に帰った土方歳三は、四方から箱館へ押し寄せる敵と戦いましたが、官軍にじりじりと押されました。
  海軍も苦戦の連続です。
  土方は、小姓の
市村鉄之助を呼んで「これを日野の佐藤家へ届けるように」と一枚の写真を渡しました。
  市村は泣いていやがりましたが、無理に外国の船に乗せて帰しました。
  五月十日、ついに官軍は、箱館の市中も占領してしまいました。そのため榎本ら諸将の間に、降伏という話も出始めました。
  近藤勇も、沖田総司も死に「死に遅れた」といっていた土方は、五月十一日「弁天砲台の救援にいく」と部隊を率いて、一本木関門から進撃を始めました。
  弁天砲台には、京都以来苦楽を共にした新選組生残りの人達が、孤立し戦っていたのです。
 
安富才介沢忠助などほかの新選組隊士も何も言わずこれに続きました。
  激しい敵の銃撃の中を一本木と異国橋の中ほどの鶴岡町あたりまで進撃しました。
  その時一発の銃弾が、馬上で指揮する土方歳三の下腹部を貫きました。
  どっと馬から落ち、附近の農家に運び入れられた土方は、付添った人達に「世話になった、すまぬ」と一言を残して、息を引き取りました。
  明治二年(1869)五月十一日朝四ッ時(十時から十一時頃)のことです。三十五歳でした。

追慕

  明治二年七月、日野の佐藤家へ、乞食姿の一人の少年が尋ねてきました。家人が訝って尋ねると、持っていた包みの中から一枚の写真と細い紙片を差し出しました。
  彦五郎とのぶがそれを見ると、歳三の写真なのでびっくりしました。
  紙片には「使の者の身の上、頼上候、義豊(歳三の諱)」と書いてあり、この少年こそ歳三の言付けを守り、北海道から苦労しながら写真を届けに来た市村鉄之助でした。
  この写真は今でも佐藤家に大切に残されています。
  明治も次第に落ち着いてくると、多摩の人々の間に、幕末の戦乱の世に、節義に殉じた近藤や土方のおこないを顕彰しよと明治九年(1876)に、日野の佐藤俊正(彦五郎)、
土方義弘、国立の本田定年、調布の近藤勇五郎、歳三の兄槽谷良循、町田の小島為政橋本政直など、近藤や土方に関係深い人達が中心になって、碑を建てようと計画しました。
  碑の額は、会津の松平容保公、事蹟の文字は松本順(良順)と新選組に関係の深い人によって書かれ明治二十一年(1888)、高幡不動尊の境内に建立され盛大な慰霊祭が執り行われました。

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