文字サイズを変える
文字サイズ大文字サイズ中
白黒表示
白黒・大白黒・中

きほくトップページに戻る

体験談4

■「私の半生記」       紀の川市 大西セキ子氏(網膜色素変性症患者)


私は生まれながらの弱視でしたが、眼鏡をかければ問題なく、会社で経理の仕事をしていました。主人と結婚したのは1969年でした。真面目で働き者の主人との間に長女が生まれ、私は穏やかで幸せな生活を送っていました。長女を産んで暫くすると、周りの風景が常に薄暗く感じ、ぼやけて見えるようになりました。医師の診断は「網膜色素変性症」、現代の医学では治せない難病で、「次にお産をすれば、失明する」と言われました。その時は2人目を諦めていましたが、年を追う毎に一人っ子では可愛そうと強く思うようになり、主人と相談しました。主人は「絶対にそうなると決まったわけでなし、俺がお前の面倒を一生見る」と言ってくれ、次女が誕生しました。しかし、医師の忠告は的中し、次女が3歳になった時、私は完全に失明しました。

覚悟はしていたものの、まだ30代の私には人生の希望が絶たれた気がしました。人に手を引かれて歩く姿を人目に晒すことができず、外出好きだったのが家に閉じこもり、誰と会うのも嫌になりました。幼い長女に買い物を頼み、家事は何とかこなしましたが、子供の通園や行事等はお友達のお母さんの好意にすがるほかありませんでした。私は家の中に居て発散できない感情を、主人や子供に向けて爆発させました。仕事や町内のこと、親戚、家庭のことで疲れ切っている主人に当り散らしました。死んだほうがましだと思ったりして、私の心は荒れ狂っていました。
そんな中、知人から、ある団体の集会への参加を誘われました。当初はそんな所にいっても仕方が無いと断り続けていましたが、1983年、ついに参加しました。その会での講話を聴いて「兄弟は目が良いのになぜ私だけ」と両親を恨み、主人に対しても感謝どころかいつも不平不満で、恨みと憎しみでいっぱいの心に気付きました。講和を泣きながら聴いて、味わったことの無いすっきりした気持ちになりました。周りの人たちへの感謝の気持ちが生まれ、主人にも今までのことを謝ることができました。人と関わる事を避けていましたが、素直になりはじめました。そして集会に一人で参加した時、初めて「私は目が見えないのです。お手洗いに連れて行ってください」と頼めました。その日から、私の中の引っ掛かりが取れました。集会へ参加し、誰かの方に掴まらせて貰って出かけられるようになり、全てに積極的になりました。メモができない代わりに、記憶力は増してきましたし、ある試験も勉強会で録音したものを何度も復習することで合格できました。この合格を一番喜んでくれたのは主人でした

幼いときから自分のことは自分でし、その上私を助けてくれた2人の娘も結婚と出産をし、ともに幸せな家庭生活を送っています。長女は結婚式の時、「目の不自由な中、私たちを育ててくれてありがとう」と言ってくれ、次女の時は「目と引き換えに私を生んでくれてありがとう」と言ってくれた時には、ああ、この子達を生んで本当に良かった”と、涙はとめどなく流れ、苦労が報われた喜びが全身を包みました。幼いときに見たきりの娘たちの晴れの日の花嫁姿は、想像の中で喜びに輝いていました。今は週末に長女が連れてくる孫たちの世話を手伝ったり、夏には次女の居る東京に新幹線で一人行き、幼い孫の面倒を見たりと、孫たちに囲まれて幸せに暮らしています

 きほくトップページに戻る  
                      きほく電話相談室 0736-75-4413

〔事務局〕〒649-6612 紀の川市北涌371番地  〔電話〕0736-75-4413