住所      石川県鹿島郡鹿西町西馬場7部12番地
     入館料     200円
     休館日     4月〜11月の金、土、日曜日および祝日のみ開館
     交通手段    JR能登部駅から能登西部バス高浜(または後山)行き、徳丸峠から徒歩20分
                 能登有料道路柳田ICから15分程度
     TEL     0767-72-2202
     備考     

能登半島の中央部に広がる邑知地溝帯。ここは現在は広い水田地帯であるが、この邑知地溝帯のほぼ中央、北の山に雨の宮古墳群がある。眉丈山(標高188m)を中心に36基の古墳がある。その中の最大の1号墳は長さ約65mの前方後方墳。この形では石川県内では最大の規模である。そして2号墳は65mの前方後円墳である。この2つの古墳の被葬者は、古墳の規模や副葬品から能登一円に支配権を及ぼしていた人物ではないか、と推測されている。この古墳2基は発掘調査が行われ、現在、作られた当時の姿に復元されている。

ここ、雨の宮能登王墓の館は、雨の宮1号墳を中心に、古墳群に関して展示してある。
まず、ビデオで雨の宮1号墳の埋葬に関する説明を見る。古墳の造営、埋葬の様子などである。被葬者は副葬品とともに木の棺に納められ、朱を敷き詰めるなどの手順を経て葬られたと言う。
ここでの展示は、その埋葬部分である粘土槨の実物大模型が中心である。この古墳に使われた棺は木製で長さ約8mである。中は3室に区切られ、中央に被葬者、その前後に太刀や鎧などの武具と参列者のお供え物(短剣や車輪石など)が納められていたと推測される。発掘時は、この木棺は失われ、棺の上の土が陥没した状態であった。それを除いた状態での模型である。粘土を盛り上げたり、朱を撒いたりした様子も土の色からわかる。また、副葬品も一部が置かれた状態で展示されている。
まず驚くのはその大きさである。長さ約8mの棺を納めたのだから、それだけの長さがある。これは相当な長さである。もう少し後の古墳では石室があり、これも決して小さくはないが、ここの長さにはやはり圧倒される。そういえば、石室に関する展示はあちこちの博物館でよく見かける。しかし、こういう形の棺に関する展示はあまり見かけない。それも、実物大での展示となるととても貴重だと感じる。発掘現場を見る機会はなかなかない。だから、模型とはいえ、このような形で見ることができるのはとてもありがたい。これは一軒の価値があると思う。
それ以外の展示としては、1号墳の副葬品がある。銅鏡や車輪石、太刀や鎧などである。他には銅鏃。これはやじりであるが、これが52本、出土している。一部のものは矢柄も残っていたという。この頃の矢は、かなり強力な武器であったと推測されるそうだ。

さてこの古墳、山の尾根を削るようにして作られているのだが、一部は盛り土がされている。その盛り上げた部分、版築と呼ばれる方法が使われている。これは、違う種類の土を交互に盛り、つき固める方法である。この方法、崩れにくいという利点がある。これは当時としては最先端の技術であったことだろう。これは、展示でも見ることができるが、土の違いは見てもわかりにくい。これはちょっと残念である。

ところでこの木棺、いったいどうやって作ったものなのだろう。普通に考えれば、大木を切り出してきて2つに割り、くり抜いだものだろう。くり抜くのは、これはなんとかなるだろう。でも、2つに割る? 直径が80cm程度、長さ8mである。きれいに割れるのだろうか? のこぎりがあれば可能だろう。でも、当時はのこぎりはない。では割った?それにしてもこの大きさである。では、2つを別々に作って合わせたのだろうか?
そしてこの棺の両端には縄掛けの突起があった。これは、削り残したのだろうか? それとも、別の丸太を継いだのだろうか? これらは、木棺が既に土に帰ってしまっているのだから想像するしかない。いったい、どうやって作ったものだろうか?木だから、石よりも作りやすいかな、などとつい考えてしまうが、やはり大変なことだと思う。

これだけの古墳を作り、そして多くの副葬品とともに葬られた時の権力者。やはり、相当な力を持っていたことだろう。太刀や鎧などは当時は非常に貴重なものだろう。もちろん、現在とは考え方が違うのだろうけど、そういう品が多数、一緒に葬られている。埋葬部分をみていると、当時の様子をいろいろと思い浮かべてしまう。これもやはり、博物館としての学習効果のひとつだろう。


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