広坂(廣坂)
広坂は、兼六園の横、石浦神社との間を上る坂である。
尻垂坂(正式名称は兼六坂)と広坂とで兼六園を挟むような感じになっている。道はS字状にカーブしているが、真っ直ぐに上るように作られている。一部掘割状になっている。道幅は2車線と歩道で広く、香林坊方面と小立野方面を行き来する車が、尻垂坂(兼六坂)ほどではないが、多く通り抜ける。また、坂の上には金沢神社や美術館、博物館などがあり、観光客も歩いていたりする。
広坂は、交通量は少なくないものの風情ある坂である。坂の両側には石垣がある。この坂は明治期に拡張されたとのことであるが、その頃の石垣だろうか? 古さを感じる落ち着いた色合いになっている。そして、坂を覆うように桜などの木々がある。花の季節は桜のトンネルのようになる。車は少なくないが、意外と静けさを感じる坂道である。
広坂は、藩政時代の地図にも書かれている。金沢状付近から小立野へ向かう道は、今と同様、尻垂坂(兼六坂と広坂があり、石引通りで合流している。石引通りから金沢上に向かう場合、途中で分かれてゆくように見える。地形の関係があるのか・・・?
尻垂坂(兼六坂)と広坂とでは、尻垂坂(兼六坂)は片側が開けていることもあり、また石川門や大手門へと続くからか、なんとなく”表”のイメージが強い。これに対して広坂はどこか落ち着いた感じがする。表と裏、とはまた違った性格の違いがあるようにも思える。これは、尻垂坂(兼六坂)ほど通り抜ける車が多くないこともあるからかもしれない。
広坂の由来、これは拡張されて広くなったから、と呼ばれている。江戸時代には、坂の上に加賀藩の家老、本多家(安房守)の上屋敷があったことから、安房殿坂と呼ばれていた。また、作事坂とも呼ばれていた。
広坂の脇には水が流れている。 坂の上の、金沢神社には水が豊富にあり、また兼六園も近い。その水が湧き出すようになっているのかもしれない。 坂の左右は石垣となっている。 古い石垣で、落ち着いた感じがある。 また、木々が覆いかぶさるようになっていて、昼でもやや暗い。 |
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桜の季節の広坂。 坂道に覆いかぶさるように桜の木があるので、桜のトンネルのような感じになる。 坂の上から見ると目の前に桜があるので、桜に向かってゆくような感じに見える。 |
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広坂の上にある金沢神社の金城霊沢。 小立野台地にあるが、泉である。 金城霊沢、これは金沢の地名の始まりと言われている。 |