夕方から天気が悪くなってきたような気がするので、十中八九ダメだろうと思いつつも、夜中の2時に、念のためカーテンをあけてみた。そのとたん、目の前の空を東から西へ、すごい火の玉が。これは大変と外に出て見ると、すっかり晴れて星がたくさん出ていた。主要な星座は見分けられる。数分の間にいくつも光の線があらわれては消えた。
「流れ星」といえば、ほんの爪の先くらいの線が一瞬あらわれて消えるようなのは見たことがあるが、次々と空を横切って行くような豪快なのはこれが初めて。たまやー。かぎやー。違う。願い事をするのだ。と、思ったら急に大きいのが出なくなってしまい、寒くなってきたので中に入った。
地上の照明の影響もあり「雨のように降る」というわけではなかったが、当地としては望みうる最高のコンディションだったのではないだろうか。
図書館に一歩足を踏み入れたら、いつになくすごい音量の BGM。と、思ったら、地元OEKのメンバーによる管楽器アンサンブルの生演奏だった。
開架閲覧室の真ん中をステージにするという大胆な企画で、私が入って行った時はすでに終わり近く、クラシックの曲目はすんで、宮崎アニメの主題歌などをやっていた。
短時間のことでもあり、思いがけなく美しい演奏がきけて楽しかったが、図書館は静かに資料を調べたり本を読んだりするところ、と思っていた私は、びっくり仰天したことも確かである。
今月から、ローカル局で『奥さまは魔女』が放送され始めたので、第一回を見たが、なぜかいきなりタバサちゃんが出ている。そこでいろいろ検索してみたところ、このエピソードは、カラー化された第三シーズンの第一回であることがわかった。ついでに他のこともいろいろわかった。
「タバサ」として出ていた赤ん坊は双子である、という話をきいたことがあったが、実はその双子は一組ではなく、なんと三組いたという。もっとも第三シーズン以降は三組目のマーフィー姉妹が交替で演じ、さらに、二卵性だった姉妹の違いが目立ってきた後は、片方だけが出ていたので、視聴者に「タバサちゃん」のイメージを残したのは、やはり一人の女の子だったと言ってもよさそうである。ここでは成長した彼女の姿を見ることができる。
また、昔、Runaways という、十代の女の子だけのバンドがあり、そのメンバーの一人が「タバサ」の子役だった、という噂が流れていたが、Runaways のメンバーは全員が1958年と59年の生まれで、いっぽう『奥さまは魔女』は64年放送開始であることを考えると、どうも無理である。まあ、当時もウソらしいとは思ったが。
こうして、昔のつまらない疑問は、思い出すそばからインターネットで解決してしまうのであった。
2月頃だったか、「ハリー・ポッター」に「差別的表現があることがわかり、出版社が削除した」というような記事が新聞に出ていた。指摘を受けて第二作の増刷分から問題の個所を削除したとのこと。これだけではどういう問題なのか、原著との関係はどうなるのかなど何もわからない。店頭にはすでに削除後の版しかなかった。
当時のお笑いパソコン日誌に情報があったので、それをもとに原書をめくってみた。16章の中ごろ、ロックハート先生が、他人の業績を自分のものとして本に書いたことについて、彼らよりも自分の顔のほうが表紙に適している、などと弁解しているくだりの1センテンス分が、訳文からそっくり削除されたと思われる。まあ、このあたりは、本筋とはあまり関係ないくすぐりのようではある、と当時は思ったが、本にするのが大変だったということで、他人の成果の横取りを正当化できると考えているロックハート先生のそれと、かなり似た理屈・態度は web上でも見受けられる。もしかしたら重要な部分だった……(?)
それはともかく、ハリー・ポッターについては、もっと前から疑問に思っていたことがある。それはタイトルである。第一作"Harry Potter and the Sorcerer's Stone"をオンラインで注文したあと、店頭に"Harry Potter and the Philosopher's Stone"が積んであるのを見て、一瞬間違った本を注文したかとあせったが、注文した本はUSA版、店頭にあったのはUK版だった。
内容は同じだが、USA版はタイトルと、本文の中の philosopher's stone がすべて sorcerer's stone に置き換えられている。何か商標権の関係かと、漠然と思っていたが、このあいだ調べてみたら全然違った。「philosopher's stone という語はアメリカではピンとこない」「philosopher という語はアメリカの子供には難しい」などと、いくつかの web ページに書かれている。映画化の際は、そこだけセリフを吹き替えるという噂も。そんな理由でそこまでするというのも、なんだか不思議なような気もするが、文化の違いというものか。
ちなみにフランス語版では la pierre philosophale(タイトルには入っていない)、イタリア語版では la pietra filosofale で、錬金術用語として辞書にのっている語が使われている。
なお、ドラクエ3の「けんじゃのいし」は、USA版では Sage's Stone であった。
テレビ欄の、『本家のヨメ』とかいう新番組の解説で、舞台となる旧家のある場所は「東京の奥地」と書いてあった。たしかに山奥と言える場所はあると思うが、「奥地」ははじめて見た。別の解説では「東京都下の」。そういえば、子供の頃、住所は「東京都***郡」と教わったが、「都下***郡」と書くこともあるらしく、都下って何だろうと思っていた。いま辞書をひいてみると、広辞苑は、「東京都の管轄下」と「東京都の管轄下のうち23区を除く……」の両方をあげているのに対し、新明解は後者の意味だけだった。つまり、いまだによくわからない。こういうのを「呉下のアモウ」というのだったりして。
フランスのショベ洞窟の壁画が、3万年前と確認されたとして、壁画の一部が新聞に紹介されていた。ほかにどんな絵があるのか知りたいと思ったが、ショベの原綴がわからないので、google で cave と painting で検索したところ、トップに出てきたのがこのページ。綴りは Chauvet であった。仮想的に洞窟を訪問するような形で、多数の画像が紹介されている。クマやバイソンの他、壁に手を押しつけてエアブラシをあてたような「手形」とか、「ヒョウ」の絵もある。ヒョウがいたのかどうか知らないが、「アニマル柄」の動物(変な言い方)が描かれている。
先日、『風来のシレンGB2』を購入したが、いつも買っている店で、ふと思いついて、カードのポイントを「ためる」ではなく「使う」にしてもらった。そろそろ使う頃だと思ったからだが、昨日その前を通ったら、「閉店のおしらせ」が出ていた。危ないところだった。
川岸を歩いていたら、足もとの水面に鴨が。普通よりちょっと小さめなのが5羽、しきりに水のなかに頭をつっこんで何か食べている。その後ろに、普通の大きさのが1羽、しっかり川底に足をふんばって、ずっと頭をあげている。これはお母さん鴨だろうか。
しばらく見てから歩きだすと、5羽の鴨も泳ぎだした。うしろから「お母さん」もついてくる。どこへ行くのかと見ていると、私の足もとにきて水をバシャバシャやったりしている。また歩きだすと、鴨も泳ぎだす。ああ、これはもしかして、私に何か期待しているのか? あいにくキャラメルコーンもポッキーも持っていない(持っていてもやらないけど)。
どこまでもついて来そうだったが、友禅流しをやっているところまで来たら、あきらめたのか戻って行った。
少し前の新聞に、「英語教育のために阪神は改名を」という話が出ていた。語い・辞書研究会(三省堂主催)で、「タイガース」「ヤンキース」などの「球団名の日本語読みは、なっていない」という発表があったとのこと。これを読んで、なにか前世の記憶のようなものがよみがえった。「タイガース」ではなくて「タイガーズ」が正しい、と、大昔、誰かが議論していたような。しかし、あれは野球のチームの話ではなかったようである。
「マリナーズ」は「○」と書いてあったが、「ヤンキーズ」、「マリナース」も、検索するとかなりヒットする。要はいいかげんに使われているということか。英語教育のためには、「トゥモロー・ネバー・ダイ」とか「マーズ・アタック!」を心配したほうがいいような、どうでもいいような。
CD Sheet Music というのがあるのを知り、「メゾソプラノ/アルト アリア集」を購入。この声種の主要なオペラアリアと、イタリア古典歌曲を PDF 形式で CD-ROM 一枚につめこんだもの。古いパブリックドメインのピアノ伴奏譜をスキャンしたものらしいので、楽譜のバージョンについて、いろいろ意見のある人には、おすすめできないかもしれない。スキャンした元の楽譜の印刷のかすれ等は致し方ないので、ご了承くださいとのことだが、何曲か見たところでは、小さな装飾音符や、歌詞のアクセント符号なども、問題なく読み取れる。
ただし、環境にもよるが、実際に曲を聴きながら、それにあわせて画面上でページをめくるのは、なかなか難しいようだ。演奏するとしたら、やはり印刷しなければならないだろう。
他にベートーベンの交響曲やシューベルトの歌曲集もあるらしいが、これらはすでに紙で結構集めてしまっている。ギター関連のものがあったら欲しいところだが、この方面は著作権のクリアが難しいかもしれない。と、再びそこのサイトを見たら、ヴェルディのヴォーカルスコア全集が加わったようだ。ちょっと食指が動く。
本日付けの「天声人語」は、「情けは人のためならず」の意味を問う調査で、誤答が正答を上まわったことから、意味を取り違えやすいことわざについての話。
「世の中の変化とともに消えていく故事・ことわざもあろう。「竹馬の友」はどうだろうか。もうほとんど目にすることはない光景である。」
さて、この「ほとんど目にすることはない光景」とは、どんな光景なのだろうと考えてしまった。
漢和辞典で「竹馬」をひくと、先端に馬の頭をつけた竹の棒に、子供がまたがっている絵が出ている。李白「長干行」には、「郎騎竹馬来(あなたは竹馬に乗ってきて)」という句があり、「中国の竹馬は、一本の竹を股の間にはさみ、その先端にたてがみのつもりで房などをつけてある(講談社現代新書『李白』)」と解説されている。
日本語の「たけうま」も、古くはそういうものだったと見えて、広辞苑は「たけうま」の項に、二つの意味をあげ、またがるほうの竹馬の図をのせている。
そしてこの、中国の竹馬にあたる「たけうま」も、日本で絶滅したわけではないらしい。滋賀県の竹馬祭りは、画像を見るかぎり中国でいう竹馬だ。
「竹馬の友」の出典は『世説新語』などに出ている殷浩と桓温のエピソードとされているが、「竹馬」が出てくるのは「あいつは私が捨てたおもちゃで遊んでいたやつなのだ」という、なかなか嫌味な文脈らしい。「幼い時、仲良く遊んだ人」の意味で使うのも実は、「誤った用法」? まあそんなわけはないが、ともかく、「竹馬」がどんな形のものかということとはあまり関係なく、今までこの言葉は生き延びてきたようだから、多分、これからも当分の間、生き延びることだろう。
各項目に、タイトルをつけるのもいいのだが、そうすると、タイトルをつけるまでもないようなくだらない事が書けないし(書かなくてもいいとの説もある)、かといって、日付だけだと、何の話だかよくわからない場合もある。どうでもいいことで悩んだ結果、両方ともありという、いいかげんな形式にしました。
電信柱に、「……観察中」と書いた帯のようなものが巻きつけてあったので、近づいてよく見たら、「巣観察中」だった。そこで上を見ると、かなり大きな巣がのっかっていた。観察といっても、自由研究ではなく、電力会社はすでに気がついていますよ、ということなのだろう。危険と判断したら住民を追い立てるのだろうか。それとも、放棄されたと確認してから撤去する? それにしても、隣に雑木林のような公園があるのに、電信柱のどこがいいのだろう。