道教と仙学 第1章

 

 

2、道教文化の源流

 

 

 道家や道教、神仙の学の源流は、母系氏族によって共同生活を営んでいた原始社会の宗教伝統まで溯ることができる。母系氏族社会が形成される以前では、宗教や哲学思想を生み出すことは不可能であり、母系氏族社会の原始宗教が中国文明の始まりである。母系氏族社会の原始宗教は自然発生したものである。こうした宗教は、原始の人々が共同で生きていく中で考え出したものであるが、いったん生み出されると、氏族集団全体の信仰に変わり、生活の各方面に浸透していった。氏族の構成員すべてが宗教儀式に参加し、宗教の行為規範を厳格に守らなければならなかった。宗教に背くことは氏族から離れることであり、氏族から離れることは生きるすべを失うことだった。このように、原始宗教は氏族社会のすべてに影響を与え、氏族の構成員のすべてが忠実な信徒だった。こうした原始宗教は自然崇拝・トーテム崇拝・天神崇拝・祖先崇拝などを含んでいたが、母系氏族制の中で最も特徴的なものは女性崇拝(女始祖崇拝や女陰崇拝などを含む)である。中国の上古の大部族はすべて母系氏族から発展した。そうした部族連合を統率する者は、母親は知っていても父親は知らないことが多く、自分は竜・閃電・虹などの自然物が人間と感応して生まれたのであると考えていた。例えば、伏羲族の華胥氏は「雷沢」という沼の巨人の足跡を踏み付け、やがて伏羲を生み、炎帝(神農氏)族の女登は竜に遭って炎帝を生んだ。黄帝族の附宝は電光を見て黄帝を生んだし、尭族の慶都は竜に遭って尭を生んだ。舜族の握登は虹を見て舜を生んだ。華胥氏、女登、附宝などはこうした部族の女始祖である。中国の考古学者の発見した仰韶文化の時代がちょうど母系氏族社会の最盛期に当たる。その頃の墓の遺骨の埋葬方法を見ると、女始祖崇拝の風習が反映されている。民族学の調査によると、母系制の伝統は雲南省のナシ族に残っていて、今でも女祖先崇拝の文化が残っている。考古学と民族学の調査からわかったことは、母系氏族社会では女陰崇拝の文化が多く存在していたということである。遼寧省の牛河梁紅山文化遺跡では、大規模な女神の廟も発見されている。女が天を補い人を造ったというような古い神話も含め、女性崇拝は母権社会の大きな特徴である。知ってのとおり、原始社会の歴史は階級社会の歴史より長い。母系氏族の原始宗教は、長い歴史の中で、女性崇拝の習慣風俗と思想という伝統を作り出し、それは長い年月を経ても伝統文化の中に残っていった。伝統は社会や民族の中で最も保守的な力であり、一朝一夕に形成されるものではない。しかし、いったん民族や社会の伝統となった文化要素(宗教信仰、思想観念、社会風俗、政治経験、生活習慣など)は、伝統の惰性のために、無理に放棄したり一刀両断に断ち切ったりすることはできない。母系氏族社会の原始宗教が伝統という染料を中国文化という大きな瓶の中に入れてしまった以上、その後いくら父権家長制という宗法礼教の男尊女卑の伝統が優勢になっても、やはり古代から蓄積してきた文化の中に女性崇拝の痕跡を見ることができるのである。現存している伝統文化は必然的に祖先の情報を含んでいるので、道家や道教文化の中に古代の母系氏族の原始宗教の痕跡が見られるとしても不思議ではない。

 道家哲学の源流は、母系氏族社会の部族の統率者の政治経験である。母系氏族社会では、部族は血縁によって一つに結び付いていて、老祖母が統率者で、その子孫が部族の構成員だった。部族は、後輩を慈しみ、欲を少なくして争わず、陰を貴び柔を重んじ、自然無為であることによって統治されていた。そこでは、父系祖先の社会のような厳しい刑法や繁雑な礼儀はなく、宗法礼教によってで部族の人々を束縛することもなかった。老は言う。「政治がぼんやりしていると、民衆は純朴で重厚である。(《老子》第58章)」、「大きな国を治めることは、小さな魚を煮るのに似ている。(第60章)」、「第一は慈愛、第二は倹約、第三は天下の先頭に立たないことである。(第67章)」。こうした政治原則は、母系氏族の共同生活集団の伝統的な政治と同じものである。老は彼の理想とする社会もはっきりと描写している。「国は小さく住民は少ない。軍隊に要する道具はあったとしても使わず、民衆に生命を大事にさせ、遠くへ移住することがないようにさせるならば、船や車はあったところで、それに乗るまでもなく、鎧や武器があったところで、それを並べて見せる機会もない。もう一度、人々が結んだ縄を用いる世とし、彼らの食物をうまいとし、衣服を心地よくし、住居に落ち着かせ、習慣を楽しくすごすようにさせる。隣の国が見えるところにあり、鶏や犬の鳴き声が聞こえても、人々は老いて死ぬまで、たがいに行き来することもない。(第80章)」。ここに描写されている社会は母系氏族の共同生活集団の社会とぴったり一致する。考古学の調査や民族学の資料によると、母系部族は確かに「鄰国相望」、「不相往来」の社会だったのである。歴史上で老の記述した社会が実在したのは、母系部族の原始社会だけである。この社会はまだ野蛮な時代にあり、原始の人々がそれほどすばらしい生活を送っていたとは想像もつかないだろう。母系原始社会には、事物を雌と雄に区別する習慣があった。原始宗教の女性崇拝は、目立たず柔らかく、謙虚で物静かな女性的な性質を尊重する伝統を生み出した。目立たないことや柔軟なことを重視する道家哲学は、明らかにこの伝統を抽象的に概括したものである。《老子》の中には何度も「母」という字が出てくる。「道」を「玄牝之門」(女陰)や「谷神」(生殖神)とも称し、「天下の母であるといってよい。(第25章)」とも言っている。これは原始宗教の女性崇拝の痕跡である。母系氏族原始宗教の痕跡を示す道家の特徴は、その後道教に吸収され、道教の中では女性崇拝がさらに豊富になった。早期の道教の神仙である西王母は、母系部族の統治者である。《竹書紀年》、《穆天子伝》、《山海経》、《漢武帝内伝》、《准南子・覧冥訓》および張衡の《霊憲》などの書物によると、伝説の有窮国の君主后や商の帝太戊は西王母に仙薬を求め、周の穆王は自ら崑崙山へ出向いて西王母と会い、漢の武帝も西王母に仙術を学ぼうとした。それ以後、道教の世界では西王母を女仙の祖と考え、彼女を中心とした厖大な女仙の系譜を作り出した。《城集仙録》、《歴代真仙体道通鑑後集》、《歴代仙史》巻八には、130以上の女仙の伝記と故事が記載されている。民間道教の祭祀活動の中で最も参拝者の多い女仙は、北方の碧霞元君と南方の天妃媽祖である。女氏の時代はまだ母系氏族の時代で、中国は洪水の多い時期だった。多くの氏族の村落は洪水を避けるため山や丘陵に集まっていたので、丘民とも呼ばれる。それぞれの山や丘陵の村落の統率者は治水事業を行い、また村落が集まって連合を結成した。これが伏羲族・黄帝族・炎帝族などのような部族である。それぞれの部族が治水事業を行っていく中で次第に文明が発達し、父権が重んじられるようになった。禹の時に洪水は克服され、夏王朝がはじまる。これ以後、中国は次第に父権家長制の階級社会へ移行し、原始宗教は次々と変革されていった。殷・周の時代には、父権の原始宗教の代名詞ともいえる宗法礼教が確立され、ついに男尊女卑の新しい伝統によって統治されるようになった。これが儒家の文化の始まりである。しかし、母系氏族の原始宗教の伝統は民間に隠れたり外の部族へ流入し、途絶えることはなかった。統治者が男神に変わっても、それは新しい巫史文化という原始宗教にいろいろなものを混ぜ込みながら、やはり女仙崇拝の痕跡を残した。中国が儒家の父権家長制によって統治されるようになってからも、道教では女仙を賛美し女性成仙が語られた。道教の中には、原始宗教の女性崇拝が残されているのである。

 夏・商・周の三王朝の頃から、次第に封建的なしきたりである父権制の原始宗教によって統治されるようになった。周公が礼を定め楽律を作り、宗法礼教の内容は豊富になった。周代には世卿世禄制度が施行され、学問は官のものとなり、官と師が一つになった。春秋戦国時代になると、封建地主経済が周代の宗法領主経済に取って代わり、世卿世禄制度は衰えた。階級関係(君、卿、大夫、士、庶民、奴隷)も変化し、貴族と庶民の間に介していた「士」の階層が急速に拡大した。また伝統文化の担い手も、もとの封建的な身分から解放された。士の階層は自由に流動できる四民(士・農・工・商)の首位となり、社会的な理想・文化素養・社会的責任感をはっきり認識していた。厳密に言うと、中国の古代の知識階級はここに至って出現したのである。階級社会の中では、知識階級には二つの側面があった。一つは、知識階級には社会地位・経済条件・興趣・需要のようなものがあったので、利益と要求の一致した社会階層の一つだった。もう一つは、彼らは社会全体の階級や利益集団の代弁者だった。社会にはさまざまな階級や階層、利益集団があり、そのさまざまな利益と求める思想観点を知識階級の人々が代弁したのである。だから、知識階級は特定の経済階級に属していたのではなく、社会全体が共有する利益を担う階層だったのである。知識階級は社会経済における地位という制限を受けない民族文化の担い手であり、社会の理想や時代の精神の代弁者だった。孟子は「恒久的な財産はないが恒久的な心を持つのは、士だけである(《孟子・梁恵王》上)」と言っているが、これは古代の知識階級の特色を述べているのである。「士」の階層が興ると、理性主義や人文思潮が急激に広がり、周代の伝統的な原始宗教は衰退し、礼は壊れ楽は崩れた。そこで原始宗教の巫史文化の中から諸子百家が出現した。伝統文化は哲学の高みにまで達した理性主義には及ばなかった。

 古代の母系氏族制と父権宗法制の原始宗教の伝統を継承した周代の巫史文化には、古代の学術が集約されていた。この巫史文化は、春秋戦国時代に理性主義や人文思潮の洗礼を受け、諸子百家の学派に分かれた。その時代の中国は、鄒魯・三晋・燕斉・荊楚・呉越・巴蜀の6つの文化地域に分かれていた。周代の宗法礼教の伝統を最も多く継承したのが儒家であり、法家がそれに次いでいた。儒家は鄒魯で興り、法家は三晋でもっとも盛んに行われた。道家・墨家のほかに母系氏族の原始宗教の伝統を比較的多く継承していたのは、《漢書・藝文志》の記載によると、陰陽家・術数家(天文家・歴譜家・五行家・蓍亀家・雑占家・形法家を含む)、方技家(医経家・経方家・房中家・神仙家を含む)である。道家学派ははじめは燕斉文化と荊楚文化を中心にして発展し、のちに呉越文化と巴蜀文化に伝播していった。周代以降、古い母系氏族の原始宗教は、燕斉・荊楚・呉越・巴蜀などの辺境の地域に伝播した。これらの地域は神仙家や巫祝、方士が活躍した地域である。のちの漢末の道教はこれらの地域の文化から発展したのである。

 原始宗教の巫史文化が、単なる女性崇拝あるいは男尊女卑の観念だけではなく、実際には非常に深遠な思想を含んでいたということを特に指摘しておかなければならない。道家や道教が始祖として奉じている黄帝の時代には、天文知識の増加に伴って人文知識も発展し、多くの発明や発見がなされた。古代の人々は北斗七星によって天体の運行や太陽・月の位置を観測し、星辰を二十八宿に区分し、暦法を制定したり気象を観察した。太陽暦の十月暦法は原始時代から夏の時代まで用いられ、商の時代に改められた。現代でも雲南省の哀牢山のイ族がこの十月暦法の風俗を残している(*1)。《詩・小雅・十月之交》、《管子・幼官篇》、《夏小正》にもこの古い十月暦法について記されている。古代の人々は豊富な医薬学の知識も持ち、心理的あるいは生理的な養生論、経絡学説、形・気・神の人体観、石針・針・灸・煎じ薬・まじないなどの医療方術を生み出した。古代の人々が発明した天干・地支による時間の計算法はある種の宇宙の法則とよく合致し、後に方技術数および予測学を発展させることになった。また古代の人々の天の観念(広々として果てしないものが天である)、神の観念(天地に通じるものを神と言う)、鬼の観念(神が地に帰したものが鬼である)、人の観念および天・神・人の三位一体の思想は、のちに天人合一説・陰陽五行説・三才四象八卦説・道の観念へ発展していった。道教文化の種子はすでに巫史文化の中にあったのである。

 

 

*1 劉尭漢《中国文明源頭新探 ─ 道家与彝族虎宇宙観》、雲南人民出版社1985年版

 

 

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