道教と仙学 第1章

 

 

3、道教が生まれた原因

 

 

 道教は西洋の宗教のように一人の教主が短期間のうちに作り上げた宗教ではない。それは瓜が水を得て自 然と熟していくように、宗教としての性質を絶えず向上させてきた。秦の時代には、北方と南方の道家の学、斉の国の黄老学派、陰陽家の 騶衍の方士の学、方仙道、黄老道などがあった。それらはどれも道教と関連してくるが、道教そのものではなかった。道教は東漢の順帝以 降に生まれた。道教は誕生した後、魏・晋の時代に、過渡的な段階を経て早期道教の一部が神仙道教を形成し、南北朝時代に、教会式の宮 観道教に発展していった。東漢の順帝以前は道教の生まれる準備段階であり、この時期の方仙道や黄老道は道教の先駆けであると考えられ る。東漢の順帝から東漢の終わりにかけて、道教は創始されたと言われている。この段階の民衆道教の五斗米道や太平道は早期道教と呼ば れる。南北朝の時代には、道士はさらに完全な宗教組織を作り、道観で修行した。このような宮観教団を教会式宮観道教と呼んでいる。道 教は漢代の政治・経済・文化などの要素が絡み合って生まれたのである。こうした要素は発展の歴史の中に必然的に現れたものである。次 に、道教に関連する社会的条件を歴史的に追いながら道教の生まれた原因を探ってみよう。

 最初に、道教の生まれる基を築いた、秦漢以降の中国の思想・文化の進展について見てみよう。母系氏族 の原始宗教の伝統や巫史文化は、三代[夏・殷・周]以降の春秋戦国の時代には、理性主義や人文主義のふるいにかけられ分別された。そ の中で比較的理性の程度が高かったのは道家・墨家・陰陽家などであり、天文・歴譜・五行・蓍亀・雑占・形法などの術数派がそれに次い だ。これらはすべて原始宗教の文化から分化してきたものである。人類の理性的な発展に伴って、巫史だけでなく巫医も分化していった。 三代には国家の補佐役という一級の地位にあって敬われた巫は、より理性的でより文化的な方士に取って代わられ、辺境や民間に貶められ た。医経家・経方家・房中家・神仙家などの方技派も巫史文化から分化し、のちには祭祀鬼神・禳禍祈福・講説怪異災病などの低層の文化 が残り、巫覡[祈祷師]によって民間に広まった。こうした新しい学派はこの時代に急激に発展し、戦国時代の終わりまでには素朴な原始 宗教から脱却してしまった。戦国時代からは諸子百家のざまざまな学派が融合し、やがて黄老の学が生まれた。前漢のはじめには、黄老学 は政治に関する学問だった。漢の武帝は黄老学を退けて儒家の学問を用いたが、黄老学の中の楊朱派の尊生全性説が発展し、前漢の終わり には黄老学は身を修め性を養うための学問に変わった。後漢の時代に、黄老学は神仙家・陰陽家・五行家・方技家・術数家と融合し、やが て黄帝や老子を祭祀する黄老道に変わった。道教文化は東漢の終わり頃に生まれた。それははじめは黄老の学が宗教や方術に変化したもの だったが、同時に、巫史文化から分化した道家・墨家・陰陽家・神仙家・方技家・術数家、あるいは民間の巫術、儒家の倫理道徳などを取 り入れていった。春秋時代に分化した原始宗教の文化は、戦国時代に再び結び付き、秦・漢以降に道教になった。この事実は、文化という ものが備えている規律性を反映している。中国文化の歴史をたどると、理性主義の思潮と信仰主義の思潮は常に補い合い、世俗文化と宗教 文化もこちらが起きればあちらが伏し、こちらが伸びればあちらが消える。三代の時代には、宗教文化が濃厚で世俗文化は薄弱だった。春 秋戦国時代には、理性精神や人文思潮は世俗文化の中にも満ちあふれ、宗教文化は二の次になっていた。漢の時代には、世俗文化にも宗教 化の傾向が現れ、宗教文化が非常な勢いで発展した。そのために、漢の時代に儒家が神学化し、仏教が導入され、道教が生まれたのであ る。

 次に、家長制封建帝国を統一し、人民を統治していくうえでの必要性から道教が生まれたということにつ いて見てみよう。秦・漢の時代、中国は一つの封建帝国に統一されていた。皇帝は家長制の独裁政権を強化するために、鬼神迷信を利用し て民衆の思想をコントロールする必要があった。中国社会の低層の農民・漁民・きこりなどの労働者は文字が読めないような状態だったの で、彼らに《論語》、《礼記》、《孝経》などの儒家の著作を見せても理解できなかった。彼らが謀叛を手助けしないようにするために は、宗教によって教化するしかなかった。漢代の皇帝は、このような政治的な必要性からまず周代の伝統だった宗法礼教を復興することに 力を注いだ。続いて神をでっちあげ、儒家を宗教化していった。御前会議を開いて儒家の宗教化をあおりたて、《白虎通》を国家の教科書 として欽定し、「三綱五常」を神聖化した。また、孔子を教主として奉じ廟を建てて祭った。「忠孝」を官吏を選抜する尺度とし、全国で 家長制を推し進めた。秦の始皇帝や漢の武帝は封禅を行い仙道を求めて古い宗教の精神を復活させ、漢代の政治・学術は宗教という濃い霧 に覆われた。東漢の時代には讖緯神学が儒家の正統派となり、儒家と伝統的な宗法礼教との結び付きはどんどん緊密になった。古代の宗教 の亡霊は完全に儒教に取り付いたのである。漢末に社会不安が増すと、国家に従属していた儒教は人々の心をつなぎとめておけなくなり、 この機運に応じて必然的に道教が生まれた。歴史的にも、新しい宗教意識が生まれ発展するのは、常に統治階級の思想に信仰の危機が生じ た時である。道教は儒教に代わって世を救い、帝王を助けて太平の世をつくるためのものだった。道教は、儒家の倫理教条の影響を受けて 仙人に成るための必要条件を作成した。これは道教が儒教に取って代わったのではなく、宗法封建の秩序を守るために儒教を助けていたと いうことである。道教は封建皇帝のための「第2の儒教」として機能したのである。

 東漢の終わり頃、自然の力よりさらに強大な社会的な力によって抑圧・搾取され苦しめられた民衆は、耐 え難い苦難から逃れるために宗教を強く求めた。東漢の順帝以後、政治は腐敗し、宦官や外戚が権力をもてあそび、気風に節操はなくなっ ていた。桓霊の時代には、士族の名士や太学生が朝廷の政治を批評して宦官を糾弾し、党錮の獄[特定の党派の人々を弾圧したこと]が起 こり、知識人を惨殺し、世論を弾圧した。朝廷は民衆の支持を失い、国家は大本から揺れ動いた。官僚は横暴になり田地を併合したので農 民は土地を失った。日増しに難民は増え、災害が続き、経済は崩壊した。中国の家長制の農業社会の中でも、朝廷が冤罪事件を起こし、し ばしば知識人を惨殺した。社会には厖大な難民の階層が出現し、盗賊や流賊が暴れ回り、さまざまな教派や秘密結社が競り合い伝播した。 こうしたことは、往々にして国家が滅亡する前兆である。当時、「漢の世は衰えた」というは一般的な認識で、人々は平和で豊かな新しい 時代が訪れることを願っていた。こうしたなかで、早期道教は社会的な危機や人々の苦しみに訴えかけて布教した。神秘的な太平の気が訪 れ、徳を備えた君主が現れ、神人が降りて人々の苦難をすべて除いていまうと公言した。このような道教結社は、住む所を失い路頭に迷う 人々を救済し慰撫した。また、圧迫に耐え兼ねて農民が反乱を起こす時には、道教結社は農民を束ねる組織ともなった。かくして、漢の時 代の終わりに興った道教は、阻むことのできない潮流となっていった。

 道教の宗教形態の確立には仏教の伝来が影響している。仏教は成熟した世界宗教の一つである。その教理 や教義・組織形態・修養方法はどれもよく整い、宗教性は政教合一の宗法礼教や早期道教よりはるかに優れていた。この宗教の中国への伝 来は、中華の民族文化の自覚を促した。中国文明の中には仏教に対して模倣と排斥の二つの反応があった。中国を統治する側にあった儒教 はまず「中華と外国の区分」を旗印にして道教と連合し、帝王をそそのかして仏教を攻撃したので、やがて道教と仏教の対立は決定的に なった。仏教の伝播は、中国に自己の民族の宗教を確立させる原動力となり、同時に、宗教性のより高い模範の一つを示したことは間違い ない。道教は、仏教の宗教形態を積極的に吸収して宗教性を高める一方で、自己の民族文化の特徴を強化し仏教に対抗しようとした。仏教 の伝来は政教合一という古くからの中国文化の伝統を打破した。道教にはもともと役所や家族のほかに教団はなかったが、仏教の伝来に よって独立した教会式宮観教団という宗教形態にまで発展した。もし仏教がなければ、道教の形態や発展の仕方は違ったものになり、のち に宮観教団・叢林[寺院のこと]制度が確立したかどうかも定かではない。

 最後に、道教の生まれる道を開いた方仙道の活動について見てみよう。春秋時代に長生不死を追及してい た神仙家は、のちに陰陽家・方技家・術数家と合流し、戦国の末期にさまざまな道術を修習する方士集団になった。歴史家はこれを「方仙 道」と呼んでいる。《史記・封禅書》には、「斉の威・宣の時より、騶子の徒は終始五徳の運を論じ著す。秦帝に及びて斉の人秦へゆき、 故に始皇はこれを採用する。しかし宋毋忌・正伯矯・充尚・羨門高、最後はみな燕の人が、方仙道を為し、形解き銷し化し、鬼神の事に依 る」と記されている。西漢の社会では厖大な方士階層が形成され、方仙道は極めて積極的に活動していた。漢の武帝が封禅・祀太一を行っ たことや准南王劉安が道を学んだことなどは、方仙道の活動である。漢の元帝以降、儒臣の官吏が方仙道を排斥した。成帝・哀帝の時に は、儒臣の主導で朝廷を長安の甘泉泰畤に移し、方仙道を「左道」、「奸人」の術として斥けたので、方仙道はやがて衰退していった。新 の莽の時代には、讖緯経学が流行し、神仙思想が盛んになり、王莽も「神仙王」と自称し、黄老の学にも神仙養生思想が取り入れられた。 後漢以降、黄老学派と方仙道は合流し、神仙も方士もどちらも黄帝と老子を祖とし、黄老養生の術を修練した。方仙道は黄老道に変わり、 再び盛んになった。

 漢の終わりには黄老道が大流行した。それは仏教を中国に受け入れさせただけでなく、早期道教が成立す るもとにもなった。歴史書の記載によると、漢の明帝の時、楚の王英はすでに黄老道を奉じていたし、桓帝の時には皇宮の中に黄老の祠が 建てられた。《後漢書・王換伝》には、「桓帝は黄老道を事とし、もろもろの祠はすべて盛んに祭られた」と記載されている。このことか ら、黄老道が発展し、その祠が盛んに祭られていたことがわかる。黄老道は漢末に盛んに伝えられ、朝廷の承認する宗教信仰ともなった。 早期道教の結社・組織・教団などの指導者は黄老道の看板を掲げて布教しないわけにはゆかなかった。《後漢書・皇甫嵩伝》には、「はじ め、巨鹿張角は自ら大賢良師と称し、黄老道を奉じた」と書かれている。このことから早期道教の指導者がもとは黄老道の信徒であり、五 斗米道や太平道は黄老道の中の異端の教派にすぎなかったことがわかる。道教の生まれた原因を追及していくと、方仙道およびその後身で ある黄老道が橋渡しと地ならしをして道教が成立したことを認めないわけにはいかない。

 民族社会を心理的な角度から分析していくと、人の心理は理性的な思考だけではなく情感も満足させる必 要があることがわかる。科学や哲学は理性的な思考を満足させ、信仰は感情の需要を満足させる。宗教信仰は愚昧や迷信と同じではない。 ある民族が発展していくには信仰や理想がなくてはならない。古代の社会では、信仰や理想のほとんどが宗教として表現された。つまり、 ある民族の精神生活の中に、科学や哲学がないということはありえず、宗教が不足していることもありえない。しっかりした宗教が不足し ている民族には、逆に愚昧迷信が世俗生活に氾濫している。世俗文化に宗教信仰に準ずるものが入り混じっていると、科学や哲学の発展に も影響する。人類はもちろん理性的な思考によるさまざまなものを大切にしてきたが、一方で神秘主義の超自然力も追及してきた。人類は 生活の中では理性による社会規範や倫理道徳で自分自信を抑制する必要があるが、同時に理性によらない情感を刺激して自分の苦悩を晴ら す必要もある。中世の世界は宗教によって統治された時代であり、科学や哲学は宗教の下女にすぎなかった。宗教に対する免疫力のある国 家は世界のどこにもない。もちろん、中国も例外ではない。だから、道教が漢代の中国に生まれたことは、発展の歴史の必然的な結果であ る。これは、ギリシャ、イスラエル、インドが理性的な思惟の光が現れたあと、中世に再び暗黒の状態にもどってしまったのと同じことで ある。

 

 

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