道教と仙学 第2章

 

 

3、魏・晋の時代の過渡期の道教

 

 

 魏・晋の時代は、漢末に生まれた早期道教が南北朝の時代に宮観道教へ発展していく過渡期である。漢末の黄巾の乱のために、太平道は統 治階級に敵視され、禁止・弾圧された。軍隊に準じる組織編成の太平道は20年以上も戦い続けたが、結局は消滅した。黄巾の乱を鎮圧する中 で興った曹操・劉備・孫権の3つの勢力は、社会に流伝する道教組織を鎮圧・制限しながら利用・転化する両面的な政策を取った。階級闘争の 激しい時代であり、早期道教が発展していくには、その古臭い形から脱し、軍隊に準じた政教一致の組織構造を改変し、宗教性を向上させ、社 会を倫理的に教化する作用を強化しなければならなかった。曹操は道教を利用しながら制限する政策を取り、方仙道や黄老道の伝承者を鄴城 [三国時代の魏の都]に呼び寄せた。歴史書の記載によると、曹操の呼び寄せた方士には、王真・封君達・甘始・魯女生・華陀・東郭延年・左 慈・郗倹・薊子訓・費長房など多くの人がいたが、すべて優れた術を持つ有名な方士だった。これらの方士たちは魏の首都に集められ、社会に 大きな影響を与えた。曹操でさえ彼らに養生補導の方術の習練について尋ね、士族の官僚の中でそれを信じる者も多かった。もともと山林に隠 れ住んでいた方士を一か所に集めたことは、客観的に見ると、方士たちに道術を磨き、弟子に教えを伝え道教団体を組織する場を提供すること になり、神仙道教の形成を加速した。東呉の孫権も神仙を信じ、方仙道や黄老道の伝承者と交遊があった。彼は介象・姚光・葛玄などを丁重に もてなし、神仙道教が江南で発展していく環境を整えた。魏の朝廷は民間の巫鬼道の活動を禁止し、もし「でたらめな祷祝を行い、禁令に違反 する」と処罰された。晋の皇帝も、むやみに祭祀を行うことを禁じ、民間道教、特に巫鬼道の活動を制限した。ところが、これらの禁詔は巫の 風俗を断つどころか、逆に民間道教の中に長生成仙という神学信仰を立てさせることになった。張魯が投降すると、曹操は彼を客としてもてな し、その5人の子を列侯に封じた。また曹操は彼と姻戚関係を結び、張天師の家族はさらに敬われるようになった。曹操が軍を鄴城に引き上げ る時には、漢中の数万戸の百姓を長安および許昌・洛陽・鄴城に移らせ、張魯およびその家族と閻圃・李休・龐徳なども北へ移った。劉備が漢 中を攻め落とした時も、多くの道教の信徒が関隴・洛陽・鄴城などの地に移らされた。このようにして五斗米道の信徒は北方へ移り住むと、そ の地の太平道の信徒とも結び付き、共に天師道を奉じるようになった。かくして、北方に強力な道教の勢力が形成され、道教の信徒が活発に活 動するようになった。統治階級が道教に対して制限しながら利用するという政策を取ったために、道教は上層の神仙道教と下層の民間道教とい う二つの大きな階層に分かれていった。天師道が上層社会に伝播すると、それは次第に神仙道教と合流し、早期道教の特色を失った。経済的に は、漢代は国家による農業地主経済だったが、魏・晋の時代は、門閥士族が幅を利かせる領主経済へ転化した。門閥士族(歴代の公卿は世族と も称した)の勢力が強大だったので、この時代の政治・経済・文化(宗教を含む)はすべて士族社会の色に染まった。こうした時代背景の中で 発展した士族の道教は神仙道教となった。

葛玄
(《中国道教気功養生大全》より)

左慈の弟子であり、その教えは葛玄から鄭隠を経 て 葛洪へ伝わった。
血縁的には葛洪の従祖父(祖父の兄弟)に当たる。

 

 (1) 神仙道教と道教学者葛洪

 神仙道教は士族文化の産物であり、道教の歴史の中では不可欠の発展段階である。それは、漢末の早期道教が南北朝の時代に教会式宮観道 教へ成熟していく橋渡しだった。神仙道教が形成されると、早期道教は秦・漢からの方仙道や黄老道を包容する方向へ発展し、魏・晋や南北朝 の時代の宗教改革も、ほぼ神仙道教の範囲内で進行した。根本的には、神仙道教は早期道教を改造したものと言うより、秦・漢の方仙道や黄老 道が変化したものである。魏・晋の時代の神仙道教は、方仙道や黄老道の方士および山林に隠れ住む隠遁の士に士族の天師道の道士が結び付い たものである。中国の古代の知識人は、家長制の宗法強権政治のもとで自我を解放させようと山林に隠れ住むようになり、父権制の周代の礼教 によって社会を統治されるようになっても、士の階層はこのような道家の隠遁の伝統をずっと保持していた。魏・晋からは世の中に意外な事件 が続き、政治は険悪になり、士族の名士には有能な者が少なかった。そのために山林に隠れ住む者が急増した。これらの隠者も道術を兼修し、 神仙道士に成った。神仙道教が形成されると、方仙道や黄老道の方士たちも神仙道教に入り神仙道士という立場で経を伝え、術を修習し、布教 した。魏・晋の時代の神仙道教は、こうした時代の特徴を備えている。

 1、魏・晋の時代の神仙道教では、神仙が実在すること、学ぶことによって仙人になれること、欲するままに長生きができること、方術は 有効であることなどが堅く信じられていた。長生成仙が神仙道教の主旨だった。当時の神仙の特色は長生久視である。人々は、神仙が不老不死 の人間であると考えていた。その時代に仙道を学ぶ者が特にあこがれたのは長生不死であり、人間のままで享楽をほしいままにする地仙だっ た。実際、士族名士の現実生活は神仙の世界の中にも反映され、その願望が宗教界にも投影されていた。

 2、神仙道教の教団組織には、士族の家庭の特色が持ち込まれた。これらの教団は一般に布教する者によって独立で営まれるものであり、 ほとんどの場合、その家族と募集採用した弟子によって組織された。神仙道教の師弟関係は儒家の経師と弟子の師弟関係が宗教化されたもので ある。徒弟の地位は士族社会の中の「門生」に相当し、師に労働力を提供した。

 3、魏・晋の時代には、神仙道教は師徒秘授制によって教えを伝えた。経を伝える前に師は弟子を厳しくテストし、弟子は道経を受けるた めに宗教儀式を行い証拠物件として金品を収めた。このような師徒秘授の布教方法は、漢の儒経師授経の伝統を宗教化したものである。のちに 仏教の影響を受けると、広く一般に布教するようになった。

 4、魏・晋の時代の神仙道教は一般的な宗教の特徴を備えていたが、道士の修行方法は比較的自由で、まだ出家道士と在家道士の厳格な区 分はなかった。漢代の方士や隠者の生活様式をとどめていたが、政治に参加して官職に就き妻帯して子供をもうけてもよかった。宗教の形とし ては、あまり仏教の影響を受けず、基本的に中華民族の伝統文化の風格を保っていた。

 5、魏・晋の時代の神仙道教には、統治する側であるとはっきり意識し、儒家の政治倫理の観念を取り入れて仙道を修行するための条件を 作り出した。神仙道教は神学の体系や宗教性は民間道教よりも優れていた。それは巫鬼道と対立していただけでなく、民間道教も極力排斥し た。

 魏・晋の神仙道教に理論的な基礎を築いた道教学者が晋代の葛洪である。葛洪(248~344年)は、丹陽句容の人で、字を稚川とい い、自ら抱朴子と号していた。彼の祖父の葛玄(字は孝先)は東呉の有名な黄老道の道士で、《老子内節解》を世に伝えた。葛玄の師は漢末に 方仙道を伝えた左慈(字は元放)である。左慈は道教の経方書や金丹術を多数所有し、多くの弟子がいた。葛洪は道教の家柄に生まれ、葛玄の 弟子の鄭隠(字は思遠)にも師事した。彼は金丹術や《霊宝五符経》・《三皇文》・《五岳真形図》などの道書と仙術を得て、《抱朴子内篇》 を著した。これは道教史上画期的な著作である。葛洪の神仙道教の思想の源流は3つあり、一つ目は漢代に北方仙道に伝えられていた《黄帝九 鼎神丹経》・《太清金液神丹経》(どちらも現存する《正統道蔵》洞神部衆術数に収められている)などの外丹黄白術の道書であり、二つ目は 《三皇文》・《五岳真形図》などの符籙である。そして、三つ目は祖父母から孫へ代々伝承された《霊宝経》で、これは左慈・葛玄・鄭隠から 伝えられた道術である。葛洪の著した《抱朴子内篇》は、秦・漢以来の方仙道や黄老道の伝統を継承しながらそれを総括し、同時に、新しく起 こった神仙道教の神学体系や理論の基礎を築いた。その書の中に述べられている「仙道を求める者は、忠孝・和順・仁信を根本にしなければな らない」という思想は、神仙道教と儒家の教えをミックスし、社会を教化する道教の作用を強化した。葛洪の道教の神学理論は、方仙道に残る 時代遅れのしきたりを打破してその弊害を改革し、士族道教を社会へ布教していく新しい道を開いた。だから、《抱朴子内篇》は神仙思想の集 大成であり、道教が発展していく中で過去を受け継ぎ未来を開いた道教書籍である。

東岳泰山真形図(《洞玄霊宝五岳古本真形図》)
(《道教事典》より)


五岳真形図
(《道教の本》より)

《五岳真形図》には二種類のものが伝わっている。唐代以前の 古 いタイプのものは、洞穴や水源などの表示もあって一種の地形図である痕跡をとどめる(上の左図)。現在ごく普通に用いら れるものは宋代以降に用いられるようになったものである(上の右図)。

 

《抱朴子》に見える老君入山符

比較的ポピュラーな符であるが、文献によって形 態 に差違がある。上のものは黄意明《中国符咒》によった。
《抱朴子》によれば、桃の板に朱書きして携帯すれば、山川の鬼を避けられるとある。

 

 (2) 神仙道教の諸道派

 長生成仙を教えの主旨とする神仙道教は、晋代以降その活動の中心を次第に北方から南方へと移した。《諸真宗派総簿》に列挙されている 経典派・符籙派・占験派などは、魏・晋の時代にその端を発している。次にこれを簡略に述べる。

 1、金丹派

 漢末の左慈は北方から南の東呉に渡ったので、金丹派道教は江南で伝承されるようになった。実際には、左慈より前に漢末の陰長生が魏伯 陽に九鼎丹法を伝えていた。魏伯陽が《周易参同契》の中に述べている還丹が「九鼎丹」の「第一鼎」(丹華を作る法)である。葛洪は、「私 は長生法の書物を研究し、不死の処方を集め、今までに読んだものは何千篇にものぼるが、どれも還丹と金液を骨子にしている。してみればこ の2つは仙道の極意である。これを飲んで仙人になれないようなら、昔から仙人というものはなかったはずである」(《抱朴子内篇・金丹》) と言っている。神仙道教の道士は、金液・還丹を服用することが人間から仙人に昇るための基本的な方法であると考えていた。だから、金丹派 の道士にとって、金液・還丹を錬成することは一生の大事だった。葛洪が晩年に家族と弟子を連れて遠く広東の羅浮山に赴いたのは、丹砂を入 手して還丹を錬成するためだった。漢末や魏・晋の時代には、金丹派道教は広く伝えられてはいなかった。道士は丹方を極秘にし、軽々しく人 に伝えなかった。その時代の主要な丹方は、基本的には《黄帝九鼎神丹経》や《太清金液神丹経》の処方であり、煉丹の化学反応はほぼ火法 (昇華・焼鍛など)と溶液中で行う水法の2種類の反応を用いていた。《道蔵》の中の《三十六水法》も、漢代に世に出た外丹の経典である。 金液の法は水法の反応に由来する。当時の還丹の主要成分は硫化水銀(HgS)である。金液は金性を吸収した溶液に象徴されるもので、酢あ るいは硝石(KNO2)を含んだ溶液に黄金あるいは薬金(銅合金)を多く用いたことから来 ている。黄白術は銅合金(薬金・薬銀)を作り出す方法である。晋代の有名な外丹黄白師には《五金訣》・《五金粉図》などの書を著した狐剛 子がいる。伝えるところによれば、彼は左慈の弟子である。金丹派神仙道教は天師道とも関係があり、張陵とその弟子も九鼎神丹や太清金液神 丹を伝承していた。この時代の金丹派神仙道教の主要人物には、陰長生・魏伯陽・左慈・葛玄・鄭隠・葛洪・狐剛子などがいる。

 2、経籙派

 晋代には、なにがしかの道教経典を信奉し伝承する道派が起こった。これらの道教経典はほぼ《三皇経》系・《霊宝経》系・《上清経》系 の3つの系統に大別された。魏・晋の時代には、道教は上流士族社会や知識階層で発展した。特に東晋にはその発展がピークに達し、多くの道 教経典が必要となり、東晋で新しい道書が造られるようになった。東晋の中葉に新しく作られた道教経典のうち、三皇経・霊宝経・上清経の三 つが重要となり、これらは後世の道教では三洞真経として尊ばれるようなった。三洞真経を作り伝承した道士は経籙派と総称され、符籙派はさ らに三皇・霊宝・上清の三派に分けられた。実際にはこの三派は共通している部分もある。三皇派・霊宝派を伝承していた主要人物には句容の 葛氏があり、上清派を伝承していた主要人物には丹陽の許氏がある。

 3、占験派

 神仙道教には以上の金丹派・経籙派のほかに、占験派があり、魏・晋の時代に盛んに行われた。占験派は、秦・漢の方仙道の術数派が発展 したもので、《四庫全書総目提要》には、「術数の興りは、多くは秦漢以後である。要するにその旨は、陰陽五行、生克制化を出ていない。実 際には《易》の支派で、さまざまな説を伝えている」と述べている。漢の時代には、讖緯学が盛んに行われ、儒生でさえ術数の学を勉強し、術 数に精通する方士はさらに多かった。術数の学には京氏易・讖緯・天官・風角・星算・遁甲・三棋・九宮・六壬・望気・三元・太一・飛符・亀 策などの吉凶を推し量る術が含まれていた。漢代以降では、任文公・郭憲・高獲・謝夷吾・郭鳳・楊由・李南・李郤・樊英・楊厚・公孫穆・許 曼・趙彦・管輅などが術数学で有名である。その中の管輅の学は漢代の術数学の集大成であると言えるもので、吉凶を占った答えはこだまが 返ってくるようだった。これは、中国で数百年の間研究されてきた占験神秘の学が花開いたものである。晋代に神仙道教が起こると、術数の学 を研究する道士は占験派を形成し、吉凶禍福を占う予測学によって布教した。占卜の術に精通した道士には陳訓・戴洋・韓友・淳于智・郭璞・ 歩熊・杜不愆・厳卿・台産などがいた。その中で郭璞は特に優れ、一時期非常に名声を博した。占験派は道術によって神に通じ、神仙道教では かなり重視された。漢代以降には朝廷の歴史編纂に《方術伝》が設けられたが、そこに記載された者はほとんどが占験派の道士だった。後世の 道教では、予測学に代わって延年養生[養生して寿命を延ばすこと]が主流となり、望気占夢・灼亀卜卦・推命看相・堪輿風水などの占験派の 道士はすべて民間道教の方へ排斥された。

 

 (3) 魏・晋の時代の天師道

 五斗米道が北方に移ったあと張魯は世を去り、教団を統率する教主を失った五斗米道は政教一致の宗教組織の形態を失った。この時代の教 団の特徴の一つは、組織がたるみ、祭酒や道官が各自で教団を運用して教えを説いたので、教団が混乱状態になったことである。もう一つの特 徴は、教団の発展が続いたことである。教徒が全国に布教した結果、士族社会の名門の子弟が次々に教団に入り、宗教の威信が高まり、天師道 という名前も社会に認可されるようになった。

 天師道の祭酒は各々が治を作り、古い規則には従わず、違った教えを奉じることもあった。彼らは自ら道官を定め、次第に腐敗していっ た。天師道の内部の主要人物や古い道官はこうした状況に憤慨し、教団の教えを正すことを訴え、天師道の本来の制度を回復しようとした。 《正一法文天師教誡科経》や《太上洞淵神咒経》は天師張道陵の口を借りて、祭酒たちの腐敗を糾弾し、厳しい措置によって教団の管理を正す 必要があることをアピールした。実際、ある教団の組織が一旦体制化されてしまうと、最初に定めた制度の弊害が次第に現れ、教団は次第に腐 敗していくものである。こうした場合、教団の古参者が創立当初の活力を回復しようとしてもその努力はたいがい徒労に終わってしまう。天師 道の場合も、教団の規律が効力を失い腐敗していくと、古い道官たちが古い教条をアピールしても問題は解決しなかった。天師道は魏・晋の時 代に発展し続け、南北朝の時代に至って寇謙之や陸修静が情勢に応じて天師道を改革した。

 魏・晋の天師道のもう一つの趨勢は、士族社会へ発展していき、士族の神仙道教の影響を受け変化したことである。例えば琅邪の王氏・高 平の郗氏・呉郡の杜氏・殷川の庚氏・泰山の羊氏・会稽の孔氏・義興の周氏・陳郡の殷氏・呉興の沈氏・譙国の桓氏・晋陵の華氏・東海の鮑 氏・陽夏の謝氏および丹陽の葛氏・陶氏・許氏、また北方の清川の崔氏・範陽の盧氏・馮翊の寇氏・京兆の韋氏・天水の尹氏などは、世家であ りながら代々天師道を信奉し、著名な天師道の家柄になった。晋王室の司馬氏や東晋の皇帝も道教を信奉していて、服食養性や長生術を修行 し、絶えず天師道の教徒と行き来していた。天師道が門閥士族の中に広く伝播すると、主に家庭で教団を営むものも現れた。こうした士族の天 師道の信徒は自宅に治を作り、自身で道室を管理し、家族の中で道教の活動を行った。銭塘の杜明師が営んでいた杜治などは、士族の家庭で治 を営んでいた独立した天師道の教団である。書家として有名な王羲之の一門も代々天師道を奉じ、その子の王凝之は自宅に道室を設けて道教の 活動を行っていた。こうした上層士族の天師道の信徒たちは、天師道の古い道法を踏襲して上章や祈祷を行い、符水を飲み、《道徳経》を読ん でいただけでなく、神仙道教の採薬・辟穀・服食養性などの黄老の術も取り入れていった。彼らは名山に家を建て真面目に修行し、天師道に神 仙道教を絡ませながら発展させていった。

 魏・晋の時代、上層の天師道は次第に士族の神仙道教の方向へ発展し、下層の天師道は引き続き民間に流伝した。五斗米道の発祥地の四川 では、蜀漢が滅びたあと、陳瑞が統率する民間天師道が現れた。晋の武帝咸寧二年(276年)、益州犍為の道士陳瑞は自ら天師と号して天師 道を伝え、祭酒や諸々の道官を設けた。その教団は、鮮と潔を貴び、教団に入るには酒一斗と魚一斗を収め、無闇に祭祀することを禁じてい た。信徒は数千人にのぼり、巴郡の太守唐定などの官吏の職にある者もその教団に入った。この教団は一時期盛んであったが、後に益州刺史の 王𣽊の誅を被り滅ぼされた。晋の恵帝太安元年(302年)には、巴蜀の地域で李特・李雄の率いる流民が挙兵した。流民の指導者の多くが 張魯の天師道の信徒の末裔と巫鬼道を奉じる少数民族の頭領だったので、天師道はこの流民の軍隊の中で信仰された。彼らは青城山に隠れ住む 道教の指導者範長生の支持を得て、ついに永興元年(304年)に蜀郡に政権を打ち立て、国号を大成とした。範長生は光熙元年(306年) に李雄に帝を称することを進言すると、「四時八節天地太師」に封じられ、天師道は成漢の政権の国教となった。この成漢の政権は、東晋の永 和三年(347年)に桓温の征伐によって滅ぼされたが、これは民間天師道が巴蜀の地域でずっと活動していたことを説明している。

 東晋の時代、銭塘の杜氏が五斗米道を奉じていた。杜子恭(杜炅)は東晋の著名な天師道の道士で、道術があった。江南の世家の子弟がこ れを信奉し、1万戸にも達する天師道の教団を創立し、彼は信徒から「杜明師」(杜炳とも称し、字を叔恭という杜明師は、あるいは二者が一 人であるという)として敬われた。のちに杜子恭が世を去ると、琅邪の孫氏がその教団を運営するようになった。孫は養性の術をよく研究し、 教団を拡大し、王侯とも関係を持つようになったが、利己的に信徒を集めたので、司馬道子に罪をとがめられて殺された。その甥の孫恩は島に 逃れ、隆安三年(399年)に挙兵して仇を打ち、会稽の内史の王凝之を殺した。孫恩に呼応する者は数日のうちに数十万人にもなった。これ は民間天師道の組織を利用した農民の武装蜂起である。孫恩は元興元年(402年)に兵が敗られ、海に飛び込んで自殺したが、その妹の夫で ある盧循が民衆を率いて広州へ移った。義熙六年(410年)に盧循と徐道覆は兵を率いて北上したが、のちに劉裕に撃ち敗られた。この農民 の武装蜂起は13年間続き、朝廷の官吏を務める士族の天師道の信徒を殺して晋王朝を衰退させたが、民間天師道も武装蜂起が失敗に終わり痛 手を受けた。孫恩の教団ではその信徒たちを「長生人」と称し、水中に飛び込んで死んだ者を「水仙」と呼んだ。このことから、民間天師道に も長生成仙の信仰が入っていたことがわかる。

 

 (4) 民間道教

 魏・晋の時代には、全国に広く伝播した天師道のほかにも百余りの道派が各地で活動していた。これらの雑多な道派は、ほとんどが五斗米 道・太平道などの早期道教の結社と間接的な関係があった。また、天師道のある祭酒が「それぞれ異なる法を奉じ」て創立したものもあった。 その当時社会に比較的大きな影響を与えた流派に、干君道・帛家道・李家道・清水道などがある。

 1、帛家道

 帛和は漢末の著名な道士である。彼は、《太清中経神丹方》・《三皇天文大字》・《五岳真形図》を伝え、一説によると、《太平経》の伝 承にも関係がある。後世の道士たちは帛和を千歳翁と称し、その名を借りて広く信徒を集め、帛家道を伝えた。これは、晋代になると一段と盛 んになった。晋代の著名な帛家道の信徒には、劉綱・許邁・華僑および周子良の親族などがいた。このことから帛家道がすでに民間に伝播し、 士族にも代々伝えられていたことがわかる。帛家道を奉じる士族の子弟は、ほとんどがのちに上清派に転入した。

 2、干君道

 干吉は漢末の著名な道士であり、早期道教の経典《太平経》を伝えはじめた人である。後世の道士が干吉の名を借りて布教したのが干君道 である。干君道は香を焚き、道書を読み、符水によって病気を治すことなどが主な内容で、太平道の分派であるとも考えられる。三国の時代、 干君道は東呉の地域に流伝していた。

 3、李家道

 李家道は四川に源を発し、三国の時代に有名な道士の李阿によって創始された。李阿は李八百と称し、よく辟穀をし、吉凶を予測すること ができた。のちに李寛という道士が李八百の名を借りて、晋代に李家道を江東に伝えた。李家道では人々に導引行気を教え、符水によって病気 を治療し、静かな庵を設けて斎戒をした。「無為」が教えの主旨であり、宗教活動の制度や礼儀があった。李家道は晋代に非常に盛んになり、 各地に信徒がいて、その活動にもさまざまな動きがあった。その後、李家道の中に「老君当治、李弘応出」という予言が伝えられ、李八百と称 する道士が絶えず道を伝え、「李弘」と名乗る者が道教の組織を借用して農民の反乱を起こした。《太上洞淵神咒経》は李家道は関連するもの である。西晋から南北朝にかけて、李弘(李洪・李脱・李辰)と名乗る者による農民の反乱が十回以上も起こった。唐から宋にかけても、李八 百の神話が民間で盛んに伝えられ、李弘を名乗る農民の反乱も起こった。

 

 (5) 魏・晋の道教の特色

 1、魏・晋の時代は、国家が分裂状態だったので、全国規模で道教組織を統一することはできなかった。だから、この時代は、全国各地の 道教団体の指導者が各個に布教し、各自が教団を組織した。また、この時代の君主はあまり道教を規制しなかったので、さまざまな道派が発展 した。だから、魏・晋の時代には歴史的にも多くの流派が創立されたと推定できる。後世に現れる楼観派、竜虎山正一派、許遜を教祖として奉 じる浄明派の源流はこの時代まで逆上ることができる。

 2、この時代に全国を代表する道派は天師道であり、他の道派はいずれも天師道と直接的あるいは間接的な関係があった。

 3、道教の歴史全体からみると、魏・晋の時代は漢末に道教の発展がピークに達したあとに続く発展の低調な時代であり、漢末の早期道教 が南北朝の教会式の宮観道教へ成熟していく過渡的な段階である。この段階で、早期道教は上層の士族の神仙道教と下層の民間道教に別れた。 神仙道教は早期道教が教会式の宮観道教へ成熟していく橋渡しとなった。

 

 

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