道教と仙学 第2章

 

 

6、宋・遼・金・元の時代における道教の盛況と改新

 

 

 宋・遼・金・元(960〜1368年)の時代の約400年間は、道教が盛んに行われ改新していった発展の時期である。この時期には大きな変化が二つあった。一つ目は神仙道教の金丹派(外丹黄白術)が衰退し内丹学が起こったことであり、二つ目は全真道の創立と全国的な流行である。このように変化していったのは、道教自体の趨勢にその原因があるが、異民族に統治され国家が失われたという社会的現実が引き金となった。金・元の時期の新しい道派は、民族間の対立が激しい環境の下で創立されたものである。古い経派道教の盛況と新しい道派の出現は、仏教と儒教を取り入れ、道教の流派や性質を革新した。盛唐の時期が一つの国家に統一され社会的に安定していたのに対し、この時代は民族間や階級間の対立が激しい時期であり、人々は精神的に屈辱と抑圧を受けた時代である。道教の精神と中華民族の命運は常に密接に関係しているが、宋・遼・金・元の時期に出現した新しい道派もこの時代の特徴を帯びている。

 

 (1) 宋・遼・金・元の時期の王朝と道教

 ある特定の国情の下で国教とならなければ、儒教・道教・仏教の三教が国家の上部構造の一つになるまで発展・成熟することは難しかっただろう。しかし逆に、ある宗教や学派が国家権力に依存しすぎると、それが変質し腐敗することがある。儒教・道教・仏教の哲学・倫理学などは特にそうした傾向が強かった。一旦金儲けの手段となってしまうと、学問は必ず虚偽に流れていく。例えば、仁学によって礼教を改造した秦以前の儒家の学説には、不正を矯正する作用があり、そうした体験は中華民族の優良な道徳の中にも溶け込んだ。しかし、漢の武帝が百家を退けて儒学だけを尊ぶようになると、百家の学は抑圧され、百家争鳴の学術的な気風は終わり、儒学は変質した。《礼記・儒行》に提唱されている学者としての気概・気骨は次第に失われ、学を曲げて世にへつらい、道をゆがめて権力に従い、身を売って栄誉を求め、名を盗んで世を欺く人々がたくさんいた。道家や道教学者も同じような状態だった。世が乱れ危難の多い金・元の時期に起こった全真道は、創始者は真面目に苦行を積んでいたので人々の信奉を集め、教団は急速に発展した。しかしその後、皇室の支持を受けて盛んなると、教団は日に日に腐敗し衰退した。北宋の王朝が経派道教を奨励したことに至っては、こうした道派の腐敗と変質を助長しただけだった。

 宋の太祖趙匡胤は幼児と未亡人の手から天下を奪ったので、道士の符命によって自分を真命天子として神聖化しなければならなかった。兄の位を継いだ宋の太宗趙匡義は、玉皇大帝を輔佐する臣下「聖」が現れたという神話によって平定した社会に「燭影斧声」の私議を作り出す必要があった。宋の真宗趙恒(998〜1023年在位)は符道派を非常に信奉した。彼は遼国の軍を恐れて自発的に貨幣を納めて和平を結んだが、後にこのことを深く恥じた。また、遼国の君主や家臣がかねてより天を恐れ神を敬っていることを知り、道教を利用して天書を捏造し封禅を行い「四海を鎮めて服し、戎狄[異民族]に誇示した」。大臣の王欽若は宋の真宗に、人為的な吉祥も本物の吉祥と変わりはないという考えを語った。そこで真宗は、真夜中に神人が現れ天書三篇を降ろすことを彼に告知したと偽った。その後、王欽若が武術の軽功や法術のできる道士たちを使って、承天門の屋根の上に黄色の絹織物をなびかせると、真宗は天書が降りる吉兆であると思い込んだ。宋の真宗は天書を得ると、年号を大中祥符と改め(1008年)、天地を祭ること告げ、遼国に家臣を遣わし祭りを助けることを要請し、一切を顧みないで祝賀した。初めの成果が上がったのを見て、宋の真宗や王欽若の臣下たちは、人々が注目する中で2度の天書下降事件を画策し、4月には皇宮に天書を降らし、6月には泰山に天書を降らした。10月になると、宋の真宗は天書を奉じて多くの家臣を引き連れて泰山に行幸し、大規模な封禅の儀式を行った。宋の真宗は漢の武帝の封禅を模倣しただけではない。唐の高祖が老子を祖先として敬ったことも模倣し、黄帝を趙氏の始祖として尊んだ。大中祥符五年(1012年)には、宋の真宗は夢の中で玉皇大帝の命令を受けたと称して趙玄朗という道教の神仙を自分の祖先として作り出した。また盛んに道教の宮観を建て、道観の中に趙玄朗像(趙玄朗は軒轅黄帝の化身であるという)を作り、天書や聖祖の降臨した期日をすべて祝日に定めた。これ以降、全国で熱狂的に道教が崇められるようになった。宋以前にも玉皇は道教で尊ばれた神だったが、その地位はまだ三清の下だった。宋代には玉帝の上に尊号が贈られ、「昊天玉皇大帝」と呼ばれた。彼は黄帝(軒轅氏)であり、趙氏の聖祖でもあると言われるようになったので、玉皇大帝の地位は突出した。

 宋の真宗は在位中に、たびたび辟穀服気養生などで有名な道士と面会し恩賞を与えた。彼は陳摶の弟子の張無夢も呼び寄せて面会した。張無夢は《老子》・《荘子》・《易》に精通し、内丹術を会得していて、《還無篇》を著した。その弟子の陳景元も道術を会得していた。真宗は信州竜虎山の道士張正随も呼び寄せて接見し、「虚静先生」という号を送り、上清観を建て田地を賜った。大中祥符八年(1015年)に第24代天師張正随が道教の最高位に就くと、正一派道教は次第に盛んになっていった。宋の真宗は、王欽若に道教経典を校正することを命じ、張君房を主任として《道蔵》を編纂させ、天禧三年(1019年)には《大宋天宮宝蔵》計4565巻が編集された。また張君房はその要点を《雲笈七籤》にまとめた。これは道教史の上で重要な事跡である。宋の徽宗の時代になると、政和三年(1113年)に《万寿道蔵》も編纂され、計540函、5482巻が、鏤版で刊行された。

 宋の徽宗趙佶(1110〜1125年在位)は、歴史的に有名な道教好きな皇帝で、自身が道教を信奉して全国の教主を兼任し、自ら教主道君皇帝と号した。彼は何度も命令を出して有名な道士を捜させた。茅山第25代宗師の劉混康・泰州の道士徐神翁(名は守信という)・王老志と王仔昔・林霊素・張虚白・王文卿・竜虎山第30代天師張継先などは、宋の徽宗から特別な処遇を受けた。林霊素はもともと雷法を伝える神霄派の道士だった。彼は、宋の徽宗が上帝の長子の神霄玉清王の生まれ変わりであり、彼がひいきにする奸臣の蔡京・童貫ももとは仙伯・仙吏で、愛する妃の劉氏は九華玉真安妃の生まれ変わりであり、自分も本来は仙卿であるという作り話を説いた。宋の徽宗はそれを聞くと大変喜び、林霊素にそのことを公言させた。それで林霊素や宋の徽宗のひいきにする臣下・寵愛する妃は天の神が凡人の世界に下ったものであるということになり、道教は自然に国教となった。

 宋の徽宗の道教に対する信奉は歴代の皇帝と異なり、彼は道教の教主という立場で道教を管理したのである。彼は全国に道観を建てるように命じ、道教の神仙の号や祝日を増やし、道士を育成し、道学制度や道学博士を作った。また、テストの成績によって授けた道官(元士・高士・上士・方士・居士などの呼び名があった)は、朝廷の五品から九品の官位に相当した。また彼は、詔を下して郡県の役人に各宮観の道士を客としてと面会させ、それによって道士の社会的地位を引き上げた。最高位の道官は「金門羽客」と呼ばれ、金牌を帯びて内裏に出入りすることができた。宋の徽宗は《道徳経》を注釈し、太学・辟雍に《黄帝内経》・《道徳経》・《荘子》・《列子》を研究する博士を置き、儒学と道学の制度を一つにして儒学と道学のどちらにも通じた人を育成し官吏にした。宋の徽宗は道教の階級制度を設置し、《道史》・《道典》・《仙史》を編集する組織を作り、道経・道法を作り、歩虚詞・青詞なども作った。また宋の徽宗は仏教を弾圧し、寺院の田地を取り上げ、無理やり和尚を道士にさせた。仏を大覚金仙、僧を徳士、寺院を宮観と呼ばせ道教的な呼び名に換えてしまった。仏教徒は手っ取り早く寺院の中に三清・孔子や玉帝の神像を供えたが、しかし釈迦牟尼を真ん中に置くことや、それによって水陸の道場で祈禳を行い三教をごっちゃにすることは、徽宗によって禁止させられた。宋の徽宗は唐の玄宗が道教を崇めたやり方を模倣していた。しかし、唐の玄宗が国力が強く社会の安定していた時に道教を崇めたのに対し、宋の徽宗の場合は国力が弱く社会の不安定な時に道教を崇めたので、その結果は唐代の安史の乱よりひどい状態になった。金の軍隊が首都に攻め込んできた時、道士の郭京らが斎や六甲神術によってこれに立ち向かったが効果はなく、宋の徽宗は道袍[道士の着る服]を着た格好で金に捕らえられた。



宋の徽宗
(《歴代皇帝人物事典》より)

政治には熱心ではなかったが、道教を尊崇して多くの道観を建てたり、
画院を盛大にしたり、全国から文化財を集めて保護をくわえたりして、文
化を振興した。自らも詩文・書画をよくし、歴代皇帝中随一の文化人とい
われる。晩年には、金の捕虜となり、北方の地で没した。

 北宋の滅亡後、意外と安定していた南宋王朝では、君主・臣下・学士などが理学[心の本体である性と宇宙の根本である理を中心問題とする学問]に傾倒し、終日心性の説について語らった。理学はもともと儒教に仏教と道教が溶け込んだもので、三綱五常の神聖化を一歩進め、高い宗教性を備えた学説になっていた。それは道教文化と同じ源から生まれたものだった。宋の理宗は理学に傾倒し、道教も好んでいた。宋の理宗が信奉した道教は江南の経派道教である。彼は正一道の第35代天師張可大を招いて接見し、三山(竜虎山・茅山・閤山)の符を持ち上げ、正一道が江南の経道教を指導することを命じた。宋の理宗は経派の道士に斎によって国家の吉祥を祈らせただけでなく、道教の善書《太上感応篇》を推薦・組み版印刷・宣伝することにも力を尽くした。南宋の君主や臣下が三教をまとめ、《太上感応篇》によって忠君孝親の意義や善悪報応の思想をアピールしたのは、実は封建の礼教を維持するためだった。

 金の騎兵が南下して中原を占拠すると、南宋の朝廷は金の臣下となって和平交渉を行い、北方の漢人は国の復興する望みがないことを知った。国家が滅びたという精神的な苦痛のために彼らは宗教の中に慰めを求めた。そして、滄州の劉徳仁の「大道教」、衛州の蕭抱珍の「太一教」が気運に乗じて誕生した。それらは非常に短時間のうちに金王朝に承認され、劉徳仁と蕭抱珍はそれぞれ皇統八年(1148年)と正隆六年(1161年)に金の皇帝に招かれ面会した。金は道教を利用して、漢人を麻痺させ、民族間の対立を緩和しようとした。

 金の世宗の時に、王が全真道を創立した。その弟子の劉処玄や邱処機が教団を管理した前後に、全真道は金の朝廷に承認された。金の世宗は王処一を招き宮廷で道を伝えることを請うた。元が金に取って代わった時には、邱処機は時勢を判断して、金と南宋がモンゴル人に滅ぼされることを見抜き、南宋や金の命令に応じず、西域を遠征していたチンギス・ハーンの命令に応じた。邱処機は70余歳の高齢だったが、18人の弟子を率い、数万里を踏破し、4年の時間を費やし、数十国を経て、西域の雪山の軍営でチンギス・ハーンと面会した。邱処機は道教の清心愛民の見地からチンギス・ハーンに殺戮をやめるように勧め、チンギス・ハーンに非常に敬重された。彼は「邱神仙」として尊敬され、モンゴルの騎兵が中原に攻め込んできたときには流血の惨事を軽減した。邱処機は燕京に帰ると、長春宮(後に合併して北京の白雲観になった)に住んだが、彼はチンギス・ハーンから道教を管理し、自由に布教することを許され、兵役や租税を免除する特権を与えられていた。《元史・釈老志》には、「時に国兵(元の軍隊)は中原を侵害したが、黄河の南北は特に甚だしかった。民は不幸にも捕らえられて殺され、生き延びることはできなかった。処機は燕にもどると、その徒弟に公文書を持たせ、戦伐の余において召し求めた。これによって奴隷にされていた者は、再び平民に戻ることができ、瀕死の状態だったが生き延びることのできた者は、2〜3万人を下らなかった。中州の人は今でもこれが道であると言っている」と記載されている。その災難が深刻だった時期に、人々は次々と全真道の門下に入り災難を避けて道を修めた。《雲山集》には全真道士の詩が載っていて、「中原の狼や虎は怒ってよだれを垂らすも、幸い桃源ありて洞天に隠れ、流水落花は依然あり、君に断頭船を乗っ取るを請う」と書かれてある。全真道団は急速に拡大し、元朝が中国を統一するのに伴って全真道は全国に伝わった。

 元朝が宋を滅ぼす以前、元の世祖フビライは使者を竜虎山に遣わし第35代天師の張可大を密かに訪ねさせた。張可大は「後二十年、天下は混一す」という予言をその使者に伝えた。元朝が天下を統一した後、フビライは至元二十三年(1276年)に張可大の子である第36代天師の張宗演を招いて面会し、銀印を賜り、江南の道教を取りまとめることを命じた。その後も張宗演は何度か朝廷に入り、元の世祖は彼にその祖先である張道陵の伝えたという玉印や宝剣を見せることを命じた。元の世祖はそれを見ると、「朝代がすでに幾つ変わったか知らないが、天師の剣・印は子や孫に伝わり、なお今日に至る。それに果たして神明の相があるのか?」と嘆息した。第38代天師張与材は、術を用いて功績があったので、大徳八年(1304年)に正一教主に封じられ、三山の符を管理した。元の皇室の政治は正一教の力を借りて人心をまとめ、同時に江南の道教の活動をコントロールしようとした。

 中国では民族が融合され王朝が交代していく戦乱の時に、辺境の民族の皇帝が中原を支配し、農民の反乱の指導者が首都を攻撃占拠する。しかし、彼らには文化教養が少ないために、往々にして中華民族が築き上げた文物・図書・芸術品あるいは宮廷の庭園建築を損なう。古代には秦の始皇帝が焚書を行い、項羽が秦の宮殿を燃やし、董卓およびその部下が漢の王室を打ち壊し、南北朝の五胡が華を乱した。また、後世には清の軍が殺戮と略奪を行い、さらには八国連合軍が圓明園を焼いた。これらは、すべて世界文明史に残る罪悪の記録である。金の世宗の大定四年(1164年)に北宋の《政和道蔵》の版を保存する詔が下された。のちに紛失した経典も捜し出し、天長観の孫明道の指揮によって金の章宗の時に《大金玄都宝蔵》6455巻、602秩が完成した。しかし中原に進攻した元の軍隊はこれを燃やしてしまったので、《道蔵》は欠けてしまった。元のはじめに、邱処機は弟子の宋徳方に道教経典を捜し集めることを依頼し、宋は弟子の秦志安などと共に各地を奔走して乃馬真皇后称制三年(1244年)に《玄都宝蔵》を完成した。これには、道教経典7800余巻があった。その後、政治を執った元の憲宗ムンゲは、チベット密教のラマ教を篤く信奉した。元の人はもともと仏教を信奉していたが、彼らが中原を支配するようになると、異民族の僧侶は非常に横暴に振る舞った。彼らは民衆の財産を強奪し、盗賊の後ろ盾となり、家屋に出入りして婦女を弄んだが、敢えて問う者はなかった。1958年、曹洞宗の僧侶の福裕は西方の異民族の僧侶である那摩と全真道の指導者の張志敬を集めて《老子化胡経》の真偽を議論したが、元の憲宗は僧侶の勢力を強めるために、勅令によって議論した道士の髪を落として僧にさせ、《化胡経》などの版を焼却した。元の世祖フビライが即位すると、その師パクパを国師に封じ、チベットに伝わる仏教を国教にしたので、僧侶の気勢はさらに盛んになった。彼は1280年から1281年に、前後2回にわたって《道蔵》とその版を焼却する命令を出し、《道徳経》以外はすべて偽経であると述べた。現存する《道蔵》に古い経典が欠けているのは、元代に経典が焼かれてしまったからである。フビライは得意になって翰林院学士に命じてこのことを《焚殷偽道蔵経碑》に書かせたが、それは彼が国家の文化を破壊したことの証拠となった。元代に経典が焼却されたのは、仏教と道教の教義の争いのためではなく、全真道が僧侶の財産を侵していたからでもない。フビライは天下の人を十等に分けて民族を抑圧する政策を採り、また僧を放任して民を苦しめた。《輟耕録》には、「元の間には僧は横暴で、宮観を寺に改め、道士の頭髪を剃り落とし、各所の陵や墓をほとんど発掘しつくした」と書かれてあり、その野蛮で横暴な様子を知ることができる。邱処機は老子胡化説を引き合いにだしてチンギス・ハーンを感化し、道教の《化胡経》を刊行したが、元の皇帝や西方の僧には受け入れられなかった。

 そのほかにもフビライは人心を集める政治的な必要性から、江南の民間に大きな影響力を持つ正一道を抱き込んだ。彼は考えと見解の一致している正一道の道士の張留孫・呉全節の師弟を身辺に留めて「玄教宗師」に封じ、彼に代わって北方の道教を管轄させた。張留孫・呉全節の師弟は符・斎・占卜などに精通し、元の皇帝が求めるものによく合致していたので、官位は高くなり禄も厚く、その栄誉は比べるものがなかった。張留孫(1248〜1321年)は元の王室で50年余りも重んじられ、歴代の11人の皇帝に関係した。朝廷の中でも徳が高く名声も人望もあり、占卜によって元の皇帝の疑惑を晴らし、広く大臣と交友し、死後は仁宗によって「真君」の号に封じられた。呉全節は最初は「玄教嗣師」だったが、のちに師のあとを継いで「玄教大宗師」となり、皇帝に代わって山や川を祭り、道筋に沿って政情を探訪した。また、元の王室のために儒臣を推薦し、漢文化をアピールし、一時非常に尊敬を集めた。呉全節は元代の江淮・荊襄などの地方の道教も取りまとめ、集賢院[皇帝の諮問機関]の道教を管理し、上卿に封じられた。張留孫・呉全節およびその徒弟は、元の王室のために道教を管理した道官にすぎないが、彼らの活動によって正一道は符道教の統率者の性格を強めた。

 

 (2) 宋・遼・金・元の時代の全国の道派

 宋・遼・金・元の時代は、儒教・道教・仏教の三教を融合する思想が大勢を占め、その道派は大きく4つに分類できる。一つ目は、神仙道教と禅宗が融合して成立した内丹派であり、全真道の南宗と北宗がある。二つ目は伝統的な経派道教であり、竜虎山(正一道)・閤山(霊宝派)・茅山(上清派)の三山の符である。三つ目は経派と内丹派が融合して成立した雷法の道派であり、神霄派・清微派・武当派・天心派などがこれに含まれる。四つ目は儒家学派と道教が融合して成立した新しい道派であり、浄明派および北方に新しく作られた太一道・真大道などがある。そのはか古い道派から発展・成立した新派に、東華派などがある。

 1、内丹派の南宗と全真道

 外丹術が唐代から衰退し宗教的な魅力を失うと、気運に乗じて内丹家が起こった。内丹派は唐末の神仙道教から生まれ、その基を築いたのが鍾離権と呂洞賓である。鍾離権と呂洞賓は当時の有名な神仙道士である。内丹を修行して人体の潜在能力を開発し、長寿を得て、ある時は隠れある時は現れて人々に道を伝えた。たびたび霊異を示し、世間では活神仙として知られた。当時の内丹家には、崔希範・陳朴・施肩吾・彭暁・麻衣道者・陳摶・劉海蟾などもいて、神仙道教の内丹派を発展・成熟させた。神仙道教の内丹派の多くは内丹の観点から《周易参同契》を解釈し、その中の日月運行の法則の記述を煉丹の過程として理論の枠に取り入れ、竜虎鉛汞などの術語を援用した。このために、《参同契》は内丹派で丹経の祖として尊ばれた。張伯端(987〜1082年)はまたの名を用成、字を平叔、号を紫陽といい、天台の人である。もとは儒生で、のちに下級の役人になったが、文書を焼いてしまったので軍隊の守備に遣わされた。彼は陸に伴って成都に入ったが、そこで劉海蟾に遭い、金液還丹の訣を授かり、晩年に道を得て、《悟真篇》・《青華秘文》・《金丹四百字》などを著した。張伯端は陳石泰(号は杏林)に伝え、石泰は薛道光(法号は紫賢)に伝え、薛道光は陳楠(号は翠虚、人は陳泥丸と呼ぶ)に伝え、陳楠は白玉蟾(号は海瓊子、紫清真人に封じられた)に伝えた。この5人はのちの人から南宗五祖として尊ばれた。劉操は、海蟾子と号し、字を玄英といい、燕の主の劉守光を補佐していたが、鍾離権・呂洞賓の丹訣を得て、《還丹賦》を著した。彼は、張伯端・王庭揚・藍元道・晁迥などの多くの人に伝えた。張伯端は石泰・馬自然・劉奉真などにも伝えた。石泰(1022〜1158年)は《還源篇》を書き、陳楠(?〜1213年)は《翠虚篇》を書いた。陳楠は神霄派の雷法も得て、内に金丹を煉り外に符を用いることによって双方を結び付け、風や雨を呼び、鬼神を使役した。白玉蟾(1194〜?年)の丹法は禅宗と道教を融合することを重視した。彼は雷法も伝え、その徒弟が多くなったので教団を形成した。その徒弟の中で蕭廷芝・王金蟾・彭耜・留元長・洪知常・桃源子・林自然などが比較的有名である。石泰・陳楠の系統は、主に清修(清静丹法の修行法)を伝たが、劉永年(奉真)・翁葆光・若一子などの系統は、主に男女双修である。呂洞賓や張伯端は老年になってから道を得たので、双修派丹法を伝えたのも道理にかなっている。王金蟾の弟子の李道純は、《中和集》を著し、元代に中派丹法を開いた。

 宋代の神仙道教の内丹派は南宗の系統だけではない。麻衣道者が陳摶に伝え、陳摶が張無夢に伝えた別の系統もあった。明はじめの道士の張三が火龍真人から教えを伝えられて隠山派を開いたが、これは陳摶の丹法の系統に属する。宋の徽宗の時の女冠である曹文逸真人は、《霊源大道歌》を著した。これは女子内丹派の系統に属する。五代・宋・元の時代には、神仙道教の中に内丹の大家が輩出し、丹派も多かった。

 内丹派の南宗は、主に南宋の時代に活動し、神仙道教の流れに属していた。南宗という名前は世間の人が北方の全真道の内丹に照らし合わせて名付けたものである。南宗と全真道の内丹はどちらも鍾・呂を祖としていたこともあり、元代に全真道が南に伝わって盛んになると、陳致虚は南北二宗の真伝を得たと称し、全真道の名の下で南北二宗を合併することを強く主張した。両方の宗派を普遍的に受け入れることによって、内丹派の南宗は全真道に編入されるようになった。


内丹南宗の開祖:張伯端(紫陽)
(《中国道教気功養生大全》より)

劉海蟾に出会い金液還丹火候の訣を授かり、内丹を修練した。「陽神」を出して遠隔の地へ赴き、その土地の花を実際に持ち帰ることができたといわれる。《悟真篇》などを著し、内丹を世に知らしめた。

   


全真教の開祖:王(重陽)
(《中国道教気功養生大全》より)

甘河鎮で二人の異人に遭って丹訣を授かり、道を志した。従来の道教とは異なり不老長生などは説かなかったが、金丹道の用語を用いて修道を説いた。禅宗の坊さんや儒者とも往来し、三教合一を主張した。

 全真教の教祖の王(1112〜1170年)は、字を知明、道号を重陽子といい、咸陽の人である。幼いときは儒術を習い、長じて府学[むかし府に設立された学校]に入り、武挙に合格したこともあった。外見的にも性格的にも堂々としていて、意気に任せ義侠を好み、財産を軽んじ義理を重んじた。47歳になってもなお志しを得られなかったが、正隆四年(1159年)に甘河鎮で異人に遭って丹訣を授かり、また神水を飲んだ。これ以降彼は内に金丹の修行をはじめたが、外見は汚い格好で気違いのふりをし、自ら「王害瘋」と名乗った(関中の言葉で発狂したことを「害瘋」と言う)。彼はまず家を捨てて南時村に入り、「活死人墓[生きている死人の墓]」と称して穴を掘った。彼はその中で3年間修行したあと、大定七年(1167年)に住居を燃やし、道を伝えるために東方へ行き山東半島の登州・莱州の間を往来した。彼は前後して馬・譚処端・王処一・大通・邱処機・劉処玄・孫不二などの7人の弟子を集め、また寧海周伯通家に金蓬会を創立して人々に《道徳経》・《般若心経》・《孝経》を読むことを勧めた。全真道は三教合一を主張し、「教えは三つに分かれているが、道は一つだけである」、「天下に二つの道はなく、聖人に二つの心はない」と説いた。その修持は要約すると心を知り性を見ることであり、情を除き欲を去り、恥を忍び垢を含み、己を苦しめ人を利すことを主旨とする。重陽祖師が世を去ると、7人の弟子には体得した教えや伝えた教えに差異があったが、全真道は次第に盛んになった。後世にはこの全真道の7人を北七真として尊び、内丹派の北宗が成立した。また北七真は丹功の上でそれぞれが一派を立て、丹陽真人馬(1123〜1183年)は遇山派を作り、長真真人譚処端(1123〜1185年)は南無派を開き、長生真人劉処玄(1147〜1203年)は随山派を開き、長春真人邱処機(1148〜1227年)は龍門派を開き、玉陽真人王処一(1142〜1217年)は兪山派を開き、広寧真人大通(1140〜1212年)は華山派を開き、清浄散人孫不二(1119〜1182年)は清浄派を開いた。邱処機が教団を指導していた時、全真道は非常に盛んだったので、龍門派の丹法はよく知られている。全真道は厳格な出家住庵制度があり、比較的高い宗教性を備えている。その教えには儒教や仏教が取り入れられ、きちんとした教義教制を立て、中国道教の大きな宗派になった。


全真教の第2祖:馬(丹陽)
(《中国道教気功養生大全》より)

全真教の北七真の一人。もともとは山東寧海州随一の富豪だったが、王重陽が山東を訪れると、重陽に師事した。もっぱら清浄に努め、経を読まずに打坐することを中心に布教した。同じく北七真の一人に数えられる孫不二はもともと彼の妻である。

   


全真教の龍門派の開祖:邱処機(長春)
(《中国道教気功養生大全》より)

全真教の北七真の一人。19歳の時に入道し、20歳で王重陽に師事した。当時の人々から救世主的な存在とみられていたようで、チンギス・ハーンとも謁見した。長生の薬はないかというチンギス・ハーンの問いに、「衛生の法はあるが、長生の薬などない」と答えたことは有名である。彼を開祖とする龍門派は北京の白雲観を本山とし、全真道の中でも最大の流派となった。

 2、正一道をはじめとする経派道教

 正一道は北宋の時に張正随が宋の真宗に招かれて面会し、「先生」の号を賜ったことから、竜虎山・閤山・茅山の三派の経道教を統率するようになり、元代になっても依然として符諸派を統率する立場にあった。正一派の著名な道士は、第30代天師の張継先(1092〜1127年)である。張継先は正一派にもとから伝わっていた符咒語・斎祭煉の術のほかに、南宗の劉海蟾の内丹術も伝え、天師道に伝承さる房中術を否定し、神霄派の王文卿が伝える雷法も行った。この改革は天師道の内容を充実させ、正一派を上清派や霊宝派より上に引き上げ、経派道教の社会に対する影響力を強めた。

 上清派は唐代以後、優れた道士が少なく、その地位は低くなった。宋代の茅山宗の著名な道士は、第25代宗師の劉混康(1037〜1108年)である。現在の茅山元符宮は宋帝が彼のために建てたものである。また朱自英・任元阜も宋に重んじられ、許道杞・王道孟は雨乞や蝗の駆除に成果を上げ、元朝から恩賞を受けた。劉大彬の書いた《茅山志》三十三巻は元代に残された重要な道教の史料である。茅山派の道士の杜道堅(1237〜1318年)は湖州計籌山報徳観および杭州宗陽宮を主事して《道徳原旨発揮》を著し、茅山の道士の張雨は《外史山世集》・《碧岩会玄録》などを著した。彼らは伝統的に学問に長けた上清派の道士の特徴を兼ね備え、玄理に精通し、詩や文に優れていた。

 霊宝派は宋・元の時代には閤山を本山とし、主に民間で活動していた。閤山万寿崇真宮の第46代宗師の楊伯は、元代に「太玄崇徳翊教真人」に封じられた。宋・元の時代には林霊真が編纂した《霊宝領教済度金書》や金允中が編纂した《上清宝大法》などの道書が世に伝えられた。宋・元の時代の名士の鄭所南は南宋を救おうとして元に抵抗したために破綻したが、《太極祭煉内法議略》三巻を書き残した。宋・元の時代の霊宝派は、相変わらず符咒斎や度亡祭煉の術が主だったが、雷法や内丹功も取り入れていった。

 3、雷法諸派

 雷法は内丹と符が結合して成立した道派で、内に丹を煉り、外に法を用いることを主張する。宋の徽宗は符道教を好み、林霊素・王允誠・徐知常・董南運・李得柔・王冲道・王文卿・張虚白などの9人の道士を宮殿に侍らせていた。王文卿(1093〜1153年)は、江西南の人で、林霊素と同様の神霄雷法を体得していた。林霊素の伝えた系統ははっきりしないが、王文卿の徒弟は非常に多かった。王文卿の著名な弟子には朱智卿・熊山人・平敬宗・袁庭植がいる。そのほか南の鄒鉄壁・新城の高子羽も王氏の雷書を伝えられた。このあと鄒鉄壁は沈震雷・莫起炎・王継華・潘無涯・金善信・張善淵・歩宗浩・周玄真などに伝え、一つの系統が成立した。高子羽の系統には徐次挙・聶天錫・譚悟真・羅虚舟・蕭雨軒・胡道玄などがいた。その中で特に優れていたのは莫起炎(月鼎)・譚悟真(五雷)・胡道玄(神霄野客)で一時期名を博した。神霄派の雷法はほとんどが南宗の内丹功法を基礎にしていた。雷法の符で呼び寄せる雷将は、実際は自分自身の五臓の精気が感応したものなので、丹功を本体として符を用いなければならないと考えていた。北宋の末の薩守堅は、張継先・林霊素・王文卿の伝える雷法を得、泉州に住み、道術で名を知られた。彼に関係する者は数百人いて、西河派と呼ばれたが、これは神霄派の支派である。


林霊素
(《中国道教気功養生大全》より)

若い時は仏教を学んだがのちに道士となり、妖術を善くし雷法を
行った。宋の徽宗に大いに信任され、神霄説を広めたが、史書の
多くは、彼の説は妄説で理解できるものではなく、その術も祈雨
などで霊験があるだけであった、と記している。

   

 

林霊素が「震沛法」(雨を降らせる
法)に用いたといわれる2種類の符
(黄意明《中国符咒》より)

 清微派も雷法として宋・元の時代に現れたが、《清微仙譜》によると、この派は唐の昭宗の時に祖舒(広西零陵の人)が創始したものである。郭玉隆・朱洞元・李少微などを経て、九伝して南華道(眉山の人)に至った。南華道は宋の理宗を補佐して諌めたことも数回あった。彼は後に黄舜申(舟山の人)に雷法を伝えた。黄舜申は宋の理宗や元朝によって諸侯に任命されたこともあり、清微派の雷法を発展させ、多くの徒弟に雷法を伝えた。その伝を得た者には、北には武当の張道貴がいて、南には西山の熊道輝(真息)がいた。熊真息は彭汝砺・曽貴寛・趙宜真などに伝えた。清微派の雷法の符は神霄派のものとは違うが、やはり内丹を煉ることを根本としている。

 張道貴はもとは武当山の全真道士だったが、清微派の雷法を得ると葉雲莱・劉洞陽と共に武当派を開いた。武当派の雷法は実際には全真道と清微派が結合したものである。その門徒には張守清・彭通微・単道安などがいた。

 正一道の中にも雷法の新派が生まれ、「天心正法」を伝えるものが「天心派」になった。天心派の雷法は北極星を主神とし、日・月・星の三光を心に抱いて思い、内に神気を煉って外に符印を用いた。妖を降ろし鬼を捕らえ、死んだ者の魂を成仏させることができると言われる。《南唐書・譚紫霄伝》は、道士の陳守元が張氏の符を得るために譚紫霄に学んだが、これに精通してしまったので、「ついに自ら張氏の天心正法を得たと言い、今言うには天心正法はこれを祖とする」と記している。王太初・寥守真・路時中などは、天心正法によって神を呼び寄せ邪を駆逐することができたので有名だった。また雷守声の行う天心法にも霊験があった。

 4、その他の道派

 浄明道は儒学と道教が結び付いて成立した道派である。江西玉隆山一帯には唐代かそれ以前から許遜に対する信仰と彼に関するさまざまな伝説があった。唐代にはすでに許遜・呉猛の伝記があった(呉猛の《晋書》が伝わり、許遜は《捜神記》に見えるが、どちらも詳しいことはわからない)。許・呉の二人の真君は晋代に母の道を得、後に許遜は道が成り、十二真君に道を伝えて玉隆山の道派を開いた。彼は道術によって人々を助け、後に昇仙したと言われる。南宋のはじめ、周真公は許遜の浄明霊宝の秘法を得たと称して浄明忠孝の教えを伝え、一時期盛んになったが、やがて聞かれなくなった。この派はもともと符劾治の術を伝えていたが、《銅符鉄巻》もあって煉養の法と言っている。元のはじめには、隠者の劉玉(1257〜1308年)が、許遜やさまざまな仙人の真伝を得たと称し、江西の西山を本山とし浄明道を開いた。彼は後に黄元吉・徐異・趙宜真・劉淵然などに伝えて伝法の系統を形成し、また《浄明忠孝全書》を集成した。浄明道の教えは正心誠意であり、君主には忠実であり親には孝行をし、欲をなくし、心性を清めてはっきりさせることを教える。そして、この上なく封建の理論の綱常に非常に合致した境地に到達するのである。浄明道士は在家出家にかかわらず、まず人事に尽くすことを要し、内に正念を修め、外に符を用い、祈禳祭煉の法を行う。この派も経派道教に属する。

 東華派も霊宝派の支派に属する。北宋末の道士寧全真(1101〜1181年)は、霊異に通じ、霊宝派の斎祭煉の術に内丹・雷法を融合させ、広く門徒を集めた。宋・元の時代に、寧全真の教えを受け継いだ林霊真(1239〜1302年)は、東華の教えを開き、一代真師となって、生きる者を救い死んだ者を成仏させることに努めた。彼は温州の天慶観を取り仕切り、門徒は非常に多かった。この派も符の道派に属する。

 北方で金・元の時代に創立された新しい道派には、全真道以外に劉徳真の創始した「大道教」(元代には「真大道」と称した)と蕭抱珍の創立した太一教がある。

 「大道教」の教主の劉徳仁(1142〜1180年)は、滄州楽陵の人で、金皇統二年(1142年)に「大道教」を創立した。大道教は無為清浄を宗とし、真常慈倹を宝とし、若節危行を要とし、仁を心とする。困苦を救済して紛争を除き、個人の邪をなくして本分を守り、自分の力で桑を耕し衣食が足るようにし、淡々と静かに修行して人に求めない。その教えは人の邪を除き病を治すことができ、香を焼いて黙して虚空に祈る法事に、劾召の術があった。その教義はほとんどが老子《道徳経》を手本としていて、素朴であるようにし、思いを少なくして欲をなくし、心を虚ろにして腹を充実させ、気を守り神を養う修練をした。また、墨家の精神と儒家の道徳も入っていた。五祖の希成に教えが伝わると、「大道教」は天宝宮を中心とする一派(希成を五祖とする)と玉虚宮を中心とする一派(李希安を五祖とする)に分裂した。後に希成の道門が隆盛になったので正統派となり、名前を「真大道」と改めて別の一派と区別した。ちょうど元朝の立国の時だったので、希成はたびたび苦難に遭ったが、「法術に優れていた」ので、当時の人から非常に敬われた。著名な道士に八祖岳徳文・九祖先張清志などがいた。

 太一教は金の煕宗眷天(1138〜1140年)年間に衛州の道士の蕭抱珍によって創始され、太一三元法の術を伝えた。内に清修を重んじ、外に符を用い、病気を治療し災難を除くことに大きな効果があった。その道は広く伝わり、教祖は蕭を姓にした。元が金を滅ぼした時、都市の中には死体があふれかえったが、太一教の四祖蕭輔道はその遺骨を葬り、俗に堆金冢と呼ばれた。彼はそれによって非常に多くの人望を集め、礼教倫理の綱常によって人々を教化した。王輝の《秋澗集》はその事跡を多く記しているが、元末の史料は研究されていない。太一教は符の道派であると多くの人は考えていたが、近年にわかに太一教の秘伝書《元極秘》が世に出て、それが内丹と符が結合した道派であることを証明した。金・元の時代には内丹が盛んに行われたこともあり、新しく創始された道派には必ず秘伝の丹功があった。それによって人体の潜在能力を開発し、霊異によって徒弟を集めたのである。

 宋・遼・金・元の時代には、非常に多くの道派が伝わり、以上に述べた道派のほかにも毘廬道・康禅教(七祖康禅の教え、仏教と道教が融合している)、混元教なども伝わっていた。宋の寧宗の時の道士雷時中は、路真君(漢末の路大安に仮託している)から混元六天如意法を伝えられたと称し、《度人経》を中心としてひろく儒教と仏教を取り入れて一つの教えにまとめた。その「弟子は東南・西蜀の二派に分かれ、盧・李の二師は蜀で行い、南康査泰宇は東南で行い、混元の教えは大いに行われた」。ほかに符道教の豊岳派も非常に盛んに行われた。北京の白雲観が所蔵する《諸真宗派総簿》には86の道派が記載されている。この時代の道派の趨勢と特徴をまとめると、その一は三教の融合であり、その二は道教の革新である。新しく創始された道派の多くは、さまざまな教えの長所を融合していた。

 

 (3) 修持方法および道教の教義の根本的な転換

 歴史の上で宋・遼・金・元の時代の道派の最も重要な事跡は内丹仙学の成立と成熟である。これに伴って内丹仙学は道教の主要な修持方法となり、道教の状況は一変し宗教性が根本から向上した。新しく成立した道派は、丹なしでは道として成り立たなくなり、道派と丹派は次第に一つになった。このような趨勢は内丹と符が一つになった雷法の派を生み出しただけでなく、古い経道教にも内丹を研究修習させた。

 外丹黄白術が衰退し、内丹仙学が盛んになると、道教の修練の観念も変化した。魏・晋の時代の《抱朴子内篇》などの道書は、老子が長生久視と説いているのを不老不死に解釈した。しかし、宋・元の有名な内丹家たちは、「長生」は生命を延ばし、修道の時間を提供することであり、永遠に存在する元神を修練して道と一つになることだけが修練の目的であると考えた。だから張伯端は、「世の中の人々はもともと迷いやすく鈍い性質なので、肉体に捕らわれて死を嫌い生を好む。だから結局悟ることは難しい。黄帝や老子はその貧しさを哀れみ、修生の術によってその欲することに準じて、徐々にこうした人々を導くのである」(《禅宗詩偈》)と述べている。王吉吉の《立教十五論》には、「凡世を離れるというのは、身が離れていることではなく、気心のことを言っているのである。身はレンコンのようで、心は蓮の花に似ている。根は泥の中にあり花は虚空にある。道を得た人は、身は凡世にあって心は神聖な境地にある。長生きしようとして凡世を離れることは、大変愚かで道理に合っていないことである」と書いてある。邱処機の《長春祖師語録》は、「私の宗派で長生について言わないのは、長生をしないからではなく、それを超越するからである」と述べている。姫志真の《雲山集・長生》の詩には、「長生といってどうして幻の形骸を論じるのか。命数が尽きればもとの土の中に帰る。しかし誰が本当の真を会得するのだろう。古今に去ることなく来ることもない」と述べてある。このように、生命を修練し寿命を延ばすという伝統的な煉養の術は人々を引き寄せ道に入らせるための手段にすぎず、長生は肉体的な生死のことではない。不変の元神が生死を超越すれば、道を体とし真と合して、仙人の境地に到達できるのである。この修練に対する観念の変化は道教の教義の根本的な転換である。このために金・元の全真道のありようは、肉体的な不死の信仰を広くアピールしたそれ以前の道教とは本質的に異なっている。

 宋・元の時代は、三教を融合しようという当時の趨勢によって道教が革新した。張伯端の南宗の内丹学は、神仙道教の流れに禅宗を取り入れた。彼は《悟真篇》の《後序》の中で、「だからこの《悟真篇》は、最初に神仙の命脈から修練に入り、次に諸仏の妙なる用で神通を広げ、最後に真如覚性によって幻想や妄想を追い払い、そして究極的には空寂の本源に戻るのである」と言っている。全真道の北宗では俗世を離れるという色彩がさらに濃い。彼らは自己の真性(元神)を修練することが仙人になることであるとし、心を知り性を見ることを先にして、唐代の重玄家の理論によって一つにまとめた。修行者は無心無念であるようにし、内外を清浄にして虚空のように澄ませ、寂しいところのない寂しさ、玄のまた玄の境地に到達すると、心を明かし性を見ることができると彼らは考えた。宋・元の時代の内丹学は、性を先にし命を後にする派と命を先にし性を後にする派に分かれ、男女栽接双修の術と独修孤証の清静丹法の区別もあったが、最終的な目標は壊れることのない陽神を作り上げ、神を調えて殻から抜け出し仙界に飛翔することで一致していた。このように、道教の内丹学は禅宗などの仏教の流派と異なり、三教を溶け合わせ諸家の長所を取り入れたあとに道教的な修練の特色を残した。それは道教のありようを一新した。

 内丹学が成立したことで、古い符の道派は次第に原始的な巫術の束縛から解放された。それらは、内に丹を煉り、外に法を用いることを指針とし、本性元神を修練することを重視するようになった。雷法派は実際には天人感応作用の理論を基礎にし、人体の潜在能力を最大限まで開発することによって、道教の法術を実現させた。薩守堅は《内天訣法》の中で、「一点の霊光が符であるのに、時に人は墨や朱を無駄に費やす。人格の優れた人はこれを得ると秘密にして守ろうとするが、飛仙も修練次第なのである」と言っている。これは符派の思想が革新したことを具体的に示している。

 宋・元の時代は、古い経道教が内丹の修練の思想を吸収しただけでなく、儒家の倫理である綱常をアピールする浄明道でさえ内の修練に努めることを強調した。劉玉は《浄明忠孝全書》の中で次のように言っている。「怒りを戒めることは心火を下降させることであり、欲を塞ぐことは腎水を上昇させることであり、理に明るくぼんやりしないことは元神を健全にすることである。福徳はどんどん増え、水は上り火は下り、精神を救ってしまい、中の真土がこれを主宰する。これが心を正し身を修める学であり、真に忠で孝に至る道である」。このように忠孝を丹功の修練に当てはめる新しい一派も道教に現れた。

 

 

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