関尹子文始真経


尹喜 著

神坂風次郎 訳


一宇篇

宇者道也

宇とは道である

 

 非有道不可言。不可言即道。非有道不可思。不可思即道。天物怒流。人事錯錯然。若若乎回也。戞戞 乎闘也。勿勿乎似而非也。而争之。而介之。而唄之。而嘖之。而去之。而要之。言之如吹影。思之如鏤塵。聖智造迷。鬼神不識。唯不可為。不 可致。不可測。不可分。故曰天。曰命。曰神。曰玄。合曰道。

 あるのでない道は言うことができない。言うことのできないのが道である。あるのでない道は思うことがで きない。思うことのできないのが道である。天の物は激しく流れる。人の事は錯綜している。何々のようだと堂々巡りをするのである。がやがやと 論争するのである。うつろなようであるが違うのである。そしてこれを争い、そしてこれを介し、そしてこれを賛美し、そしてこれを賞賛し、そし てこれを捨て去り、そしてこれを求める。これを言うのは影を吹き飛ばそうとするようなものである。これを思うことは塵を刻むようなものであ る。聖智は迷いをつくり、鬼神は知ることはない。まさに為すことはできず、到達することはできず、推測することはできず、分別することはでき ない。だからとい い、といい、といい、といい、それらをまと め合わせて道という。

 

 無一物非天。無一物非命。無一物非神。無一物非玄。物既如此。人豈不然。人皆可曰天。人皆可曰 神。人皆可致命通玄。不可彼天此非天。彼神此非神。彼命此非命。彼玄此非玄。是以善吾道者。即一物中。知天尽神。致命造玄。学之。徇異名 析同実。得之。契同実。忘異名。

 天ではない物は一つもない。命ではない物は一つもない。神ではない物は一つもない。玄ではない物は一つ もない。物はすべてそのようなのだから、人がそうでないことがあるだろうか。人はみんな天であるということができる。人はみんな神であるとい うことができる。人はみんな命を致し玄 に通じることができる。あれは天であるがこれは天ではない、あれは神であるがこれは神ではない、あれは命であるがこれは命ではない、あれは玄 でるがこれは玄ではないとすることはできない。だからわが道をよくするとは、一つの物の中に天を知り神を尽くし、命を致し玄をつくることであ る。これを学ぶには、異なる名前によりながら同じ実質に細分する。これを得るには、同じ実質に契合し異なる名前を忘れる。

 

 観道者如観水。以観沼為未足。則之河。之江。之海。曰水至也。殊不知我之津液涎涙皆水。

 道を観ずることは水を観ずるようである。沼を観じてまだ足りないと思ったら、河へ行き、江へ行き、海へ 行き、そこで水が十分になったと言うのである。どういうわけか自分の津・液・涎・涙がすべて水であることを知らないのである。

 

 道無人。聖人不見甲是道。乙非道。道無我。聖人不見已進道。已退道。以不有道。故不無道。以不得 道。故不失道。

 道に他人はない。聖人は甲は道であり、乙は道ではないとは考えない。道に自分はない。聖人は道へ進ん だ、道から退いたとは考えない。道を有しないので、道を無くさない。道を得ないので、道を失わない。

 

 不知道。妄意卜者。如射覆孟。高之存金存玉。中之存角存羽。卑之存瓦存石。是乎。非是乎。唯置物 者知之。

 道を知らず、でたらめな意識で推測することは、覆いをかぶされてはっきりしないものを弓で射るようなも のである。高いと金や玉を存し、中ぐらいだと角や羽を存し、卑しいと瓦や石を存する。そうであるか、そうでないか、物を置き去る者だけがこれ を知る。

 

 一陶能作万器。終無有一器能作陶者。能害陶者。一道能作万物。終無有一物能作道者。能害道者。

 陶磁器を作る一人の職人は多くの器を作ることができるが、一つの器が職人を作り、職人を害することは結 局はない。一つの道は万物を作ることができるが、一つの物が道を作り、道を害することは結局はない。

 

 道茫茫而無知乎。心儻儻而無羈乎。物迭迭而無非乎。電之逸乎。沙之飛乎。聖人以知心一物一道一。 三物又合為一。不以一格不一。不以不一害一。

 道は果てしなくうつろに広がっていて知ることはないのだ。心はのびのびと大きくて制約することはないの だ。物はかわるがわる入れ替わって間違いはないのだ。稲光のようにするりと走り去るのだ。砂のように飛ぶのだ。聖人は心の一と物の一と道の一 を知って、その三つをまた合わせて一にする。一によって一でないものに取り組むのではない。一でないものによって一を害するのではない。

 

 以盆為沼。以石為島。魚環游之。不知其幾千万里而不窮也。夫何故。水無源無帰。聖人之道。本無 首。末無尾。所以応物不窮。

 盆を沼とし、石を島とする。魚がこれを幾千万里か知れないぐらい巡り泳いでも窮まることはない。水には 源がなく行き着く所がないからである。聖人の道は、根本にはじめとなるものはなく、末梢におわりとなるものはなので、物に適応して窮すること がない。

 

 無愛道。愛者水也。無観道。観者火也。無逐道。逐者木也。無言道。言者金也。無思道。思者土也。 唯聖人不離本情。而登大道。心既未萌。道亦假之。

 道を愛してはいけない。愛することは水である。道を観じてはいけない。観じることは火である。道を追っ てはいけない。追うことは木である。道を言ってはいけない。言うことは金である。道を思ってはいけない。思うことは土である。聖人は本当の情 から離れず、大いなる道に登り、心は芽生えず、道も仮のものである。

 

 重雲蔽天。江湖黯然。游魚茫然。忽望波明食動。幸賜于天。即而就之。魚釣斃焉。不知我無我。而逐 道者亦然。

 雲が重なり天を覆い隠せば、江や湖は暗くなり、泳ぎ回っていた魚は茫然となる。その時に波間を眺めて餌 が動くのがはっきり見えると、幸い天から賜りものだとこれに食いつく。魚は釣られて死んでしまうのである。自分には自分がないことを知らず、 道を追う者もこれと同じようである。

 

 方術之在天下多矣。或尚晦。或尚明。或尚強。或尚弱。執之皆事。不執之皆道。

 方術は世の中にたくさんある。あるものは人目に知れないことを貴び、あるものははっきりしていることを 貴び、あるものは強いことを貴び、あるものは弱いことを貴ぶ。これに執着することはすべて事である。これに執着しないことはすべて道である。

 

 道終不可得。彼可得者。名徳不名道。道終不可行。彼可行者。名行不名道。聖人以可得可行者。所以 善吾生。以不可得不可行者。所以善吾死。

 道は結局は得ることはできない。その得ることのできるのは徳と名付けられるもので道と名付けられるもの ではない。道は結局は行うことはできない。その行うことのできるのは行と名付けられるもので道と名付けられるものではない。聖人は得ることの できるもの行うことのできるものによって、自分の生をよくする。得ることのできないもの行うことのできないものによって、自分の死をよくす る。

 

 聞道之後。有所為有所執者。所以之人。無所為無所執者。所以之天。為者必敗。執者必失。故聞道於 朝。可死於夕。

 道について聞いた後、作為することや執着することがあるというのは、人を所以としていることである。作 為することや執着することがないというのは、天を所以としていることである。作為する者は必ず敗れ、執着する者は必ず失う。だから朝方に道に ついて聞けば、夕方に死んでもかまわない。

 

 一情冥。為聖人。一情善。為賢人。一情悪。為小人。一情冥者。自有之無。不可得而示。一情善悪 者。自無起有。不可得而秘。一情善悪為有知。惟動物有之。一情冥為無知。溥天之下。道無不在。

 一6が はっきりしないのが聖人であり、一情が善いのが賢人であり、一情が悪いのが小人である。一情がはっきりしない者は、有から無へ行き、得ても示 すことはできない。一情が善かったり悪かったりする者は、無から有を起こし、得ても秘密にすることはできない。一情が善かったり悪かったりし て知ることがあるのは、動物だけである。一情がはっきりしないで知ることがないのは、天の下のすべてに広がり、道が存在しないところはない。

 

 勿以聖人力行不怠。則曰道以勤成。勿以聖人堅守不易。則曰道以執得。聖人力行。猶之発矢。因彼而 行。我不自行。聖人堅守。猶之握矢。因彼而守。我不自守。

 聖人が力を入れて怠らず行い、道は勤めれば成ると言うことはない。聖人が変わることなく堅く守り、道は 執着すれば得られると言うことはない。聖人が力を入れて行う様子は、まるで矢を放つようである。なぜなら向こうで何かを行っても、自分は何も 行わないから。聖人が堅く守る様子は、まるで矢を握り弓を射る前のようである。なぜなら向こうで何かを守っても、自分は何も守らないから。

 

 若以言行学識求道。互相展転。無有得時。知言如泉鳴。知行如禽飛。知学如影。 知識如計夢。一息不存。道将来契。

 もし言葉や行為や学習や識別によって道を求めようとすれば、相互に転々と伝わり、それを得られる時はな い。言葉はわき水が音をたてることのようであり、行為は鳥が飛ぶようなことであり、学習は影を摘み取るようなことであり、識別は夢を計るよう なことであるとわかれば、一呼吸の間を置かず、道と合致するのである。

 

 以事建物則難。以道棄物則易。天下之物。無不成之難。壌之易。

 事によって物を建てるのは難しく、道によって物を棄てるのは易しい。天下の物は、成さないことがないと いうのは難しく、壊すのは易しい。

 

 一灼之火。能焼万物。物亡而火何存。一息之道。能冥万物。物亡而道何在。

 明るく燃える火は万物を焼くことができるが、物が亡くなれば火はどこに存在するのか。一呼吸の間の道は 万物を暗くすることができるが、物が亡くなれば道はどこに存在するのか。

 

 人生在世。有生一日死者。有生十年死者。有生百年死者。一日死者。如一息得道。十年百年死者。如 歴久得道。彼未死者。雖動作昭智。止名為生。不名為死。彼未契道者。雖動作昭智。止名為事。不名為道。

 世の中の人の生には、一日だけ生きて死ぬことがあり、十年間生きて死ぬことがあり、百年間生きて死ぬこ とがある。一日で死ぬことは、一呼吸の間に道を得ることのようである。十年あるいは百年で死ぬことは、長時間かけて道を得ることのようであ る。あのまだ死んでいないというのは、7を 明らかにして行動するけれども、生きることを名目にするだけで、死ぬことを名目とはしないことである。あのまだ道に契合していないというの は、智を明らかにして行動するけれども、事を名目とするだけで、道を名目とはしないことである。

 

 不知吾道無言無行。而即有言有行者求道。忽遇異物。横執為道。殊不知捨源求流。無時得源。捨本求 末。無時得本。

 わが道には言葉も行為もないことを知らず、言葉や行為で道を求めようとすると、いつの間にか異なるもの に出会い、道をつかむことからはみ出してしまう。どういうわけか、源を捨てて流れを求めれば源を得る時はなく、根本を捨てて末梢をもとめれば 根本を得る時はないことを知らない。

 

 習射習御習琴習奕。終無一事可以一息得者。唯道無形無方。故可得之一息。

 弓を射ることを習うにしても馬を御すことを習うにしても琴を弾くことを習うにしても碁を打つことを習う にしても、一つのことを一呼吸の間に習得できることは結局はいない。ただ道には形象も方向もないので、一呼吸の間に得ることができる。

 

 両人射。相遇則工拙見。両人奕。相遇則勝負見。両人道。相遇則無可示。無可示者。則無工無拙。無 勝無負。

 弓を射る人が二人いれば、優劣がつけられる。碁を打つ人が二人いれば、勝負がつけられる。道を得た人が 二人いても、示すことができない。示すことのできないものに、優劣や勝負はつけられない。

 

 吾道如海。有億万金投之不見。有億万石投之不見。有億万汗穢投之不見。能運小鰕小魚。能運大鯤大 鯨。合衆水而受之。不為有余。散衆水而分之、不為不足。

 わが道は海のようである。億万の金を投げ入れても見えなくなるし、億万の石を投げ入れても見えなくなる し、億万の汗やゴミを投げ入れても見えなくなる。小エビや小魚を運ぶこともできるし、大きな8や大きな鯨を運ぶこと もできる。多くの水をまとめて受け入れても余すことはなく、多くの水にばらばらに分けても不足することはない。

 

 吾道如処暗。夫処明者。不見暗中一物。而処暗者。能見明中区事。

 わが道は暗闇に身を置いているようである。明るい所に身を置く者は、暗闇の中に一つの物を見ることもで きないが、暗闇に身を置く者は、明るい所の細々とした事を見ることができる。

 

 小人之権帰於悪。君子之権帰於善。聖人之権帰於無所得。唯無所得。所以為道。

 小人は悪に帰着することをはかり考える。君子は善に帰着することをはかり考える。聖人は得ることがない ところに帰着することをはかり考える。ただ得るところがないので、道を為すのである。

 

 吾道如剣。以刃割物即利。以手握刃即傷。

 わが道は剣のようである。刃で物を切り裂けば役立つが、手で刃を握れば傷つけられる。

 

 不問豆。豆不答。瓦不問石。石不 答瓦。道亦不失。問与答与。一気往来。道何在。

 910に問いかけない し、豆は籩に答えない。瓦は石に問いかけないし、石は瓦に答えない。道もまた失われない。一気を往来させて道がどこにあるのかと問えるのか。 答えられるのか。

 

 仰道者跂。如道者駸。皆知道之事。不知道之道。是以聖人不望道而歉。不恃道而豊。不借道於聖。不 賈道於愚。

 道を仰ぐ者はつま先だって背伸びし、道のごとき者は足早に進む。どちらも道の事を知っているが、道の道 を知らない。それで聖人は道を望まなくて欠けていて、道をあてにしなくて豊かであり、道を聖に借りず、道を愚に売らない。

 


 《仙学研究舎》 THE INSTITUTE OF INNER ELIXIR
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