煉己直論

 

柳華陽 《金仙証論・煉己直論第三》より

神坂風次郎 訳

 

 華陽曰:昔日呂祖云:“七返還丹成,在人先須煉己待時。”蓋己者即本来之虚霊,動者為 意,静者為性,妙用則為神也。
 柳華陽は言う。むかし、呂祖は「七返して還丹を完成するには、人にあっては、まず己を煉って時を待たなければならない」と言った。 思うに、『己』とは本来は虚霊[虚の働き]であり、動が『意』であり、静が『性』であり、玄妙な働きが『神』である。

 金丹神雖有帰一,則有双発之旨。先若不煉己還虚,則臨時熟境難忘,神弛炁 散,安能奪得造化之機,還我神室,而為金丹生発之本耶。
 金丹の神秘は一つに帰着することがあるけれども、二つのものを発生する趣旨がある。最初に己を煉って虚に還らなければ、修錬しよう とする時に身に染み付いたものを忘れることができず、『神』は馳せ『炁』は散じてしまう。どうして造化の機[はたらき]を奪い、自分の神室 [金丹を煉るための要所の一つ。『心』と『腎』の間にある]に還して金丹を発生する根本となりえるだろうか。

 故古人煉己者,寂淡、直捷、純一不二;以静而渾,以虚而霊,常飄飄乎随処随縁而安止; 不究其所在,不求其未至,不喜其現在;醒醒寂寂,寂寂醒醒,形体者不拘不滞,虚霊者不有不無;不生他疑,了徹一心,直入於無為之化境,此 乃智者上根之煉法也。
 だから、古の人の煉己とは、寂淡[静かで欲がないこと]・直捷[素早いこと]・純一不二で、静かであることにより混沌とし、虚ろで あることにより霊妙であり、飄々として、その場その場に応じ、縁にしたがってとどまり、自分がどこそこにいると考えず、これから何がおこるの か期待せず、現在の状態に満足せず、醒めているが静かであり、静かであるが醒めている。形体[肉体]については拘ったり滞ったりせず、虚霊 [虚の働き]については有したり無くしたりせず、他に疑問を生じることはなく、一心を理解して、直ちに無為の境地に入る。これが智者の上根 [最も才能のある人]の修錬法である。

 若夫中下流則不然,当未煉之先,毎被識神所権,不覚任造化之機而順化。欲煉精者,不得 其精住;欲煉炁者,不得其炁来。古云:“不合虚無不得仙”,蓋謂此也,故用漸法而煉矣。
 中または下の程度の人々はそのようにはいかない。修錬する以前には、つねに識神の考えに振り回され、造化の機[はたらき]にまかせ て適応することを理解しない。精を煉ろうとしてもその精を留めることができないし、炁を煉ろうとしてもその炁を来させることができない。古人 が「虚無と合しなければ仙人となることはできない」と言うのは、これのことを言っているのである。だから漸法[徐々に進んでいく方法]を用い て修錬するのである。

 且謂煉者:断欲離愛,不起邪見,逢大魔而不乱者曰煉;未遇苦行,勤求励志,久而不退者 曰煉;虚心利人,不執文字,恭迎而哀懇者曰煉;眼雖見色,而内不受納者曰煉;耳雖聞声,而内不受音者曰煉;神雖感交,而内不起思者曰煉; 見物内醒而不迷者曰煉。
 また、煉というのは、欲望を断ち愛着から離れ、邪見を起こさず、大魔に遭遇しても乱れないことを『煉』と言う。機会にめぐまれない ながらも苦行し勤め求めて志を励まし、そのような状態が長く続いてもくじけないことを『煉』と言う。心をからっぽにして他人を利し文字にとら われず、恭しく迎えて哀願することを『煉』と言う。眼が色[視覚の対象]を見ても内に受納しないことを『煉』と言う。耳が声[聴覚の対象]を 聞いても内に音として受けないことを『煉』と言う。神が交感[心に何かを感じること]しても内には思いの起こらないことを『煉』と言う。物を 見ても内には醒めていて迷わないことを『煉』と言う。

 日用平常如如,而先煉己純熟,則調薬而得其所調,辨真時即得其真時,運周天始終如法升 降。已有不得先煉者,則施法之際,被旧習所弄,錯乱節序,故不得終其候也。
 つね日頃このようにして先ず煉己を行って習熟すれば、調薬するにもうまい具合に調えられ、真時を弁別するにもその真時が理解でき、 周天を運用するにも終始決まりきったことのように昇降する。まだこれまでの修錬が出来上がっていなければ、修法の際にむかしの習慣に翻弄され て、適切な手順を乱してしまうので、その修錬を終えることができないのである。

 世之好金丹者云:“有不煉己而能成道者”,謬矣。煉己者在於勤,若不勤則道遥也。昔日 呂祖被正陽翁十試,正念而不疑;又邱祖受百難於重陽,苦志而不懈;費長房静坐,偶視大石墜頂,不驚不動。此得燐己定心之顕案也。并書以告 同志。
 世の中の金丹を好む者が、「煉己を行わずに道を完成できた者がある」と言うが、間違いである。煉己とは勤めることにあり、もし勤め なければ道は遥かに遠いのである。昔、呂祖[呂洞賓]は正陽翁[鍾離権]に十回試されたが正念を保ち疑わなかった。また、邱祖[邱処機]は重 陽[王重陽]から百難を受けたが、志をまっとうして怠らなかった。費長房は静坐しているときにたまたま大石が頭上から落ちてくるのを見たが、 驚かず動じなかった。これらは煉己によって心を定めることを会得した結果である。あわせて書として志を同じくする人々に告げる。

 

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