最初還虚

 

伍沖虚 《仙仏合宗・最初還虚第一》より

神坂風次郎 訳

 

 太和問云:“《直論》中言:‘煉己先努,有当禁止杜絶之端。’又言:‘不煉己,有難成玄功之 弊。’可謂詳言煉己之要矣。昨又言:‘最初煉已,不過導其入門,仍要還虚,方入閫奥。’敢請還虚之理何謂也?”
 太和が質問した。「《直論》の中に『煉己に先ず努めるには、禁止・拒絶するべき端緒がある』と言っている。また『煉己を行わない と、玄妙な功績を成し難いという弊害がある』とも言っている。煉己の要点をつまびらかに言っているというべきです。またむかし『最初の煉已 は、その入門に導くのものであるが、さらに虚に還えることが必要で、そうしてはじめて奥深くに入れる』とも言っていた。恐れ入りますが還虚の 理とはどのようなことをいうのですか?」

 曰:“儒家有執中之心法,仙家有還虚之修持。蓋中即虚空之性体,執中即還虚之功用也。惟仙佛 種子,始能還虚了性,以鈍於精一之詣。若夫人心,則戻其虚空之性体,冲冲不安,流浪生死,無有出期。故欲修仙道者,先須成載道之器。欲成 載道之器,必須尽還虚之功。虚也者,鴻濠未判以前,無極之初也。斯時也,無天也,無地也,無山也,無川也,亦無人我与昆虫草木也。万象空 空,杳無朕兆,此即本来之性体也。還虚也者,復帰無極之初,以完夫本来之性体也。”
 答えて言った。「儒家には執中の心法があり、仙家には還虚の修持がある。思うに『中』とは虚空の性体[生まれつきの心の本体]であ り、執中[『中』を執ること]は還虚[『虚』に還えること]の効用である。ただ仙佛の種子は、始めに虚に還えって性を理解し、そして純一な状 態にまで到達する。もし人心がその虚空の性体に戻れば、不安に突き当たって生死を流浪することに終わりはない。だから仙道を修しようとする者 は、先ず必ず道を載せる器を完成させなければならない。道を載せる器を完成したければ、必ず還虚の修錬に尽力しなければならない。虚であると は、混沌が分別する以前の無極の初めである。この時には、天はないのであり、地はないのであり、山はないのであり、川はないのであり、また他 人や自分とか昆虫や草木もないのである。すべての形象が空しい状態で、杳として何の兆しもない。これが本来の性体[生まれつきの心の本体]で ある。虚に還えるとは、無極の初めに復帰することであり、そして本来の性体[生まれつきの心の本体]を全うすることである」。

 曰:“然則何所修持,始尽還虚之功也?”
 質問して言った。「それではどのように修持すれば、還虚の修錬を尽くすことになるのですか?」

 曰:“還虚之功,唯在対境無心而巳。於是見天地,無天地之形也。見山川,無山川之迹也。見人 我,無人我之相也。見昆虫草木,無昆虫草木之影也。万象空空,一念不起。六根大定,不染一塵。此即本来之性体完全処也。如是還虚,則過去 心不可得,現在心不可得,未来心不可得。頓証最上一乗,又何必修煉己之漸法也哉?佛宗云:‘無相光中常自在。’又云:‘一念不生全体現, 六根纔動被雲遮。’合此宗也。”
 答えて言った。「還虚の修錬は、ただ対象について無心であることだけである。ここにおいては、天地を見たとしても、天地の形はない のである。山や川を見たとしても、山や川の跡はないのである。他人や自分を見たとしても、他人や自分の姿はないのである。昆虫や草木を見たと しても、昆虫や草木の影はないのである。万象[あらゆる事物]は空虚で、一つの想念も起こらない。六根[眼・耳・鼻・舌・身・意の総称]は非 常に落ち着き、一つの塵[欲望の原因となるもの]にも影響されない。これはすなわち本来の性体[生まれつきの心の本体]の完全な在り方であ る。このように還虚すれば、過去に心は得られず、現在に心は得られず、未来に心は得られない。にわかに最上一乗[最も優れた教え]を悟ってし まうのに、またなぜ煉己の漸法[徐々に進める方法]を修錬する必要があるのだろうか。佛宗は、『無相[形態や様相のないこと]の光の中は常に 自在である』と言っている。また、『一念不生が完全に体現できて、はじめて六根[眼・耳・鼻・舌・身・意の総称]は雲に遮られているのを動か すことができる』とも言っている。この主旨と合致しているのである」。

 

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