「三代物語」
高松郷 喜岡城
○喜岡城
古高松郷{帰}來に在り。昔此の地に長き松樹有り。朝夕 影は幾六町たり。因りて名を高松郷と曰く。今は枯れり。
生駒雅楽頭 讃を封じ、先ず引田城に入る。居ること何(いづ)くも亡く、宇多津に徒(むなし)くして、又 都を篦原庄に
遷(うつ)し、高松と改名す。故に此の地を古高松と曰ふ。猶、晋人 新田に遷し、名を絳[晋都]と更(かえ)るがごとし。
其の故 都と呼び、{故}絳と曰ふ也。喜岡城者(は)、多田満仲九代の孫、従五位下土岐五郎光定、子 高松三郎頼重、
及び{兄}頼行、世(々)之に居る[事太平記に在り]。高松左馬助に至り、香西氏に属す。天正十一年 豊公 仙石秀久を封じ、
讃侯と為す。未だ封に就き得ず。小豆嶋に至り引田浦の舟を取り、行きて屋嶋浦に至り二千餘人を以て喜岡城を攻むる。
{々}小にして固く、左馬頭 亦能く之を禦(ふせ)ぐ。仙石氏之師、克たずして小豆嶋に還る。復(ま)た之を伐(う)ちに來るを
恐れ、是に於いて香西伊賀守 唐人弾正、真鍋弥助、片山志摩をして更に之を戌(まも)ら使(し)む。之に従うに卒百餘人を以てす。
十三年四月廿六日 浮田八郎秀家、蜂須賀彦右衛門正勝、黒田官兵衛 …(後略)…
(参考まで)
絳(=深紅、あか):春秋時代の晉(しん)の都