多度津町


村井家は三宝丸で砂糖の運搬販売により巨利を得た。


「白方村史」(S30.5.15, 白方村史編集委員会:編集兼発行)より
 

村井岩吉の巨大な墓が即往寺(多度津町堀江)にある。


正面(拡大)

南無阿弥陀佛
樹心院釋常讃居士(初代岩吉)
難思院釋信珠大姉(カツ)
(当然ながら)高野山奥の院の村井家供養碑と同じ法名が刻まれている。


背面

右端は白字もあって読みづらいが、つぎのとおりである。
正悟院釋清心居士昭和五十五年十一月十四日
俗名村井清治 行年八十八才
紫雲院釋恵春大姉平成五年三月二十日
俗名 盈恵 行年九十七才
還到院釋保寿居士平成十二年十一月二十二日
俗名村井保夫 行年七十八才


(向かって)左側面


(向かって)右側面




右側面の拡大図と翻刻文
 

   藤澤南岳の撰文、上田樹徳の書による碑文が刻まれている。

君爲村井支家始祖稱岩吉讃之多度東白方人家世業農父曰久松君其第三子起身于航海
剏産于運輸其勤苦不啻也盖幼勤愼與他兒童異十有九與兄共爲舟子舟僅載百石航于備
後諸港兄弟大奮自兵庫大坂至名護屋東西運漕以博大利且識眼明能察物貨高低来往
必益家道大亨年方四十專力于製糖與運輸以舟長屬他人指揮以圖癈居其舟号三寶丸人
呼為家稱明治十四年兄分産與之支家始興矣本支二家遂爲一邨豪族三十一年十月十五
日病歿享年六十有三君娶同族嘉吉之女擧六男三女嫡子久治嗣亦改稱岩吉云嗚呼身克
致冨者多失于驕奢君獨不然訓兒子有所守雖曰未學余則謂之學哉銘曰
 儉勤所致  室家豊腴  輔本興支  長垂宏模  三寶三寶  其號不虚
明治三十二年己亥秋七月   浪華 南岳藤澤恆撰   西讃 樹徳上田親書

(読み間違いがあればご容赦)

漢文の読み下し文作成は不得手ではあるが、何らかの読む手がかりがほしいので、間違い覚悟で分かる範囲を読み下せば次のようであろうか?

君は村井支家を為す。始祖は岩吉と称す。讃の多度東白方の人。家の世業は農。父は曰く久松君。その第3子。航海に身を起こす。運輸に産を始める。その勤苦とどまらずや。 けだし幼くして勤愼、他の兒童と異なる。十九にして兄とともに舟を為す。小舟にして僅かに百石を載せる。 備後諸港に航して兄弟大奮し、兵庫大坂より名古屋に至る東西運漕し以て大利を博す。 且つ高く眼明を識り、能く物貨の高低を察し、來往必ず家道(家計)に益す。大亨(大人物?)年方(まさ)に四十にして もっぱら運輸と製糖にはげみ、以て船長は他人の指揮に属し、以て廃居(人から見向きもされない値の低いときに買いこんで置き、値の上がったときに売りに出してもうける)を図る。その舟 三宝丸と号す。人呼んで家称(屋号)となす。 明治十四年兄之と産を分け、支家始めて興る。本支二家遂に一村の豪族を為す。 三十一年十月十五日病没、享年六十三。君は同族嘉吉の娘を娶り、六男三女を挙げる。 嫡子は久治が嗣ぐ。また改称して岩吉と云う。ああ、身克く富に至る者は驕奢に多くを失う。君は独りそうでなく児子に守る所有るを訓える。曰く未だ学ばずといえども、余則ち之を学ぶと謂う。銘に曰く、
 倹約し勤勉に致す所 室家豊かに肥え 本を輔け支を興す 長く垂れ宏く手本  三宝三宝 その号虚妄ならず


「多度津文化財保存会報 第18号」(H28.6.20, 公益財団法人 多度津文化財保存会 発行)より


「讃岐の碑文集」(R04.3.24, 塩江町歴史資料館館長藤澤 保:編集、塩江町歴史資料館:発行)より





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