その他の「まなべ」の足跡

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由来がつかめませんが、「まなべ」の足跡がいくつか残っています。由来をご存じの方がおいでましたらお教えください。

金比羅宮 桜の馬場 参道

藤原山蔭流塩川氏の流れを汲む間部詮吉の子、星野詮清の末弟又四郎が蜂須賀正慶公の直参浪士として阿波入りし、阿波池田に定着して眞鍋屋又左衛門と改名したとあるので、「阿州真鍋屋兵次」というのはその子孫であろうか。

金比羅宮 桜の馬場 参道



四国第84番札所 屋島寺 四天門


H29.2.27


四国第76番札所 金倉寺



高瀬町佐股の岩瀬池の改修に奔走した人に真鍋申三郎という組合長がいました。
−−「農林業の石碑 ― 先人の遺業をしのぶ―」(香川県農林部編集・発行、S56.1.31)−−より




堤防の上の記念碑
H29.3.18



 

記念碑 正則題(脇の小さい石碑)・・下の方は読み取れず
岩瀬池は漑田二百六十町歩本郡第一の溜池で古記によれば上高瀬の郷士武
田五兵衛が元亀年間築造を計画したが時恰も諸國兵乱のため人夫参集せず
やむなく戰乱の終るを待ち天正十八年二月着工文禄元年春竣工し水掛農民
欣喜雀躍してその恩徳をたたえ神に祭りて感謝し祭祀を行い今日に至った
その後大正十三年堤塘中腹に破損を生じ旧本樋樋管破損の改修を行ったし
かるに池築造以来幾星霜その間土砂埋没して貯水量十分ならず毎年潅漑水
に不足を来し しかもこれが根本的改修には巨額の費用を要し當時の農村
経済状態にては到底独自の力で工事を行い難く空しく拱手して機運の熟す
るを待つのみであった幸にも昭和七年農村匡救耕地整理事業の実施に當り
国庫補助金を仰ぎ仝年本樋樋管を改修昭和十年三月三豊郡岩瀬池耕地整理
組合を組織し縣営事業を以て承水溝改修に着手昭和十二年三月竣工昭和十
七年堤塘の嵩上に着手二十年竣工と引續き幹線水路の改修等各種の大工事
を行った結果積年の旱害を除き得て豊穣を約束し歓声山野に漲ったのであ
る昭和二十七年耕地整理組合は土地改良区と変ったがその間真鍋申三郎氏
は終始一貫組合長として寝食を忘れて奔走し懇切なる上司の指導の下役員
諸氏が協力して事業達成に邁進した功績は炳として後昆を照らすであらう
我等はこれら先人の恩澤に深甚の感謝を捧げこれが維持管理のため万全を
期する決意を固め奮起一番食糧の増産郷土の繁栄福祉と民心の作興に挺身
しなければならない茲に嘱に依って全工事の概要を記るし各種工事に特に
盡瘁せられた方々の不朽の功業を讃仰し後人の感奮興起を衷心より祈って
止まない次第である
  昭和三十五年四月建之   高瀬高等学校教諭 芳地俊男 撰
               豊中町萬福院住職 岡田進襌 書
大正十二年旧樋管故障の為復旧工事施工 設計者  安藤昌三・・・
昭和八年農村匡救済地整理事業として水樋管を隧道により改修工事 施工・
隧道延長四十二間隧道内高さ五尺五寸巾三尺五寸樋口高さ三尺巾二尺立・・
上中樋口八寸下樋口一尺二寸 設計監督縣技手前川尚武 工事請・
大野原村平岡應尊  工事委員長真鍋申三郎  委員内山熊之助 岩本
太郎 田岡福一 大西幸治 白川藤太
昭和十年旱風水害應急施設事業により縣營にて承水溝及び承水取入口・・
余水吐改修工事施工 承水溝延長千二百間サイフホン延長五十間隧道延長・・
百間 設計監督縣技手小谷亀市
昭和十七年食糧増産對策土地改良事業により堤塘嵩上工事を耕地整理・・・
直営にて施工 嵩上高さ旧水面より三尺余水吐高さ二尺五寸巾五十六尺中・
水吐口高さ二尺五寸巾五尺のもの三ヶ所本工事により旧樋管は完全取除・・
設計及び監督縣技手前川尚武 堤塘及余水吐石積宮崎権治

三豊郡岩瀬池耕地整理組合
組合長
  真鍋申三郎 評議員 安藤昌三 仝 森 延夫
        仝   小野秋治 仝 小山嘉三郎 (以下略)
  田岡福一  仝   政本義一 仝 安藤 新

(背面) 関係者氏名たくさん
     真鍋兵一、真鍋亀松、真鍋熊市、真鍋典一、真鍋榮蔵、
     真鍋藤五郎、真鍋 一、真鍋政雄などの名も見える。
       昭和三十五年四月
元亀年間:1570〜1573  天正18年:1590     字は碑文のママ



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