間部氏

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この氏は元、塩川氏を称したが、詮光のとき母方の姓眞鍋を称し、後に間鍋に改めた。(寛政譜


「国史大辞典」(吉川弘文館)より




★「系図纂要」岩澤愿彦監修(名著出版)によると、間部氏の系図は、
藤原鎌足−不比等−房前(北家)−魚名−鷲取−藤嗣−高房−山蔭−仲正−安親−季隨−滿任(鹽川左衛門尉)−季任−季詮−滿詮−滿信−滿親−維親−滿國−滿直−滿資−滿貞−滿長−滿永−宗信−頼宗−滿重−滿一−一宗−爲宗−爲滿−一家−信氏−信行−詮光(間部刑部,母眞鍋主馬貞詮女)−詮則−詮吉−詮清(星野刑部)−清貞(西田久右衛門)−詮房(間部)−詮言−詮方−詮央−詮茂−詮熈−詮充−詮勝−詮實
となっている。ウェブ情報等も織り交ぜてまとめると次のようになる。




一方、塩川−眞鍋家に伝わる伝承や間部子爵家の系譜をあわせてまとめると、次のようになる。一般的に知られている系図と少し異なるところもあり興味深い。



上の系図のうち、特に系図途中の青字部分が一般に公表されている系図と異なるが、塩川−眞鍋家の口伝はそのほかにも次のとおり、大変興味深い内容がいっぱいである。

間部子爵家の系譜によれば、眞鍋氏は姓は藤原、天児屋根命二十一世、大中臣祭主御食子卿の長男、大職冠鎌足公より出たるものなり。鎌足初めて藤原の姓を賜る。其の継君不比等の二男、房前に至る。房前の五男魚名より鷲取、藤継、高房、山蔭、仲正、安親、茂季、陳正、季髄(陳正の弟)仲光、仲光に至り源満仲に仕ふ。仲正の女季髄に嫁し満任を生む。而して仲光の男松童丸早世して家督断絶す。源頼光公之を憐れみ仲光の外孫満任をして名跡を継しめ、塩川の地の命田を賜ふ。これより塩川を以って氏となす。

ここで、「仲正の女、季髄に嫁し満任を生む。」とあるが、年代が離れすぎているように思われるし、次の系図からもわかるように、藤原仲正(中正)の娘に該当しそうな女性はいないと思われる。



(ところでここに出てくる茂秀は塩川−眞鍋家口伝に出てくる「茂季」か? 安親の子ならなおさら)


一方で、「仲光の外孫満任」と書かれていることから、「仲正の女」ではなく「仲光の女」であろうと思われるが、それでも「季髄−仲光」とつながっているなら、仲光の娘は祖父に嫁いだことになり、当時ありえないことではなかろうが、それにしても少し不自然である。しかし、藤原仲光は実在が証明できていないにせよ、次のように塩川の縁者でもあるようだ。

Wikipedea より
藤原 仲光(ふじわら の なかみつ、生没年不詳)は、平安時代中期の武士。藤原氏の流れを汲むと考えられるが、詳しい系譜は不明。一説によると藤原北家秀郷流とされ るが、伝説上の人物ともいわれている。藤原仲義(塩川仲義)、幸寿丸らの父。

源満仲の家臣として仕え、満仲が都を離れて摂津国川辺郡多田盆地に入部したのに伴い、同国池田の地に土着したとされ、現在の大阪府池田市伏尾町の八幡城址は、 仲光の居城跡だとする説がある。

藤原秀郷の一族を追捕している満仲が、なぜ秀郷の嫡流である仲光を郎等にしたのかは不明だが、源満仲と藤原仲光との間に起きた「美女丸・幸寿丸の事件」を機に、満 仲が隠居した後、仲光は多田院の主代殿となるなど、初期清和源氏の発展に貢献したとされる。また、高野山奥之院に存在する満仲の供養塔は仲光によって 建立されたものであると伝えられる。

以上から、藤原仲光は山蔭流ではないが、男子が早世したため、娘の嫁ぎ先で生まれた季髄の子満任を嗣子とし、仲光の所有する摂津多田の庄を相続して既に存在していた塩川氏を継がせたのではあるまいか。


さらに満任以降の塩川−眞鍋家口伝の続きは次の通りである。苗字が星野・間鍋・間部など転々とした経緯もわかっておもしろい。
一般に知られている塩川系図に比べて、「宗長−長信−信正」が付加されているが、これは兄弟による家督相続であろうか?長兄死亡により次の弟が家督相続し、その弟がまた死亡(討死or病死)してさらに下の弟に相続するなどした経緯が詳しく言い伝えられているため、直系系図の人物が多くなっている可能性が考えられないだろうか。

季任、季詮、満詮、満信、満親を経て惟親に至る。惟親は大内の冠者相模守惟義の二男なり。文治元年八月十四日源頼朝公、大将軍補任の時源氏の同姓六人受領の其の列大内惟義、頼朝公より摂津多田の庄を賜ふ。当初は満仲公以来、頼光の嫡流をして、此地を領せしめたるが、多田蔵人行綱平家に諂いたるにより、頼朝公之を憎み多田の地を没収し、新たに之を惟義に賜ふ。 而して後、惟義、塩川満親の女を以って妾となす。満親男子なし。依って彼の女の産む所の惟親を以って、継子となし塩川の家名を継がしむ。

其の子満国承久の乱に、官軍に属し軍功あり。其の子満直も討死。其の二男満資家督を継ぐ。満貞の子満長に至り、弘安三年多田を出て、相州井縄に住し上杉家に仕ふ。其の子満永、足利尊氏の官軍に属し六波羅を討つに当り、其の先頭に進む。宗信、宗長、長信、信正、頼宗に至り、足利義詮同義満に仕ふ。これより代々足利氏に仕ふ。満重、満一を経て一宗に至り将軍義量、義教に仕ふ。嘉吉元年六月二十四日赤松満祐謀反す。此時一宗害に遭う。

為宗、為満、一家に至り、細川勝元の為に檎(原文のママ)せらる。後多田の旧地に蟄居す。一家の二男満定、三男国満は摂津多田に住す。長男信氏とその子信行は三州に来住し、岡崎二郎三郎清康(松平)に仕ふ。「泉州眞鍋貞詮の女を娶り詮光を生む。」 天文元年清康主軍を出し、同国吉田城主、牧野左衛門佐三成を攻める。信行大いに戦功あり。天文四年尾州守山に出陣していた清康は家臣安部弥七郎に刺殺されるを以って軍を班し岡崎城に帰る。織田信秀は好機とばかり岡崎へ攻め入った。信行此の時伊田に於て戦い遂に討死す。

父戦死の時弥九郎詮光僅かに五歳なり。母は貞詮の女貞友の姉なり、其の母之を携えて泉州大津に到り、眞鍋の家依り以って養育せらる。祖父信氏の末弟、塩川吉大夫国満は、中の兄山城守満定死去せるを以って、身を興す時を得、摂州の守護荒木摂津の守村重に髄属し伯耆守と号し多田の地を領す。男子無く、近族なる信行の遺児弥九郎詮光を迎取り己が家を扶助せしむ。未だ養嗣の約束をなさざる天文十八年(一五四九年)塩川国満、管領細川高国家の下知を蒙り、摂州六瀬城主山間左京亮を撃つ。

この時、詮光先頭に進み左京亮の首を討ち取り、高名大いに著す。時に年十九歳なり。細川高国舎弟、兵部少輔晴国、管領代となり首を実検す。「弥九郎詮光初陣に於いて敵将を討取りたるは、稀代の高名なりと激賞し書記に記載せしむ、弥九郎、眞鍋弥九郎詮光と高唱す」その時、国満進みいで書役に塩川弥九郎と記名するよう云う。弥九郎否定して云う、吾幼少より外祖父眞鍋氏に養育せられ今日に至るが故に眞鍋を以って苗字となす。書記役迷い他者に尋ね、その者達、国満の家に有りと誰も感知せず、書記役、管領代晴国に相談す、双方互に譲らずば、あいだの文字を取り入れ間鍋と記すよう云う。その事により書記役弥九郎に氏姓の文字を示して「間鍋弥九郎詮光」と決める事になる。未だ父子の約をなさずと申し、国満の家を去り三河に至る。「間鍋詮光なりと号したり」

その後、徳川家康殿より呼び出され浜松城に至る、拝謁挨拶家康侯、弥九郎詮光に、父祖共に奉仕し、あまつさへ父信行伊田に於いて戦死せり由緒を以って、詮光に刑部を与え、間鍋刑部詮光を名乘るよう、二字を与えられる。天正十年(一五八二)正月、家康公の側近役士で仕える事に抜擢される。天正十年三月武田勝頼滅亡し、その領国中駿河を以って徳川殿の軍賞として織田信長公より之を追送せられる。甲州忍地を刑部詮光に支配領地として与えられる。

徳川殿五月中旬、織田信長公に招待されて江州安土城に参向し拝謁す。それより遊覧をなし、京師、泉、堺に赴かれる、間鍋刑部御供をなす。同月二八日、信長、信忠両公上洛す。両公上京都に上洛された事が、堺の家康侯に聞こえ、間鍋刑部を使者として京都に遣わされ、刑部両公の御旅館に参上し使役を勤める。日暮れるに及び、妙覚寺の近隣に止宿す。翌日六月二日黎明、明智光秀謀反企て本能寺の本陣に押し寄せ、攻戦して遂に信長公を生害す。是時、信忠公、二条城に立て篭もりしが、敵徒数万馳せ集まりて取囲む、信忠公随身の輩御家人等、皆御所に入りて防ぎ戦い刀折れ矢尽きて各々討死す。 此の時、間鍋刑部、この場を遁れ去るに忍びず、衆を分って御所に飛び入り力戦して竟に討ち死にす。「磋呼誠に義勇の士と云うべし。」

父詮光が京都で戦死したことが、年を越えて漸く三河の詮則に知らされて、纏めてその巨細を知るなり。而して刑部詮光奉仕の年月浅かり為、其の家督を立てられず。あまつさえ甲州御出馬に依り、家督相続のこと廃める。是より詮則、落胆し西三州の所々を漂流し、後、竟に病死す。その子、詮吉は三州を出て濃州に至り、関の鍛治、長九郎兼吉の家に居住すること多年、多病にして歩行意に任せず、隠蟄して竟に死去す。その子詮清は濃州を出て勢州山田に到り、神官松尾次郎太夫に寄食す。此処に国侍北畠の旧、星野某郷士となりて当地に居住する者あり、詮清は従来この人と縁故あり以て、其の苗字を譲られ資財受得す。長男詮清には次男吉次、三男吉太、四男又四郎あり三人は父詮吉死後、斎藤家の配慮に尾州海東郡須賀邑に移住、浪人で其の日暮らしが続く。徳川と豊臣の戦が始まる前、吉次と吉太の二人は、蜂須賀彦右衛門正慶侯に足軽で仕える。大阪冬の陣始まり、加藤軍との攻防戦著しく砲火を受け遂に二共討死にす。「家康公休戦講和す。」大阪夏の戦い始まる。「豊臣家滅亡す。」

又四郎、父詮吉、兄吉次、吉太の弔い供養す。二人戦死の恩賞是無く浪人の暮らし侭ならず日々を過ごすうち、元和六年(一六二〇年)彦右衛門正慶侯、阿州徳島城に兄藩主、至鎮(シゲザネ)侯の安否伺いに下降する噂を聞く、又四郎、正慶侯に願い出る。「又四郎二十一歳」正慶侯三十二歳の直参浪士として阿波国入り成る。

長男詮清の子西田清貞は、甲府の御家に召出され小十人組格とせられる。詮房は清貞の長子なり。母は甲府大君に仕える。貞享元年御属従となり、禄二百五十俵賜る。厳命により本氏間鍋に復し部を以って鍋字に換え間部右京と称す。

阿波国入の又四郎は下人ともども三好郡池田大西町にたどり着き、尾張中村同郷の士、中村若狭大西城城番に願い出る。「壱領具足」。阿波藩直参情報定飛脚、石高二十七石五斗、眞鍋屋又左衛門と改名し町人として系を代々継ぐことになる。


ここに出てくる「眞鍋屋」とは、金比羅神社の石段途中の玉垣に刻まれている「阿州 真鍋屋」の先祖だろうか。



2011年1月24日のテレビ東京系TV番組「歴史ミステリー"女たちの裏日本史"」で、間部詮房が取り上げられていた。ご覧になった方もいるかと思う。この番組の中で、「1712年徳川6代将軍家宣死去により鍋松5歳で7代将軍家継として就任したが、家継は側用人・間部越前守詮房になぜかよくなついた。そのため誰も間部のやり方に口をだせなかった。実は鍋松はお喜世(後の月光院)と詮房との間の子である。間部家の家系図に『間鍋を間部に改めた』とあるのがその根拠で、間鍋の『鍋』の字を子につけた。」と放送されていた。これの真偽のほどは別として(将軍の子と公表される子に側用人が自分の苗字の1字をつけられようか?)、将軍家宣侯がその子に鍋松君という名前を付けたのなら、間鍋を名乗るのは恐れ多いので、間部と変えたのではないか(もちろん家宣侯の許可を得て)、という改名理由の一考察はできよう。このページ冒頭の国史大辞典の記述からいけば、将軍家宣侯になる前の綱豊から改名を命じられているから、鍋松君誕生以前の話のようではある。ちなみに、月光院派と天英院(熙子)派との勢力争いで8代将軍吉宗となり、また絵島生島事件を生んだ。



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