「讃岐國名勝圖會」

 

讃岐國名勝圖會(嘉永6年)より



<記載内容>

向城跡 同所(=木太村)神内城の東にあり
 真鍋家記曰真鍋弥助祐重(すけしげ)是に居れり祐重は香西伊賀守佳清(よしきよ)
 家族にて往昔(いにしへ)平家一の谷の大手生田森の一の木戸を堅めたる真鍋
 五郎か後裔なり世々相續して弓馬の道をたしなみ剣術を善(よく)
 我卒にみな弓を習らはし射手百人を勝つて持けり天正九年二月
 長宗我部元親香西佳清と合戦のとき敵将三人を討とり高名
 せり又同年七月合戦のとき夜獨敵壘にいたり敵將楫取(かぢとり)彦兵衛
 に鎗を合せ水中に陥れ遂に彦兵衛を討とり陣営に歸りければ
 佳清大に其勇を好みしける十年八月土佐の兵來つて香西城を
 責めしとき殿して大里又次郎長宗我部小三郎を討て大に功あり其
 後先封生駒近規朝臣にしたがひ朝鮮陣におもむき數々戦功あり
 一日(あるひ)祐重甲騎の暇偶々高岸の下に休ふ福島正則岸のうへを
 過る下に人あるをしらず誤て祐重の頭上に唾す祐重大にいかつて
 いそぎ岸上に登り左に正則か袖を取て右に刀を抜きいかんぞ士を辱
 しぞと既に刃傷に及はんとす正則ことばを卑(さげ)てしらざるを謝しければ
 祐重怒解て別けるとなん其余美事數多ありといへども一々挙るに
 遑あらず剣術は其身無双の上手にて人みな是を師とする或とき私宅
 をいでヽ野徑に行く足元より鴫の立たるを刀抜き合て切おとす世人逸物
 とす門人何とすればかやうの早業の成るやと問こたへて曰其術を習ふは
 常の事なり其功の熟して變に應ずる事は無心にして至るものなり
 更に教の道にあらざる也といへり真鍋は太刀早ふてちろりとすれは早切落
 すとてちろり真鍋といふ

真鍋祐主(すけぬし)
 同所田の中にあり其地を東光寺地といふ本府三河屋何某といふ
 者は祐主の裔にて遠祖(とをつおや)真鍋五郎か一の谷の戦に着せし處の
 揉(もみ)烏帽子および矢根(やのね)等を所持せり故あつて是を
 公(こう)に献す公これを善(よ)みして月俸を玉へり


「讃州府志」(増田休意原著,梶原猪之松増補改訂,香川新報社,大正4.2.10発行)によると、

眞鍋彌助祐主墓 木太田井ニ在リ其地ヲ東光寺地ト云フ 今里民太田平次右衛門田ニテ挿秧ノ時ハ必ス酒粢ヲ其墓ニ薦ムト云フ 眞部宇治右衛門 眞部利右衛門其後ナリト云フ


「讃岐名所歌集」(S3.3.24 赤松景福 著作兼発行、S58.8.10 編集復刻版発行)にも引用されている。




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