真鍋島の伝承の比較まとめ

一般的にみて伝承というものは、古事記を代表とするように、あまりにも現実離れ、希望願望の表現、あるいは荒唐無稽なものが多いが、いろいろな伝承を集めて比較すれば、その共通する部分には事実が含まれている可能性もあろうか。

◆「日本城郭全集10岡山県・兵庫県」(1967.9.30,大類 伸監修,人物往来社発行)
最も荒唐無稽なのがこれであろうか。岡山県の部の執筆は相賀 庚となっており、別名美濃源三郎というペンネームで岡山の古城や歴史に関する本をいくつも書いているようであるが、この人は何を根拠にこんなことを書いたのだろうか。一部を抜粋すると次のようなことが書かれている。

さて、この真鍋氏がいつの頃からこの島に君臨していたのであろうか。
その時代はずっと古く、神武天皇東征に従った天皇の近親の一人が熱病にかかり、治療のため高島に残り、のちに全快するとこの島に移って開発に力を尽くし、その功により大和朝廷より「真名部臣(まなべのおみ)」を賜って真名部を氏とし、真名部島と称したが、いつしか真名部が真鍋と転訛したものと伝えられる。この初代真鍋氏の墳墓が真鍋城址のあの大規模な古墳だといわれる。
また一説には、真鍋氏は橘姓で備中国小田郡真鍋城より起こるとあり、『平家物語』には、備中国の住人真名辺四郎五郎の名を載せ、さらに『源平盛衰記』には、讃岐国の住人真鍋五郎助光、真鍋四郎の名をとどめている。この二書の真名辺と真鍋は共に真鍋氏で、真鍋四郎五郎は二人の名であり、真鍋四郎と五郎助光で、共に源平合戦に出陣して功を立てたが、武運拙く一族と共に壮烈な戦死を遂げたのである。
この真鍋四郎が真鍋島の真名部氏で、真鍋五郎助光が伊予新居郡(現、愛媛県新居浜市)の金子城主金子備後守の祖である。
のち神功皇后が三韓征伐の途次、備中二子山(都窪郡庄村)で二子を生み、一人がのちの応神天皇で、一人はこの真鍋島の真名部氏を継がせたという。後年、応神天皇が備中の国に行幸され、古社葦守宮(足守町)に参拝ののち、笠岡の応神山(国指定の名勝)でこの弟の宮と対面されたと伝えられる。
この神功皇后との関係をさらに裏書きするものとして、真鍋家の記録に、真鍋氏が一時期「三宅姓」を称したとあるが、三宅姓は神功皇后の生家備前児島の三宅氏であり、三宅氏の遠祖は新羅第一世の王の赫居世の王子天日槍(あめのひほこ)であることは、児島三宅氏、『児島誌』、三河田原藩主三宅家、児島五流尊滝院などの記録が証している。
さて、真鍋氏の築城であるが、神功皇后伝説では、皇后がこの島に上陸してしばらく兵を休め、兵糧の補給などして出帆されたというが、この時、すでに城があったか、または皇后の滞在に際し急ぎ城を築いたものか、いずれかであったろう。
本格的な城造りは源平合戦の時と思われる。河野、三木、村上、塩飽、片岡などの海賊衆が源氏に味方したのに反し、真鍋氏は平家に参じて一族ことごとく討死している。戦後、鎌倉の平家残党狩りに、真鍋氏を名乗ることの危険を感じて、日方間太夫馬資(真鍋城主)、福原新太夫信重(城山城主)、沢津(そうず)七郎資継(沢津城主)などの氏に変えたものと思われる。
しかし、真名部氏の正系は絶えることなく今に至っている。

沢津城址と峰続きの東側には、岡山県農業試験場真鍋島分場(花卉試験場)があり、南国の花がたくさん栽培されている。この試験場から港のほうへ下ると、民家の中ほどに古い屋敷跡がある。ここが真鍋氏の館跡で、真鍋三城のうち、宗家を継ぐ城主がつねに居住していた。のちに江戸時代末期、帰農した真鍋氏が庄屋を勤めていた頃の屋敷跡でもある。
現在、玉野市へ移っている嫡流の真鍋増太郎氏が太平洋戦争前まで住んでいて、離れ屋敷の一棟と庭園の一部が残っており、老松の下にわずかに残る庭石の一つには、大きな陰陽石もある。館の大部分は真鍋中学の敷地となり、玄関入口には落城の時自決したという三田姫を祀る小祠と五輪塔墓が建っている。
真鍋本城にまつわる伝説につぎのような話がある。
真鍋城では、代々、三層の本丸の最上層に白蛇を飼っていた。そして、この白蛇に餌をやることは城主の奥方の重要な勤めであり、家来や腰元に任せることなど許されなかった。ところが、最後の真鍋城主の奥方は讃岐高松の松平家の姫君であったが、ある日、いつものように白蛇に餌をやりに行った時、急に閉じこめられている蛇が可哀そうになり、窓を開いてやった。
白蛇は窓から抜け出ると、真鍋島の沖約一キロにあった大島に逃げていった。
まもなく、その白蛇は大島で死んでいるのが見つかった。今も大島の頂上には白蛇を祭神とした小社がある。
それからのち真鍋家は不幸が続き、城主夫妻も病死してしまい、ついに真鍋家は城を出て民間に下り帰農したという。
爾来、金刀比羅宮と真鍋氏との関係には深いものがあった。塩飽水軍の棟梁と海神を祀る金刀比羅宮とであるから当然のことといえるが、真鍋氏が城主であった頃は、金刀比羅宮の大祭には必ず真鍋氏が参列し、御輿をかつぐのは真鍋島の若ものと決まっていた。この習慣はごく最近まで続いていた。

いかがであろうか。ところどころに断片的に事実はあるんだろうが、興味本位におもしろくつなぎあわせた、といえないだろうか。少なくとも真鍋島の古文書に反することがたくさんあるのは信憑性に疑問を感じる。


これに対して、次のような出版物がある。

◆「真鍋島における伝承の摘録-歴史と民族-」 濱本族仁著, 真鍋島歴史研究会(代表:濱本族仁), H30.5. 発行
  長いので内容の要点だけを要約すると次のようになろうか。


◆「御裳濯川10揖 真鍋先祖発掘(上巻)」 大塚秀男著, S57.8.20, 真鍋頼行発行,


◆「眞鍋島史」M本浪雄著, H21.8. 発行



伝承であるから話しに尾ひれがついて、何が本当かさっぱり分からない、というのが妥当なところであろう。しっかりした根拠があるとは思えない。
上掲の文献によれば、「文治2年(1186)藤原頼久一族郎党来島」という伝承があり、年代まで明確に伝えられている。それなのに真鍋島庄屋の古文書にまったく出てこないのはなぜか。福山藩が何度も庄屋に、真鍋島の史跡や由緒ある人物を書き出すよう要求していることが見受けられる。それなのに真鍋島庄屋は、藤原信成については何度も書いているのに、なぜ藤原頼久来島を伏せたのか。伏せなければならない事情があったのか、それとも江戸時代にはそんな伝承などなかったのではなかろうか。近年になっておもしろく作り出した伝承ではないのか。

また、崇徳上皇の子孫が隠棲したとの記事が2つの文献にみられるが、これは事実か?
殿付き屋号と真鍋七家が2つの文献で述べられているが、七家が2つの文献でほとんど異なる。2つをあわせると七家どころか十家ぐらいある。「ヤマは七家より始まった」との伝承もあるようだが、真鍋島には「山の神」も祀られている。巫女殿という屋号もあるなら、主要な屋号は神事に関係していたのではないのか。

柴ノ島から北木島になったのか、それとも北木島を柴島と読み間違ったか、という2説がでてくるが、「真鍋先祖継図」の毛筆縦書きを見れば明らかに「柴ノ島」と書かれている。後の時代になって柴の字を「北と木」に分解して読んだのであろう。(北木島は真鍋島を中心に名付けられている、という指摘は当らない。)

「日本城郭全集10」には、「神功皇后との関係をさらに裏書きするものとして、真鍋家の記録に、真鍋氏が一時期『三宅姓』を称したとある」と書かれているが、「備中眞鍋島の史料」にある真鍋島庄屋の古文書を見れば、戦国期の「真鍋家」と江戸時代の庄屋「(三宅)傳右衛門」などとは明らかに別系統である。また「備中眞鍋島の史料」には、この庄屋は天保年間に真鍋姓に改姓したと書かれている(「真鍋島の庄屋」という意味で島名を姓としたか?)。戦国期の真鍋家と庄屋の三宅(→後に真鍋姓に改姓)とを混同してはいけない。また初期の庄屋善兵衛とその後の庄屋(三宅)傳右衛門などとの関係も別系統ではないかと推察される。とすれば善兵衛とは何者か?(庄屋が三宅家で世襲される前の真鍋島の有力者か?)

「眞鍋島史」に書かれている「阿弥陀堂の屋根瓦の頂上に、四角形の瓦の台座があって、その台座に十六葉菊花の紋様が焼きこんであった。」という屋根瓦の頂上の台座とはどれのことだろうか。次の阿弥陀堂正面の頂上には梵字の「あ」が彫られているだけだが・・・。
(但し下の写真は平成20年に撮影したものなので、S56年からは30年近く経っており、瓦が葺きかえられた可能性もある。)
阿弥陀堂 H20.8.17