讃岐吉原

現在の香川県善通寺市「吉原付近」
位置関係 57kB

多度津から吉原に至る真鍋氏宅分布 (平成11年NTT電話加入軒数より、赤丸印が真鍋氏宅)

あたかも、真鍋島→多度津港→山階→吉原と移住を拡大してきたのではないかと思わせるような分布である。

ところが山階の春日大明神付近の真鍋氏は京都か河内から来たといっており、真鍋島→多度津港からやってきたのではないかという筋道には必ずしもつながらない。


一方で、吉原の真鍋墓地には、この地の真鍋先祖は僧侶であったのではなかろうかと思われる法名が残されている。

吉原の真鍋総本家の墓銘碑には、
 安永8年(1779)
 寛政9年(1797)
 文化15年(1818)
 明和3年(1766)
と続いているが、昔のことなので没年しかわかっていない。生年もしくは行年が書かれていないのでどちらが古い人物なのかわからないが、法名に梵字を冠した者が2人だけおり、他は一向宗の戒名ばっかりである。
梵字を冠したこの真言宗の2人(夫婦)が吉原真鍋の始祖ではあるまいか。その子孫がすべて一向宗なのはなぜかわからないが、「一向ほっこう(讃岐弁で馬鹿の意味)」とか「一向構わず」と揶揄される一向宗は、裏を返せばそれだけ門徒が増大していったのであろう。(当時、近くに住む武家が真言宗であれば、遠慮して改宗したことはあったらしい。)

吉原真鍋総本家の墓銘碑 「阿遮梨一門不生位」というのがある。


吉原の別の墓石には「大法師英遍不生位 寛政五丑(1793)」と書かれている。
 
「不生位」は基本的に真言宗の僧侶の戒名に与えられる。
(この地蔵尊にも梵字が書かれている。⇒地蔵菩薩を表す梵字)

吉原真鍋の墓所の阿弥陀如来像の台石には「嘉永二酉年(1849)正月立之」と書かれている。
 

吉原の墓石には1700年代以前のものは見あたらない(読みとれない)。

一方で、享徳2年(1453)に真鍋島の真鍋貞友が書いた「真鍋先祖継図」には領地として、真鍋島、柴ノ島(北木島)、干島(飛島)、室島(六島)等真鍋島周辺の諸島しか書かれておらず、加茂・吉原は出てこない。

また、貞享2年丑(1685)に真鍋嶋庄屋傳右衛門が書いた覚え書では、「真鍋殿の御知行所は真鍋嶋・北木嶋・干嶋・六嶋、備中にては五ヵ茂平、讃岐にて加茂・吉原と申し候」と、ここで初めて「加茂・吉原」が出てくるが、この文書は、過去のことを庄屋が覚えとして書き留めたものである。(しかも「真鍋殿の御知行所は・・・」と書いているからこの庄屋は真鍋氏ではない。) 従って1685年には(真鍋島に真鍋氏は居なくなっているから)加茂・吉原は既に知行所ではなくなっている。1453年から1685年の間に知行所であった時代があったのであろう。恐らく遠隔地に知行所を持てたのは戦国時代(1467〜1572)ではなかろうか。江戸時代以降(1603〜)に真鍋島の真鍋氏が他所に勢力を張っていたとは思えない。

恐らく、吉原が真鍋氏の知行所であった時代にも吉原に真鍋氏は定住していなかったか、あるいは定住していても知行所でなくなってから消滅したかではなかろうか。その後1700年代になって、僧侶の真鍋氏がこの地にやってきて住み着いたのであろう。この僧侶は、かつてこの地が真鍋島真鍋氏の知行所であったことを知った上で、(真鍋島から)やってきた真鍋氏であったのかどうか、まったく想像の域を出ない。江戸時代には農民は土地を離れることは許されなかったが、僧侶は移動できたと思われる。

一方、吉原の真鍋家の家紋は「丸に剣カタバミ」である。一説によれば、丸とか六角などの縁取りがある家紋は分家を示し、縁取りがない方が本家であるともいう。とすれば縁取りのない「剣カタバミ」紋の備前宇喜多家との遠い関係を期待してよいのだろうか。川之江切山地区の真鍋家の家紋は丸にカタバミである。剣があるなしの違いだが関係は?

出身地を離れて移住したものが自分の家紋の意匠として、出身の家の家紋に少し手を加えた家紋を使うとすれば、また家紋に剣の意匠を加えるのは先祖が武家の出身であることを表そうとしているなら、吉原真鍋の先祖はほぼ1点に集約されるのではなかろうか。
また逆に、移住を機にまったく異なる家紋を採用することもあるから、どこから来たのか推定はむずかしい。ただ、真鍋島との関係に結び付けるには時代が違いすぎており、まず無関係であろう。


ところで、「真鍋先祖発掘」(S57.8.20, 大塚秀男著, 真鍋頼行発行/高松市松島町)には、次のような不可解なことが書かれている。


吉原に家臣がいたとか、真鍋家の親戚があったとか、真鍋一族が吉原を基点として移住したとか、書かれているが、本当か? 家臣ならば真鍋姓ではなかろう。「四国へ移住する一族の基点にしたことを裏付ける資料を吉原では未だ発見していない。」とは、吉原の一体誰に確認したのであろうか?
真鍋島庄屋文書に書かれているように吉原が知行所であったなら、吉原から真鍋島へ租税米を徴収するだけであるから、真鍋氏が吉原に移住したとは考えられない。事実、同じ知行所であった茂平には真鍋氏の痕跡はない。
今の吉原真鍋家は1700年代に僧侶として移住してきたのなら、知行所とはまったく関係がない。僧侶がどこから来たのか不明であるが、吉原真鍋氏は真鍋島とはまったく関係がないとしてもなんら不自然でない。


ところで、吉原から近い真言宗総本山善通寺に関係する職位にあったと思われる「まなへのたいしん」という名が1307年に既にみられる。

私製本出しました。



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