善通寺領「まなへのたいしん」 (=「真鍋の大進」?)


徳治二年丁未(1307年)十一月の日付のある善通寺一円保差図(または「善通寺伽藍并寺領絵図」)という絵図の中で、善通寺伽藍のすぐ南側に「まなへのたいしん」と書き込まれている。
「まなへのたいしん」とはどういう意味であろうか。古くは濁点を打たなかったから、濁点を補って読む必要があるが、「まなへ」は勿論「まなべ」と読むべきであろう。

「善通寺伽藍并寺領絵図」全体図
(「創建1200年空海誕生の地善通寺」H18.3.31,香川県歴史博物館編集,総本山善通寺発行 より)


同上の裏端書(「善通寺市史第一巻」S52.7.31,善通寺市企画課編集,善通寺市発行 より)


「善通寺一円保差図」解読図(「善通寺市史第一巻」S52.7.31,善通寺市企画課編集,善通寺市発行 より)


「善通寺伽藍并寺領絵図」部分拡大図と解読文
(「創建1200年空海誕生の地善通寺」H18.3.31,香川県歴史博物館編集,総本山善通寺発行 より)


「まなへのたいしん」とはどういう意味か?
善通寺市に問い合わせてみたところ、丁寧なご回答を頂きました。以下に要約します。

「まなへの」=「真鍋の」とするのが妥当
「たいしん」=「大進」または「大信」とするのが妥当
 *「たいしん」を「大神」と読むのは中世末からなので、徳治の頃は「おおかみ」「おおみかみ」「おおみなかみ」と読むのが通例。よって屋敷神や屋敷墓と結びつけるのは困難。
 *この絵図に書かれている文字は、寺院(坊)名と人名・地名である。「まなへのたいしん」はまず寺院名には当たらない。次に、「まなへの」という固有名詞があるため、地名の可能性が低い。よって「真鍋大進」または「真鍋大信」という人名と解釈するのが自然。

 *「大進」とは、本来は官職で、中宮職、皇太后宮職、東宮職などの判官のうち、小進の上位のものである。転じて人名に使用されることが中近世を通じて流行した。

ところで、「まなべ」にどういう漢字を当てるのが妥当か。日本語はもともと「音」があって、中国から輸入してきた漢字をその「音」にあてはめて日本語の文字とした。従ってもともとは「まなべ」を真鍋と書こうが真部と書こうが真辺と書こうが真那辺と書こうが構わなかった筈である。従って徳治2年のこの頃に「まなべ」はどういう漢字を当てていたかは分からないし、それが問題でもない。ここでは便宜上、「まなべ」=「真鍋」と表記することにする。

「大進」を広辞苑で引くと、
だいしん【大進】(ダイジンとも)中宮職・皇太后宮職・大膳職・東宮坊などの判官(じょう)の上位

参考までに広辞苑では、

しょうしん【小進】大膳職・修理職・京職・春宮坊(とうぐうぼう)などの判官(じょう)で、大進の下に位するもの

じょう【判官】令制の四等官の一。次官(すけ)の下、主典(さかん)の上に位する。公文書の審査を掌る。官司によって文字を異にし、神祇官では「祐」、太政官では「少納言」「弁」、省では「丞」、弾正台では「忠」、使では「判官」、職・坊では「進」、寮では「允」、司では「令」、近衛府では「将監」、衛門府・兵衛府・検非違使などでは「尉」、内侍司では「掌侍」、大宰府では「監」、鎮守府では「軍監」、国では「掾」(大国では大少の別あり)、郡では「主政」と記す。検非違使の尉は単に判官ともいう。

大信」は広辞苑には載っていないが、ネット検索すると、ウィキペディア(Wikipedia)では、

大信(だいしん)は、604年から648年まで日本にあった冠位である。冠位十二階の第7で、小礼の下、小信の上にあたる。

とある。1307年の絵図に書かれるには古すぎるので、「大信」は対象外であろう。上掲の「創建1200年空海誕生の地善通寺」の解読文ではわざわざ「大進」と漢字が振られている。

この絵図の裏端書の日付は徳治2年(1307)である。真鍋島の真鍋貞友が「真鍋先祖継図」を書いたのが享徳2年(1453)であるから、それよりおよそ150年前に既に、善通寺のお寺に関係する役職をしていた「まなべ」氏がいたことになる。
その後、現在に至り、総本山善通寺付近には真鍋姓の密集地はないが、どこへ行ったのであろうか? もっとも真鍋島にも真鍋姓は少ないが・・・。

一方で、善通寺の五岳山沿いの吉原には真鍋姓の密集地があるが、真鍋氏がここに住み着いたのは1700年代前半と思われ、吉原真鍋の始祖は(真言宗の)僧侶だったようだが、無関係であろうか?

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