ひのでやエコライフ研究所  かんきょうもんだい一日一言

 子供の教育

1999年4月12日
 CASAで来年までの丸一年かけて、中高生向けの環境教育ツールを作成することになりました。どんな社会問題でもそうかもしれませんが、子供の頃の体験や学習は、社会に出てからの行動に大きな影響を与えるものです。学校の授業の中でも社会教育の一つとして環境教育が重視されてきており、学習指導要領にも書かれているらしいのですが、実状では学校の先生が何を話したらいいのかわからない、ということで、それでは温暖化問題を専門に扱っているNGOとして何かツールを提供できないかと考え出した次第です。
 環境教育といったら、野山で遊ばせたり、畑や田圃の作業をさせたりする体験でも十分のような気もするのですが、さすがに都市部の学校ではそう簡単に適当な場所が見つからないということもあるようです。多少邪道かもしれないなとは感じながらも、教室周辺で環境のことを学べるようなものを作ろうかという方向で考えています。これについてはまた形になってきたら報告します。

 会議の終わった後の(ちょっと酒が入った)食事会でなかなか興味深い話を聞きました。神戸に住む主婦の方なのですが、そもそも環境教育以前に教育のありかたを考えないと大変だということらしいです。遠く風の噂ではそんなことが有るという話はきいていたのですが、どうも現実のものだったようで、ちょっとショックでした。
 やはり子供のしつけ(教育)ができない親が多いようです。おやつからおもちゃからいろいろなものを不自由なくあたること、そして成績が上がるようにすることについては、共通して配慮しているみたいなのですが、「育てよう」という感じじゃないみたいですね。そもそも親自体がしつけられていなく、どうしようもないと話をしていました。
 一面で考えると環境問題というのは、周りのことをどれだけ思いやることができるかという問題だと思っています。森が切られたら動物たちはどうなるのか、そこで生活している人たちはどうなるのか、将来世代の人たちが丸裸の山を見たらどう思うだろうか、そうした相手の立場に立った想像力から、どうにかしなくてはという態度が生まれてくるのだと思います。もちろん、勝手な想像で相手が困っているのだと決めつけることはできませんから、そこには相手の生活スタイルを理解することも重要なわけです。動物が殺されるのがかわいそう、という感情は素直なところかもしれませんが、自然という世界がどのような世界なのかまず理解する必要があり、その上で問題なのは何かを考える必要があるでしょう。そうした自分たちの世界とは大きく離れている世界のことを理解するのは、ふつうの生活の中だけでは不十分であり、学ぶ場所が必要だろうというのが環境教育なのかもしれません。
 ところがここで話題になっていたのは、そもそも他国の人どころか、隣近所の人の迷惑も考えられないという話です。こんな状態で環境教育が行われても、あまり期待できないのかもしれませんね。逆にこんな中で環境教育だけがはやっても怖いと思います。
 どうも最近の子供は目つきが悪いそうです(^^;)。はてさて、どんな未来になるんでしょうかね。
 
 

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