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ニネット・ド・ヴァロワ女史の偉業 (2001.12.20)
2001年3月16日ロイヤル・バレエの創設者 ニネット・ド・ヴァロワが、102歳で亡くなりました。彼女は1898年の生まれですから、19、20、21と3世紀を生き抜いたことになります。彼女の教え子であるプリマバレリーナのマーゴ・フォンティーンは、既に1992年72歳で亡くなっていますし、フォンティーンの振り付け師だったフレデリック・アシュトンも亡くなっていますから、今日の英国ロイヤルバレエを築いてきた人たちが、皆、居なくなってしまったことになります。
ドヴァロアの描いたイメージが、名振付師
アシュトンによって具体化され、それをプリマ・バレリーナ
フォンティーンが表現するという構図によってロイヤルバレエが生まれたわけです。
彼女が亡くなった日の夜、ロンドンのコヴェント・ガーデンのオペラハウスでは、ロイヤル・バレエの芸術監督アントニー・ダウエルの呼びかけで黙とうが行われ、姉妹カンパニーのバーミンガム・ロイヤル・バレエの公演会場では、ド・ヴァロワの業績を称えて盛大な拍手が贈られたそうですし、翌日にはイギリスの主要新聞がこぞってド・ヴァロワの追悼記事を特集したということです。
ロイヤル・バレエといえば格式あるスタイルを持つことで有名な、英国一のバレエ団。さぞかし古い伝統と思いきや、ロシアのキーロフ・バレエやボリショイ・バレエ、フランスのパリ・オペラ座の300年近い歴史に比べて、その創設はずっと最近のことなのです。
ド・ヴァロワ女史は、イギリスが誇るバレエの殿堂、ロイヤル・バレエを女手一つで築き上げました。ドヴァロアは、1930年代の初め、ディアギレフのバレエリュッスの踊り手でしたが、このバレエ団で彼女が学んだのは、踊り手としての経験よりも、むしろ振付師としての知識とバレエ団の統率力だったそうです。
これが、当時自国にこれといったバレエ団を持たなかった英国に、世界に通用するバレエ団を作ろうという彼女の壮大なヴィジョンに繋がっていったのでしょう。
はじまりは、アイルランドの軍人の娘として生まれたド・ヴァロワが、1931年サドラーズウェルズに設立した小さな私設バレエ団でした。規模は小さいながらも、「眠れる森の美女」などロシアの古典を西欧のバレエ団で初めて上演し、マーゴ・フォンティーンを英国の至宝とも言われるまでのプリマ・バレリーナに育て上げ、振付家のフレデリック・アシュトンやケネス・マクミランなどを世に出したのです。
第二次世界大戦後にはコヴェント・ガーデンを本拠地として獲得して、“ロイヤル”を冠する国家のお墨付きを得、米国への遠征や、ソビエトから亡命したルドルフ・ヌレエフを迎え入れ、フォンテインとの名コンビを作りました。その後は、芸術監督の座を後進に譲り、バレエ学校の強化に尽力を注ぎました。
こうしてロイヤル・バレエは、設立から100年も経たずして、名実ともに世界で五指に入る超一流バレエ団となったのです。
これらすべてが、“幻想なき理想家”といわれたド・ヴァロワの鉄の意志のおかげなのです。
彼女の偉大な仕事として、マーゴ・フォンティーンを世に送り出したことがあげられましょう。
1935年頃、ドヴァロア率いるバレエ団(当時はヴィックウェルズバレエ団)は、それまでプリマバレリーナであったアリシア・マルコーヴァが退団、一座は苦境に立ちました。
このとき、ドヴァロアは、他からバレリーナを持ってくることをせず、ひたすら、まだ駆け出しだった若いフォンティーンが成長するのを待っていました。フォンティーンは、次々にマルコーヴァの持ち役立った役を踊り、期待に応えていきました。そして、1939年「眠りの森の美女」(このときは「眠れる姫」)で、フォンティーンは、プリマバレリーナとしての決定的な開花を持つことになったのです。
私は、20数年前に、幸運にも、彼女の
「眠りの森の美女」の生の舞台に接することが出来ました。東京バレエ団の「眠り・・・」公演にオーロラ姫として客演したのです。
絶頂期は過ぎていたとはいえ、ローズアダージョの気品溢れる華やかさは、他の追従を許さないものがありました。
フレデリック・アシュトンが、フォンティーンの為に振付けた21番目のバレエ
「水の精オンディーヌ」の映像があります。フォンティーンが30代の終わりの最も脂ののりきった頃の映像で、記録映画の撮影で定評のある、ポールツィンナーの制作です。
このビデオを見るにつけ、ドヴァロアという一人の先見にとんだ女性の不屈の意思と、壮大なヴィジョンに敬服せざるを得ません。
熊川哲也氏を排出し、吉田都さんがプリンシパルとして活躍していて、日本のバレエ界とも関係の深いロイヤルバレエ団。
このロイヤルバレエ団の基礎を築いたのが、偉大なニネット・ド・ヴァロワ女史なのです。
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