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「黄金の甲」のライン、芸術品の輝き          (2005.11.1)
  渡邊順子「瀕死の白鳥」踊りつづけて15年

注)JUNさんの踊りの感想です。JUNさんのお許しを得て掲載させて頂きました。画像・文とも無断で複写複製を禁じます。

アラベスクもアチチードも決まらなくて、見るからに下手な踊りでした。こんな踊りなら私でも踊れる・・・と思う人も居ることでしょう」 。 2005年6月、JUNさんこと渡邉順子さんから、こんなメールが届きました。前日、彼女は「瀕死の白鳥」を踊ったのですが、アラベスクのバランスが崩れて不本意な結果に・・・。 普段はグッと堪えた"決め"が美しいのに・・・。レベランスに笑顔はなく今にも泣き出しそう。ショックだったようです。「瀕死の白鳥」15年目にして味わった屈辱。「バランスで失敗したらバレリーナはおしまいです」とマーゴフォンティーンは言いましたが、彼女も「もうおしまい!!」と、相当落ち込んでいる様子でした。彼女が絶対の自信を持っていた「瀕死の白鳥」。衣装を新調し、トゥシューズも変えて、意気込んで臨んだ舞台・・・・。「舞台には魔物が居る」とは、アダム・クーパーの言葉ですが、まさに彼女も魔物に襲われたのでしょう、「自信」が音を立てて崩れた「苦い経験」でした。彼女は立ち直れるのだろうか、と心配でした。 でも、彼女は健気にも「この『瀕死』は私にとって貴重な体験になりました。これからも『瀕死』と心中する覚悟で、死に物狂いで修行に励みます。」と再起を誓ったのです。

彼女の挑戦が始まりました。「瀕死の白鳥」は、ほとんど全編、トゥで立って踊ります。彼女は、来る日も来る日も、トゥを履いて、必死にレッスンに励みました。
それから1ヶ月、まさに、死に至らんとしていた白鳥は、不死鳥のように蘇りました。伴奏の演奏を替え、振付も替えて・・・・。
でも、細いトゥの先で立ちっぱなしのレッスンは、彼女の足に過度の負担を与えていました。ドゥミ・ポアントからポアントに移るとき、体の引き上げには、トゥの先だけではなく、くるぶしに途方もない力が加わります。彼女がかって痛めた右脚のじん帯の古傷が再び痛み出し、テーピングしなければ立てないような状態になってしまったのです。本番を翌日に控えたJUNさんからメールが届きました。「明日は無理をしないように踊ります」。ダンサーの命取りにもなりかねないじん帯の傷。しかも右脚は彼女の利き足、負担は一層加わります。 本番のステージ、脚の痛みを堪えて、彼女は頑張りました。「瀕死の白鳥」を見事に踊り抜いたのです。「主人は、『お前は脚が痛いほうが上手く踊れるんじゃない!!』と言ってくれたんですよ」と、嬉しそうに語る彼女。前回不本意に終わったアラベスクも、粘って、雪辱をはたし、沸き上がる喜びが、伝わってきます。
でも、このステージが彼女に決定的なダメージを与えてしまったのです。「『 「3日間は安静にして下さい』、『歩かないほうがいい・・』と言われた時はびっくりしました。足の裏に炎症を起していたようで、治療を受けシップをはって、3日間は安静にし足を冷やしていました。毎日のように整骨院に通いましたがなかなか足の熱が冷えることはなく・・。じわじわとした痛みが続きました。バレエの教えを休む訳にも行かず、カルチャースクールにもテーピングをして教えに通いました。痛い右足をかばう結果、腰と左足も痛くなってしまいました。」
当然のことながら、トゥシューズを履くことを禁じられました。それから3ヶ月、彼女は、毎日のように、突然襲ってくる激痛に悩まされ、レッスンもままならい地獄の日々を過ごしました。
 
「ダンサーの体の一部となり、その華やかな舞台と、 時には人生をも支えるのがトゥシューズなのです」と「トゥシューズの秘密」でも言っているように、 クラシックバレエを踊るダンサーにとって、トゥシューズは、命に次いで大切なものなのです。
トゥシューズを履きたい気持ちは、JUNさんも同じ。相当焦っていたようです。
でも、とうとう10月中旬、JUNさんも、再びトゥシューズを履ける日が来たのです。
グリシコ・ワガノワのトゥシューズを履くと選ばれし人と言う気分になる。グリシコ・ワガノワが私の足の甲を芸術品として価値の高い足に写しだしてくれる。このトゥシューズが私の足の甲のラインを美しく見せてくれる」。 トゥシューズのトゥで立てたJUNさんの喜びの言葉です。
でも、まだトゥシューズを履いてステージに立てる状態ではありません。焦ることはない。じっくり、完全に治してからトゥシューズを履けばよい。足の怪我がすっかり良くなって、芸術品のように美しいラインを描く、「黄金の甲」を見せて欲しいと思います。
彼女は、1991年から15年間も「瀕死の白鳥」を踊り続けていますが、常に探求心を忘れず、挑戦を続けています。 トゥシューズもイギリス製のフリードからロシア製のグリシコへ替えたり、同じシューズでも、先の細さ、柔らかさの違いなど、その時の体調や状況によって種類を変えたり、天から授けられた「黄金の甲」を持つ足のラインの美を追求し続けています。 「観客が悔いのない人生を生きたいと思うような舞を舞いたい」。この気持ちを持ち続けるかぎり 彼女の踊りは、観る人に、喜びと希望を与え、輝きを失わないと思います。 

15年前から今日に至るまで、JUNさんが踊った「瀕死の白鳥」の映像があります。
この映像を見ながら、彼女の歩みを振り返ってみたいと思います。
1991年12月
メッセレルの振付を谷桃子の指導で

独身時代の初々しさが眩しい白鳥。「『お前は生徒じゃない。プロとして生きていくんでしょ』と叱咤され、夢中でした」とJUNさん。 しなやかに波打つ腕、神経の行き届いた指先の動き、正確なブーレ・・・谷桃子さんの指導に忠実に、 メッセレル振付の「瀕死」を、丁寧に、情感を込めて、踊りました。
2000年4月
10年のブランクからの奇跡の再出発
谷桃子先生から『主婦だけではダメ。母になっても、ひとつの事を続けなさい。』と忠告されたのです。」とJUNさん。 JUNさんの素質を見抜いていたからこその忠告なのでしょう。 奮起して、再びステージに立った彼女。 しばらくバレエから遠ざかっていても、見事な踊り。並々ならぬ素質が伺えます。
2001年12月
「一瞬の美」のバランスに果敢に挑戦
今回の挑戦は、流れるように踊るのではなく、一つ一つ止まり、ポーズを決め、 流れの中に止まる一瞬を作り出すこと」とJUNさん。 トゥで立って、思い切り体を引き上げ、ぐっと堪えたアチチュードのポーズが一瞬の輝きを演出しました。
2002年8月
優雅なアラベスクを徹底研究
マリー・タリオーニのように、 柔らかなトゥシューズを履いて、 後ろへのパドブーレを踏む足が軽やかに滑っているように心がけ、 2回のアラベスクに神経をすり減らしています」。 湖の上を優雅に泳ぐ白鳥をイメージして、アラベスクを優雅にぎりぎりまで粘って決めたJUNさんの意地を感じました。
2004年9月
大怪我からの復活

観客が悔いのない人生を生きたいと思える舞を舞いたい。 日々・・・考えて、悩みました」とJUNさん。その思いを胸に秘め、直前の怪我を克服して、 丁寧に、情感を込めて、指先の動きまで神経の行き届いた「瀕死」でした。
2004年11月
自信に溢れた「JUNの瀕死」集大成
私は、卵の殻を破れたという気分になれました。やっと自分の道が開けた思いがします」。 彼女の14年間の集大成とも言える「瀕死の白鳥」でした。横須賀芸術劇場の大舞台、レヴェランスの大きな拍手に、勝ち誇ったような自信あふれた笑顔でした。
2005年6月
脆くも崩れた「自信」。「屈辱」の瀕死
アラベスクもアチチードも決まらなくて・・・」、笑みを忘れてうなだれた失意のレヴェランス。「本番が終わった日は落ち込みました」。屈辱の「瀕死」でした。 「この「瀕死」は貴重な体験になりました。これからも「瀕死」と心中する覚悟で修行に励みます。」とJUNさんは名誉挽回を誓いました。
2005年7月
名誉挽回、執念のカムバック
脚の痛みを堪えてのJUNさんの頑張り。名誉挽回への血のにじむ稽古。本番を踊り終えた時の彼女の言葉、「主人の感想は『お前は脚が痛いほうが上手く踊れるんじゃない!!』でした」。ご主人も褒めた「瀕死」、見事な復活でした。 鳴り止まぬ拍手に安堵と感激の表情が美しかった。


JUNさんから、以下のメッセージを頂きました。掲載させて頂きます。

山口さんから届いた感想文を読みながら、クラッシック・バレエと言う芸術について自分なりに考えてみました。
クラッシック・バレエと言う芸術と出会い、バレエと言う習い事が簡単な習いことではないとを知ったのは20歳になってから。それまでの私のバレエは「楽しい舞台に立って踊れることが好き」それだけだったように思います。色々なバレエ作品で主役が踊ってみたいなどというような甘い考えでバレエを習っていたように思うのです。
 
メッセレル先生振付の「瀕死の白鳥」を谷桃子先生に指導していただいたのが1991年のことでした。この時、本物のバレエに触れたような気がしたのです。たった3分の短い小品集である「瀕死の白鳥」の稽古を私は2時間近く、先生を独り占めして指導を受けたのです。
 
結婚しバレエの道を離れても、またバレエの世界に引き戻してくれたのが「瀕死の白鳥」と言う作品でした。私が学んだ「瀕死の白鳥」は本物のバレエだったと、この頃感じるようになりました。本物の芸術だからこそ、人に感動を与えるのです。
 
芸術は「善」の心を悟らせてくれます。日々のおこないすべて舞台に映し出されるのです。
芸術には「愛」があると思うんです。貴方のために舞いたいと言う気持ち。この心を貴方に伝えたいと言う思い。
自分の満足感のために踊るのではなく、もしも私の踊りを見て幸せな気分を味わってくれたなら、私はどれほど幸せな気分を味わうことができるのだろう。それが菩薩の心。
 
でもこれからはもっと上を目指さなければならないと思うのです。
これから先も「瀕死の白鳥」を踊り続け修行していけば、答えが見つかると信じ、「瀕死の白鳥」を踊り続けていきます。
 
JUNバレエスクール
渡邉順子

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