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瀕死の白鳥:渡邉順子、2010年6月神奈川県立音楽堂         (2010.06.10)

注)渡邊順子さんのお許しを得て掲載させて頂いております。無断で複写複製を禁じます。

体調を崩し薬も飲んでいますが、頑張って踊ります」、本番の数日前、渡邊順子は、自身のHPに、こう書き込んでいました。彼女は、本番の舞台を控え、幾分ナーバスになっていたようです。そして向かえた6月5日、渡邊順子の「瀕死の白鳥」は、今までで最高の舞台になりました。少なくとも私はそう思いました。 体調不良を気力でカバーして・・・。
鋭いトゥの先、まろやかな甲、スッキリ伸びた美しい肢体、細やかに滑らかに音も無く心地よく刻むブーレ、骨格を感じないほど、しなやかに波打つアームス。最大の難関アラベスクのバランス。2005年の悪夢の舞台が頭をよぎりました。グッと堪えて静止。「決まった!!」。二度目も、三度も。そして、ほのかに漂う健康的なお色気。「円熟の瀕死の白鳥」でした。私は、息を呑み身を乗り出して見とれていました。踊り終わってレベランス。観客の拍手に「無事終わった」とホッとした穏やかな表情が美しかった。

踊り終わって「私の踊りを見に来てくれた人が居る。踊らなきゃと言う気合だけで踊りました」と渡邊順子。彼女は踊れる状態ではなかったのです。本番直前の舞台稽古はトゥシューズを履けずバレエシューズで行い、トゥシューズを履いた本番では、爪先で立つのは、やっとというほどだったそうです。「本番はどんな踊りを踊ったのかまったく覚えていない。最後のレべランスで拍手の音が聞こえ無事に踊り終わったんだと感じた」というほど、意識の朦朧としたギリギリの満身創痍の状態の中での本番でした。
 
彼女は自身のHPで、「来年もまた『瀕死の白鳥』を踊ってほしいと言うお言葉と『瀕死の名人になりなさい』と言うお言葉を心からうれしく感じました」と語っていますが、舞台終了後に、評論家の藤井修治氏・伊地知優子氏、開催役員等による合評会があり、渡邊順子の「瀕死の白鳥」は、批評家達からも、高い評価を受けたのではないかと思うのです。今回、渡邊順子は稽古のとき、「今回は指導者がいてくださるので安心して練習に励んでいられます。弥生先生にも見てもらいながら今までとは違う意味で表現力ある瀕死を踊ってみたいと思います」と言っていましたが、彼女は、栗原弥生さんの手ほどきを受けたそうです。栗原弥生さんは、舞台にも出演する傍ら、バレエ教室でクラシックバレエを教えているとのこと。今回の渡邊順子の豊かな表現力は、栗原弥生さんの指導によるところもあるのでしょう。
私が渡邊順子の「瀕死の白鳥」に興味を持ったのは2000年。故S.メッセレル女史振付の 「瀕死の白鳥」を1991年に踊ったビデオです。 この時指導を受けたのが谷桃子さんだということを後で知りました。 しなやかに波打つ腕、神経の行き届いた正確なブーレと指先の動き、プリマ・バレリーナへの夢に胸を膨らませた、1羽の若い白鳥の羽ばたきでした。この後彼女は事情でプロのバレリーナを諦めたのですが、「瀕死の白鳥」は捨てられず、その後も踊り継いできました。 2001年12月、鎌倉芸術館小ホールで初めて彼女の生の舞台を見たとき、私は渡邊順子の虜になりました。著名なバレリーナ、プリッセッカヤ、マカロア、モイセーエフ・・・・等の、今まで見たどの「瀕死の白鳥」よりも、はるかに鮮烈な驚きを覚え、新鮮な感動を味わいました。 それ以来、ほぼ毎年、「渡邊順子の瀕死の白鳥」を見てきました。舞台を見るたび、「最高の踊りだった。これが渡邊順子のピークだ」と感じるのですが、その次の舞台では、これを凌ぐさらに素敵な踊りを踊るから凄い。この陰には、血の滲む厳しい稽古と心の鍛錬があると思います。
 
彼女は、今年は8月に福島県いわき市で純クラッシック・バレエの、10月には近郊でモダン・バレエの「瀕死の白鳥」を踊るそうです。私は、渡邊順子の甲の美しさは、クラッシック・チュチュとトゥシューズで映えると思っているので、個人的には10月も純クラッシックで踊って欲しいのですが、モダンも踊りたいという彼女の思いもあるのでしょう。
「瀕死の白鳥」は、最初から最後まで一人で踊らなければなりません。誰も助けてくれません。頼れるのは自分だけ。「足がすくんで逃げ出したくなる」と言った人もいます。今回、渡邊順子の出演は、最後から二番目。出を待つ彼女の緊張たるや、大変なものだったに違いありません。プレッシャーをはねのけて最高の踊り、流石です。 以前、彼女は「瀕死の白鳥」の舞台に立つときの思いを、次のように語っていました。
楽屋で化粧して、舞台そででレッスンをして、 舞台のリノリュームの上に腰をおろして、開演前の客席を眺めた。 舞台前に、ひとりでアラベスクのバランスを確かめる。誰も私の瀕死を見て指導してくれる人はいない。 頼るのは自分。そして長年踊ってきた瀕死と言う振り付けだけが 私を支える。 音楽を聞けば体が踊り出す。自分に強くならなければ踊れない。舞台の上では誰も助けてくれない。 舞台に立って思った。私は舞台に立って踊る事が好きなんだと。だから踊り続けたい。 舞台と言う空間の中で』。
    「瀕死の白鳥」は、躍り込めば躍り込むほど、味が出てくると言われています。 評論家から「『瀕死の名人』になれ」と言われた渡邊順子。いぶし銀のような輝き増した円熟の踊り。真の芸術です。
    プリセツカヤの瀕死が名人芸の代名詞のようになってますが、来年、再来年・・・、渡邊順子はどんな「瀕死」を踊ってくれるのでしょう。私は、彼女が「瀕死の白鳥」を踊ってくれる限り、劇場へ通い続けるつもりです。「瀕死の名人」目指して頑張れ、渡邊順子!!!。

      2010.6.5:神奈川県芸術舞踊祭No.92
          ダンスカナガワフェスティバル2010
           神奈川県立音楽堂  (拡大映像)
 

この感想をHPに載せるにあたり、 渡邉順子さんから以下のメッセージを頂きました。
併せて、掲載させて頂きます。

本番当日は体調も悪く大変でしたが、踊るチャンスに恵まれて良かったと思いました。
10年間の下積み生活をして、晴れてバレエの世界に戻れたように思います。
20代の時は「ルスランとリュドミラ」で東北のプリマデビュー。
その後は地味な「瀕死の白鳥」と言う作品で、地味に踊り続けました。
派手な作品ではありませんから目立たない存在だったように思います。
10年踊ると日のあたらない場所で踊っていた私にも、日が当たるようになってくるものです。
8歳からバレエを習っていた時もあまり目立たない子でしたが、10年そこで踊っていると
東北のプリマデビューすることができました。
今回は神奈川県の目立たない場所で踊っていましたが、やっと、横浜で10年「瀕死の白鳥」を
踊っている人がいるのだと気づかれるようになりました。
まだまだ目立たない存在ではありますが、また頑張って「瀕死の白鳥」を踊ろうと思います。


注)渡邊順子さんのお許しを得て掲載させて頂いております。無断で複写複製を禁じます。

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