『理由』☆☆☆ 宮部みゆき、朝日新聞社(98.6月刊)

 今更紹介するまでもないけれど、めでたく第120回直木賞受賞作。ワタクシ的には、『火車』で受賞してくれたらうれしかったな。あれは、私のミステリオールタイムベストに入る傑作だったから。もう永遠に文庫化されないかと思ったけど、去年めでたく文庫になり、よかったよかった。

 で、『理由』だが、宮部みゆきにしてはかなり重たい作品である。心に、ずっしりと何かを残すような本であった。ちょっと、背中がうすら寒くなるような話である。

 ある、豪華マンションで、一家4人が惨殺されるという殺人事件が起こる。物語は、この事件を、事件記者か何かがルポルタージュしてゆくといった文体で綴られる。つまりは事実の羅列や、関係者の証言といったものが、じわじわと事件の実態をあぶり出してゆくという書き方なのだ。

 これは、かなり実験的で面白い。へええ、こういうミステリの書き方もあるんだなあ、という、目からウロコの驚き。これを、何の無理もなく書いてするすると読ませてしまう宮部みゆきは、やはりすごい。ホントにオールラウンドの作家だと思う。

 で、この本の何が重いか。この事件にかかわる人々がすごいのだ。たったひとつの事件に、これほどまで多くの人間が関わっているのか!というくらい、ものすごい数の人間が物語に登場する。しかも、著者はこの人間ひとりひとりの事情(生活、生い立ち、生き方などなど)を、これでもかというほど丁寧に描写しているのだ。なんかもう、ここまで書くのか、宮部みゆき!と溜息が出るほどである。

 その事情で最も際立って書かれるのが、「家族」という形である。実にさまざまなパターンの家族と、その悲喜劇が綴られるのだ。もちろん、被害者達も例外ではない。たたみかけるような描写を読んでいると、いったい「家族」とは何なのだろうか?と、考えずにはいられない。誰でも、自分の家族の形が当たり前だと思っている。が、我が家と同じものは、世の中にひとつとないのだ。これに、改めて気付かされて愕然とした。

 「血」という業でつながった家族。「血」ゆえに、さまざまな葛藤が繰り広げられる、小さな集団。この重さ、深さを描いた小説であった。それぞれの人物のどうしようもない事情に、やるせない溜息しか出なかった。ラストの少年のセリフが、心にずしんと来た。

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『オルガニスト』☆☆☆ 山之口洋、新潮社(98.12月刊)

 第10回日本ファンタジーノベル大賞、大賞受賞作。「バロック・ミステリー」という帯に、うーむと思って読み始めて驚いた。これ、実は今よりほんの数年未来のドイツの話だったのだ。てっきり、100年くらい前のお話かと思ってました。なんとなく、カバーの絵とかから、古めかしそうな感じがしたので。

 ところがまたまたびっくり、ちょっとミステリタッチにはしてあるが、実はこの話の主題は全くミステリというか謎解きではなかった。ミステリはほんの味付けに過ぎない。このストーリーのテーマは、「人はなんのために生きるのか?」ではなかろうか。

 主人公は、テオというヴァイオリニスト。彼は9年前、自分の運転していた車が事故に会い、同乗していた親友の才能あふれるオルガニスト、ヨーゼフに重傷を負わせてしまっていた。ヨーゼフは二度とオルガンを弾くことはできない体になってしまい、病院から行方をくらませてしまう。ヨーゼフと共に仲の良かったマリーアとやがて結婚しても、テオはずっとヨーゼフのことで心に深い傷を負っていた。

 そんなある日、テオは、ヨーゼフの再来ではと思わせるオルガニスト、ライニヒの存在を知る。彼の正体は謎に包まれていた。なんとか彼がヨーゼフかどうかを知ろうとするテオ。そんな時、ヨーゼフの恩師、ラインベルガー教授が、オルガン演奏中に爆死するという事故が起きる。教授は、高潔な人柄で、音楽ひとすじの聖人のような人である。いったい誰が、なぜ?

 やがて、だんだんとライニヒの正体が明らかになってくる。それは、音楽への一途な思いゆえの悲劇であった。彼は、人間として人間らしく生きるよりも、ただただ自分の愛する、この世に彼が存在するたったひとつの意義である、音楽のために生きる道を選んだのだ。そのためなら、一切を捨ててもかまわなかったのだ。彼の芸術に賭ける崇高な魂と、それゆえの悲劇が哀しい。

 話の設定的にはいろいろあるのだが、そういったディテールはまさにファンタジーノベルという感じ。古典的なオルガン音楽というモチーフと、SFっぽい設定がうまく合わさってるのが不思議な味。ちょっとあれこれ入れ過ぎの気もするかな。もうちょっとシンプルにしても良かったかも。

 

(ここから、全くの余談 この本とは全然関係ありません あ、でもちょっとあるかな)

 いろんなページで他の方の感想や書評を読んでいると、同じ本を読んでいても、人によって感じることって実にさまざまだなあ、と最近しみじみ思う。あ、ここの感じ方はこの人と同じだな、と共感できる部分もあることはあるが、自分とすべて全く同じという方はひとりもいない。百人読めば、百人の感じ方。これこそ、もうひとつの読書の醍醐味だなあ、と思う。だって不思議ではないか、まったく同じ文章を読んでるのにこの違い!

 そこには、人それぞれに、本を読むポイントというのがあるのではないか、と思ったのだ。ストーリーに重点を置く人、ディテールにこだわる人、文体にこだわる人、などなど。で、私自身は何を一番ポイントにしているのだろうかと考えてみた。私が考える、面白い本とはなんぞや?

 まず第1に、ストーリーありき!これはもう、面白いかつまらないかという、全く主観的なものですね。ぐいぐい読めるか、文章を追うのに飽きてしまうか。

 次には、これが一番重要なのですが、著者のハート!魂!「私はこれが書きたいんだああ!これが言いたいんだあ!そのためにこの本を書いたんだあ!」と、本の中から訴えかけてくるもの。これです。
 文章が多少荒削りだったり、設定がちょっと矛盾してるとか、そういうのは私はそんなに気にならない(そりゃ、あまりひどいと問題だけど)。そういった細部をはじき飛ばしてしまうほどの、行間からあふれ出すような著者の強く熱く激しい思い。そこには、読者をゆさぶらずにはおれない、何かがある。読者の心に痛いほどつきささってくる。

 もちろん、本を書くにはテクニックというものも必要だ。文章だって読みやすく、美しい方がいいに決まってる。だが、なんといってもハートがなけりゃダメなのだ。
 例の新潮の、ファンタジーノベル大賞の選評を読んでびっくりしたのが、審査員の方々が、このハートを軽視、あるいは全く無視していたことだった。皆、テクニックのことばかり言ってる。そうじゃないでしょ!本ってのは、面白いかそうでないか、じゃないの?それを書いた人の思いが一番重要じゃないの?そこを読み取りもしないで、ケチばっかりつけてなんの意味があるの?
 私と選者の方々では、本の読み方というものに決定的な違いがあるということがよくわかった。まあ、彼らは批評しなきゃいけない立場上、いろいろ言わなきゃいけないのかもしれないが。でも、純粋な読者としての視点も欲しかった気がする。(とまあ、怒りモードだったわけです、この選評には。ワタクシごときがえらそうに言うのもなんですが)

 私はこれからも、著者のハートを感じさせる本に出会いたい。著者の気持ちに共鳴して、私の魂までもが激しく揺さぶられるような、そんな本を読みたい。

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『ルナ・ゲートの彼方』☆☆☆1/2 R・A・ハインライン、創元SF文庫(89.3月刊)

 うちのSFコラムニスト、ダイジマンお勧めの一冊。そういえば、読み始めたのって、例のSFオフ会の時だ。すっかり間があいてしまった。しかし、普通だったら半年も間が空いたらすっかり話の内容を忘れていそうなものなのに、不思議なことにこの作品は全く読み返す必要がなかった。それほど強烈なインパクトがあったのだ。

 これは確かにSFだが、ワタクシ的にはどちらかというと一人の少年の成長物語である。と同時に、十五少年漂流記SF版でもある。SFで漂流記が読めるとは思わなかった。

 主人公ロッドは、ハイスクールの生徒。彼は、「いきなり未知の惑星にほうりこまれ、そこで迎えが来るまでの10日間以下生き延びれば合格」というとんでもないサバイバルテストを受けることを志願する。彼はある惑星に到着するが、何らかの事故が起きたのか、いつまでたっても迎えは来なかった…。

 これは究極のサバイバル・ゲームであろう。考えただけでも恐ろしい。地球の常識は通用しない。どんな気候でどんな危険な生物がいるかも全くわからないのだ。しかも帰れる可能性は絶望的だ。しかし、ロッドは生き延びる為にありとあらゆる知恵と勇気を使って行動する。やがて、テストに参加したがはぐれていた仲間をひとりまたひとりと集め、社会が形成されてゆく。

 しかし、彼らはまだまだ未熟なほんの少年である。衝突したり、仲間を統率することにつまづくのもしばしばである。この彼らの葛藤が実に素晴らしい。悩み、傷つき、それでも真摯に仲間を、自分達の未来を考えている。互いを思いあい、協力しながら、ただ生きるということにのみ全精力を賭ける、そのシンプルな美しさは一種うらやましくさえある。

 ラストのどんでん返しには仰天。著者は残酷なまでに、この少年達の厳しいけれど夢のような生活に幕を下ろす。現実はこんなもんだよ、やっぱり君たちはまだまだほんの少年なのさ、とでもいいたげなラストである。出発前に比べれば、彼らはめざましく成長した。だからこそ、このどうにもならない現実的ラストは衝撃的で切ない。

 でも、彼らはきっとこのサバイバルを一生忘れないだろう。あの辛さ、苦しさを知恵と勇気で乗り越えたのだ、と胸を張って生きていくことだろう。どうか、彼らの夢あふれる未来に幸あれと祈りたい。

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 『ピアノ・ソナタ』☆☆☆☆ S・J・ローザン、創元推理文庫(98.12月刊)

 前作「チャイナタウン」に続く2作目。このシリーズは、28歳の中国人女探偵リディアと、中年の白人男性探偵ビルのコンビが、1作ごとに主役を交代するという設定で書かれている。今回はビルの方が主人公をつとめ、リディアがさりげなくサポートする側に回っている。

 舞台はニューヨーク、ブロンクス。老人ホームで警備員が殴り殺される事件が起き、ビルはかつての恩師から捜査を頼まれる。ビルは警備員のひとりとして老人ホームに潜り込み、調査を始めるが、やがて第2、第3の殺人が起きる…。

 まず、著者の文章が簡潔でいい。静かで、どこか温かく、近くの家から流れるピアノの音のように穏やかである。決してベタベタ甘ったるい文章ではなく、説明過剰でもない。読んでいて、非常に心地よい。ニューヨークの晩秋の描写などは、空気の匂いまで感じられるようだ。2人の探偵の微妙な関係も、べたついた表現ではなく、さらりと書いてるところに好感が持てる。

 一連の事件は、地元の不良グループ、コブラが犯人だろうと誰もが思っていた。が、そう単純ではなかったのだ。だんだん、いろいろな裏が明るみに出てきて、事態は思わぬ大きな展開になってゆく。今の社会の体制における弱者と強者―黒人と白人、老人と若者、富める者と貧しい者―そういった個人ではどうしようもない重い問題まで、著者は提示する。

 正義だけではやっていけない世間に対するやるせなさを描いているが、それと対照的に登場人物ひとりひとりは暖かく、優しい。例えば、老人ホームを出なければならない老婆が心配するのは、いつも餌を与えている野良猫である。そして、ビルはその野良猫の飼い主をちゃんと探してやるのだ。そういった細やかな気遣いに、著者の弱者に対する暖かいまなざしを感じ、救われる思いがする。 

 探偵コンビふたりの、微妙に恋愛感情の入り混じった、それでいてどこか距離を置いて互いを思いやり、相手が苦しいときにはさりげなく手をさしのべるという関係もいい。次回作ではどうなるのだろう。楽しみだ。ちなみにこの「ピアノ・ソナタ」はシェイマス賞最優秀長編賞受賞作だそう。といっても実はどういう賞かはよく知らないのだが。ただ、この本をいいと思う人間が私だけではないというのは確かなようだ。

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 『秘密』☆☆☆ 東野圭吾、文藝春秋(98.9月刊)

 「’99このミステリーがすごい!」第9位など、今年のミステリの中ではかなり評価が高く、話題にもなり、しかもよく売れているという注目の本。これを、ミーハーな私が読まずにいられようか(^^)。さっそく(といってもだいぶ遅くなったが)チャレンジ。

 スキーバスの事故で、妻と娘を失ったかに見えた主人公、平介。が、奇跡的に娘はほぼ無傷で助かった。しかし、なんと娘の体の中には、妻の意識が入りこんでしまったのだ。二人は、周囲を偽り、一見親子、だが心は夫婦として暮らすことになる。

 この設定!こりゃミステリじゃなくてSFだよ!(^^)別に謎解きがあるでもないし(と私は思ったのですが)。人格入れ替わりって、SFではよくあるパターンだよね。

 娘(中身は妻)は、やがて自分のかつての人生の反省を生かし、もうあんな後悔はすまいと猛勉強を始める。これからの未来に向かって、人生のやり直しをする娘(妻)に、平介は嫉妬を覚える。娘(妻)にボーイフレンドが出来たりして、ふたりの心の複雑な葛藤が入り乱れる。

 その他いろいろあるのだが、まあとにかく人間の気持ち(肉親を失ったつらさ、嫉妬、ほのかな恋、親子の愛情など)はそつなく書けていると思う。確かにうまいと思う。ラストで明らかになる秘密も、なるほどそうかと思った。でも、私はこの本の帯にある方々のコメントのようには、感動はしなかった。なぜか?

 うーん、なんだか月並みな感じがしてしまうのだ。私でもそういう事態に陥ったらそう思うだろうな、といった感情が当たり前に書いてあるだけ、という気がしてしまうのだ。ラストにしても、彼女の立場ではああするより他にないだろう。確かに、ふたりにとってあまりに悲しく残酷な道だが。(溝口@書物の帝国さんの「生理的に許せない」という感想には、へーえ、そうなのか、と思いました。男の方にはあれはそう思えるのですかね。私には全くそういう感情はありませんでした。女の方が残酷なのかもしれませんね。^^)

 ちょっと話の展開がスタンダードすぎて、いまひとつひねりが足りなかったのでは。おっ?と思ったのはラストのみだったし。それとも私の期待が大きすぎたのか?可もなく不可もなく、という感じであった。まあ、読んでみて損はないですが、未読の方は、あまり期待せず、何位をとったとかいう先入観抜きで読んだほうがいいかも。

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『青猫の街』☆☆☆1/2 涼元悠一、新潮社(98.12月刊)

 これは、第10回日本ファンタジーノベル大賞、優秀賞受賞作(に加筆したもの)である。

 ファンタジーというより、インターネット・ミステリまたはサスペンスといった感触の小説であった(あくまで私の見解ではね)。内容が内容なだけに、横書き小説である。そこここに、メールやら何やらが出てきて、ネットの小説を読んでいるような感じが新鮮で良い。

 SEである主人公の友人、Aが旧式のパソコン1台だけを部屋に残し、行方不明になる。主人公はAを探し始めるのだが、どうもインターネットにその謎を解くカギがあることをつかむ。キーワードは、「青猫」である。果たして青猫とは?そして、Aの行方は?

 話のスジは確かにミステリなのだが、それだけではない。というのは、この主人公のSEが余りにもリアルに書かれているのだ(私はSEという職業を実際に知らないのだが、それでもこれはリアルだと思う)。古いパソコンやアニメの話をするシーンや、サーチエンジンで検索しまくって青猫を探すところなど、著者ご本人のことを書いてらっしゃるのでは?もしくはモデルがいるのか?と思えるほど。ということは、それだけ著者にうまく騙されてるということで、もうすっかり著者のペースに乗せられている。私はWindows95から入った新参者なので、昔のパソコンのことは全くわからないのだが、わかる方には懐かしさに泣けることであろう。

 やがて、青猫は非常に危険なものだということがわかり、青猫からのさまざまな妨害工作が入るのだが、これ、けっこうコワイ。だって、ホントにありそうなんだもん(FAXがじゃんじゃん出てくるとことか、怖かった〜)。というか、こういうページを作って世間様にいろいろと公表している私自身が、いつこんな目にあっても不思議はないのだ。そう思うと、ちょっとゾッとする。ネットという新しい媒体ゆえの、新しいホラーと言えなくもない。

 私などは、ネットの明るい方面しか知らないから、こういう暗黒部分を見せられると、「おお、やはりネットは魔物ね」と改めて思ってしまう。そこがまた魅力的なのだろうが。今はまだ、規制もそうはきつくないから(ですよね?)、かなり無法地帯だもんね。とはいえ、例の毒薬事件とかがあったから、だんだんここもいろいろうるさくなるんだろうか。

 青猫の正体についてはちょっと肩透かしだった気がしないでもないが、これも著者にしてやられた、といえよう。ラストはけっこう衝撃的だった。私には。そっちの世界に行ってしまったAが、とても切なかった。この小説、ネットものは必読だ!この小説の中に、あなた自身がいるかもしれない。

 (蛇足ですが、これを読んだ方は、著者のページを必ずお読みになることをお勧めします。Q&Aを読んで、「あ、そうだったの〜?騙された〜!」と私は驚きました)

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『ブギーポップは笑わない』☆☆☆
『ブギーポップ・リターンズ vsイマジネーターPart1,Part2』☆☆☆☆
『ブギーポップ・イン・ザ・ミラー 「パンドラ」』☆☆☆☆
ともに上遠野浩平、電撃文庫(98.2、8、12月刊)

 私は、実はこのテのいわゆるヤングアダルト系というか、マンガチックなイラストの表紙の若い子向け文庫(角川スニーカー、富士見ファンタジアなどなど)は日頃全然読まない(昔はクラッシャージョウや、ダーティペアなど読んだけどね。もう卒業してしまいました)。が、周りの方々があまりにも良いと絶賛するので、思いきってチャレンジしてみた。

 結果は…案外面白かった。設定もなかなかだし、いろいろな仕掛けがたくさん詰まっていて、先が早く知りたくてぐいぐい読ませる。3作、あっというまの一気読み。1作目はちょっと書き方がぎくしゃくしてるような感があったが、2作目、3作目と進むに連れて飛躍的に腕が上がっている、と思ったのは私だけ?

 ブギーポップ―不気味な泡。学園に異変を察知したとき、彼は泡が浮かび上がるように現れる、どこかあやしげな影のヒーローである。彼は、女子高生、宮下藤花のもうひとつの人格として存在する。

 『〜笑わない』では、彼は学園に密かに入りこみ、家出したと思われていた女の子達を食い尽くしていた“人喰い(マンティコア)”を倒すべく登場する。マンティコアは、どこかの生化学研究所の失敗作の人造人間のようである。学園をのっとり、いずれは世界をという彼の野望を打ち砕いたのは、実はあるひとりの女子高生のやさしい心だった…。

 『vsイマジネーター』―“イマジネーター”と、“統和機構”という人造人間の組織。2作目は、このふたつと、ある中学生の少年少女の恋を中心にして物語が展開する。などと書くと単純だが、話や登場人物はもっとずっと複雑に入り組んでいて、詳しくは読んでいただくのが一番。というか、人から聞くなんてあまりにもったいないので、ぜひご自身で読んで頂きたい。この話の中で、一番胸に来るのは主人公のふたりの一途で純真な恋心。

 『パンドラ』―これは、3作中最も切ない話。未来を予知するさまざまな、でもごく小さな能力を持った、孤独な少年、少女達。ふとしたことから、彼等は出会い、カラオケボックスに集まっては互いのおぼつかない能力を補い合いながら、未来を予知する。そんなある日、彼等は小さな女の子に出会うことを予知する。それが、世界を破滅させかねない大変な出来事の前触れとも知らず…。
 6人のメンバーそれぞれ一人ずつを主人公にした章立てになっていて、互いに自分のプライバシーを一切話さない彼らの本当の姿が語られる。実は、統和機構のスパイなんかも混じってたりするのだが、彼らに共通するのは、深い孤独である。そして、だからこそ仲間を大切な心の拠り所にしているのである。
 キトという少女を守る為、彼等は文字通り命を賭けて戦い、倒れ、グループは崩壊して行く。彼らに訪れる悲劇が泣ける。

 非常に力量のある作家だと思う。設定やストーリーの面白さは言うに及ばず、何より人を惹きつけるものを持っていると思う。それは、誰しもが味わったことのある感情を物語の根底においているからではないだろうか。そして、それは読者の心のいちばん柔らかい部分にちくりと突き刺さるのだ。次の作品がとても楽しみである。絶対読むよ。

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『本の雑誌風雲録』目黒考二、角川文庫(98.10月刊)☆☆☆

 85年に発行された本の文庫化なので(なぜ今ごろ?)、内容的にはだいぶ古い。これは、現発行人、目黒考二から見た「本の雑誌」の創世記である。飲みながら酒の肴として話していた夢の雑誌が、いかにして実現し、今に至るかがつづられている。

 まず、目黒氏の変わり者ぶりに今更だが驚く。「本を読む時間がないから」と言って、会社を3日でやめることを繰り返す彼。本当にやってしまうところが大物というか、普通人離れしてるというか。営業がいやでいやで、業務拡大など全く考えてなかったという。本さえあれば幸せで、自分の本棚や書店の本棚を見てるだけで飽きないという(この気持ちはわかる!お弁当を持って行って書店に1日中いたいというのも同感)。他にも、沢野ひとしの奇態ぶりがおかしい。この方も、生粋の変わり者である。

 著者が思いつくままに昔の思い出を語るという感じで、話があっちこっち飛んでいるが、一貫して感じられるのは、彼の心の細やかさである。椎名誠がガーッと突っ走るのにうまくブレーキをかけてフォローし、「助っ人」学生たちにあれこれ気を配る。淡々とした文章に、表面にはおそらく出にくい、彼のなにげないやさしさが感じられる。

 普通は、酒の上の与太話で終わってしまうような、ただの夢に過ぎなかった雑誌。これを本当に創刊し、だんだん軌道にのせていってしまう彼ら。なんの得があるわけでもないのに、ひたすら情熱だけであれだけ動いてしまう彼らに、若さと並々ならぬパワーを感じる。これは、目黒氏と、「本の雑誌」の青春記でもあるといえよう。

(余談だが、配本部隊のひとりの方が、うちの書店の名を書いてくださっていた。おお!ご苦労様でした。今はもう、トーハン経由ですもんね。もひとつ余談。今更私が言うことではないが、この本は書店員におすすめ。本を作る側から見た、業界への言葉は示唆に富んでます)

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『タナトスの子供たち』中島梓、筑摩書房(98.10月刊)☆☆☆1/2

 中島梓流、やおい論。だが、やおいにのみ言及した本ではない。はじめは「ひとはなぜやおうのか」という話なのだが、だんだん話が大きくなっていって、ついには社会的地球的問題にまで発展して行く。

 彼女の意見に、100%賛成とは言わない。が、ワタクシ的には彼女の考え方にはかなりシンクロするものがあった。自分でも気付いてないくらい、深い深い心の奥に眠っていたもの、なんとなく胸の奥にいつもあるのだけれど、はっきりした形にはなってなくて、もやもやした霧のようだったもの。彼女は、それをくっきりと文章にして、私の前に提示してくれた。そんな気がしている。

 私事で恐縮だが、実を申せば私もずっと昔(10年くらい前だ。おお、そんなにたつのか!)、ほんの一時期だが、やおい本を買っていたことがある(今は違いますよ)。が、あまりのえげつなさに嫌気が差して、この道からは手を引いた記憶がある。今は、あの頃より更に内容がえげつなくなっている気がする。
 うら若き乙女たちや、夫や子供もいる主婦たち。そんな方たちが、こういった過激な内容の耽美ものの新書や文庫の新刊が出るたびに、ひとりで何冊もごっそり買って行くのだ。新刊が出れば、必ずベスト入り。つまり、すごい数の売れ行きなのだ。この現象は、実に不思議だとずうっと思っていた。
 自分が一時期読んでいた理由。現在、これだけ売れる理由。これがどうしてもわからなかった。「いったい、耽美って、やおいって何?」という疑問が、私自身にもずっとあったのだ。

 その疑問に、中島梓はひとつの答えをくれた。もちろん、これが正解とは限らない。が、自分の過去に照らし合わせて見ても、これはかなりうがった意見のひとつである気がする。ちょっと極端すぎる意見かもしれないが。

 彼女は言う。「やおいはディスコミュニケーションのファンタジーである」と。
 少女がだんだん成長していくうち、「世の中は男性中心にまわっていて、女の居場所はない」と気付いてしまう。恋して、結婚して、いい奥さんになって、いいお母さんになってという女の道。これは実は全く男性の都合のいいようにつくられたレールであって、この中に自分というものの存在意義はない。少女達は、男性から選ばれるための商品でしかない。
 これに気付いた少女達は、「女という商品ではなく、ありのままの自分そのものを愛して欲しい」、という思いを、自分たちで勝手に作り上げたオトコ同士の恋愛(相手がオトコというハードルを越えてでも、君自身が欲しいんだ)という形のやおい小説や漫画にたくすのだという。つまり、これは彼女等の癒しであると。

 また、著者はもうひとつの考え方を提示する。それは、多重人格という方向である。
 多重人格者は、精神的苦痛を感じると、それから自分を守る為に、自分の分身を作る。それが、やおいに登場する人物たちだというのだ。なぜ、やおいの描写があれほどまでにえげつないのか?それは、やおう彼女達が、それほどまでに自分たちが「性的なお人形として虐げられている」と漠然と感じているのだ、という。

 商品としてのみ見られるのに嫌気が差して、自分でいられる性的ファンタジーにのめりこみ、閉じこもり、依存症になっている彼女達。だが、著者は「依存症で何が悪い!」という。
 確かにそうだ。これは、全く人畜無害の依存症である。今のゆがんだ世の中、誰もが依存症である。私だってそれをいうなら立派な読書依存症である(^^)。決して、彼女達だけがヘンなわけではない。

 絶えず、人と競争していなければならない今の社会。受験に勝ち、恋に勝ち、結婚に勝ち、子供の教育に勝ち、仕事に勝たなければ生きていけない社会。もっとものを買い、もっと食べ、もっと健康になり、もっと長生きする、これが幸せだとされている今の社会。これは、すでに何かが狂っている。
 この体制に背を向け、マイナス方面に向かっている彼女達。今、なぜこんなに耽美小説が流行るのか。それは、病んだ社会が生み出した現象である。戦いの勝者である人間にはわからないかもしれないが、この社会の暗黒部にもっと目を向けよ、理解して欲しい、と著者はまとめている。

 (ここから、ちょっと自分のことを書きます。つまらないので、とばしてくださって結構です)

 この本を読んで、気付かされたことをちょっと書こうと思う。
 またまた私事に戻るが、私は子供の頃から漠然と「生まれ変わったらオトコになりたい」とずっと思っていた。この気持ちの意味が、この本を読んでやっとわかった。私も、漠然とこの世は男性社会だと思いつづけていたのだ。女性にとって、生きにくい社会だと。
 今、更にこの思いを強くしている。女性が男性と同等でいること(特に働くこと)は、女性が強くなったと言われる昨今でも、まだまだ全然ダメである。著者ほど虐げられてるとまでは思わないが、男性倫理でまわっているというのはまさにそのとおりであると思う。(例えば、子供が風邪をひいたら、会社を休むのは圧倒的に女の方である。男は、それが当たり前だと思い、女も社会がそういうならそうなんだろうと思いこまされている。)著者の意見に、心からうなずける。

 もうひとつ。今更だが、結婚して子供を産んでも、それだけで人は大人になったとは言えないのだということに気づかされた。ずばり私自身がそうである。よき妻、よき母なんて、昔は理想だったが、今実際に自分の身にふりかかってきたら、そんなもの面白くもなんともない!苦痛でしかない。そんなおりこうさんにはとてもなれないや、私は。大人になるのを拒否しているのかもしれない。
 だから、社会や周りの人々が押しつけてくるそんなものから逃げたくて、私は本を読むのかもしれない。これって、逃避行動なのかもしれない。ネットも。仕事を続けているのも。つまり私は、読書依存症であり、ネットでものを書くこと依存症であり、仕事依存症だったのね。うっわー、ほとんどビョーキやんけ(^^)。

 いろんなことに気付かせてくれた、一冊であった。「やおい論」とだけ考えず、ぜひたくさんの方に手にとって欲しい一冊である。

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