「司馬遼太郎をやさしく読む」

 

 

司馬さんからの「おすそわけ」

私は、歴史小説を書いてきた。

もともと歴史が好きなのである。両親を愛するようにして、歴史を愛している。

歴史とは何でしょう、と聞かれるとき、

「それは、大きな世界です。かって存在した何億という人生がそこにつめこまれている世界なのです。」

と、答えることにしている。

 私には、幸い、この世にたくさんのすばらしい友人がいる。

 歴史の中にもいる。そこには、この世では求めがたいほどにすばらしい人たちがいて、私の日常を、はげましたり、なぐさめたりしていてくれるのである。

 だから、私はすくなくとも二千年以上の時間の中を、生きているようなモノだと思っている。この楽しさは─もし君たちさえそう望むなら─おすそ分けしてあげたいほどである。(中央公論社刊『十六の話』所収「二十一世紀に生きる君たちへ」より)

この文章は、司馬さん(畏敬と親しみを込めてこうよばせていただく)が、「一遍の小説を書くより苦労した」とこぼされて、めずらしくも小学六年生向けの国語教科書(大阪書籍刊)に書き下ろした「二十一世紀に生きる君たちへ」という文章の冒頭の部分である。

 司馬ファンを自認する筆者の独断と偏見でいうなら、司馬遼太郎という人は憂国の士であった。吉田松陰にも似た清廉潔白の心やさしい人であった。その憂国と優しさをもって、司馬さんは二十一世紀を担う子供たちに、未来を託して語りかけたのがこの文章ある。したがって、いま改めてこの文章を読み返してみると、これは司馬さんの「遺言状」ともいえる願いがこめられている。

 その「願い」はいま少し後に述べるとして、その前に,いかにわれわれが司馬さんから多くの「おすそ分け」を頂いたか、ということである。

司馬さんの作品は筆者が数えただけでも、直木賞受賞作の『梟の城』から最後の長編小説となった『韃靼疾風録』までの長編小説が三十八作品、『ペルシャの幻術師』から『木曜島の夜会』までの短編小説が百一作品、『歴史を紀行する』から『草原の記』までのエッセイ・評論・対談集が四十一作品、そのほかに『街道を行く』『この国のかたち』シリーズなど三十六作品ある。

膨大な数の作品だが、司馬さんに敬服するのは、その中のどの一冊をとっても読者を裏切るような内容のものはなかったということだ。よく売れっ子の作家になると、その多忙さにかまけて極端に質の落ちる作品を書く人もいるが、なにごとにも真摯な司馬さんにはそういうものは一つもなかった。どの作品を読んでも司馬さんの博学多識で彩られており、学校の歴史教科書でも、これまでの小説でも教わらなかった、もぎたての果物のような新しい知識を目の前に展開してくださった。

 そして何よりも感謝していることは、われわれは司馬さんの小説を読むたびに、過去の日本人のすばらしさを知り、勇気と希望とプライドをあたえてもらったということだ。司馬さんの小説を一言でいえば、それは『元気の出る小説』であり、『おれもこの主人公のように生きたい』と思わせる小説だった。

そのためか、多くの読者が、司馬さんの描く坂本竜馬、高杉晋作、吉田松陰、土方才蔵、大村益次郎、河合継之助、西郷隆盛、大久保利通、あるいは織田信長、斉藤道三、豊臣秀吉、石田三成・・・らの主人公に魅せられ、その主人公に自分をなぞらえ、彼らの生き方を自分の生き方の見本にするような、そんな感慨と影響をダイレクトに受けた。

その証拠に司馬さんが逝去された後、マスコミに多くの追悼文が寄せられたが、たとえば「プレジデント」(1996年4月号)の特集では、「男が男に惚れるというレベルでは、この坂本竜馬しかいない。(略)いわば政治家としてのバイブルのような存在」(小渕恵三・現内閣総理大臣)、「人生を歩んでいくうえで大きな選択に迫られたとき、そばにはいつも竜馬がいた。」(孫正義・ソフトバンク社長)と、『竜馬がゆく』の坂本竜馬に熱き思いを語っている。あるいはまた『司馬遼太郎の世界』(「文芸春秋」一九九六年五月臨時増刊号)では、中内功ダイエー会長兼社長が「会議室に私は竜馬の等身大の写真を飾ってある。」ほど尊敬し、石川武三井海上火災保険会長は『峠』の河合継之助に「人としての生き方の追求、個人の美学と、国や藩の将来に対する責任、リーダの責務」を教えられ、伊藤淳二鐘紡名誉会長は『燃えよ剣』の土方歳三のいう「どうなるとは、漢(おとこ)の思案ではない。おとこはどうするということ以外に思案はないぞ。」の言葉に感動している。

行数の都合上、これ以上紹介できないのが残念だが、要するに、司馬ファンの読者は、わが人生に司馬さんの描く主人公を投影し、なぐさめられ、励まされてきたのである。

作家は誰しも、読者の人生になんらかの影響をあたえるものを書きたい、というのが本心だろうが、これほど多くの人々に影響をあたえた作家がかっていたであろうか。国民作家といわれ多くのファンを持った作家はこれまでも存在したが、司馬さんのように直接的にその人の人生に影響をあたえた人は希である。ここが司馬さんが他の作家と大きく違うところである。だから多くの人々がその急逝を惜しんだのだ。

 東北大学総長の西沢潤一氏などは、「国の宝を失った」とまで嘆くのである。まさしく惜しまれる死であった。

 

 壮快さをもたらす「語り部」

 ところで、これほどまで多くの読者を魅了した司馬作品であるが、その小説はどこがそんなに面白かったのだろう。総括的にいうなら「語り部」の面白さである。

司馬さん自身もいっているように、司馬さんの小説はいわゆる一般的な小説とは違っていた。特に長編小説の場合がそれにあたり、その中には、史論、評論、伝記、人物月旦、創作ノート、取材過程といったものが、「この時期」とか「余談ながら」とか「ついでながら」といった自作自注の言葉で出てきた。これをもって文芸評論家たちの中には「小説ではない」という者もあったが、司馬ファンにすればこれがまたたのしみであった。

いうなれば、この言葉によって司馬さん自身が小説に登場し、そのことによって読者に複雑な時代背景を平明にわからせ、主人公の独白や思慮を補足し、それがそのまま小説の血肉になっていたことだった。それはまるで司馬さんが"その現場"に立ち会い、その臨場感をそのまま読者に語ってくれる面白さだった。「語り部」という所以(ゆえん)である。

事実、司馬さんは『播磨灘物語』の「あとがき」で、

「戦国末期の時代の点景としての黒田官兵衛という人物がかねて好きで、好きなままに書いてきただけに、いま町角で、その人物と別れて家にもどった、というような実感である。」と書いている。司馬さんにとっては小説の主人公たちのいずれもが、冒頭の文章にもあるように歴史の中の「友人」だったのである。

 そして、司馬ファンを何よりも魅了したのは、読後の壮快さだった。作品全体が小説の命であるロマンに包まれていたのはいうまでもないが、主人公そのものの生き方が必ずある種の美学で貫かれていたので、いかに根の暗い主人公であっても清涼感が残った。これは司馬さんが彼ら友人(主人公)を書くときに、いかなる偏見をももたず、自分の目でたしかめ、惜しみない愛情を持っていたからであろう。

 そのときの作家の姿勢というものを司馬さんはこう書いている。

「まず、物語を月光よりも太陽の下で見たい、という精神的な傾斜をもっています。さらには、自分への規律として、イデオロギーという遮光レンズを通して物を見ない、という姿勢を課してきました。いまひとついうと、過去・現在・未来という外界に対処する場合、できるだけ自分のすべてをゼロに近づけ、感情をプラス一にしたりマイナス一にしたりしないように努めてきました。」(『十六の話』所収「訴えるべき相手がないままに」より)

 司馬さんは「無私なる人」が好きだったが、そうでない人を書く場合でも多面的にとらえ、公平に書いている。だから、いかなる作品を読んでも読後に「いやな気分」に襲われるということがなかった。むしろ多くの小説は得も言われぬ昂揚感すらおぼえ、その主人公たちの作ってきた日本の歴史というものに、愛着と誇りを抱き、前述したように「おれもこういう生き方をしたい」と思わせてくれたのである。

 

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