1884年 朝鮮で甲申政変このページは、現在更新作業中です。 閔妃を中心とする閔氏派の朝鮮政府は、1876年の日朝修好条規締結以降は日本に接近していたが、1882年に起こった壬午軍乱により清国の支配を受けるようになっていた。 壬午軍乱までは攘夷派(その中心は大院君)と開化派が対立していたのであるが、攘夷はもはや不可能な情勢となった。一方、開化派は、清国の支配を受け入れて大国に依存していこうとする事大党と、清国の支配を否定し朝鮮の独立を目指そうとする独立党に分かれていく。独立党を代表する人物が金玉均で、彼は日本に接近して、日本の明治維新を手本として朝鮮の近代化を進めようと考えていた。そして、1884年12月に、政権奪取のため日本公使館と連携してクーデターを決行したが、清国兵の出動により政変は3日で失敗に終わった。 これを、甲申政変(こうしんせいへん)あるいは甲申事変と呼ぶ。 朝鮮の保守的な閔氏政権の官僚であった金玉均と朴泳孝を中心とする急進的な開化派(独立党)は、単に西洋技術の導入にとどまらず明治維新のような諸制度の改革が必要だと考え、福沢諭吉らを介して日本政府に接近していた。また、年若い高宗王を思想啓蒙し、宮廷内外にまたがる「忠義契」という行動部隊を組織していた。 宮廷内での立場が苦しくなった彼ら(独立党)は、武力による政権奪取を計画した。計画では、忠義契と日本から呼び戻した留学生により高宗王を確保し、在朝清国軍の介入に対しては日本軍の応援を依頼し日本公使竹添進一郎も同意していた。 1884年12月4日に、計画は実行に移された。漢城(現在のソウル)の郵政総局開局祝賀晩餐会で放火騒ぎを起こし、混乱に乗じて王宮を制圧して閔氏政権の要人を殺害し高宗王を確保した。2日後に呉兆有・袁世凱らの率いる清国軍の駐留部隊1500人が介入したが、形勢不利とみた日本軍は兵を引き、政変は3日で終わった。 金玉均・朴泳孝らは日本へ亡命した。金玉均・徐載弼・徐光範らの三親等が全て残忍な方法で処刑された。金玉均の父は死刑、母は自殺、弟は獄死、妻と娘は奴婢として売られたが後に発見された。 この甲申政変を受けて日朝間の講和のために、日本の全権大使井上馨と、朝鮮の全権大臣金弘集とが交渉を行い、1885年(明治18年)1月9日に漢城条約が締結された。その主な内容は、このページ下部の【漢城条約】の項に記載した。 また、日本と清国の間で甲申政変の事後処理を取り決めるため、日本から伊藤博文が天津におもむいて清朝の李鴻章との間で交渉が行われ、1885年4月18日に天津条約が結ばれた。その主な内容は、次のとおり。 @日清両国は朝鮮から撤兵する。 A日清両国は朝鮮に軍事顧問を派遣せず、日清以外の国から招致する。 B将来において朝鮮に出兵する場合は、相互通知を必要とし、派兵後は速やかに撤退し駐留しない。 朝鮮の若手官僚たちのクーデターが失敗したのを見た福沢諭吉は、脱亜論(注)を説いたとされる。その趣旨は、日本はアジア的価値観から抜け出したが、支那(清)と朝鮮は明治維新のように政治体制を変革できなければ亡国となり西洋諸国に分割されてしまうだろう。そして、「悪友を親しむ者は共に悪名を免かる可らず。我は心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」といっている。 ![]() ![]() ![]() |
(注:「脱亜論」は、新聞「時事新報」紙上に1885年(明治18年)3月16日に掲載された無署名の社説で、福澤諭吉が執筆したとされているが諸説ある。この社説は福澤の朝鮮改革派援助の敗北宣言であって、「アジア蔑視および侵略肯定論」とみるのは見当違いであって認識不足があるとの批判がある。また、この社説では「脱亜入欧」という言葉は使っておらず、「脱亜入欧」という言葉が福澤諭吉と結びつけて考えられるようになるのは第二次世界大戦後の1950年代以降であるという。(出典:![]() |
また、金玉均は日本国内を転々とした後、1894年に上海で暗殺され、死骸は漢城(現在のソウル)に運ばれて凌遅刑に処された。遺体はバラバラにされ、胴体は川に捨てられ、首は京畿道の竹山、片手と片足は慶尚道、他の手足は咸鏡道で晒された。(出典:![]() 【このときの朝鮮の状況】 2年前の1882年に起こった壬午軍乱の結果、大院君は清国に拉致されて清国の保定(北京の近郊)で拘留されるにいたった。閔妃と閔氏派が政権を保持したものの、清国は兵約3000人を駐留させて首都漢城(現在のソウル)を制圧下に置いたほか、「清国朝鮮商民水陸貿易章程」を締結して朝鮮を清国の属国と明記し、貿易上の特権を得た。清国政府の推薦で馬建常とメレンドルフ(ドイツ人)を外交顧問として受け入れ、清国の制度にならった政治制度の改革を行なった。一方、日本は、壬午軍乱の後に締結した済物浦条約に基づいて日本公使館に日本兵の守備隊を置くに留まっていた。 また、閔妃は壬午軍乱時に王宮から脱出してかくまわれていた閔応植の家から一人の巫女を王宮に連れ帰り、それまで以上に祈とう・祭祀といったものにのめり込んでいった。この巫女はやがて大霊君と号されて各地から祈とう師、巫女、占い師、易者、僧尼らが続々と集まり、ばく大な国費が費やされた。こうした経費に充てるため、メレンドルフらは税関収入を流用したり、「当五銭」と呼ばれる悪貨を鋳造したりした。 ![]() 【金玉均】 ・1882年2月から7月まで日本に遊学し、福澤諭吉の支援を受け、慶應義塾や興亜会に寄食する。留学生派遣や朝鮮で初めての新聞である『漢城旬報』の発行に協力。(出典: ![]() ・1883年には借款交渉のため日本へ渡り、翌1884年4月に帰国。(出典: ![]() ・日本から帰国して朝鮮の官職に就いていた金玉均は、メレンドルフの行っていた税関収入の不正を批判し、対立が深まった。メレンドルフや閔氏派は、金玉均や独立党(注:大国の清に従属していこうとする事大党を批判していた。)を強く非難して、独立党は四面楚歌の状態に追い込まれた。(出典:呉善花著「韓国併合への道」p104-106) ・1884年11月4日、独立党の金玉均・朴泳孝・洪英植・徐光範は、朴泳孝宅に日本公使館の島村久秘書官を招いて、クーデター計画を打ち明けた。これを聞いた島村久は、驚くことなく、すみやかな決行を勧めたという。ここで、三つの案を検討して、郵政局開局の祝宴に乗じて決行することを決めた。(出典:呉善花著「韓国併合への道」p112 ) ・1884年11月7日、金玉均が日本公使館を訪れ、竹添公使に計画を打ち明け、竹添公使から支援を約束された。(出典:呉善花著「韓国併合への道」p112。金玉均著「甲申日録」によるという。 ) ・金玉均はアメリカ公使フートとイギリス領事アストンと頻繁に接触して彼らの意向を伝えたが、フートもアストンも朝鮮独立と改革への意志を評価しながらも時期尚早との態度を示し自国が直接支援に動くことはないと述べている。(出典:呉善花著「韓国併合への道」p113-114 )「フートもアストンも、朝鮮半島からの清軍と日本軍の撤退を望んでおり、自らの影響下での朝鮮独立を望んでいた。」(引用:呉善花著「韓国併合への道」p119 ) ・1884年11月29日、高宗王は金玉均に至急参内を命じ目下のの情勢を奏上させた。ここで、金玉均が計画の概要を話し、高宗王は暗黙の承諾を与えたのではないかと思われる。(出典:呉善花著「韓国併合への道」p115-116 ) (つづく) 【福沢諭吉の援助】 ・壬午軍乱を謝罪するために朝鮮から日本へ送られた朝鮮修信使が帰国する際、朴泳孝ら一行とともに福沢諭吉の門弟である牛場卓蔵・高橋正信・井上角五郎・印刷技術者2名・元軍人2名を同行させて、新聞の発行などを援助させた。しかし、朝鮮にその下地がなく、閔氏政権や竹添公使の支援も得られず、牛場卓蔵と高橋正信は3か月ほどで帰国、井上角五郎だけが残って、なんとか新設の統理衙門博文局主事の職を与えられて、朝鮮初の新聞となる「漢城旬報」の創刊(1883年)にこぎつけた。(出典:呉善花著「韓国併合への道」p98-99 ) ・福沢諭吉は、金玉均らのために、日本刀・爆薬・拳銃などを用意して送っている。(出典:呉善花著「韓国併合への道」p117 ) ・井上角五郎は、のちに出版した『金玉均』(民友社版)で、「井上参議が福沢先生を訪問し、その結果私が外務省に呼ばれて、井上参議から朝鮮のことを早く挙げてもらいたいという話である。」「いよいよ仏支の葛藤を機としてことを挙げんとする肚であると思い、指図に従って再び朝鮮に渡ることになった」などと記述しているという。(出典:呉善花著「韓国併合への道」p117-118 ) 【竹添進一郎(日本公使)】 ・花房義質の後を受けて日本公使となった。金玉均には批判的だった。(出典:呉善花著「韓国併合への道」p106-107 ) ・駐留清国軍が半減されたのをみた日本政府は、竹添公使を日本へ呼び戻し、島村久を代理公使とした。このとき、日本は対朝鮮政策を変更したものとみられる。(出典:呉善花著「韓国併合への道」p106-107 ) ・1884年10月、竹添公使が再び朝鮮に赴任。このあと竹添公使は、金玉均らに協力的になる。(出典:呉善花著「韓国併合への道」p106-107 ) ・1884年11月2日、竹添公使が高宗王に謁見し、村田銃16丁などを献納して、壬午軍乱の賠償金の残り40万円を日本が放棄することを伝えた。(出典:呉善花著「韓国併合への道」p110 ) ・1884年11月7日、金玉均が日本公使館を訪れ、竹添公使に計画を打ち明け、竹添公使から支援を約束された。(出典:呉善花著「韓国併合への道」p112。金玉均著「甲申日録」によるという。 )ただし、11月12日に竹添公使が甲乙2案を示して日本政府の指示を仰いだ際には、「自分は独立党のクーデター計画に加担すべきだと思うが、彼らにはまだ日本支援の同意を与えていない。自分が同意すれば、彼らは即座に決行する姿勢だ」と述べている。(出典:呉善花著「韓国併合への道」p140 ) ・1884年11月12日、竹添公使が次の甲乙2つの案を建議して日本政府の指示を仰いでいる。 甲案〜金玉均ら独立党を煽動して朝鮮に内乱を起こす。ただし、朝鮮国王の依頼によって王宮を守衛するという名目で日本公使館の守備兵を出動させる。 乙案〜清国と事を構えることなく朝鮮問題は自然のなりゆきにまかせる。ただし、閔氏事大党の力がしだいに大きくなったいることから、電報などでさらに指揮をいただきたい。 (出典:呉善花著「韓国併合への道」p138。なお、甲乙案は、市川正明編「日韓外交史料・第三巻」原書房から要点を要約したものだという。) ・1884年12月4日に、甲申政変が発生。 ・1884年12月6日、甲申政変の最中に、上の建議に対して乙案を採用するようにとの政府の訓令が竹添公使の手元に届いた。(出典:呉善花著「韓国併合への道」p138-139 ) というのは、竹添公使の甲乙2つの案が日本政府に届いたときに井上馨外務卿は地方に出張中だったため、伊藤博文参議と吉田成外務大輔が協議して11月28日付で訓令を出し、井上外務卿は12月3日付でこれに同意。この訓令は千歳丸によって運ばれて12月6日に、竹添公使の手元に届いた。(出典:呉善花著「韓国併合への道」p138-139 ) 『 日本から訓令が竹添公使に届いたときのことを、朴泳孝は次のように語っている。 「千歳丸の仁川に着くや、井上外務卿の密書が、乱中の竹添公使の手に届くと、懦弱なる竹添は顔色を失ひ、周章狼狽、措く所を知らざるの態にて、日本兵を率ゐて、逃げ道をのみ、見出さんとするから、一党の勇気頓に挫かれ、軍心俄かに乱れたるもの、何より大いなる原因であることは、云ふまでもないのである」(雑誌『古筠』創刊号一九三五年三月) 』(引用:呉善花著「韓国併合への道」p139 ) 【清仏戦争の影響】 ・1884年5月、ベトナムをめぐって清国とフランスが対立を深めると、清国は朝鮮駐在の清国軍の約半数(1500名)を率いて呉長慶が本国(清国)に移駐した。朝鮮に残った清国軍は呉兆有が指揮をとることになった。(出典:呉善花著「韓国併合への道」p107 ) ・1884年8月、清仏戦争が勃発。(出典:呉善花著「韓国併合への道」p108 ) ・1885年6月9日に清仏間の講和条約(天津条約)が締結された。(出典: ![]() (注:1885年4月18日に日清間で結んだ条約も天津条約と呼ぶので留意のこと。) 【朝鮮と列強との外交関係】 朝鮮と欧米列強・清国・日本との通商条約などの締結状況は、概ね下のとおりだと思います(注:不正確かもしれません。)。 1884年12月の甲申政変の時には、漢城(現在のソウル)に、アメリカ・イギリス・ドイツの公使館があった(出典:呉善花著「韓国併合への道」p119)。(注:ロシアはまだ条約が批准されていなかった?) 条約締結日 ・1876年2月27日、日本と日朝修好条規を締結。(注:文書の日付は2月26日)(出典: ![]() ![]() ・1882年5月22日、アメリカと朝米修好通商条約を締結。(出典: ![]() ・1882年7月23日、壬午軍乱。 ・1882年10月、清国と清国(中国)朝鮮商民水陸貿易章程の締結。(出典:呉善花著「韓国併合への道」p67、および、 ![]() ・1883年11月26日、イギリスと朝英通商條約を締結。 ・1884?年11月18日?(1883?年11月26日?)、ドイツと大朝鮮国大徳国通商條約を締結。(注:日付確認中) ・1884年6月25日、ロシアと朝俄通商條約を締結。 |
(注:呉善花著「韓国併合への道」p156 では、1884年7月の調印とし、朝鮮側の批准は翌1885年10月としている。また、条約名を「朝露修好条約」と記している。 また、 ![]() |
・1884年12月4日、甲申政変。 ・1886年6月4日、フランスと大朝鮮国大法民主国通商條約を締結。 ・1888年8月20日、ロシアと朝露陸路通商条約を締結。(出典: ![]() ・1884年7月〜1885年3月、日清戦争。 ・1899年9月11日、清国と大韓国大清国通商條約を締結。 (出典:1883年のイギリス以降の出典は、 ![]() ![]() 【甲申政変の概要】 かなり長文ですが的確にまとまっているので、呉善花著「韓国併合への道」(文春新書、2000年)p121-135 からそのまま引用します。なお、表題以外の太字は、当サイト管理人によるものです。 |
郵政局の宴会 一八八四年(明治一七)一二月四日(甲申一〇月一七日)夕刻、郵政局開局の祝宴が開かれた。出席者は一八名。政府要人数名と各国代表のほか、独立党からは洪英植、朴泳孝、金玉均、徐光範、尹致昊が参加した。なお竹添公使は欠席し、島村書記官が代理で出席した。竹添はいつでも出動できるように、日本公使館で待機していたのである。 金玉均らは、尹致昊を計画が失敗した際の後の証言者として温存しておこうとしたようだった。そのため尹致昊には、計画は知らされておらず、彼はアメリカ公使フートの通訳として出席していた。 八時すぎ、李圭完と尹景寿が別宮に放火したが警備兵に消し止められてしまった。宴会中にその報告を受けた金玉均は近くの民家(高官邸)への放火を命じたが、思うように火がつかない。そこで李圭完らは金玉均を宴会場から呼び出し「このまま宴会に乱入しよう」と言うが、金玉均はそれを制止してなおも放火を指示する。それから間もなく火の手があがる。 尹致昊はそのときの様子を後に次のように語っている。 <宴会が開かれて酒もまわったころ(九時頃)、金玉均は便所へ行くとか給仕に指図するとか言って出たり入ったりした。しばらくすると、金玉均の自宅から急用の使いが来たと告げられ、金玉均は席を離れて建物の外へ出て行った。しばらくして、金玉均はかなり緊張した顔をして戻ってきた。彼は何気ない態度で着席したが、顔には不安の色が浮かんでいる。 金玉均の隣に座っていた島村書記官は、金玉均の不安気な態度を察知してか、盛んに顔を寄せて何やら話しかけている。宴席では平和な談笑が交わされてはいるものの、場内には不安な空気が漂い、閔泳翊などは敏感に何かを感じて、しきりに来客の顔を読もうとしている。 それぞれ酒杯をまわしての交歓がはじまったころ、突然外から「火事だ、火事だ」という叫び声が聞こえた。私(尹致昊)は自宅が近くなので心配になり、窓を開けて外を見ると、天高く火炎が立ち昇っている。しかも、火は郵政局近隣の民家から起こっている。 閔泳翊は、父の閔台鎬邸が近くにあるからと言って、急いで席を立って戸外に出て行った。それでも宴会場には別状ないということで、また談笑雑談がはじまった。 アメリカ公使のフートが立ち上がって話をはじめた……フートの話が終わるとすぐに、閔泳翊が悲鳴をあげながら宴会場に駆け込んできた。一同総立ちとなって彼をみると、顔面から肩にかけて鮮血が激しく流れている。来客は驚いて右往左往し、窓から飛び出したり、慌ただしく走り去ったりする者もあり、場内は混乱状態に包まれた。 私はアメリカ公使とともに、みんなの後から宴会場を出たが、そのときすでに、金玉均をはじめ、主人役の洪英植、朴泳孝らは、いつの間にか姿を消していた。それによって、私ははじめて、今夜の出来事が、金玉均一派がクーデターの決起に出たものであることを知ったのである>(林毅陸編『金玉均伝』慶応出版社所収、尹致昊の談話より筆者がリライト) 王宮占拠と閔氏六大官の殺害 閔泳翊は宴会場から外へ出たところで、待機中の日本人抜刀要員総島和作(後に暗殺)に斬りつけられて耳を落とされ、再び宴会場へ戻ったのである。李圭完らが抜刀して場内に突入したが、混乱の中で刀を振ることができず、予定に従って、朴泳孝邸へ参集して命令を待った。 金玉均、朴泳孝、徐光範の三名は、事がいささか計画どおりに運ばなかったため、竹添公使の出方が心配となり、日本公使館に急行した。金玉均は路上で彼らを待っていた徐載弼らに、同志たちを率いて景祐門外に待機するように命じ、抜刀隊に参加した日本人を、金玉均邸に隠すように指示した。 三人が日本公使館に着くと、日本兵士が公館前に整列して出動態勢をとっている。すでに帰還していた島村から、予定に変更はない旨を確認すると、三人はその足で王宮へ向かった。道の要所に待機していた同志四十数名も三々五々、王宮へ向かう。なお、当時の景福宮は一八七六年末の火災のために修理中で、その東にある昌徳宮が一八八五年三月まで王宮となっていた。 一同が金虎門に集まり、同志の一人である守衛が門を開けると、三人はそのまま寝殿に直行する。四十数名の同志と三〇名の日本兵が、金虎門への道路の要所を固める。寝殿はすでに尹景完以下五〇名の兵士で守衛されている。 平服で入る三人を咎める者たちを、「一大事発生」と一喝して振り切り、寝殿内に入ると、同志の辺燧が出て来て、宮中にはいまだ事変が伝わっていないことを告げる。金玉均は宦官の柳在賢に国王を起こしてくるように言うが、柳はしきりにそのわけを聞いて動こうとしない。金玉均が大声で「国家の大事が発生した、宦官などに言う言葉はない」と叫ぶと、国王はその声を聞きつけ「何事が起きたのか」と言って金玉均の名を呼ぶ。 三人はすぐさま国王の寝室に入り、郵政局に変乱が起き暴徒らが王宮に向かっているため、至急、正殿から景祐宮へ移るべきことを奏上する。 閔妃が「事変は清によるものか日本によるものか」と金玉均に問うと、そのとき大爆音が殿中に響きわたった。そのため、高宗は即刻遷座を承諾した。尹景完の警護で、高宗が閔妃とともに景祐宮へ入ると、金玉均は日本公使に保護を依頼すべきことを高宗に奏上して、親書を要請する。高宗は自ら「日本公使来護朕」と記して、竹添公使への伝達を命じた。 まもなく、閣僚たちが王宮へ駆けつけて来る。変事があれば必ず王宮へ出仕することが、彼ら高級官僚の責務とされていたからである。 閔泳穆(外衙門督弁)、閔台鎬(統理衙門督弁)、趙寧夏(吏曹判書)が殺害され、王宮に入っていた尹泰駿(後営使)、韓圭稷(前営使)、李祖淵(左営使)が門外へ連れ出されて殺害された。また宦官の柳在賢が閔妃の命を受けて、国王に「日本人による変事」を伝えたため、国王や閔妃をはじめとする宮人たちの面前で殺害された。 なお閔泳翊(右営使)は、親友だった洪英植がひそかに護衛をつけてかくまってやったため、この惨劇と出会うことはなかった。 翌一二月五日早朝、独立党は『朝報』をもって新政府樹立と閣僚の氏名を国民に公表し、ソウル駐在の各国代表にその旨を通知した。 領議政が国王の従兄である李載先、左議政が洪英植、前後営使兼左捕将が朴泳孝、左右営使兼代理外務督弁右捕将が徐光範、金玉均は戸曹参判として名を連ねた。独立党関係ではほかに、尹致昊の父の尹雄烈、朴泳孝の兄の朴泳教、徐載弼、申箕善が、開化派官僚では金允植、金弘集がおり、その他はすべて王家親族、とくに大院君の近親者だった。しかしながら、とうてい全員がそれを承諾して名を連ねたとは思えない。 朝方、閔妃、趙大妃らが、景祐宮は狭くて窮屈なので昌徳宮へ戻りたいと言い出した。金玉均は、景祐宮よりは少し広い桂洞の李載先邸(桂洞宮)がすぐ近くにあるので、そこならば防衛上の支障もそれほどないと判断して、国王一家を桂洞へ移した。 やがて、アメリカ公使、イギリス領事、ドイツ領事、日本公使が次々に参内して国王の安寧を祝した。各国代表の謁見が終わると、国王一家は再び昌徳宮へ戻ることをしきりに要請する。金玉均は強く反対したが、金玉均が席をはずしている間に、竹添公使が「問題ない」として国王に同意してしまった。金玉均は仕方なく、再び昌徳宮に国王らとともに入り、厳重な警備態勢を敷いて清軍の進入に備えた。 この昌徳宮への還宮は、清軍による救出を想定して、守りにくい王宮へ本拠を移そうという、閔妃の狡知によるものとも言われる。 夕刻、清軍兵士が宣仁門にやって来て門の閉鎖を妨害したので、朴泳孝が兵をもってこれを制止しようとした。が、金玉均と竹添公使は衝突を危惧し、開門のままにしておいたが、清軍は入って来なかった。 新政権の樹立 翌六日早朝、政府の新綱領が発表された。『甲申日録』によれば、それは次の通りであった。 一、大院君は日を追って還国される。朝貢の虚礼は廃止する。 一、門閥を廃止し、人民平等の権利を制定し、才能をもって官を選び、官をもって人を選ぶことのないようにする。 一、国を通して地租の法を改革し、吏奸(役人の不正)を杜ぎ、民の困を救い、国用を裕かにする。 一、内侍(宦官や女官)を廃止し、そのなかで優才ある者は登用する。 一、前後奸貪(近侍のよこしまで貪欲な者)にして国を害すること最も著しい者には罪を定める。 一、各道の還上(過酷な搾取のシステム)は永久に廃止する。 一、奎章閣を廃止する。 一、急ぎ巡査を設けて窃盗を防ぐ。 一、恵商公局を廃止する。 一、前後流配禁固の者を釈放する。 一、四営を合わせて一営とし、一営中に丁を選んで近衛を急設する。陸軍大将には世子宮(皇太子)を擬する。 一、およそ国内の財政はすべて戸曹が管轄し、その他いっさいの財務衙門を廃止する。 一、大臣と参賛は日を決めて議政所で会議をして決定のうえ、政令を布行する。 一、政府六曹以外のおよそ冗漫な官庁に属する者はすべて罷免し、大臣と参賛が話し合って啓発する。 政治制度全般にわたっての近代化政策が打ち出され、「大院君は日を追って還国される。朝貢の虚礼は廃止する」というところが、清国との宗属関係から脱した独立国家たろうとする宣言となっている。また「門閥を廃止し……」が、科挙制度と両班官僚体制の廃止を表している。 清軍の出動 金玉均は六日早朝、戦闘に備えて近年に購入した武器弾薬を武器庫から運び込ませた。ところが、銃も剣もまったく手入れがなされておらず、錆だらけでそのままでは用をなさないため早急に掃除と修理にかからせている。 朝方に前京畿道監司沈相薫が国王の安否伺いと称してやって来た。朴泳孝は退去を命じたが、金玉均が問題ないとして参内を許した。このときに沈相薫は、ひそかに高宗と閔妃に政変の概要を述べ、反乱は金玉均らと日本公使館によるものとして、清国へ王宮守護を依頼することを高宗に勧めた。国王は閔妃の助言もあって、李朝政府から清軍に救援を求めさせるよう沈相薫に命じた。こうして袁世凱は、政府の要請という形をとり、軍隊出動の名目を手に入れることになる。 昼近くになって、竹添公使が「独立改革の大事が成功したことだし、あまり長く日本兵を宮殿に駐屯させておくわけにもいかないから、撤収して一時公館に戻る」と言い出した。金玉均は血相を変えて抗議を行なう。 「兵士らの銃剣は腐食し、弾丸も使用不可能で修理をはじめたばかりである。こんな状態で日本兵を撤収させるとは、あまりにも早計で軽挙ではないか」 竹添公使は反駁できず、仕方ないといった素振りで駐屯を続けることにする。 午後一時頃、清軍の一士官が国王への拝謁を願い出たが、身分が低いために許されないとして退去させた。彼は呉兆有将軍からの国王宛書状を残したが、内容は市内が安全に保たれていることを伝えるものだった。 それからまもなく、袁世凱が六〇〇の兵をもって王宮に入り、拝謁したいと要請してきた。それに対して金玉均は、「袁世凱の拝謁は当然許されるが、兵を率いて入ることは許されない」と通告する。 午後二時頃、国王一家、金玉均、竹添公使らが、本陣とした宮殿裏の小高い丘の上にある観物軒に集まって対清策を協議していると、清軍から一通の封書が竹添公使に届けられた。竹添公使がそれを開こうとしたとき、ドーンと砲声が鳴り響き、ヒューと音を立てて砲弾が空気を切り裂いた。東北方面から銃声が聞こえ、弾丸が観物軒のあたりにバラバラと撃ち込まれる。清軍の一斉攻撃がはじまったのである。 竹添公使宛の手紙には、次のように書かれていた。 「乱民が宮殿を襲い、貴大人は隣誼に厚く、兵を率いて宮殿に入り、国王を守護すると聞く。我々もまた命を天朝に奉じ、職務として罪をただして抑える責任がある。この事態を座視しているわけにはいかない。したがって、我々も兵を帯びて宮殿に進み、貴兵と力を一にして労を分かちたいと思う。提督袁世凱、張光箭、呉兆有」 皮肉たっぷりだが、攻撃対象は日本兵ではなく、あくまで反乱者たちだとの名目を立てているのである。急ぎ、大妃、閔妃、世子、世子嬪、女官たちは、武官らの護衛で北廟(昌徳宮北方にあり大霊君が祭壇と祈禱所を設けていた)へ退避し、国王、竹添、金玉均らは、観物軒から丘を下りて秘苑の演慶堂に本陣を移して、形勢を見守った。 午後三時、清軍は呉兆有が五〇〇名を率いて宣仁門から、袁世凱が八〇〇名を率いて敦化門から攻撃してきた。宮門の内外で激しい戦闘が繰り広げられた。四〇〇名の李朝側の兵士たちは、武器が不十分で経験もないために至るところで崩れ、清軍に加勢しはじめる者たちも出てきた。そのため、ほとんど一五〇名の日本兵士だけで一三〇〇名の清軍と戦わざるを得なかった。 数十名の日本兵士が演慶堂の防備を固め、残りは分散して戦い、各所で清軍を撃破していた。しかし、宣仁門を守っていた李朝側兵士が一斉に逃げ出してしまったため、形勢はしだいに不利になってきた。 金玉均は竹添公使に、「王宮を脱出して仁川に向かい、江華島にたてこもって戦おう」と、最終案の決行を迫った。しかしそれを聞いた国王は、自分は仁川には行かない、なんとしても大妃らが避難した北廟へ行くと言い張って譲らない。 夕刻近くになったが、いまだ銃声は止まず、丘の上から弾丸がしきりに飛んでくる。 そのうち、各地で防戦していた日本兵が、国王守護のために演慶堂に集まってきた。清軍兵士たちは、交戦を避けて宮殿に乱入し、あちこちに放火して略奪をはじめたのである。清兵たちは気勢をあげて威嚇するだけで、攻撃して来ようとはしない。 やがて竹添公使は、「このまま日本軍をここにとどめれば、国王の身を危険に陥れることになってしまう。したがって日本軍を撤収して我々は宮中から退去すべきだ」と言う。金玉均は、「それは本末転倒であり、あなたは国王の身を護るために来たのではないか」と抗議する。 この二人のやり取りを聞いていた村上中隊長が、興奮ぎみに竹添公使にこう主張した。 「この戦いは必ずしも我が軍に不利とは言えない。我が軍は一をもって清軍一〇にあたるから、それほどの難事ではない。しかも清兵は散在し、これまでの交戦でもみな勝っている。誓って撃退するから、しばらく国王をここに安泰され、諸公らも安心してとどまっていただきたい」 しかし竹添公使は厳然として、「いま貴君は私の命令に従わなくてはならない」と言う。村上中隊長は仕方なく沈黙するしかなかった。 この間の戦闘で、日本軍は死者一名、負傷者四名を出したが、清軍は五三名の戦死者を出していた。確かに日本兵は勇敢で団結力も強く、また訓練もよく行き届いていた。それに対して、清軍はバラバラでまとまりがなく、不利となれば即座に逃げ散る、といった具合だった。村上中隊長の言うように、踏みとどまって戦えば、何日かは持ちこたえることができたかもしれなかった。 しかし、竹添公使が撤収の意思を固めた以上、高宗を北廟へ送りつつ、脱出をはかるしかなかった。金玉均、朴泳孝、徐光範、徐載弼らは、竹添公使とともに王宮を脱出し、洪英植、朴泳教と士官学校の生徒七名が、北廟まで国王を護衛することになった。 秘苑まで送って来た金玉均らと別れた国王一行が北門を出ると、清軍兵士が数十名ばかりでこれを迎えた。清兵はすぐに、朴泳教の名を確かめると引き連れて行って銃殺、逃げようとする洪英植を殺害、また北門から脱出を試みた申福摸、申重摸の兄弟を殺害、士官学校生徒七名も抗戦する間もなく次々に殺害された。 金玉均らと竹添公使一行は、秘苑から北門をまわって桂洞に出て、途中の路で投石、発砲など、小さな妨害にあいながら、日本公使館を目指した。 公使館では、館員が館内の職人ら数十名にそれぞれ武器をもたせて、周囲の守備を固めていた。一行が公使館の近くまで来たとき、暗闇のなか、館員らは誤って射撃を加え、五名の犠牲者を出してしまった。ようやく気づいて射撃を止め、一行が館内に落ちついたのが午後八時半頃であった。このときに金玉均は肩に、朴泳孝は脚に銃創を負った。 仁川港からの脱出 翌七日午後二時頃、日本公使館にいる者たちが一斉に脱出を敢行した。館員と雇い人男女三十余名、職工七十余名、兵士百四十余名と金玉均ら一行である。漢城にいては危険なため、仁川の日本領事館へ退却することにしたのである。 道々で李朝兵民から断続的に攻撃を受け、それらを必死に撃破しながら進み、追撃に応戦しながら船で漢江を渡った頃に日没となる。さらに厳冬の凍道・雪道を夜通し歩き続けた一行は、翌八日の午前七時頃、ようやく仁川の日本領事館に入ることができた。 日本公使館に入ってからの竹添公使は、金玉均らをあからさまに疎んじ、仁川の領事館でも、すみやかに公館から立ち去ることを彼らに求めたという。しかし金玉均らは日本への亡命を希望し、小林仁川領事の斡旋で、民間の日本人宅に身を隠すことにした。 清軍は七日から一〇日まで、高宗を陣営内に確保し、その間に国王に「自らの不徳による政変の責任」と述べた教書を発布させ、臨時政府を構成させた。そして、四日〜六日の宮廷記録を書き改めさせるとともに、元老格の閣僚たちに、金玉均らを「五賊として弾劾すべし」との上疏をさせている。 新閣僚には、開化派官僚から左議政の金弘集を筆頭に、金允植、金晩植、魚允中らが入り、閔泳翊は右営使として、メルレンドルフは外務協弁として名を連ねた。その他は大半が親清・事大主義を旨とする者たちであった。 一二月八日、臨時政府はメルレンドルフを仁川に派遣し、金玉均らの身柄引き渡しを日本領事館にいる竹添公使に要求した。竹添公使は、日韓両国の間には罪人引き渡しの条約がないから応じる必要はないと主張したが、朝鮮政府の手で捕縛した場合には、あえて抗議をすることはないと述べ、メルレンドルフがそれを了承した。そしてメルレンドルフは仁川府当局に対して、兵を用いて金玉均らをみつけしだい捕縛することを命じた。 仁川港には、千歳丸とともに護衛艦日進が入港し、陸戦隊を上陸させて、居留民保護にあたっていた。竹添公使は、金玉均らに、魚船でどこかの島へ逃げたらどうかと勧めるなど、なんとか彼らを追い出そうとした。しかし、他の在留日本人たちが、竹添公使の態度を非難して金玉均らを擁護したため、ようやく荷物箱に隠れて、千歳丸に乗船することができた。 ところが、そこへメルレンドルフが船内の検索にやって来たのである。メルレンドルフは竹添公使に、「これは国際問題だ」との脅しをかけて船内の検索を要求したため、竹添公使は仕方なく承諾してしまった。その時のことを、李圭完が後日、生々しく伝えている。 「我々は九死に一生の難関を逃れてここまで来たが、もはや進退きわまってしまった。我々は衆議して、敵に捕らわれて恥をさらすよりも自刃しようと決意した。悲憤はきわまり、祖国の運命を悲しみ、友邦日本の薄情を恨んだ。 この時、我々のなりゆきをみていた千歳丸の船長辻勝三郎は、毅然として『貴公らがいったんこの船に乗られた以上、貴公らの進退は一に私の掌中にある、安心なさい』と言い放つと、竹添公使に断固たる態度を示した。まさに自刃決行の寸前であった」(林毅陸編『金玉均伝』慶応出版社より、筆者がリライト) 船長の辻は、金玉均らを船底に隠し、直接メルレンドルフに会うと、「この船の責任者は私である。この船に勝手に立ち入ることは誰であろうと許さない」と強硬に主張し、メルレンドルフは仕方なく引き下がったのだという。 落ちて行く者に石を投げることを恥とし、落ちのびる者へ進んで手を差しのべようとするのは日本人の美学と言えよう。だが、辻船長にとって、それは自ら危険に陥るかもしれないことを覚悟の上での行為だった。 一行は金玉均、朴泳孝、徐光範、徐載弼、李圭完、申応熙、柳赫魯、辺燧、鄭蘭教の九名。彼らは一二月八日に乗船して、一一日に仁川を出航し、長崎に到着する一三日までの間、悪臭漂う狭い船底に身をひそめ続けたのだった。 |
(当サイト管理人の意見:竹添公使は村上中隊長の進言を退けて兵を引きましたが、そのきっかけは、政変中の12月6日に日本政府の訓示(井上馨外務卿の密書?)が竹添公使の手元に届いたことにあるのかもしれません。 また、日本と清国が全面戦争に突入することを危惧した可能性があるのではないかと当サイト管理人は推測します。そうなった場合には、高宗は清国側に付きそうな気配ですから、日本は苦しい立場に立たされることになるでしょう。 ) |
・呉善花著「「日帝」だけでは歴史は語れない」(三交社、1997年)の183ページに、甲申政変に関係する施設の位置関係を示した概略地図があり、非常にイメージしやすい。この概略地図は、呉善花著「韓国併合への道」(文春新書、2000年)には載っていない。 【日本人の被害】 呉善花著「韓国併合への道」(文春新書、2000年)p146-147 から引用します。なお、表題以外の太字は、当サイト管理人によるものです。 |
清兵と朝鮮暴徒の日本人虐殺 政変時の清兵と朝鮮暴徒による略奪・暴行には、すさまじいものがあった。 鐘路付近の商店のほとんどが破壊・略奪の被害を受け、日本人家屋からの略奪が相次いだ。また、各地にまとまって避難していた日本人集団が襲われ、あちこちで婦女暴行や、殺戮の惨劇が惹き起こされた。 しかし日本政府には、後ろめたさがあったためか、この暴行・虐殺事件について、李朝政府や清国政府に声を大にして抗議することをしなかった。李朝に対しては、比較的軽い賠償金をもって、清国にいたっては、李鴻章から一片の紙切れを受け取っただけで事をすませてしまったのである。そのために、日本では政府の「軟弱外交」への激しい抗議とともに、猛烈な勢いで、反清・反朝鮮の声がわき上がることになってしまった。 (以下略) |
【その後の状況】 千歳丸は12月13日に長崎に到着。竹添公使が長崎から外務省へ詳細を報告。また、井上角五郎も電信で福沢諭吉に報告。 12月15日、仁川に、イギリス軍艦2隻、アメリカ軍艦1隻、清国軍艦3隻が入港。 【漢城条約】 この甲申政変を受けて日朝間の講和のために、日本の全権大使井上馨と、朝鮮の全権大臣金弘集とで交渉が行われ、1885年(明治18年)1月9日に漢城条約が締結された。 交渉の席中で清国の欽差大臣呉大澂が議論に割り込もうとする一幕もあったが、日朝の両全権はこれを拒んで陪席を拒否し、二国間のみで条約を締結した。 漢城条約の主な内容は、次のとおり。 @朝鮮国は国書をもって日本国に謝罪する。 A日本人の被害者遺族・負傷者に対する見舞金と、暴徒に略奪された商人への補填として、朝鮮国より11万円を支給する。 B磯林大尉を殺害した犯人を、捜査・逮捕・処罰する。 C日本公使館を再建するため、朝鮮国が代替の土地と建物を交付し、修繕・改築費用として朝鮮国が2万円を支給する。 D公使館護衛兵用の兵営は新しい公使館に相応しい場所に移動し、その建設と修繕は済物浦条約第五款の通り朝鮮政府が施行する。 (出典: ![]() 【天津条約】 日本と清国の間で甲申政変の事後処理を取り決めるため、日本から伊藤博文が天津におもむいて清朝の李鴻章との間で交渉が行われ、1885年4月18日に天津条約(注)が結ばれた。 |
(注:これとは別の天津条約もあるので留意のこと。@1858年に清国と英仏露米との間でそれぞれ結ばれた、アロー号事件の事後処理のための諸条約。A1885年6月9日に清仏間で結ばれた、清仏戦争の講和条約。) |
日清間で締結されたこの天津条約の主な内容は、次のとおり。 @日清両国は朝鮮から即時に撤退を開始し、4か月以内に撤兵を完了する。 A日清両国は朝鮮に軍事顧問を派遣せず、日清以外の国から一名または数名の軍人を招致する。 B将来において朝鮮に出兵する場合は、相互通知(「行文知照」)を必要と定める。派兵後は速やかに撤退し、駐留しない。 また、照会文によって、日本商民殺傷事件の再調査と事実であった場合の処罰が約束された。 後の日清戦争の直前に、この「行文知照」について日中の見解が分かれて異論が生じた。「照」の字は当時中国官庁では「(中国の)天子の了解を得る手続き」と理解され、中国側では両国共に中国の天子に「照会」をとるとも解された。 (出典: ![]() 【閔氏政権による関係者の処罰など】 李氏朝鮮では重大犯罪の場合には、その親族まで処罰を受けた。 呉善花著「「日帝」だけでは歴史は語れない」(三交社、1997年)p205-208 から引用します。なお、表題以外の太字は、当サイト管理人によるものです。 |
クーデター関係者の虐殺 甲申クーデターに直接参加、あるいは間接的にかかわった者は、一〇〇名から一五〇名と言われるが、斉藤実第五代朝鮮総督時代(一九二九年八月〜一九三一年六月)に、九二名の「政変関連人等名簿」が記録されている(国立国会図書館憲政資料室『斉藤実文書』)。いくつか間違いが散見されるが、この資料によって、政変直後の関係者のおよその境涯を知ることができる。 被殺 三六 被囚 二五(獄中死八) 逃亡 一九 亡命 一一(暗殺一) 自殺 一 以上のうち約半数が、日本の陸軍戸山学校を卒業した士官・下士官およびその他の留学生たちであった。彼らの大多数が二〇歳前後の者たちだったと思われる。 彼らの罪は、その一族にまで及ぼされた。 李朝では、国家への反逆となれば、首謀者の家族は単に処刑されるだけではなく、さまざまな凌辱刑が課せられた。とくに父親については死刑のうえ、死体をさらに切り刻んで市中にさらす死体凌辱刑が加えられることが、李朝では常だった。そのため家族のほとんどが、事変直後に自殺している。 政変後、国王が「恩典」として、手早く金玉均の養子縁組を改廃する措置をとったので、養父の金炳基(キムビョンギ)家には災いがおよばなかった。しかし、実父の金炳台(キムビョンテ)は捕縛されて天安の獄舎につながれた。金玉均逮捕を待って、ともに極刑に処すためである。 母と上の妹は政変直後に毒を飲んで自殺。弟の金珪均(キムキュキュン)は甲申クーデターに参加して殺害されている。下の妹は逃亡し、変装したり名を変えたりして艱難辛苦の流転生活を送った。 金玉均の妻の兪氏と七歳の娘は、逮捕の噂が立ったために逃亡したが、三カ月後に捕縛されて獄舎につながれた。その後、養家の縁が解かれていたため釈放され、かつて舅の下男だった老僕の家に預けられたが、やがてそこも出なくてはならなくなり、各地を転々として貧寒生活を送った。一〇年後、金玉均の書生だった男の助けでソウルへ戻ったが、後に忠清南道の僻村に隠れるようにして住まい、寂しく余生を送った。それを知った福沢諭吉が、東京へ来れば生涯の世話をすると救助の手を差し伸べたが、固く辞退したという。 朴泳孝は元国王の娘を妻にしていたが、早くに亡くしていた。実父の朴元陽(パクウォンヤン)は大監職の判書を務めていたが、事変直後に朴泳教の一〇歳の子を殺して自殺。長兄の朴泳教はすでに述べたように政変時に北門で清兵によって殺害されている。泳孝の一人娘は関係者の手で逃亡し、ひそかに日本に渡って、長崎の宣教師の家に身を寄せた。すぐ上の兄の朴泳好(パクヨンホ)は山中に隠れ、姓名を変えて生き延びた。 洪英植の父は時の領議政(総理大臣)洪淳穆(ホンスンモク)である。淳穆は英植の一〇歳の子を毒殺して、自らも毒をあおって自殺。妻の韓氏も自殺、兄の洪万植(ホンマンシク)も自殺。 徐光範の父徐相翔(ソサンイク)は数年間獄舎につながれ、家畜同然の扱いを受けたあげくに獄死している。 徐載弼の父徐光彦(ソグアンオン)は進士(中級官吏)だったが、その妻とともに自殺。弟の徐載昌(ソジェチャン)は甲申クーデターに参加したが、逮捕され殺害されている。 金玉均らを指導した劉大致は、政変失敗を知るとすぐに逃亡したまま行方知れず。妻は捕縛されて、獄中で亡くなっている。 その他、政変関係者の姻戚や支持者の多くが、流刑などに処せられている。 |
【金玉均の死】 ![]() この動画(9分15秒付近から)で、藤井厳喜氏は、概ね以下のように述べている。 金玉均は甲申政変に失敗したあと日本へ亡命していたが、李氏朝鮮は金玉均を暗殺するための刺客をどんどん日本へ送ってきた。 日本政府は清朝と朝鮮を敵にまわして戦う自信も実力も無いため金玉均に冷淡だったが、日本の民間の有志である頭山満(とうやまみつる)・来島恒喜(くるしまつねき)・玄洋社の社員などが金玉均を支援していた。 金玉均は刺客を逃れて小笠原・北海道・東京などを転々とした後、1893年に朝鮮からの刺客に清国と直接談判したらどうかと持ちかけられ、金玉均は死中に活を求めてこの誘いに応じ、上海へ行き(1894年)3月28日に暗殺された。 日本の同志が金玉均の遺体を日本へ持ち帰ろうとしたが清国政府に妨害され、遺体は清国の軍艦で朝鮮に送られ、寸断され晒された。日本での葬儀は、1894年5月22日に浅草本願寺で盛大に取り行われた。 こうした経緯が、日本で支那に対する開戦論が盛り上がるきっかけの一つになったと言われている、と藤井厳喜氏は述べている。日清戦争の宣戦布告は、1894年8月1日。 ![]() ![]() ![]() ![]() 【LINK】 甲申事変 ![]() ![]() 金玉均 ![]() ![]() ![]() ![]() 金玉均の関連 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 福沢諭吉 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 【参考ページ】 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 参考文献 「韓国併合への道」呉善花著、文春新書、2000年 「「日帝」だけでは歴史は語れない」呉善花著、三交社、1997年(注:呉善花著「韓国併合への道」の底本となっている本です。) 「閔妃暗殺」角田房子著、新潮社、1988年(注:1993年に文庫版が出ています。新潮文庫。) |
〜著者は小説家なので、小説っぽい表現が時々出てきますが、大院君の政権掌握から閔妃が殺害された乙未事変まで詳しく記述されており、朝鮮側の状況もよくわかります。大変参考になりました。一読をお勧めします。なお、1993年に文庫版(新潮文庫)が出ています。 |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 「朝鮮史 新書東洋史10」梶村秀樹著、講談社現代新書、1977年 「日本の歴史20 明治維新」井上清著、中公文庫、1974年 「教養人の日本史(4) 江戸末期から明治時代まで」池田敬正、佐々木隆爾著、社会思想社 教養文庫、1967年 「新訂版チャート式シリーズ 新世界史」堀米庸三・前川貞次郎共著、数研出版、1973年 「クロニック世界全史」講談社、1994年 「朝鮮 地域からの世界史1」武田幸男・宮嶋博史・馬渕貞利著、朝日新聞社、1993年 更新 2014/4/20 |